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あん とく 山鹿

『』(吉川本)将軍記の首書。 安徳天皇の即位が記されている。 2年()11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に。 治承4年()に3歳(満1歳2か月)でし、4月22日にする。 幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った。 即位前には、天皇の祖父も、清盛により幽閉されるに至った。 摂政にはが任じられた。 の年に清盛の主導で遷都が計画され、(現在の)が行なわれるが、半年ほどで京都にした。 の為の大嘗宮はの前庭に建てられた。 2年()、の入京に伴い、以下平家一門に連れられとともに都落ちする。 この後2年()に三種の神器が無いままが践祚し 、元暦元年(1184年)7月28日に即位。 正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった。 一方、安徳天皇は一門に連れられを経てに行き、1183年に現在の屋島東町にある見晴らしの良い高台に行宮を置いた。 この行宮跡地付近には、ささやかな神社「安徳天皇社 」が置かれている。 しかしが派遣した鎌倉源氏軍(、)によって、平氏はとに敗北。 特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる。 そして4年()4月、最期の決戦であるで平氏と源氏が激突。 平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る。 以下、まず『』による安徳天皇入水の様子を記述する。 最期を覚悟してとを身につけた母方祖母・二位尼()に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。 二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。 この世は辛く厭わしいところですから、という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。 天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。 安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した(『』「先帝身投」より)。 なお、『』では安徳天皇を抱いて入水したのはとされている。 母の建礼門院()も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。 この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した。 宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「」の項目を参照のこと)。 オリジナルか形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している。 その後、後鳥羽~~時にから献上されたものを正式に宝剣とした。 能勢にある安徳天皇御陵墓• (大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説。 侍従左少辨・(つねふさ、の祖となり『』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と4人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永4年(源氏方年号で元暦2年、1185年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。 しかし翌年5月17日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。 経房遺書は、文化14年(1817年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保5年(1217年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。 当時、読本作者・や国学者・などは偽作と断じたが、文人・(二代目石居)などは真物とした。 経房遺書原本は明治33年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。 能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。 経路であった鳥取県のやなどにも今もを残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる。 中国・四国地方• に逃れて10歳で崩御したとする説。 壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。 天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。 3年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。 この時建立された安徳天皇の墓所がと伝えられている。 上岡田五輪塔群、鳥取県八頭郡八頭町姫路12安徳の里姫路公園• 鳥取県姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。 天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。 鳥取県中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。 (現在の)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説。 が祖谷を平定し、に逃れていた安徳帝を迎えたという。 天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏」、谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡」等、安徳天皇に由来すると伝わる地名がある。 安徳帝はこの地に隠れ住み、16歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたという(『美馬郡誌』)。 のには、安徳天皇がを修めたという伝説がある。 神剣の奉納により太郎山から現称の「剣山」に変わり、山頂の剣神社本宮ではと安徳天皇を祀ったという。 横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説。 らに奉じられ、、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に行在所を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしたが、2年(1200年)8月に23歳で崩御。 鞠ヶ奈路に土葬されたとされる。 九州地方• 現在のに昔から安徳という地名があるが(旧・安徳村)、文献に限って言えば落人伝承としてではなく、同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・が帝を迎えたところという。 『平家物語』では平家はに拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している。 に逃げ延びての祖となったとする説。 対馬に渡った安徳天皇がの娘との間に儲けた子がであるという。 山田郷にて出家し、43歳で死去したとする説。 らとともに山田郷に逃れたという。 安徳帝は出家し、に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、元年に没したという。 (現在の)に逃れたとする説。 (『硫黄島大権現御本縁』) に警護されを南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとされる。 安徳帝は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲けたという。 同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはなかった。 しかし、江戸時代末期、島津氏の使者が来島して箱を検分したが、長浜家にも中身を明かさなかった。 になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされる。 この箱の中にはのうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる天叢雲剣が入っていたのではないかという説もある。 ところが、薩摩藩主であるの自筆による『虎巻根本諸作法最口伝規則』という文書(所蔵「玉里島津家文書」所収)の中に文政10年(1827年)硫黄島で八咫鏡が発見されて斉興によって上山城内に建てられた宮に安置されたと記されていることが判明した(上山城は現在のであるが、現在は宮や安置された鏡の所在は不明)。 硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた(長浜天皇)なる人物がいた。 牛根麓にて13歳で崩御したとする説。 硫黄島から移って来た安徳天皇が同地で没し、居世神社に祀られているという。 後世の作品における逸話 [ ]• 天叢雲剣(草薙剣)の喪失は、朝廷(他)・(他)ふくめ各方面に大きな衝撃をあたえ、神剣なしに即位したは微妙な立場に置かれた。 『』では、陰陽寮博士の言葉として『昔出雲國肥の河上にて素戔烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首 かしら 八の尾を表事 へうじ として人王八十代の後、八歳の帝 みかど と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。 』(八頭八尾のは、人王八十代の 安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていった)と記述している。 なので「宝剣が見つからないのも(宝剣の所有者たる天皇の元に戻らないのも)当然だ」としている。 これを受けて『』(第25巻)では、以降に武家の権力が強く皇室の威光が衰えたのは宝剣が海底に沈んでいたからであるとし、が龍宮にを下し、伊勢の浜に宝剣を打ち上げさせたとしている。 ただし反対意見によりに預けられた。 天台座主は『』において「安徳天皇はの請願により()が化生(けしょう)した存在だからの娘であり、へ帰っていったのだろう」と推測。 また「武士が表に立って天皇を守るようになったため、天皇の武力の象徴たる宝剣が天皇の元から失われるのも世の流れだ」と考察している。 『平家物語』に安徳天皇は実はであったのではないかという疑念を起こさせるような容姿の描写があり、『愚管抄』でも「」と記述している(上述)。 これらをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の『』などでは、女子であったという筋立てを採用している(渡辺1990:82-122ページ参照)。 泉湧寺に残る安徳幼帝の肖像も女子のようにも見える。 陵・霊廟 [ ] 宮内庁管理の天皇陵 [ ] 下関市伊崎町には、壇ノ浦の戦いの翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したというがある。 (みささぎ)は、により阿弥陀寺町にある 阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ、阿弥陀寺陵)に治定されている。 宮内庁上の形式は円丘。 天皇を祀る境内に所在する。 壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるための命により阿弥陀寺が建てられた。 御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、方面を向いた東向きで造立された。 『』によると、の時代にに安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。 阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心にに収めて安置され、現在の本宮ご神体となる。 その尊像の周囲に天皇を守護する平家一門10名の肖像が描かれ、その下段に位置するに安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵に表した『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。 の運動により、阿弥陀寺は廃されて、現在の安徳天皇を祀る赤間神宮となった。 新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下にの存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされた(赤間神宮社務所発行『源平合戦絵図』「阿弥陀寺御影堂について」1985年)。 赤間神宮は安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院の見た夢(『平家物語』「六道之沙汰」)にちなみ、を再現した竜宮造りとなっている。 のちに安徳天皇は、()の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになった。 またでは、(の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 宮内庁指定の陵墓参考地 [ ]• 豊田町には宮内庁指定の「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」がある。 国府町岡益にある「」はによって安徳天皇の陵墓参考地に指定されている。 越知町横倉山には、安徳天皇御陵墓参考地「鞠ケ奈呂陵墓」があり、の一族が安徳天皇を奉じて潜伏した際に暮らしたと伝わる行在所跡や、天皇の飲用水として用いたといわれるなどがある。 の厳原町久根田舎には、安徳天皇の墓と言われる陵墓があり宮内庁指定の御陵墓参考地となっている。 立岡町には宮内庁指定の「花園陵墓参考地」がある。 伝・安徳天皇陵 [ ]• には「安徳天皇来見山御陵墓」がある。 東祖谷栗枝渡にある栗枝渡八幡神社には、安徳天皇を火葬した「安徳天皇御火葬場」があり、遺骨を御神体として祀っているという。 (地区川の口)には安徳天皇御陵と伝わる陵墓がある。 のには安徳天皇のものとされる陵墓があり、伝承によれば元年()に島で崩御したとされる。 安徳天皇縁起絵図 [ ] 赤間神宮に伝わる襖絵。 筆という。 諱 言 トキ仁。 治承四年二月廿一日受禪。 同二年十二月日立坊。 高倉院長子。 母中宮徳子。 入道太政大臣清盛女。 攝政基通。 内大臣平宗盛。 養和一年。 元年辛丑。 七月十四日改元。 壽永二年。 壬寅五月廿七日改元。 此時遷都ノ事有ケリ。 委在 二別帖 一。 此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。 外舅内大臣宗盛。 源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。 城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。 終ニ元暦二年三月廿四日ニ。 長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。 海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。 寶劒ハ沈ミテ失ヌ。 神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。 又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。 此不思議ドモ細在 二別帖 一。 18-22頁『平氏の栄光と没落』• 「神社のいろは用語集、祭祀編」監修・神社本庁、 p. 266• 31-32頁『「如在之儀」と「太上法皇詔書」』• 281頁『神器なきままの新帝即位』• 205-206頁『第八十二代 後鳥羽天皇 一一八〇~一二三九 在位一一八三~一一九八 』• 278-279頁『神璽神鏡の京都帰還』• 193-194頁『海に消える宝剣』• 280頁〔『吾妻鏡』の記事〕• 37-38頁『「国家的プロジェクト」としての宝剣探索』• 40-42頁『宝剣代の創出』• コマ102 原本190-191頁 『 略 之より尾根傳ひにて二ノ森、三ノ森ヲ經て絶頂に達する、絶頂は平家の馬場と稱され長さ五町ばかりの大草原をなし小笹が密生し周圍には五葉松、白花米ツツジ等の高山植物がある、又傍に安徳天皇の御劒を納めたと傳へられる寶藏石 石灰岩 がある、山上は雲霧の去來するのが常であるが天氣晴朗なれば廣潤なる眺望を恣にする事が出來る、殊に阿讃山脈を越えて瀬戸内海一帯の島山が望見せられるのは最も興味がある 頂上より西北へ五町を下れば大劒神社がある大劒は美くしい石灰岩の突起で谷に面しては高き斷崖をなしてゐる、此處より山腹を斜行すること五、六町で道は二分し木ノ鳥居と狛犬とが置かれてゐる、是より北に下れば見殘に達する、東へ進む事數町で石灰岩の大斷崖下に古劒神社があり更に一町にして兩劒神社がある 以下略 』• 鈴木彰「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興-文政十年の「宝鏡」召し上げをめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 P85-113• 43-45頁『神器不帯というコンプレックス』• コマ307-308 原本457-458頁 『千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度 ふたヽび 人間に返らざるも理 ことわり とこそ覺えけれ。 コマ69-70 原本127-128頁• コマ239-240 原本443-444頁• 海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。 コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。 安藝ノ嚴島ノ明神ノ利生也。 コノ嚴島ト云フハ龍王ノムスメ也ト申傳ヘタリ。 コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。 サテハテニハ海ヘ歸リヌル也トゾコノ子細シリタル人ハ申ケル。 コノ事ハ誠ナラント覺ユ。 281-282頁〔『愚管抄』の見解〕• コマ74 原本34頁 〔渡海屋の場、大物浦の場〕より『知盛 今、賎しき御身の上、人間の憂き艱難、目前に六道の苦しみを受け給ふ。 これと云ふも、父、清盛、外戚の望みあるに依つて、姫宮を男の子と云ひふらし、權威をもつて御位につて、天道を欺き申せし其の惡逆。 積り積りて、一門我が子の身に報ひしか』 参考文献 [ ]• 稲田智宏『三種の神器 謎めく天皇家の秘法』株式会社学習研究社〈学研新書〉、2007年6月。 笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』中央公論新社〈中公新書〉、2001年11月。 遠山美都男『名前でよむ天皇の歴史』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2015年1月。 『平家伝説』、1973年• 渡邉大門「第一章 宝剣喪失 鎌倉期における三種神器」『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史』講談社〈講談社現代新書〉、2009年11月。 阿波名勝会 『徳島県新名勝案内』 阿波名勝会、1936年4月。。 経済雑誌社編 『国史大系. 第14巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書』 経済雑誌社、1901年5月。。 徳川光圀 撰[他] 『訳註大日本史. 二』 建国記念事業協会・彰考舎、1939年5月。。 永井一孝 校 『太平記. 下巻』 有朋堂書店、1922年8月。。 三島才二編 『日本戯曲名作大系:院本正本. 第1巻』 聚芳閣、1925年5月。。 山田孝雄校訂 岩波書店、1929年6月。。 山田孝雄校訂 宝文舘、1933年6月。。 早稲田大学編輯部 『物語日本史大系. 第5巻 太平記 上 』 早稲田大学出版部、1928年5月。。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - の摂社• - 安徳天皇にちなんで命名された• - が書いた小説。 第19回受賞。 外部リンク [ ]• - 宮内庁• 国分六之助編(史談会、 1892)• 第2代• 第3代• 第4代• 第5代• 第6代• 第7代• 第8代• 第9代• 第10代• 第11代• 第12代• 第13代• 第14代• 第15代• 第16代• 第17代• 第18代• 第19代• 第20代• 第21代• 第22代• 第23代• 第24代• 第25代• 第26代 (507? - 531? 第27代 (531? - 535? 第28代 (535? - 539? 第29代 (539? - 571? 第30代 (572? - 585? 第31代 (585? - 587? 第32代 (587? - 592? 第33代 (592 - 628)• 第34代 (629 - 641)• 第36代 (645 - 654)• 第37代 (655 - 661)• 第38代 (661 - 671)• 第39代 (671? - 672? 第40代 (673 - 686)• 第42代 (697 - 707)• 第50代 (781 - 806)• 第55代 (850 - 858)• 第58代 (884 - 887)• 第62代 (946 - 967)• 第68代 (1016 - 1036)• 第70代 (1045 - 1068)• 第73代 (1086 - 1107)• 第81代 (1180 - 1185)• 第110代 (1643 - 1654)• 第116代 (1747 - 1762)• 第118代 (1770 - 1779)• 第120代 (1817 - 1846)• 第121代 (1846 - 1866) 明治以降• 第122代 (1867 - 1912)• 第123代 (1912 - 1926)• 第124代 (1926 - 1989)• 第126代 (2019 - 在位)• 大正の初年まではを天皇歴代に含め、これを「第15代神功皇后」として仲哀天皇と応神天皇の間に置いていた。 赤背景は(8人10代の女性天皇)。 」は当該年に異説があることを示す。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の。 第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 第38代天智天皇の在位年は6年半に及んだ即位前のを含む。 第41代持統天皇の在位年は3年半に及んだ即位前の称制を含む。 第57代陽成天皇の譲位は事実上の廃位。 第81代安徳天皇の在位の最後の2年間は、第82代後鳥羽天皇の在位の最初の2年間と重複する。 第96代後醍醐天皇の在位は、実際には2度の廃位と復辟をはさんだ鎌倉時代末期 (1318—31年)、建武の新政期 (1333—36年)、吉野時代 (1336—39年)の3期にまたがるが、それぞれの廃位後に擁立された光厳天皇と光明天皇の即位を認めず、その間自身のみが一貫して天皇だったと主張した。 なお今日では便宜上光厳天皇を北朝の最初の天皇とみなしているが、実際に南北両朝が並立するようになるのは、次の光明天皇が擁立されたのち後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に拠った時点 (1336年)からである。 現行の天皇歴代は、南朝の天皇を正統とする観点から数えられている。 北朝の天皇はこの天皇歴代には数えないものの、同時期に在位した正当な天皇としてに含めている()。 後小松天皇の在位は、始めの10年間を北朝の天皇のそれとみなし、南北朝合一 (1392年)後の20年間を天皇歴代の第100代とみなしている()。

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安徳天皇

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『』(吉川本)将軍記の首書。 安徳天皇の即位が記されている。 2年()11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に。 治承4年()に3歳(満1歳2か月)でし、4月22日にする。 幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った。 即位前には、天皇の祖父も、清盛により幽閉されるに至った。 摂政にはが任じられた。 の年に清盛の主導で遷都が計画され、(現在の)が行なわれるが、半年ほどで京都にした。 の為の大嘗宮はの前庭に建てられた。 2年()、の入京に伴い、以下平家一門に連れられとともに都落ちする。 この後2年()に三種の神器が無いままが践祚し 、元暦元年(1184年)7月28日に即位。 正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった。 一方、安徳天皇は一門に連れられを経てに行き、1183年に現在の屋島東町にある見晴らしの良い高台に行宮を置いた。 この行宮跡地付近には、ささやかな神社「安徳天皇社 」が置かれている。 しかしが派遣した鎌倉源氏軍(、)によって、平氏はとに敗北。 特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる。 そして4年()4月、最期の決戦であるで平氏と源氏が激突。 平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る。 以下、まず『』による安徳天皇入水の様子を記述する。 最期を覚悟してとを身につけた母方祖母・二位尼()に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。 二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。 この世は辛く厭わしいところですから、という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。 天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。 安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した(『』「先帝身投」より)。 なお、『』では安徳天皇を抱いて入水したのはとされている。 母の建礼門院()も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。 この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した。 宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「」の項目を参照のこと)。 オリジナルか形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している。 その後、後鳥羽~~時にから献上されたものを正式に宝剣とした。 能勢にある安徳天皇御陵墓• (大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説。 侍従左少辨・(つねふさ、の祖となり『』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と4人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永4年(源氏方年号で元暦2年、1185年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。 しかし翌年5月17日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。 経房遺書は、文化14年(1817年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保5年(1217年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。 当時、読本作者・や国学者・などは偽作と断じたが、文人・(二代目石居)などは真物とした。 経房遺書原本は明治33年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。 能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。 経路であった鳥取県のやなどにも今もを残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる。 中国・四国地方• に逃れて10歳で崩御したとする説。 壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。 天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。 3年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。 この時建立された安徳天皇の墓所がと伝えられている。 上岡田五輪塔群、鳥取県八頭郡八頭町姫路12安徳の里姫路公園• 鳥取県姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。 天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。 鳥取県中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。 (現在の)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説。 が祖谷を平定し、に逃れていた安徳帝を迎えたという。 天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏」、谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡」等、安徳天皇に由来すると伝わる地名がある。 安徳帝はこの地に隠れ住み、16歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたという(『美馬郡誌』)。 のには、安徳天皇がを修めたという伝説がある。 神剣の奉納により太郎山から現称の「剣山」に変わり、山頂の剣神社本宮ではと安徳天皇を祀ったという。 横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説。 らに奉じられ、、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に行在所を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしたが、2年(1200年)8月に23歳で崩御。 鞠ヶ奈路に土葬されたとされる。 九州地方• 現在のに昔から安徳という地名があるが(旧・安徳村)、文献に限って言えば落人伝承としてではなく、同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・が帝を迎えたところという。 『平家物語』では平家はに拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している。 に逃げ延びての祖となったとする説。 対馬に渡った安徳天皇がの娘との間に儲けた子がであるという。 山田郷にて出家し、43歳で死去したとする説。 らとともに山田郷に逃れたという。 安徳帝は出家し、に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、元年に没したという。 (現在の)に逃れたとする説。 (『硫黄島大権現御本縁』) に警護されを南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとされる。 安徳帝は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲けたという。 同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはなかった。 しかし、江戸時代末期、島津氏の使者が来島して箱を検分したが、長浜家にも中身を明かさなかった。 になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされる。 この箱の中にはのうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる天叢雲剣が入っていたのではないかという説もある。 ところが、薩摩藩主であるの自筆による『虎巻根本諸作法最口伝規則』という文書(所蔵「玉里島津家文書」所収)の中に文政10年(1827年)硫黄島で八咫鏡が発見されて斉興によって上山城内に建てられた宮に安置されたと記されていることが判明した(上山城は現在のであるが、現在は宮や安置された鏡の所在は不明)。 硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた(長浜天皇)なる人物がいた。 牛根麓にて13歳で崩御したとする説。 硫黄島から移って来た安徳天皇が同地で没し、居世神社に祀られているという。 後世の作品における逸話 [ ]• 天叢雲剣(草薙剣)の喪失は、朝廷(他)・(他)ふくめ各方面に大きな衝撃をあたえ、神剣なしに即位したは微妙な立場に置かれた。 『』では、陰陽寮博士の言葉として『昔出雲國肥の河上にて素戔烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首 かしら 八の尾を表事 へうじ として人王八十代の後、八歳の帝 みかど と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。 』(八頭八尾のは、人王八十代の 安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていった)と記述している。 なので「宝剣が見つからないのも(宝剣の所有者たる天皇の元に戻らないのも)当然だ」としている。 これを受けて『』(第25巻)では、以降に武家の権力が強く皇室の威光が衰えたのは宝剣が海底に沈んでいたからであるとし、が龍宮にを下し、伊勢の浜に宝剣を打ち上げさせたとしている。 ただし反対意見によりに預けられた。 天台座主は『』において「安徳天皇はの請願により()が化生(けしょう)した存在だからの娘であり、へ帰っていったのだろう」と推測。 また「武士が表に立って天皇を守るようになったため、天皇の武力の象徴たる宝剣が天皇の元から失われるのも世の流れだ」と考察している。 『平家物語』に安徳天皇は実はであったのではないかという疑念を起こさせるような容姿の描写があり、『愚管抄』でも「」と記述している(上述)。 これらをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の『』などでは、女子であったという筋立てを採用している(渡辺1990:82-122ページ参照)。 泉湧寺に残る安徳幼帝の肖像も女子のようにも見える。 陵・霊廟 [ ] 宮内庁管理の天皇陵 [ ] 下関市伊崎町には、壇ノ浦の戦いの翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したというがある。 (みささぎ)は、により阿弥陀寺町にある 阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ、阿弥陀寺陵)に治定されている。 宮内庁上の形式は円丘。 天皇を祀る境内に所在する。 壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるための命により阿弥陀寺が建てられた。 御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、方面を向いた東向きで造立された。 『』によると、の時代にに安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。 阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心にに収めて安置され、現在の本宮ご神体となる。 その尊像の周囲に天皇を守護する平家一門10名の肖像が描かれ、その下段に位置するに安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵に表した『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。 の運動により、阿弥陀寺は廃されて、現在の安徳天皇を祀る赤間神宮となった。 新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下にの存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされた(赤間神宮社務所発行『源平合戦絵図』「阿弥陀寺御影堂について」1985年)。 赤間神宮は安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院の見た夢(『平家物語』「六道之沙汰」)にちなみ、を再現した竜宮造りとなっている。 のちに安徳天皇は、()の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになった。 またでは、(の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 宮内庁指定の陵墓参考地 [ ]• 豊田町には宮内庁指定の「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」がある。 国府町岡益にある「」はによって安徳天皇の陵墓参考地に指定されている。 越知町横倉山には、安徳天皇御陵墓参考地「鞠ケ奈呂陵墓」があり、の一族が安徳天皇を奉じて潜伏した際に暮らしたと伝わる行在所跡や、天皇の飲用水として用いたといわれるなどがある。 の厳原町久根田舎には、安徳天皇の墓と言われる陵墓があり宮内庁指定の御陵墓参考地となっている。 立岡町には宮内庁指定の「花園陵墓参考地」がある。 伝・安徳天皇陵 [ ]• には「安徳天皇来見山御陵墓」がある。 東祖谷栗枝渡にある栗枝渡八幡神社には、安徳天皇を火葬した「安徳天皇御火葬場」があり、遺骨を御神体として祀っているという。 (地区川の口)には安徳天皇御陵と伝わる陵墓がある。 のには安徳天皇のものとされる陵墓があり、伝承によれば元年()に島で崩御したとされる。 安徳天皇縁起絵図 [ ] 赤間神宮に伝わる襖絵。 筆という。 諱 言 トキ仁。 治承四年二月廿一日受禪。 同二年十二月日立坊。 高倉院長子。 母中宮徳子。 入道太政大臣清盛女。 攝政基通。 内大臣平宗盛。 養和一年。 元年辛丑。 七月十四日改元。 壽永二年。 壬寅五月廿七日改元。 此時遷都ノ事有ケリ。 委在 二別帖 一。 此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。 外舅内大臣宗盛。 源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。 城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。 終ニ元暦二年三月廿四日ニ。 長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。 海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。 寶劒ハ沈ミテ失ヌ。 神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。 又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。 此不思議ドモ細在 二別帖 一。 18-22頁『平氏の栄光と没落』• 「神社のいろは用語集、祭祀編」監修・神社本庁、 p. 266• 31-32頁『「如在之儀」と「太上法皇詔書」』• 281頁『神器なきままの新帝即位』• 205-206頁『第八十二代 後鳥羽天皇 一一八〇~一二三九 在位一一八三~一一九八 』• 278-279頁『神璽神鏡の京都帰還』• 193-194頁『海に消える宝剣』• 280頁〔『吾妻鏡』の記事〕• 37-38頁『「国家的プロジェクト」としての宝剣探索』• 40-42頁『宝剣代の創出』• コマ102 原本190-191頁 『 略 之より尾根傳ひにて二ノ森、三ノ森ヲ經て絶頂に達する、絶頂は平家の馬場と稱され長さ五町ばかりの大草原をなし小笹が密生し周圍には五葉松、白花米ツツジ等の高山植物がある、又傍に安徳天皇の御劒を納めたと傳へられる寶藏石 石灰岩 がある、山上は雲霧の去來するのが常であるが天氣晴朗なれば廣潤なる眺望を恣にする事が出來る、殊に阿讃山脈を越えて瀬戸内海一帯の島山が望見せられるのは最も興味がある 頂上より西北へ五町を下れば大劒神社がある大劒は美くしい石灰岩の突起で谷に面しては高き斷崖をなしてゐる、此處より山腹を斜行すること五、六町で道は二分し木ノ鳥居と狛犬とが置かれてゐる、是より北に下れば見殘に達する、東へ進む事數町で石灰岩の大斷崖下に古劒神社があり更に一町にして兩劒神社がある 以下略 』• 鈴木彰「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興-文政十年の「宝鏡」召し上げをめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 P85-113• 43-45頁『神器不帯というコンプレックス』• コマ307-308 原本457-458頁 『千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度 ふたヽび 人間に返らざるも理 ことわり とこそ覺えけれ。 コマ69-70 原本127-128頁• コマ239-240 原本443-444頁• 海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。 コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。 安藝ノ嚴島ノ明神ノ利生也。 コノ嚴島ト云フハ龍王ノムスメ也ト申傳ヘタリ。 コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。 サテハテニハ海ヘ歸リヌル也トゾコノ子細シリタル人ハ申ケル。 コノ事ハ誠ナラント覺ユ。 281-282頁〔『愚管抄』の見解〕• コマ74 原本34頁 〔渡海屋の場、大物浦の場〕より『知盛 今、賎しき御身の上、人間の憂き艱難、目前に六道の苦しみを受け給ふ。 これと云ふも、父、清盛、外戚の望みあるに依つて、姫宮を男の子と云ひふらし、權威をもつて御位につて、天道を欺き申せし其の惡逆。 積り積りて、一門我が子の身に報ひしか』 参考文献 [ ]• 稲田智宏『三種の神器 謎めく天皇家の秘法』株式会社学習研究社〈学研新書〉、2007年6月。 笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』中央公論新社〈中公新書〉、2001年11月。 遠山美都男『名前でよむ天皇の歴史』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2015年1月。 『平家伝説』、1973年• 渡邉大門「第一章 宝剣喪失 鎌倉期における三種神器」『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史』講談社〈講談社現代新書〉、2009年11月。 阿波名勝会 『徳島県新名勝案内』 阿波名勝会、1936年4月。。 経済雑誌社編 『国史大系. 第14巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書』 経済雑誌社、1901年5月。。 徳川光圀 撰[他] 『訳註大日本史. 二』 建国記念事業協会・彰考舎、1939年5月。。 永井一孝 校 『太平記. 下巻』 有朋堂書店、1922年8月。。 三島才二編 『日本戯曲名作大系:院本正本. 第1巻』 聚芳閣、1925年5月。。 山田孝雄校訂 岩波書店、1929年6月。。 山田孝雄校訂 宝文舘、1933年6月。。 早稲田大学編輯部 『物語日本史大系. 第5巻 太平記 上 』 早稲田大学出版部、1928年5月。。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - の摂社• - 安徳天皇にちなんで命名された• - が書いた小説。 第19回受賞。 外部リンク [ ]• - 宮内庁• 国分六之助編(史談会、 1892)• 第2代• 第3代• 第4代• 第5代• 第6代• 第7代• 第8代• 第9代• 第10代• 第11代• 第12代• 第13代• 第14代• 第15代• 第16代• 第17代• 第18代• 第19代• 第20代• 第21代• 第22代• 第23代• 第24代• 第25代• 第26代 (507? - 531? 第27代 (531? - 535? 第28代 (535? - 539? 第29代 (539? - 571? 第30代 (572? - 585? 第31代 (585? - 587? 第32代 (587? - 592? 第33代 (592 - 628)• 第34代 (629 - 641)• 第36代 (645 - 654)• 第37代 (655 - 661)• 第38代 (661 - 671)• 第39代 (671? - 672? 第40代 (673 - 686)• 第42代 (697 - 707)• 第50代 (781 - 806)• 第55代 (850 - 858)• 第58代 (884 - 887)• 第62代 (946 - 967)• 第68代 (1016 - 1036)• 第70代 (1045 - 1068)• 第73代 (1086 - 1107)• 第81代 (1180 - 1185)• 第110代 (1643 - 1654)• 第116代 (1747 - 1762)• 第118代 (1770 - 1779)• 第120代 (1817 - 1846)• 第121代 (1846 - 1866) 明治以降• 第122代 (1867 - 1912)• 第123代 (1912 - 1926)• 第124代 (1926 - 1989)• 第126代 (2019 - 在位)• 大正の初年まではを天皇歴代に含め、これを「第15代神功皇后」として仲哀天皇と応神天皇の間に置いていた。 赤背景は(8人10代の女性天皇)。 」は当該年に異説があることを示す。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の。 第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 第38代天智天皇の在位年は6年半に及んだ即位前のを含む。 第41代持統天皇の在位年は3年半に及んだ即位前の称制を含む。 第57代陽成天皇の譲位は事実上の廃位。 第81代安徳天皇の在位の最後の2年間は、第82代後鳥羽天皇の在位の最初の2年間と重複する。 第96代後醍醐天皇の在位は、実際には2度の廃位と復辟をはさんだ鎌倉時代末期 (1318—31年)、建武の新政期 (1333—36年)、吉野時代 (1336—39年)の3期にまたがるが、それぞれの廃位後に擁立された光厳天皇と光明天皇の即位を認めず、その間自身のみが一貫して天皇だったと主張した。 なお今日では便宜上光厳天皇を北朝の最初の天皇とみなしているが、実際に南北両朝が並立するようになるのは、次の光明天皇が擁立されたのち後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に拠った時点 (1336年)からである。 現行の天皇歴代は、南朝の天皇を正統とする観点から数えられている。 北朝の天皇はこの天皇歴代には数えないものの、同時期に在位した正当な天皇としてに含めている()。 後小松天皇の在位は、始めの10年間を北朝の天皇のそれとみなし、南北朝合一 (1392年)後の20年間を天皇歴代の第100代とみなしている()。

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安徳天皇

あん とく 山鹿

『』(吉川本)将軍記の首書。 安徳天皇の即位が記されている。 2年()11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に。 治承4年()に3歳(満1歳2か月)でし、4月22日にする。 幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った。 即位前には、天皇の祖父も、清盛により幽閉されるに至った。 摂政にはが任じられた。 の年に清盛の主導で遷都が計画され、(現在の)が行なわれるが、半年ほどで京都にした。 の為の大嘗宮はの前庭に建てられた。 2年()、の入京に伴い、以下平家一門に連れられとともに都落ちする。 この後2年()に三種の神器が無いままが践祚し 、元暦元年(1184年)7月28日に即位。 正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった。 一方、安徳天皇は一門に連れられを経てに行き、1183年に現在の屋島東町にある見晴らしの良い高台に行宮を置いた。 この行宮跡地付近には、ささやかな神社「安徳天皇社 」が置かれている。 しかしが派遣した鎌倉源氏軍(、)によって、平氏はとに敗北。 特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる。 そして4年()4月、最期の決戦であるで平氏と源氏が激突。 平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る。 以下、まず『』による安徳天皇入水の様子を記述する。 最期を覚悟してとを身につけた母方祖母・二位尼()に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。 二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。 この世は辛く厭わしいところですから、という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。 天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。 安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した(『』「先帝身投」より)。 なお、『』では安徳天皇を抱いて入水したのはとされている。 母の建礼門院()も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。 この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した。 宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「」の項目を参照のこと)。 オリジナルか形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している。 その後、後鳥羽~~時にから献上されたものを正式に宝剣とした。 能勢にある安徳天皇御陵墓• (大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説。 侍従左少辨・(つねふさ、の祖となり『』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と4人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永4年(源氏方年号で元暦2年、1185年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。 しかし翌年5月17日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。 経房遺書は、文化14年(1817年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保5年(1217年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。 当時、読本作者・や国学者・などは偽作と断じたが、文人・(二代目石居)などは真物とした。 経房遺書原本は明治33年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。 能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。 経路であった鳥取県のやなどにも今もを残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる。 中国・四国地方• に逃れて10歳で崩御したとする説。 壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。 天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。 3年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。 この時建立された安徳天皇の墓所がと伝えられている。 上岡田五輪塔群、鳥取県八頭郡八頭町姫路12安徳の里姫路公園• 鳥取県姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。 天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。 鳥取県中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。 (現在の)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説。 が祖谷を平定し、に逃れていた安徳帝を迎えたという。 天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏」、谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡」等、安徳天皇に由来すると伝わる地名がある。 安徳帝はこの地に隠れ住み、16歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたという(『美馬郡誌』)。 のには、安徳天皇がを修めたという伝説がある。 神剣の奉納により太郎山から現称の「剣山」に変わり、山頂の剣神社本宮ではと安徳天皇を祀ったという。 横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説。 らに奉じられ、、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に行在所を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしたが、2年(1200年)8月に23歳で崩御。 鞠ヶ奈路に土葬されたとされる。 九州地方• 現在のに昔から安徳という地名があるが(旧・安徳村)、文献に限って言えば落人伝承としてではなく、同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・が帝を迎えたところという。 『平家物語』では平家はに拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している。 に逃げ延びての祖となったとする説。 対馬に渡った安徳天皇がの娘との間に儲けた子がであるという。 山田郷にて出家し、43歳で死去したとする説。 らとともに山田郷に逃れたという。 安徳帝は出家し、に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、元年に没したという。 (現在の)に逃れたとする説。 (『硫黄島大権現御本縁』) に警護されを南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとされる。 安徳帝は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲けたという。 同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはなかった。 しかし、江戸時代末期、島津氏の使者が来島して箱を検分したが、長浜家にも中身を明かさなかった。 になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされる。 この箱の中にはのうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる天叢雲剣が入っていたのではないかという説もある。 ところが、薩摩藩主であるの自筆による『虎巻根本諸作法最口伝規則』という文書(所蔵「玉里島津家文書」所収)の中に文政10年(1827年)硫黄島で八咫鏡が発見されて斉興によって上山城内に建てられた宮に安置されたと記されていることが判明した(上山城は現在のであるが、現在は宮や安置された鏡の所在は不明)。 硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた(長浜天皇)なる人物がいた。 牛根麓にて13歳で崩御したとする説。 硫黄島から移って来た安徳天皇が同地で没し、居世神社に祀られているという。 後世の作品における逸話 [ ]• 天叢雲剣(草薙剣)の喪失は、朝廷(他)・(他)ふくめ各方面に大きな衝撃をあたえ、神剣なしに即位したは微妙な立場に置かれた。 『』では、陰陽寮博士の言葉として『昔出雲國肥の河上にて素戔烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首 かしら 八の尾を表事 へうじ として人王八十代の後、八歳の帝 みかど と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。 』(八頭八尾のは、人王八十代の 安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていった)と記述している。 なので「宝剣が見つからないのも(宝剣の所有者たる天皇の元に戻らないのも)当然だ」としている。 これを受けて『』(第25巻)では、以降に武家の権力が強く皇室の威光が衰えたのは宝剣が海底に沈んでいたからであるとし、が龍宮にを下し、伊勢の浜に宝剣を打ち上げさせたとしている。 ただし反対意見によりに預けられた。 天台座主は『』において「安徳天皇はの請願により()が化生(けしょう)した存在だからの娘であり、へ帰っていったのだろう」と推測。 また「武士が表に立って天皇を守るようになったため、天皇の武力の象徴たる宝剣が天皇の元から失われるのも世の流れだ」と考察している。 『平家物語』に安徳天皇は実はであったのではないかという疑念を起こさせるような容姿の描写があり、『愚管抄』でも「」と記述している(上述)。 これらをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の『』などでは、女子であったという筋立てを採用している(渡辺1990:82-122ページ参照)。 泉湧寺に残る安徳幼帝の肖像も女子のようにも見える。 陵・霊廟 [ ] 宮内庁管理の天皇陵 [ ] 下関市伊崎町には、壇ノ浦の戦いの翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したというがある。 (みささぎ)は、により阿弥陀寺町にある 阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ、阿弥陀寺陵)に治定されている。 宮内庁上の形式は円丘。 天皇を祀る境内に所在する。 壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるための命により阿弥陀寺が建てられた。 御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、方面を向いた東向きで造立された。 『』によると、の時代にに安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。 阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心にに収めて安置され、現在の本宮ご神体となる。 その尊像の周囲に天皇を守護する平家一門10名の肖像が描かれ、その下段に位置するに安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵に表した『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。 の運動により、阿弥陀寺は廃されて、現在の安徳天皇を祀る赤間神宮となった。 新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下にの存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされた(赤間神宮社務所発行『源平合戦絵図』「阿弥陀寺御影堂について」1985年)。 赤間神宮は安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院の見た夢(『平家物語』「六道之沙汰」)にちなみ、を再現した竜宮造りとなっている。 のちに安徳天皇は、()の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになった。 またでは、(の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 宮内庁指定の陵墓参考地 [ ]• 豊田町には宮内庁指定の「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」がある。 国府町岡益にある「」はによって安徳天皇の陵墓参考地に指定されている。 越知町横倉山には、安徳天皇御陵墓参考地「鞠ケ奈呂陵墓」があり、の一族が安徳天皇を奉じて潜伏した際に暮らしたと伝わる行在所跡や、天皇の飲用水として用いたといわれるなどがある。 の厳原町久根田舎には、安徳天皇の墓と言われる陵墓があり宮内庁指定の御陵墓参考地となっている。 立岡町には宮内庁指定の「花園陵墓参考地」がある。 伝・安徳天皇陵 [ ]• には「安徳天皇来見山御陵墓」がある。 東祖谷栗枝渡にある栗枝渡八幡神社には、安徳天皇を火葬した「安徳天皇御火葬場」があり、遺骨を御神体として祀っているという。 (地区川の口)には安徳天皇御陵と伝わる陵墓がある。 のには安徳天皇のものとされる陵墓があり、伝承によれば元年()に島で崩御したとされる。 安徳天皇縁起絵図 [ ] 赤間神宮に伝わる襖絵。 筆という。 諱 言 トキ仁。 治承四年二月廿一日受禪。 同二年十二月日立坊。 高倉院長子。 母中宮徳子。 入道太政大臣清盛女。 攝政基通。 内大臣平宗盛。 養和一年。 元年辛丑。 七月十四日改元。 壽永二年。 壬寅五月廿七日改元。 此時遷都ノ事有ケリ。 委在 二別帖 一。 此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。 外舅内大臣宗盛。 源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。 城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。 終ニ元暦二年三月廿四日ニ。 長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。 海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。 寶劒ハ沈ミテ失ヌ。 神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。 又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。 此不思議ドモ細在 二別帖 一。 18-22頁『平氏の栄光と没落』• 「神社のいろは用語集、祭祀編」監修・神社本庁、 p. 266• 31-32頁『「如在之儀」と「太上法皇詔書」』• 281頁『神器なきままの新帝即位』• 205-206頁『第八十二代 後鳥羽天皇 一一八〇~一二三九 在位一一八三~一一九八 』• 278-279頁『神璽神鏡の京都帰還』• 193-194頁『海に消える宝剣』• 280頁〔『吾妻鏡』の記事〕• 37-38頁『「国家的プロジェクト」としての宝剣探索』• 40-42頁『宝剣代の創出』• コマ102 原本190-191頁 『 略 之より尾根傳ひにて二ノ森、三ノ森ヲ經て絶頂に達する、絶頂は平家の馬場と稱され長さ五町ばかりの大草原をなし小笹が密生し周圍には五葉松、白花米ツツジ等の高山植物がある、又傍に安徳天皇の御劒を納めたと傳へられる寶藏石 石灰岩 がある、山上は雲霧の去來するのが常であるが天氣晴朗なれば廣潤なる眺望を恣にする事が出來る、殊に阿讃山脈を越えて瀬戸内海一帯の島山が望見せられるのは最も興味がある 頂上より西北へ五町を下れば大劒神社がある大劒は美くしい石灰岩の突起で谷に面しては高き斷崖をなしてゐる、此處より山腹を斜行すること五、六町で道は二分し木ノ鳥居と狛犬とが置かれてゐる、是より北に下れば見殘に達する、東へ進む事數町で石灰岩の大斷崖下に古劒神社があり更に一町にして兩劒神社がある 以下略 』• 鈴木彰「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興-文政十年の「宝鏡」召し上げをめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 P85-113• 43-45頁『神器不帯というコンプレックス』• コマ307-308 原本457-458頁 『千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度 ふたヽび 人間に返らざるも理 ことわり とこそ覺えけれ。 コマ69-70 原本127-128頁• コマ239-240 原本443-444頁• 海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。 コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。 安藝ノ嚴島ノ明神ノ利生也。 コノ嚴島ト云フハ龍王ノムスメ也ト申傳ヘタリ。 コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。 サテハテニハ海ヘ歸リヌル也トゾコノ子細シリタル人ハ申ケル。 コノ事ハ誠ナラント覺ユ。 281-282頁〔『愚管抄』の見解〕• コマ74 原本34頁 〔渡海屋の場、大物浦の場〕より『知盛 今、賎しき御身の上、人間の憂き艱難、目前に六道の苦しみを受け給ふ。 これと云ふも、父、清盛、外戚の望みあるに依つて、姫宮を男の子と云ひふらし、權威をもつて御位につて、天道を欺き申せし其の惡逆。 積り積りて、一門我が子の身に報ひしか』 参考文献 [ ]• 稲田智宏『三種の神器 謎めく天皇家の秘法』株式会社学習研究社〈学研新書〉、2007年6月。 笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』中央公論新社〈中公新書〉、2001年11月。 遠山美都男『名前でよむ天皇の歴史』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2015年1月。 『平家伝説』、1973年• 渡邉大門「第一章 宝剣喪失 鎌倉期における三種神器」『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史』講談社〈講談社現代新書〉、2009年11月。 阿波名勝会 『徳島県新名勝案内』 阿波名勝会、1936年4月。。 経済雑誌社編 『国史大系. 第14巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書』 経済雑誌社、1901年5月。。 徳川光圀 撰[他] 『訳註大日本史. 二』 建国記念事業協会・彰考舎、1939年5月。。 永井一孝 校 『太平記. 下巻』 有朋堂書店、1922年8月。。 三島才二編 『日本戯曲名作大系:院本正本. 第1巻』 聚芳閣、1925年5月。。 山田孝雄校訂 岩波書店、1929年6月。。 山田孝雄校訂 宝文舘、1933年6月。。 早稲田大学編輯部 『物語日本史大系. 第5巻 太平記 上 』 早稲田大学出版部、1928年5月。。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - の摂社• - 安徳天皇にちなんで命名された• - が書いた小説。 第19回受賞。 外部リンク [ ]• - 宮内庁• 国分六之助編(史談会、 1892)• 第2代• 第3代• 第4代• 第5代• 第6代• 第7代• 第8代• 第9代• 第10代• 第11代• 第12代• 第13代• 第14代• 第15代• 第16代• 第17代• 第18代• 第19代• 第20代• 第21代• 第22代• 第23代• 第24代• 第25代• 第26代 (507? - 531? 第27代 (531? - 535? 第28代 (535? - 539? 第29代 (539? - 571? 第30代 (572? - 585? 第31代 (585? - 587? 第32代 (587? - 592? 第33代 (592 - 628)• 第34代 (629 - 641)• 第36代 (645 - 654)• 第37代 (655 - 661)• 第38代 (661 - 671)• 第39代 (671? - 672? 第40代 (673 - 686)• 第42代 (697 - 707)• 第50代 (781 - 806)• 第55代 (850 - 858)• 第58代 (884 - 887)• 第62代 (946 - 967)• 第68代 (1016 - 1036)• 第70代 (1045 - 1068)• 第73代 (1086 - 1107)• 第81代 (1180 - 1185)• 第110代 (1643 - 1654)• 第116代 (1747 - 1762)• 第118代 (1770 - 1779)• 第120代 (1817 - 1846)• 第121代 (1846 - 1866) 明治以降• 第122代 (1867 - 1912)• 第123代 (1912 - 1926)• 第124代 (1926 - 1989)• 第126代 (2019 - 在位)• 大正の初年まではを天皇歴代に含め、これを「第15代神功皇后」として仲哀天皇と応神天皇の間に置いていた。 赤背景は(8人10代の女性天皇)。 」は当該年に異説があることを示す。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の。 第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 第38代天智天皇の在位年は6年半に及んだ即位前のを含む。 第41代持統天皇の在位年は3年半に及んだ即位前の称制を含む。 第57代陽成天皇の譲位は事実上の廃位。 第81代安徳天皇の在位の最後の2年間は、第82代後鳥羽天皇の在位の最初の2年間と重複する。 第96代後醍醐天皇の在位は、実際には2度の廃位と復辟をはさんだ鎌倉時代末期 (1318—31年)、建武の新政期 (1333—36年)、吉野時代 (1336—39年)の3期にまたがるが、それぞれの廃位後に擁立された光厳天皇と光明天皇の即位を認めず、その間自身のみが一貫して天皇だったと主張した。 なお今日では便宜上光厳天皇を北朝の最初の天皇とみなしているが、実際に南北両朝が並立するようになるのは、次の光明天皇が擁立されたのち後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に拠った時点 (1336年)からである。 現行の天皇歴代は、南朝の天皇を正統とする観点から数えられている。 北朝の天皇はこの天皇歴代には数えないものの、同時期に在位した正当な天皇としてに含めている()。 後小松天皇の在位は、始めの10年間を北朝の天皇のそれとみなし、南北朝合一 (1392年)後の20年間を天皇歴代の第100代とみなしている()。

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