リチャード ニクソン。 リチャード・M・ニクソンはどんな人?Weblio辞書

カリフォルニア州オレンジカウンティーのヨーバリンダの生家にある「リチャード・ニクソン大統領図書館」 Richard Nixon Presidential Library and

リチャード ニクソン

第37代アメリカ合衆国大統領。 デューク大学ロースクール修了後、弁護士を経て、1946年に共和党より下院議院に初当選。 上院議員に転じた後、1953年よりアイゼンハワー政権で副大統領を務めた。 1960年の大統領選挙ではジョン・F・ケネディに敗れたが、1968年の大統領選挙で勝利し、第37代大統領に就任。 ベトナム戦争からの完全撤退、冷戦下のソ連とのデタント、中国との国交樹立などに尽力する。 京都大学英文科卒。 毎日新聞社で社会部、サンデー毎日、英文毎日記者などを歴任。 退社後、評論や翻訳で健筆をふるう。 1986年に菊池寛賞、1997年に『五衰の人』で新潮学芸賞をそれぞれ受賞 本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです さすがと思う。 一方の陣営のリーダーたる大国を率い、自国のみならず普く世界の存立、利益、将来に関わって、歴史的決断を成した人の自負と眼は。 第一視野は広いし、かつ深く、視線は遥かに遠い。 そして評価は実に辛辣だ。 正に歴史を潜り抜けて来た人のみが謂い得るそれであろう。 それ故にこの本は、リーダー論として確たるものにもなっている、と思う。 登場するリーダー達は、何より自分自身が交わった実際に基いて、実直に描かれている。 自伝作家の見解などによる肉付けや総合化も忘れていないし、中にはフルシチョフや周恩来にように、敵対乃至は競い合う立ち位置にあった場面、場面を思い起こしながら、赤裸々に記述されている。 彼らの優秀さや限界をも含めて。 しかも単に他者としての眼のみならず、彼ら自身の述懐をも混えながら。 尚且つ描く筆致も、一流の伝記作家を凌駕するほどに、卓越している。 最後に添えられた「指導者の資格について」も読ませる内容だ。 リーダーよくリーダーを知る。 こうした格言があるかどうかは知らねども、それ程の感慨をもって読み終えた。 世界がどうなるかも分からぬ今日、明日に繋いでくれる真のリーダーの登場が真に求められるが、そうしたことへのヒントを与えてくれる書でもあり、是非なる一読を推奨したい。 非常に読みごたえがあります。 いずれも、20世紀に大きな足跡を残した指導者たちについて、公平な視点から評価しています。 驚いたのは、共産主義者であるソ連や中国の指導者についても、その視点が貫かれているということです。 ニクソンは最後はウォーターゲート事件で残念な去り方をしましたが、大統領としての功績は非常に大きなものがありました。 そのことは歴史の事実と知っていましたが、まさかここまでの文才があったとは、驚きです。 敵対する国家の指導者に対しても常に敬意を払い、その指導者を偉大な指導者たらしてめているファクターについて冷静に分析しています。 品がよく、今でも色褪せることのないリーダー論です。 20世紀に比べると、21世紀の指導者たちはずいぶん小粒になりました。 今の指導者たちをニクソン氏が評価するとしたら、どんな本を書くのでしょう? 問うてみたくなります。 訳文も非常にこなれており、原文の品の良さをよく表しているのではないか(原典を読んだことはありませんが…)と思います。

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リチャード ニクソン

ごく普通の家庭 リチャード・ニクソン大統領はカリフォルニア州ヨルバ・リンダで生まれた。 父フランシス 1878. 3-1956. 4 と母ハンナ 1885. 7-1967. 30 の5人の息子の2番目であった。 父フランシスは地元でガソリン・スタンドと雑貨店を営んでいた。 ニクソンは学費を捻出できなかったために地元のホイッティアー大学に進学した。 卒業後、デューク大学ロー・スクールで学び、弁護士になった。 反共運動の闘士 第2次世界大戦では海軍に所属し、少佐まで昇進した。 戦後、連邦下院議員に当選し、非米活動委員会でアルジャー・ヒス事件を担当し全国的に有名になった。 さらに連邦上院議員選挙に出馬したニクソンは選挙戦術を駆使して大差で対立候補を破った。 1952年の大統領選挙で副大統領候補としてとともに立候補し勝利をおさめ、8年間在職した。 1960年の大統領選挙に出馬したがに僅差で敗れた。 カリフォルニア州知事選挙にも敗れ、一時期、弁護士業に戻ったが1968年の大統領選挙で念願の大統領の椅子を手に入れた。 史上唯一の辞任 ニクソンは、訪中を電撃的に成功させて世界を驚かせた。 ヴェトナムから撤退する一方でカンボジアに侵攻した。 再選を果たしたものの、ウォーターゲート事件が発覚し、弾劾で罷免される可能性が高まったために自ら辞任した。 大統領選挙 ジョンソン政権を経て大統領制度は法的権限が増えた一方で政治的影響力は低下した。 ジョンソンが退任した直後に、補佐官の1人であるジョージ・リーディは、「我々が大統領制度の黄昏となるかもしれない最初の長引く影を見るのは当然かもしれない」と書いた。 ヴェトナムでの失敗は大統領の政策に対する一般の不信感、大統領権限の単独的な行使への反感、そして、大統領の提案や声明に対するマス・メディアの挑戦を助長した。 けれども大統領への期待は依然として大きかった。 大統領は国民の拡大し続ける政府への期待の中心であり続けた。 1968年の大統領選挙はによってもたらされた政治的混乱を示していた。 民主党大統領候補に指名されたヒューバート・ハンフリー副大統領は分裂した民主党を率いた。 シカゴで開かれた全国党大会は会場でも路上でも混乱を極めた。 路上では反戦論者がシカゴの警察と衝突した。 ハンフリーは、大多数の代表を支配する党の指導者によって大統領候補に指名された。 ハンフリーの最も有力な対立候補であったロバート・ケネディはカリフォルニアの予備選挙で勝利を収めた6月4日に暗殺されていた。 政治的にハンフリーは傷を負っていた。 ジョンソン政権の副大統領として、ハンフリーはヴェトナム戦争の失敗から距離を置くことが難しいと悟った。 戦争の問題に取り組もうとせず、きっぱりと決別することもできず、ハンフリーは決断力が欠けているように見えた。 ハンフリーは反戦派の民主党員に拒絶されただけではなく、保守派の民主党員にも拒絶された。 保守派の民主党員はアメリカ独立党の大統領候補であるアラバマ州知事のジョージ・ウォレスのほうが好ましいと考えた。 ハンフリーの異論の多い指名と共和党の大統領候補のニクソンに対抗するための選挙活動の失敗は、民主党に組織的な変革をもたらした。 1971年にマクガヴァーン=フレイザー委員会によって民主党の規則が、大統領候補を指名する党大会に一般党員の動向がより反映されるように改訂された。 新しい規則によってほとんどの州が、党大会の代表を党の有力者が秘密会議で選出する形式から直接予備選挙で選出する形式に改めた。 民主党がこのような変革を先に行ったが、そうした変革は州法として法制化され、共和党にも影響を及ぼした。 伝統的な党組織の影響力の低下は、新しい大統領候補指名の形式だけではなく、有権者の意識においても明らかであった。 1968年の選挙では、有権者は違う複数の党の候補に投票する傾向が強くなった。 その結果、ホワイト・ハウスと議会を橋渡しする共通の党の絆が損なわれることが珍しくなくなった。 分断された政府はニクソン政権に深刻な影響を与え、ジョンソンの時代に明確な形をとるようになった近代的大統領政治が抱える問題を悪化させた。 1968年の民主党の混乱にも拘わらず、ニクソンは国民から決定的な信任を得ることはできなかった。 民主党は上下両院で多数派を維持し、ニクソンは1848年の大統領選挙で当選した以来、初めて上下両院のいずれも自党が多数派を獲得せずに選出された大統領となった。 ニュー・フェデラリズム 議会だけが権力をめぐる競合相手ではなかった。 なぜなら1932年以来、を除けばニクソンは唯一の共和党の大統領であり、行政組織は多くの民主党員で占められていた。 彼らの大部分は、ニュー・ディール以来、公職関連法規によってその地位が保護されていた。 アイゼンハワーは官僚の抵抗に苛立たせられたが、自党が議会を支配できていないニクソンにとってそうした抵抗はさらに重荷になる可能性が高かった。 ニクソンは回顧録の中で「我々の最も重要な仕事はできるだけ迅速かつ確実に連邦の官僚制度に我々の烙印を押すことである。 私は新しい閣僚を、留任した官僚を我々がなそうとしていることを信じている人々に置き換えるために迅速に動くように促した。 私は、もし我々が迅速に行動しなければ、彼らが変えようとしている官僚制度の虜になってしまうだろうと警告した」と記している。 ニクソン政権にとって苛立たしいことに、大統領が任命した省庁の長が容易に官僚に取り込まれ、政権の政策に反対する同盟者にされた。 ニュー・ディール時代の最初の共和党大統領であったアイゼンハワーは、大統領から議会に権限を返還することで行政府と立法府の均衡を修復させることをたびたび語っていた。 確かにアイゼンハワーは最終的に近代的大統領としての責任を受け入れ、同時に、政治的に穏健な大統領であれ、もし連邦政府の活動の領域を明確に定めたいと望むのであれば強力なリーダーシップを発揮しなければならないことを認識するようになった。 しかし、アイゼンハワーは消極的な近代的大統領であった。 アイゼンハワーの見えざる手によるリーダーシップは、ニュー・ディールの柔軟な受け入れとアメリカ政府の他の府に対する尊重を示していた。 それに対してニクソンは積極的に大統領の権限を拡大しようとした。 ニクソンが大統領に就任した時、近代福祉国家を実現しようとするニュー・ディールの手法はリベラル派でさえも疑念を持つようになっていた。 新しい政治的状況は国内政策を劇的に変える機会を提示しているように思えた。 さらに慎重だったアイゼンハワーと違って、ニクソンは機会を逃さず最大限に活かす性格であった。 ニクソンはアイゼンハワーよりも大統領職を保守的な国内政策を梃入れするのに有効に使った。 実際、ニクソンはセオドア・ルーズベルト以来、大統領の権限を拡大解釈した初めての共和党大統領である。 しかし、大統領を人民の世話役であると初めて見なしたセオドア・ルーズベルトと異なり、ニクソンは大統領職を社会改革に対する疑念の中心に据えようとした。 もちろんニクソンでさえ福祉国家の概念に徹底的に反対していたわけではない。 ニクソンが提唱したニュー・フェデラリズムの主要な目的は、国家的な問題を連邦政府が処理できるように、そして、地方的な問題を州や地元当局が処理できるように政府の責任を選別することであった。 福祉は全国単一の基準が必要であり、連邦が処理すべき問題である。 その一方で職業訓練は柔軟なやり方が必要であり、州や地元当局が処理すべき問題である。 さらにニクソンは連邦から州政府や地方政府への補助金について、包括的補助金と個別補助金を統合し、使途制限のない補助金に変更した。 それは様々な政府事業に関する州政府や地方政府の決定権を取り戻させようとする試みであった。 ニクソンのニュー・フェデラリズムは、社会的問題は国家的な水準で最も効果的に解決できるというニュー・ディールの前提に挑戦した点で保守的であった。 こうした挑戦は民主党が支配する議会と行政組織の官僚の間で強い反対を引き起こした。 彼らはもしニュー・フェデラリズムが法制化されると州や地元当局に権限が奪われてしまうのではないかと恐れた。 興味深いことに、ニクソンは連邦制度の地方分権化とホワイト・ハウスへの権限集中を同時に行おうとしていた。 ニクソンの考えでは、連邦政府の特殊権益が非常に大きいので強力な大統領のみが、州や地元当局からワシントンへの権限集中を是正できる。 ニクソン政権は、連邦の権限を制限するために、まず大統領の権限を増大させる必要があった。 「反官僚制度」を標榜してニクソンは国内政策を形成する権限をホワイト・ハウスに集中させようとした。 公民権 またニクソンはリベラルな公民権政策を追求し、人種と性別に基づいて雇用、契約、教育に関連した積極的差別是正措置を推進した。 最初に公民権政策が差別撤廃から積極的差別是正措置に移行したのはジョンソン政権であった。 ジョンソンは大統領令11246号を発令し、労働長官に、政府事業の契約者に雇用慣行に関する遵守報告を提出するように求める権限を与え、契約者に少数派の応募者を採用する努力を行うように命じた。 また同令により、新しい政策を監督するために連邦契約遵守局が設立された。 ニクソンの下で、大統領令11246号は完全に行使された。 ジョージ・シュルツ労働長官は、フィラデルフィア計画と呼ばれる指示で、地方の建設会社に少数者を雇用する特別な目標と労働時間制限を採用するように求めた。 さらに大統領令11246号の適用範囲はすべての連邦政府の事業を請け負う契約者に拡大され、地域の人種構成比を反映して労働者を雇用しなければならないと規定された。 ニクソン政権は契約遵守だけではなく大統領令11478号を通じて連邦職員の雇用においても積極的差別是正措置を果敢に追求した。 そうすることでニクソンは、裁判所によって繰り返し大統領権限の正当な行使であると支持された積極的差別是正措置の近代的制度を創った。 環境政策 ニクソンは環境問題にも取り組んだ。 1969年国家環境政策法によって環境保護局が設立された。 1969年と1970年にニクソンは環境保護に関する施策を打ち出した。 ニクソンは議会に37点にわたる環境に関する見解を提出し、水処理施設の改良、大気の質の基準の改良、自動車による汚染を減らすための研究に40億ドルの予算を請求した。 ニクソンは汚染されている連邦施設を浄化するように命じ、五大湖に汚水を投棄することを禁止する法案を支持し、鉛を添加したガソリンへの課税を提案し、石油漏出の処理に関する全国達成計画を承認した。 法の執行の強化 またニクソンは法の執行を強化するという約束を果たすために、3つの主要な犯罪に関する法案を支持した。 組織犯罪統制法は、危険な特定の犯罪に厳罰を科し、合法な事業に組織犯罪の資金を使用することを禁じた。 薬物乱用統制法は、薬物の単純所持に関しては罪を軽減したが、薬物取り引きに関する罪を厳罰化した。 また廃棄される前に証拠を差し押さえるために当局は通告なしで家宅に踏み込むことが許された。 コロンビア特別行政区刑事裁判法は、通告なしの踏み込みに加えて、危険だと判断された被告に対する60日間までの予防拘留、公判前の拘留を認めた。 アポロ計画 ニクソン政権は月に人類を到達させるというケネディの約束を実現した。 1969年7月20日、アポロ11号の宇宙飛行士が人類で初めて月面に立った。 1972年12月に行われた最後の月着陸計画でアポロ17号は月面で75時間過ごし、250ポンドの標本を回収した。 アポロ11号の宇宙飛行士とニクソンは電話を通じて会話した。 「こんにちは、ニールとバズ。 私はホワイト・ハウスの大統領執務室から電話であなた方と話している。 そして、確かに、これは今までなされた中で最も歴史的な通話に違いない。 私は、我々が皆、あなた方がなしたことをどれくらい誇りに思っているかを言うことができない程である。 すべてのアメリカ人にとって、これは我々の人生の最も誇るべき日に違いない。 そして、世界中の人々に関して、私はこれが何と顕著な功績であるのだろうと彼らもアメリカ人と一緒に認めていると確信する。 あなたがなしたことのために、宇宙は人類の世界の一部になった。 そして、あなた方が静かの海から我々に語りかけるように、それは平和と平静を地球にもたらすための我々の努力を強めるために我々を奮い立たせるだろう。 人類の歴史全体の1つの非常に貴重な瞬間に、この地球のすべての人々が本当に1つになる。 あなた方がなしたことにおける彼らの誇りにおいて1つになり、あなたが無事地球に戻るように我々が祈るうえで1つになる」 選挙運動資金の規制 多額の献金をする者の影響力を排除するために選挙運動資金に関する規制が強化されるようになったのは1970年代である。 1971年、議会は連邦選挙運動法を通過させた。 同法は選挙運動資金の開示について定式を提示した。 誰が献金を行い、それがどのように使われたかが明らかにされるようになった。 さらに広告費に上限が定められ、候補者と家族からの献金に制限が課され、労働組合や企業が加盟者や従業員に自発的な献金を呼びかけることを認めた。 1972年の大統領選挙で連邦選挙運動法は初めて大統領選挙に適用された。 1972年、議会は歳入法を可決した。 その中には大統領候補に対する公的選挙運動資金の規定が盛り込まれていた。 その規定は1976年に発効した。 すべての納税者は所得申告書で大統領選挙運動基金にお金を充てることができる。 内国歳入庁に基金に連邦税から1ドルを取り分けておくように指定する。 取り分けておく額は1993年に3ドルに引き上げられた。 多くのアメリカ人がお金が政治を腐敗させていると信じている一方で、取り分けを行っているアメリカ人はほとんどいない。 その割合は1980年には28. 7パーセント、2010年には7. 3パーセントに下がった。 ニクソン・ドクトリン 国内政策だけではなく、ニクソンの大統領権限の強大化は特に外交政策でも発揮された。 ニクソンは1969年7月25日、アジア歴訪に先立ちグアムで開催した記者会見でアジアに対するアメリカの新しい外交方針を発表した。 「好むと好まざるとに拘わらず、我が国が地理的に太平洋国家であるが故に、我々がアジアの戦争に巻き込まれる方法は、むしろ撤退を企てることだと思う。 私ははるか将来、それも4、5年先ではなく、10年ないし15年、20年先の将来を考える時、しかも我々が世界平和を猶も望む時、その平和への最大の潜在的脅威が太平洋に位置していることを我々は気付くのではなかろうか。 それ故、私は次のことを提案したいと思う。 我々がアジアを見て、しかも世紀末の長期的視座の中で見通す場合、アジアは世界平和への最大の脅威を構成している。 そのためアメリカは、引き続き重要な役割を演じ続けるべきである。 ここに述べたいことは、我々の果たすべき役割に関する限り、こうした状況下で我々が直視しなければならない2つの重要かつ新しい要素の存在に思いを致さなければならないということである。 第1に、アメリカに対決した形で発現しているナショナリズムの巨大な成長である。 しかも同時にまた、その民族的誇りで重要な要因になりつつあると同時に、地域的誇りがまた重要な要因になっている。 第2の要因は、私の見るところ、アジアの将来に深い影響を与え、我々が十分考慮しなければならないものである。 すなわちそれは、アジア人は今後我々の訪れるどの国でも外から指図されたくないと言い、アジア人のためのアジアを要求し続けることである。 しかし、まさにこれこそ我々の望んでいるものであり、それにこそ我々の果たすべき役割がある。 すなわち、我々は援助すべきだが、指図すべきではないということだ。 今日徐々に進展しつつある政治的、経済的計画は極めて有望なものである。 その計画に我々は援助を与えるだろう。 そしてもちろん現に我々が持っている条約上の義務を保持し続けていくはずである。 しかし、我々の役割に関する限り、ヴェトナムの時と違って、今後、我々はアジア諸国を我々に依存させ過ぎないように、紛争に深入りする政策は避けなければならないである」 新しい外交方針では、アジアにおける駐留米軍を削減し、アジアの非共産主義国が核以外の安全保障問題に関して自立するように促すことが提唱され、中国の脅威の減退が認識されていることが示された。 11月3日、ニクソンはグアムにおける発表をまとめて3原則からなるニクソン・ドクトリンを公表した。 ニクソン・ドクトリンは、アメリカが同盟国の条約上の約束は守ること、アメリカや同盟国の安全保障に深く関与する国が核の脅威にさらされた場合、アメリカが核の傘を提供すること、そして、同盟国が核以外の脅威にさらされた場合、アメリカは条約上の取り決めにしたがって要請を受ければ軍事的、経済的支援を行うが、国土防衛の責任はその同盟国自体にあることという原則を示した。 ニクソン政権はニクソン・ドクトリンに基づき、韓国から2万人、日本から1万200人、タイからは1万6,000人の部隊を撤収させた。 名誉ある平和 さらにニクソン政権はヴェトナムからのアメリカ軍の撤退を開始し、1969年8月までに2万5,000人の兵士を、1969年の終わりまでに8万人の兵士を帰還させた。 確かにヴェトナム戦争を終わらせることはニクソンにとって政治的利益になることであった。 ニクソンはヴェトナム戦争を終わらせることを約束したが、いわゆる「名誉ある平和」を獲得するにおいてそれ程成功を収めたわけではなかった。 アメリカは南ヴェトナムを共産主義に明け渡すことなく撤兵することを目指した。 名誉はニクソンにとってこの目標の重要な要素であった。 ニクソンとヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官は、もし決然たる目標と行動の確実性を示すようなやり方でアメリカが戦争から脱出できないのであれば、アメリカは国際的な威信を失うだろうと考えていた。 ジョンソン政権末期に北ヴェトナムとアメリカの間で和平交渉の予備会談が行われた。 アメリカは、北爆を部分的に停止する代わりに、南ヴェトナムでのゲリラ活動を縮小するように北ヴェトナムに要求し、北ヴェトナムはその回答として、南ヴェトナムでのアメリカの軍事行動を縮小するように求め、双方の主張は平行線を辿るいっぽうであった。 アメリカ軍の撤退は非常に困難が予想された。 支援している南ヴェトナムに裏切り者と非難される恐れもあったし、軍事的にも撤退をすることは殿軍を務める残留兵士の安全を脅かすことになると予想された。 国防総省の見積もりでは、秩序ある撤退をするには15ヶ月以上かかるということであった。 その際、最も危惧されたのは残留したアメリカ軍兵士が人質になることであった。 またアメリカがヴェトナムで失敗することは同盟諸国に対してアメリカの力への疑念を抱かせる結果になる。 北ヴェトナムはアメリカ軍の即時かつ一方的な撤退を求めていた。 アメリカは、北ヴェトナムのその要求に屈することなく、北ヴェトナムを制しながら撤退し、かつ南ヴェトナムを崩壊させないようにしなければならなかった。 キッシンジャーが考え出したのは、北ヴェトナムに政治的、軍事的両面から圧力をかけ、有利な妥協を引き出すという方策である。 それは、第1に戦争継続に関して国内の支持を固めるために議会の支持を取り付けること、第2に北ヴェトナムが南ヴェトナムを支配すること以外はできる限り妥協すること、第3に南ヴェトナムの重要拠点だけに防備を限定し、北ヴェトナムからの補給線を断つ作戦をとる。 アメリカ国民は、政府に2つの矛盾した要求を突きつけているようであった。 つまり、ヴェトナム戦争終結とアメリカが北ヴェトナムに降伏しないことである。 ニクソン政権は、ヴェトナム戦争を北ヴェトナムに降伏せずに過度に妥協したと見られることなく終結させ、平和をもたらさなければならなかったのである。 これが名誉ある平和である。 名誉ある平和を達成するために、ニクソン政権はヴェトナム化計画を選んだ。 それは、同盟国との安全保障の約束は守るが、アメリカの直接的な軍事介入はできるだけ抑えるという方針への転換である。 ヴェトナム化計画に従って撤退を行うことに関しては3つの要点があった。 第1にアメリカ国内の士気を維持すること、第2に南ヴェトナムにアメリカ軍なしでも自立できる機会を与えること、第3に北ヴェトナムに妥協できる接点を提供することの3つである。 ヴェトナム化計画の骨子は、南ヴェトナムの自主防衛力の強化とそれに伴うアメリカの負担軽減である。 つまり、南ヴェトナムにアメリカの肩代わりをさせようということである。 アメリカの理想主義やイデオロギーにこだわることなく、アメリカの力と利益に基づいてなされた現実的路線への変更である。 アメリカは、北ヴェトナムに政治的、軍事的両面から圧力をかけ、名誉ある平和を実現しようとした。 ニクソンは、国際政治面では共産中国との友好関係を築き、軍事面では北爆をいっそう強化した。 さらにニクソンはカンボジアにある北ヴェトナムの軍事拠点を秘かに爆撃することでヴェトナムへの関与を拡大させた。 カンボジアは中立国であった。 爆撃に効果がないと知ったニクソンは、1970年4月30日、国民に向けて、カンボジアに派兵することを発表した。 この軍事的に無益に思える行動は、アメリカ中で抗議を巻き起こし、議会の強い反対にあった。 カンボジアの爆撃に関して上院軍事委員会は公聴会を開き、カンボジアの中立が公式に確認されている時に爆撃が行われたと結論付けた。 カンボジアに対する軍事介入は1973年8月15日に大統領と議会の間で反共産主義政府を支持するための爆撃を停止するという合意が成立するまで続けられた。 さらに1971年、ラオスでも南ヴェトナム解放戦線の補給線を断つために爆撃が行われた。 しかし、こうした軍事的、外交的圧力が功を奏し、1972年10月8日に北ヴェトナムは次のようなアメリカの条件を受け入れるに至った。 アメリカ軍の全面的撤退、国際的な監視の下での休戦、捕虜交換、行方不明者の情報提供、南ヴェトナムに対する経済的、軍事的援助の継続、南ヴェトナムの将来の行方を自由選挙に委ねる。 ヴェトナム戦争が正式に終結したのはニクソンの1期目も終わりに近付いた1973年1月2日である。 1月23日、ニクソンはヴェトナム戦争の終結を国民に向かって宣言した。 「私は今晩、我々がヴェトナムと東南アジアにおける戦争を終わらせ、名誉ある平和をもたらす協定を本日締結したことを発表するために、このラジオとテレビの時間を要求した。 次の声明が、今、ワシントンとハノイで同時に発表される。 『本日、パリ時間1973年1月23日12時30分に、ヴェトナムにおける戦争を終結し、平和を回復する協定が、合衆国代表ヘンリー・キッシンジャー博士とヴェトナム人民主共和国代表レ・ドク・ト特別顧問との間で仮調印された。 この協定はパリの国際会議センターにおいて1973年1月27日にヴェトナム和平パリ会談の参加国により正式に調印されることになっている。 停戦は1973年1月27日24時グリニッジ標準時に発効する。 合衆国とヴェトナム民主共和国は、この協定がヴェトナムにおける安定した平和を保障し、インドシナ及び東南アジアの永続的な平和の維持に貢献するであろうという希望を表明する』。 公式の声明はこれで終わる。 交渉の全期間を通して、我々は名誉ある平和を主張している。 1972年1月25日と5月8日にこの部屋から国民に向けて行った私の演説では、名誉ある平和に不可欠だと考えられる目標を説明した。 今や合意に至ろうとしている調停では、あの時、私が主張したすべての条件がかなえられている。 国際的な監視の下での停戦は、ワシントン時間で1月27日土曜日午後7時に始まるだろう。 今週の土曜日から60日以内にインドシナ中のすべてのアメリカ戦争捕虜が解放されるだろう。 軍事行動中に行方不明になっているすべての人々の消息を知っている最大限の可能性がある。 同じ60日間に、すべてのアメリカ軍は南ヴェトナムから撤退する。 南ヴェトナム国民は、外部からの干渉無く、彼ら自身の未来を決める権利を保障されている。 双方の同意により、実行すべき協定の全文と付随書は明日発行されるだろう。 こうした交渉の間中、我々はヴェトナム共和国のティエウ大統領と他の国会議員と綿密に協議していた。 この調停は目標を満たし、ヴェトナム共和国政府とティエウ大統領の完全な支持を受け、同じく影響を受けるその他の同盟国の支持も受けている。 合衆国は、ヴェトナム共和国政府を唯一の正当な南ヴェトナム政府であると認め続ける。 我々は、協定の条件の範囲内で南ヴェトナムを支援し続け、南ヴェトナム国民が彼ら自身で彼らの問題を平和的に解決しようとする努力を支持する。 我々は、戦争の終わりは、平和建設に向けての最初の段階に過ぎないと思っている。 今、すべての陣営が、これが永続する平和になるように、救いの平和になるように、そして東南アジアにおける戦争の終わりとなるだけではなく、世界全体の平和の可能性に寄与する平和にするように注意しなければならない。 このことは協定の条項が厳密に守られなければならないことを意味する。 我々は協定が我々に要求していることをすべて実行する用意があり、他の当事者が協定の要求事項をすべて実行するように期待する。 また我々は他の関係諸国が協定の実施と平和の維持を確実なものとするうえで助力するように期待する」 1973年3月、アメリカは休戦協定に従ってアメリカ軍の撤退を完了させた。 さらに8月には空爆も停止した。 しかし、南北ヴェトナムの間で戦闘は継続された。 ヴェトナム戦争でアメリカ軍の死亡者は5万8,000人にのぼり、1,700億ドルが投じられた。 その結果、国内の不信感だけではなく、大幅な財政赤字、アメリカ経済の低迷、ドル流出などの経済情勢の悪化をもたらした。 ニクソンの対ヴェトナム政策は積極的な大統領権限の行使を促した。 、、そして、と同様に、戦時の大統領は超法規的な権限を持つとニクソンは考えていた。 ニクソンが戦時の大統領であったのは約55ヶ月の任期のうち約20ヶ月だけであったが、ニクソンは、人気のない宣戦布告なき戦争を遂行する大統領に自動的に包括的な権限が人民によって認められるわけではないと悟った。 ますます増大する政治的抵抗に対して、大統領権限の領域を拡大しようとしたニクソンは、自らの決断で以って国内政策と外交政策を推し進めていくことになる。 そうすることでニクソンは大統領制度に重要な変革をもたらした。 しかし、それと同時にニクソンは自らの辞任の種をも植え付けていた。 国家機密特権 1971年6月30日、最高裁は、ニュー・ヨーク・タイムズ社対合衆国事件で、国防総省の文書の刊行は国家安全保障の脅威とはならないという判決を下した。 ニクソンは、ニュー・ヨーク・タイムズ社がアメリカのヴェトナムへの関与の歴史の詳細を明らかにする機密文書を刊行しようとしたのを国家安全保障を脅かすという理由で差し止めるために司法長官を連邦地方裁判所に送っていた。 連邦地方裁判所は差し止め命令を出すのを拒んだ。 連邦控訴裁判所は地方裁判所の判断を支持した。 ニクソン政権は最高裁に提訴した。 最高裁は、憲法修正第1条で示された出版の自由を差し止めるためには政府はそれを正当化する重大な責任を背負わなければならないとした。 建国の父祖は、憲法修正第1条によって、自由な新聞がアメリカの民主主義において営むべき本質的役割を果たすために必要な保護を新聞に与えた。 新聞は国民に奉仕すべきものであって、政府に奉仕すべきものではない。 政府の新聞検閲権が廃止されたのは、新聞が政府を批判する自由を永久に保つためであった。 自由で抑制されない新聞は政府内の欺瞞を効果的に暴露することができる。 確かに憲法は国際問題の処理とアメリカの国防の維持に関する権限を大幅に大統領のみに与えている。 大統領は憲法上、この権限を行使するのに必要とされる機密保持の程度がどのようなものであるかを決定し、かつそれを守る義務を負っている。 しかし、行政府が国家機密上、公表するべきではないと主張する資料が、その発表によって国家または国民に直接かつ直ちに回復し難い損害が生じることは確実であるとは言えない。 したがって憲法修正第1条に反してまで機密文書の刊行を差し止めを正当化することはできない。 最高裁の判決は憲法修正第1条の意義を再確認すると同時にニクソンの国家機密特権の主張を否定するものであった。 ニクソン・ショック 1949年に権力を掌握した共産中国政府とアメリカの国交が途絶してからほぼ4半世紀が経っていた。 ニクソンは「三角外交」と呼ばれる戦略を展開した。 建国当初こそ中国とソ連の関係は緊密であったが、1960年代、両国のイデオロギー対立は深まっていた。 さらに1969年には国境地帯での武力衝突まで起きていた。 その隙に乗じてソ連を牽制するために中国との友好関係を築こうとニクソンは考えたのである。 さらにニクソンは中国の国際連合への加盟を支持した。 ニクソンはキッシンジャーを秘密裡に中国に派遣して、大統領の中国訪問を協議させた。 1971年7月15日、ニクソンは中国訪問を公表した。 同盟諸国だけではなく国務省でさえニクソンの計画を知らされていなかった。 これは外交が大統領の独断で行われることを示していた。 こうしたニクソンの行動は世界に衝撃を与え、ニクソン・ショックと呼ばれた。 ニクソンの中国訪問は1972年2月に行われた。 ニクソンは毛沢東と周恩来と会談し、万里の長城をはじめとする歴史的名所を訪問した。 その様子は報道で大きく取り上げられた。 ニクソンの中国訪問の結果、上海声明が発表された。 上海声明は以下のような条項からなる。 ヴェトナムに関して休戦が成立した後、アメリカは軍を撤退させ、ヴェトナム人民に自らの運命を外部からの干渉なく決定させる。 アメリカは日本と韓国と強い絆を保持する。 南アジアに関してアメリカは、軍事的脅威から解放されて自らの将来を決定するインド、パキスタン、その他のあらゆる国の権利を支持する。 中国は覇権に反対し、すべての国々が平等かつ自由に扱われることを求める。 中国はヴェトナム、ラオス、カンボジア人民の努力を支持する。 しかし、中国はヴェトナムにおけるアメリカ軍の存在について言及しなかった。 中国は日本の軍国主義の復活に反対する。 中国はパキスタンがその独立と主権を維持するのを支持する。 アメリカと中国は、すべての国の尊厳と主権を尊重し、国内問題に干渉せず、平等で相互に恩恵をもたらす形で外交関係を樹立することに合意する。 台湾に関して中国は、アメリカが台湾を正統な政権と認める限り、アメリカと正式な外交関係を樹立しない。 ニクソンは、台湾からのアメリカ軍の段階的撤退を約束し、1つの中国政策に同意した。 アメリカと中国は貿易、観光、文化的交流を促進することに合意する。 中国訪問を発表したことでニクソンは世界に衝撃を与えたが、金・ドル停止は再び世界に衝撃を与え、第2次ニクソン・ショックと呼ばれた。 1950年代にアメリカの国際収支は赤字に転落し、ケネディ政権とジョンソン政権の努力にも拘わらず改善しなかった。 国際収支の悪化は基軸通貨としてのドルの信用を低下させ、金がアメリカから流出した。 さらに1970年から1971年にかけてアメリカ経済は後退し、国際収支はますます悪化した。 そのためドル不安が広まり、為替市場が混乱した。 ニクソン政権は西欧諸国や日本と協力して為替市場の混乱を収拾することができなかった。 さらに国際収支の赤字だけではなく、貿易収支が20世紀で初めて赤字に転落する見通しが示された。 またアメリカの金準備高は1938年以来、最低の水準にまで低下した。 ニクソンは事態に対応するために閣僚と協議してドル・金交換一時停止を決定した。 しかし、西欧諸国がアメリカの一方的な措置に反対したために、ドルの価値を切り下げた新たな交換レートで固定為替相場に復帰するスミソニアン合意が成立した。 ただしアメリカはドル・金交換の再開については確約しなかった。 結局、アメリカの国際収支の悪化は解消されず、ドルに対する信用も回復しなかった。 最終的に各国は変動為替相場に移行し、固定為替相場を原則とするブレトンウッズ体制は崩壊した。 緊張緩和 ニクソンは政権開始当初からソ連との緊張緩和に努めた。 冷戦の緊張を緩和させる政策としてニクソン政権が最初に着手したのが戦略兵器制限条約である。 戦略兵器制限交渉はジョンソン政権から開始されていた。 しかし、ソ連がプラハの春を弾圧したチェコ事件を契機に交渉は中断していた。 ニクソン政権は交渉を再開し、一定の合意にこぎつけた。 ニクソンの訪中公表によって米中関係の改善が明らかになると、米ソ関係も好転した。 1971年10月、ニクソンは1972年5月にソ連を訪問することを公表した。 現職大統領として初めてソ連を訪問したニクソンはレオニード・ブレジネフ Leonid Brezhnev 書記長と会談し、第1次戦略兵器制限条約と弾道弾迎撃ミサイル条約に調印した。 第1次戦略兵器制限条約によって、米ソは5年にわたって大陸間弾道ミサイルと潜水艦発射弾道ミサイルに数量制限を課すことに合意した。 引き続いてこうした軍備に関する条約の他にもアメリカからソ連への穀物輸出が認められ、ソ連に最恵国待遇を与えることを約束した通商条約も調印された。 1974年、ニクソンはソ連を再訪したが、核拡散を制限する協定で合意に達することができなかった。 行政制度改革 ニクソンの「管理大統領制度」は、ニュー・フェデラリズムを法制化するように議会を説得できないために生まれた。 大統領としての最初の2年間、ニクソンは立法提案を行ったが、ニクソンの提案の大部分は議会で否決された。 その代わりにニクソンは自らの目的を行政的手段を通じて実現する戦略に転向した。 ニクソンの管理大統領制度の最初の段階は、伝統的に省庁が担ってきた責任を占有するように大統領府を拡大し再編することであった。 ホワイト・ハウス事務局の職員はジョンソン政権下では292人であったが、ニクソン政権の1期目の終わりには583人に増員された。 規模の拡大とともに権力も増大した。 ホワイト・ハウス内や大統領府内の組織でニクソンに忠誠を誓う者が政策を形成するだけではなく、ジョンソン政権でも行われたように、政策そのものを実行しようとした。 外交面ではキッシンジャー国家安全保障問題担当補佐官が、ホワイト・ハウスが支配する政策形成を行う完全な仕組みを初めて創った。 ケネディ以来、国家安全保障問題を担当するホワイト・ハウスの職員が従来、国務省の管轄であった責任を次第に分担するようになった。 ニクソンとキッシンジャーは外交問題を担当する職員を前例のない規模にまで増やした。 国務省が蚊帳の外に置かれたために、ウィリアム・ロジャーズ国務長官は、ニクソン政権の最大の外交的業績である中国訪問を前もって知らされていなかった。 ニクソンとハリー・ホールデマン首席補佐官は、ホワイト・ハウスを管理するのに階層的な制度を構築した。 大統領に近付ける職員の数は制限された。 大統領の孤立はニクソンの性格に根差していた。 ニクソンはよく知らない人々をうまく扱うことができず、会議を好まなかった。 その代わりにニクソンは書類を好んだ。 職員は詳細な選択肢を書類にまとめ、その中からニクソンが最善だと思った選択肢を選ぶ。 ニクソンは、人々が話すのを聞くよりも膨大な量の書類を読むほうが得意であった。 こうしたホワイト・ハウスの管理手法はホワイト・ハウスを閉ざされた空間にした。 1969年、ニクソンは6人から構成される行政組織に関する大統領審議会を発足させた。 議長のロイ・アッシュに因んでアッシュ審議会と呼ばれる。 アッシュ審議会は、行政府が過度に断片化しており、その結果、公共の問題に対応するのに十分に協調できていないと結論付けた。 この断片化に取り組むために、アッシュ審議会は、中央集権化され、より政治的に責任を負う行政組織の再編を提案した。 ニュー・フェデラリズムの諸要素と行政府の再編を組み合わせる包括的な再編手段をアッシュ審議会は採用した。 さらにアッシュ審議会は予算局の名前と組織の変更を提案した。 アッシュ審議会の提言を取り入れてニクソンは1970年再編計画第2番で予算局を行政管理予算局に改変した。 さらに大統領府に国内政策会議を設置した。 アッシュ審議会の報告は、1971年にニクソンが議会に提出した行政府の再編に関する立法計画の基盤となった。 そうした法案は、7つの既存の省庁と幾つかの独立機関を4つの超省庁、人的資源省、共同体開発省、天然資源省、経済問題省に再編することを規定していた。 それぞれの省には省庁全体に責任を持つ少数の補佐官に支援される長官が置かれる。 しかし、議会は超省庁の設置を認めなかった。 1972年に再選を果たした後、ニクソンは独断で閣僚の関係を再編し、超長官を設置した。 国内政策会議の長を務めるホワイト・ハウス補佐官のジョン・アーリックマンが国内政策の形成を担当した。 ニクソンは反官僚制度の中核として国内政策会議を利用した。 国内政策会議はニクソン政権の1期目の終わりまでに60人以上の職員を抱えるようになった。 国内政策会議は、閣僚とともに政策の調整を図る機関というよりは閣僚を通さずに直接に省庁の職員と協働して政策を形成する機関であった。 政策形成を主導する権限は閣僚からホワイト・ハウス補佐官に移った。 アッシュ審議会の提言で改変された予算局によって国内政策に対する大統領の影響力が強化された。 1970年7月1日の大統領令によって、行政管理予算局に改組された予算局には、局長と上級職員の間に大統領が任命する局長補佐が監督役として置かれた。 ニクソンは局長をホワイト・ハウス西棟の事務所に移し、毎朝、ホワイト・ハウスの職員の会合を主宰させた。 結果的に、予算局は行政の管理においてさらなる責任を負うとともにより一層大統領に対して責任を負うようになった。 1971年の終わりまでに行政管理予算局の職員は50人から150人に増員された。 報道関係 1969年、大統領のための広報機関としてホワイト・ハウス広報局が設立された。 ニクソンは1968年の大統領選挙で大統領の報道におけるイメージを統制するためにホワイト・ハウス広報局を設立した。 ニクソンの再選後、ホワイト・ハウス広報局は行政府から提供される情報をすべて監督する機関になり、大統領のイメージだけではなく公共政策に関する報道の取り扱いに職掌を広げた。 大統領がワシントンの外に旅行した場合の地元の報道の調整、ワシントン外の記者との昼食会の調整、大統領の露出に関してすべての形態の報道に関する技術的専門知識を提供することに責任を負った。 さらに政策に関する新聞発表やその他の背景知識を公表する。 報道の監視はニクソン政権において顕著であった。 政権初期、ホワイト・ハウスの職員は、大統領が報道でどのように扱われているか評価する仕組みを考案した。 そうした内密の仕組みの目的は、どの記者が政権に対して友好的であるか、もしくは敵対的であるのか判別することであった。 特にテレビのコメンテーターはホワイト・ハウスの関心の的であり、「概して我々に友好的、概して客観的、概して我々に敵対的」という3つの基準で判別された。 ホワイト・ハウスの記者証を得るためにシークレット・サーヴィスに提出されたファイルを使ってコメンテーターの個人情報まで調べられた。 1970年代半ばまでにホワイト・ハウスの職員は、テレビ、ラジオ、新聞の200人以上の記者に関する調査をまとめ、「政権に友好的、概して好意的、中間、予測不可能、概して否定的、常に敵対的」の6つの基準に従って分類した。 友好的な記者はホワイト・ハウスから優遇された。 情報源を伏せる約束で大統領が政策や声明などの舞台裏を記者に知らせる背景説明会や特別招待などが行われた。 さらにニクソン政権は、毎日のニュースの概要をまとめる仕組みを初めて作った。 ニュースの概要では、50以上の新聞、30以上の雑誌、そして2つの通信社からニュース、社説、コラムなどに含まれる思想や意見が集められた。 ニクソン政権はニュースの概要を提供するように求める多くの要請を受けたが、大統領とホワイト・ハウスの職員のために準備された内部文書であるという理由ですべての要請は拒否された。 ニュースの概要の目的は、報道を通じて国民の意見や見解を知ることであった。 議会関係 大統領府の拡大によって、大統領が公共政策を完全に管理できたわけではない。 反抗的な官僚とその議会での同盟者は、行政権を完全に把握しようとするニクソンの試みに抵抗することができた。 1968年の選挙の2週間前、元大統領のアイゼンハワーは共和党が選挙で勝利することにより、ニクソンに強い国民の信任が与えられ、議会で共和党が多数派を占めることを期待していた。 さらにアイゼンハワーはその結果、ニクソンが連邦政府の権力構造を変え、州と地元当局により多くの責任を負わせるようにすることを期待していた。 しかし、1972年の大統領選挙におけるニクソンの地滑り的な勝利にも拘わらず、共和党は上下両院でも各州の議会でも影響力を失い続けた。 議会を主導する指導者になるために必要な議会の支持を欠いていたニクソンは管理大統領制度をさらに進めることにした。 2期目の初期にニクソンは官僚制度の再編に乗り出した。 人員を大規模に変更し、大統領に忠誠を誓った者を省庁に送り込み、官僚制度を主導するリーダーシップをすべての政策を実行する4人の長官から構成される「超閣僚」に統合した。 「超長官」の1人がキッシンジャーであり、国家安全保障問題担当補佐官に在職しながら国務長官も務めた。 ニクソンに直属する形でキッシンジャーは非公式に、そして公式にも外交政策の形成に責任を担うようになった。 ニクソンの大統領の権限の領域を拡大しようとする試みと政策目標を単独で達成しようとする試みは、前例のない権力の簒奪だと見なされ、最終的に1974年にニクソンを辞任に追いやったウォーターゲート事件の原因となった。 大統領個人の選挙運動組織である大統領再選委員会の問題性、特に民主党全国委員会の事務所の電話を盗聴する試みと、それに引き続く大統領と側近による侵入計画を隠匿しようとする試みはニクソン政権に致命的な打撃を与えた。 ニクソンの選挙運動における政党組織からの大統領再選委員会の独立性は、全国委員会の責任に対する大統領の優越性を示していた。 歴史家は、政治的秩序を保つためには大統領の首位権が必要であったが、それは大統領の至上権に変わったと指摘する。 そして、立憲的大統領制度は「帝王的大統領制度」に変化したと非難する。 しかし、近代的大統領制度は決して帝王的ではなかった。 近代的大統領制度の権力の源泉は、議会、官僚制度、そして裁判所が行政府に責任を委託した同意に依存している。 ジョンソンが退任するまで、政治的状況は強力な大統領のリーダーシップの支えとはあまりならなかった。 ニクソンは大統領と議会、政党、そしてアメリカ国民を結び付ける絆をさらに弱めることで大統領の単独的な権限の行使に対する反感を強めた。 それ以上にニクソンと議会の悪化した関係はニクソンの凋落をもたらした。 議会からニュー・フェデラリズムやヴェトナム政策に対する支持を得られなかったことで、ニクソンは大統領の権限を広義に解釈して自らの政策を推進しようとしたが、それは議会との関係を悪化させただけであった。 最高司令官としてカンボジアを爆撃し、侵略する権限をニクソンは行使したが、それは議会の強い反対を引き起こした。 議会は1974年通商法にジャクソン=ヴァニク修正条項を加えることでニクソンの対ソ連外交に制限を課した。 ジャクソン=ヴァニク修正条項は、イスラエルへの移住を希望するユダヤ系市民に対する出国制限を解除しない限り、ソ連に最恵国待遇を与えないという規定である。 ソ連は修正条項を内政干渉と非難し、アメリカとの通商条約を廃棄した。 ニクソンは議会によって割り当てられた予算を執行留保する権限を全面的に行使した。 予算の執行留保は大統領の伝統的な権限であった。 1941年、フランクリン・ルーズベルトは戦争遂行上の理由から公共施設建設に指定された予算の執行を拒んだ。 リンドン・ジョンソンもインフレの抑制のために50億ドルにのぼる予算の執行を延期した。 ニクソンの予算の執行留保は、従来のように経済性、もしくは効率性の問題に対処するために使われたのではなく、民主党が支配する議会が法制化した政策を無視するために使われた。 ニクソンは予算を審議する議会の権限に挑戦した。 行政予算管理局の副局長であるキャスパー・ワインバーガー Casper Weinberger は、上院で議会は予算を割り当てる権限を持っているが、それは自由裁量の余地があり本質的に強制的なものではないと主張した。 ニクソンは反対する政策を悉く挫折させるために予算の執行留保を行使した。 例えば、ジョンソンの貧困に対する戦いの基盤であり偉大なる社会の象徴である経済機会局は予算の執行を留保された。 議会は経済機会局を存続させるために予算を割り当てたが、ニクソンはハワード・フィリップス Howard Phillips 臨時局長に解散命令を出させた。 同時にニクソンは、上院によって指名が拒否されると分かっていたのでフィリップスを局長に指名することを拒んだ。 ニクソン政権の経済機会局に対する攻撃は政策的な予算の執行留保であり、議会によって可決された法を無視するものであった。 したがって、ウォーターゲート事件があってもなくてもニクソンと議会の間には戦いがあった。 議会が大統領を罷免するという異常な措置をとろうとしたのは、ニクソンが議会の支持を得ることに失敗し、繰り返し議会を出し抜こうとしたことに一部の原因がある。 ウォーターゲート事件 1974年8月9日にニクソンが辞任せざるを得なくなったウォーターゲート事件は、不信と失望に満ちた政治的状況を生み出し、政府が基盤とすべき公的信用が損なわれた。 民主党全国委員会への侵入は「鉛管工」と呼ばれるホワイト・ハウスの秘密の諜報団の構成員である5人によって行われた。 鉛管工はもともとニクソン政権のヴェトナム政策を損ねる情報漏洩を防ぐために組織された。 しかしながら1972年、鉛管工の活動はニクソンの選挙運動と関連する情報収集に拡大された。 6月17日、民主党の電話から盗聴を行おうとしていた5人の男が民主党全国委員会があるウォーターゲート・ホテルで逮捕された。 ウォーターゲート事件をただの侵入事件以上の事件にしたのは、その近代的大統領制度との緊密な関連性である。 ニクソンと側近によって認可された不当行為は大統領を孤立させる傾向を加速させた。 大統領はホワイト・ハウスから政府を運営する自信を持つようになり、政治的資本を少数の忠誠を誓った者のみに分け与えるようになった。 ジョン・ミッチェルと数人のホワイト・ハウス補佐官が加わっていた侵入計画とその他の政治的工作、そして、ウォーターゲート事件で逮捕者が出た後の大統領やその他の者による連邦捜査局の捜査と司法省の告発に対する介入は近代的大統領制度の行政権の正道を踏み外した濫用であった。 そうした多くの権限は戦時に由来するものだが、ニクソン政権の擁護手段は、危機的な世界の中でアメリカの安全保障が脅かされていると主張することであった。 ニクソンは、ホワイト・ハウスのテープ記録を提出するように大統領に求める召喚令状を出したアーチボルド・コックス特別検察官を罷免する決定を、コックスの攻撃的な調査を黙認することは、ソ連の指導者やその他の外国の指導者に大統領が弱い立場であるように思わせてしまうと論じて正当化した。 ニクソンは絶対的な行政特権に基づいて、1973年10月20日、コックスを罷免した。 それは「土曜日の夜の虐殺」と呼ばれた。 ニクソンはコックスを罷免するように司法長官に求めた。 司法長官はニクソンの要請に従わず辞任した。 さらに司法次官補もニクソンの要請に従わなかったために罷免された。 最終的にコックスの罷免は訴訟局長によって行われた。 またニクソンは、上院の調査委員会、ウォーターゲート事件の起訴陪審、そして下院司法委員会の要求に対して行政特権を主張した。 確かにこれまで歴代大統領は行政特権を常に主張してきた。 歴史的に、大統領の秘密の討議や文書は他の府からの検査の対象外とされ、例えば大統領の罷免に比べれば憲法上も特に争点はなかった。 しかし、ニクソンは行政特権には制限がないと主張した最初の大統領になった。 そうすることでニクソンは権力の座に留まるために、自らの政治的利益と正当な国家安全保障上の利益を混同した。 コックスの罷免は抗議の嵐を巻き起こし、ニクソンはレオン・ジャウォルスキーを新たな特別検察官に任命させざるを得なくなった。 ジャウォルスキーには、コックスと同様に、検察官が求める証拠を与えようとしない大統領の試みに対抗するために裁判に訴える特別な権限が与えられた。 1974年4月16日、ジャウォルスキーは、ホワイト・ハウスに関するテープと文書を証拠として提出するようにニクソンに求めた。 ジャウォルスキーは、そうした証拠が、ウォーターゲートの起訴陪審によって合衆国を騙し、司法妨害を行おうと策略した罪で起訴された大統領の関係者を裁くために必要であると考えていた。 またジャウォルスキーはホワイト・ハウスのテープが、ニクソンが最初からウォーターゲート事件に関与していたのか、それとも侵入が行われた後の隠蔽工作に関与したのか、もしくはその両方かを明らかにすると期待していた。 ジャウォルスキーの行動とニクソンの拒絶によって引き起こされた論争は最終的に最高裁によって解決された。 合衆国対ニクソン事件で最高裁は、大統領は絶対的な行政特権、特に特権がいつ適切に適用されるかを決定する排他的権利を持つというニクソンの主張を否定した。 1974年7月24日、最高裁は全会一致で、憲法第2条の大統領権限を刑法の執行に不可欠な召喚令状に対抗する絶対的な行政特権を与えるものとして解釈することは、政府の憲法上の均衡を覆すという判決を下した。 最高裁は、ある種の行政特権は政府を運営するために必要不可欠であり、憲法の下の権力の分立に根差している点についてはニクソンに同意した。 これは最高裁が公式に大統領の行政特権を支持した事例である。 しかし、最高裁は、行政特権は国家安全保障に何の問題も引き起こさないのであれば刑法訴訟に対しても行使し得るというニクソンの主張を斥けた。 その代わりに最高裁は、大統領の権限要求は議会と裁判所の権限と義務と均衡を保たなければならないというロバート・ジャクソン判事の見解を支持した。 ヤングスタウン・シート・アンド・チューブ社対ソーヤー事件の先例に基づいてウォレン・バーガー最高裁長官は、刑事訴訟で使用するために提出するように求められた証拠に関して行政特権を主張する根拠が、機密性という一般的な利益のみに基づいている場合、刑事訴訟の公正な進行において法の適切な手続きの基本的な要求を拒むことはできないと結論付けた。 最高裁の判決に引き続いて下院司法委員会が1974年8月4日にニクソンを弾劾することを決定した直後にニクソン政権は終わりを迎えた。 ニクソンがテープの中にはウォーターゲート事件の隠蔽工作に大統領が関与している内容が含まれていると認めた時に、上院の審判を切り抜けられる見込みはほとんどなくなった。 下院司法委員会の中で大統領を支持する共和党議員でさえ、ニクソンが事実上、司法妨害を告白したと認めた。 8月8日、ニクソンは国民に向けた演説の中で、翌日に辞任する決意を伝えた。 「ウォーターゲート事件の長く困難な時期、私は、耐えること、できる限りあなた方が私を選んだ職務の私の任期をまっとうするように試みることが義務であると感じていた。 しかしながらここ2、3日、私は、そうした試みを続けることを議会で正当化する十分に強い政治的基盤をもはや持っていないということが明らかになった」 ニクソンの任期は個人的破滅として終わった。 さらに悪いことに、ニクソンは大統領制度自体を疑心と嘲笑の対象とした。 既にジョンソン政権期から損なわれつつあったが、ウォーターゲート事件は、アメリカ政治において強力な大統領のリーダーシップが人民の利益を体現するという見解の一致を崩壊させた。 ウォーターゲート事件によって大統領の権威は地に落ちた。 1959年に大統領と議会のどちらが政府において発言力を持っているかと質問すると61パーセントのアメリカ人が、大統領のほうが政治において発言力を持っていると答えた。 議会のほうが政府において発言力を持っていると答えたのは17パーセントであった。 1977年に行われた同様の調査では、58パーセントのアメリカ人が、議会が政府において発言力を持つべきだと答えた。 大統領のほうが政府において発言力を持つべきだと答えた者は26パーセントであった。 大統領権限の抑制 こうした世論の変化に力を得て議会は大統領権限を抑制する一連の法案を可決した。 大統領権限の単独的な行使を制限する最も重要な法は、議会予算及び執行留保統制法である。 同法は大統領に執行留保を行う前に議会の承認を得るように求め、立法府の財政への関与を強化するために上下両院に予算委員会を設立した。 また同法によって、議会予算局が設立され、行政管理予算局が行政府に提供するような財政問題に関する専門知識を議会も利用できるようにした。 さらに議会は行政管理予算局を改変した。 予算局は55年間、純粋に大統領の機関であったが、局長と次長の任命に上院の同意が必要となった。 議会は外交政策に対する影響力も取り戻そうとした。 1972年、議会はケース法を可決した。 同法は、大統領が個人的外交を行う傾向を抑制することを目的とし、外国政府とのすべての行政協定を議会に報告することを求めた。 また1973年6月、議会はケース=チャーチ修正を可決した。 同修正は、東南アジアでのさらなる軍事作戦に対するすべての予算を削減すると規定している。 予算を掌握する議会の権限が大統領の戦争権限を抑制する効果があることが示された。 しかし、ケース=チャーチ修正が成立したのはアメリカ軍がヴェトナムから完全に撤退した後であり実効性は低かった。 さらに議会は1973年11月7日にニクソンの拒否権を覆して戦争権限決議を成立させた。 同決議は、ヴェトナム戦争のような大統領が議会から正式に権限を得ることなく長期にわたって続行させる戦争を再び起こさないようにするために制定された。 議会は、トンキン湾決議によって、大統領に敵の侵略行為を撃退するために必要なすべての措置を取ることを認めていた。 ジョンソンはトンキン湾決議を根拠にしてヴェトナム戦争を泥沼化させ、ニクソンはラオス、カンボジアを秘密裡に侵攻した。 議会は大統領の戦争権限の拡大適用を批判し、何らかの抑制策を講じる必要があると考えた。 議会の同意なしに大統領が軍事介入を行うことを禁じる法案が何度も提出され、その度に大統領の拒否権によって廃案となっていた。 1973年10月、議会は大統領の戦争権限を抑制する決議を可決した。 上院の決議と下院の決議の相違は、宣戦布告が行われない場合に大統領が軍隊を撤退させなければならない日限を前者は30日以内、後者は120日以内とする点にあった。 両院協議会で日限を60日以内とする折衷案が成立した。 ニクソンは、アメリカの危機管理能力を損なうとして決議に拒否権を行使した。 しかし、議会は決議をニクソンの拒否権を覆して再可決した。 戦争権限決議は、最高司令官として大統領が軍隊を投入する憲法上の権限は、宣戦布告、特定の法による授権、あるいは合衆国の領土や軍隊に対する攻撃によって生じた国家非常事態でのみ行使できると限定した。 大統領は、軍隊を投入する場合、事前に議会とできる限り相談し、軍隊を撤退させるまで議会と定期的に協議しなければならない。 補給、補充、修理、または訓練で展開させる場合を除き、軍隊を外国で展開するか、既に外国に配置されている軍隊を著しく増強する場合は、いかなる場合でも議会に、軍隊投入を必要とする状況、その憲法上、法律上の根拠、そして軍事行動の規模及び期間の予測に関する報告を48時間以内に提出するように大統領に求めた。 また同法は、もし議会が宣戦布告を行う場合、軍隊の展開を続行する権限を認める場合、あるいは議会が武力攻撃によって開会できなくなった場合を除いて、60日以内に、もしくは撤退の安全を確保するために大統領が延長の必要性を書面で議会に立証した場合、90日以内に軍隊を撤退させることを求めた。 それにも拘わらず、合衆国の領土内、外国で宣戦布告、あるいは特別の法による授権なしに戦闘行為に投入されている軍隊があった場合、議会の同時決議によって軍隊は撤退させられる。 ニクソンは同決議が、違憲であるだけではなく、国際的な危機に対応する国家の能力を損なうと主張して強く反対した。 しかし、大統領による海外派兵は戦争権限決議が成立した後も、宣戦布告なき戦争として以前と変わらない頻度で行われた。 軍隊をいつどこに派遣するか決定する権限は相変わらず大統領の手中にあった。 しかし、こうした決議は近代的大統領制度を厳しく規制するものではなかった。 人民の世話役としての大統領制度は、分断された政府と多様な政治的関係という現実を受け入れるために立法府と行政府の協調体制に取って代わられた。 議会は国家を統治するうえで大統領と対等の提携者としての地位を取り戻そうとした。 議会の議事進行はより積極的な議会を生み出すために改定された。 20世紀初頭以来、議会の権限は分散化していた。 常設委員会の権限は急速にその数を増した小委員会に移っていた。 小委員会の勃興は、立法と行政における近代的大統領の優位性に対する挑戦であった。 小委員会を通して新しい計画が発案され、古い計画が改訂されるようになり、大統領の立法者の長としての地位が脅かされた。 議会は大統領に何かをすることを命じる曖昧な法を可決する必要はなくなった。 今や議会は大統領の計画に対抗して詳細な法を作ることができるようになった。 そして、小委員会は行政官が法の条文のみならず法の精神にまで注意を及ぼすように監督するために公聴会を開いた。 結語 ニクソンの辞任の本当の悲劇は、国家が大統領のリーダーシップを必要としている時に行われた国際的、国内的業績が覆い隠されてしまったことである。 ニクソンは積極的な国内政策の推進者であったが、活気の無いイメージと個人的な短所によって、政治制度が求めていたような国を癒す能力には恵まれていなかった。 しかし、ニクソンは、増大する社会保障給付を確保し、大部分の共和党員とは違って、失業者、インフレ、投資の不足を補うために財政赤字を擁護した。

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リチャード・ニクソン暗殺を企てた男

リチャード ニクソン

概要 [ ] リチャード・ミルハウス・ニクソンはアメリカのオレンジ・カウンティ(オレンジ郡)に生まれ、卒業後はとして活躍し、にの政治家に転身。 とを経て、に政権で第36代に就任し、ではに敗れたが、で当選して第37代に就任した。 外交ではからのの完全撤退を実現し、当時東西対立の時代にあってとの(緊張緩和)を実現し、世界があっと驚いたの訪問など積極的なニクソン外交を展開した。 また国内経済が高い失業率・インフレ・不況とドルの信認低下の状況の中で突然ドルの金交換停止・輸入課徴金制導入・物価賃金凍結などの思い切った政策転換を発表 して、ドルの切り下げをアメリカの強いリーダーシップで実施し新しい国際通貨体制の確立に尽力した。 しかし、大統領再選を目指した1972年にを起こし、再選後のに大統領辞任に追い込まれて任期中に辞職した唯一のアメリカ合衆国大統領となった。 生い立ち [ ] 幼少時代 [ ] 幼少時のニクソン(右から2番目) リチャード・ミルハウス・ニクソンは1月9日に南部、近郊のにて父フランシス・ニクソンと、裕福な家の出身で熱心な教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)の間に5人兄弟の次男として生まれる。 父も母もアイルランドの家系である。 父は結婚前はメソジスト教徒で 、にさほど熱心ではなかったが 、母はクエーカー教徒で、父は結婚後にクエーカー教徒に改宗した。 母はクエーカー教徒の中でも保守的なで厳格な躾を子どもたちに行った。 一家は東部から西部へ転々として父は大工から農夫、トロリーバスの運転手と職を変え、住所を変えながらやがて、に母の実家の近くのに引っ越し、雑貨屋兼八百屋兼スタンドを始める。 リチャードが生まれる頃はウィッティアに落ち着く前のでレモン農園を経営して失敗していた。 ニクソンは回顧録などで幼少期を振り返って「貧しかったが幸せだった」と語っているが、ウィッティアでは父の店の経営は軌道に乗り、しかも母の実家が裕福であったことから、やを習う余裕もあるなど、当時のアメリカの平均的な家庭と比べて決して貧しいものではなかった。 しかしやがて長男と四男の病気が一家の家計に重くのしかかり、父は店の土地半分を売らなければならなくなる。 10歳の時にはジャガイモの選別、野菜の配達、ガソリンスタンドのポンプ押しをして、やがて店の野菜主任そして経理主任をこなすようになった。 青年時代 [ ] 四男のアーサーと長男のハロルドが相次いで小児を患い医療費がかさんだこともあり、ニクソンは早起きして登校前にをこなして家計を助けた。 だが二人とも早世しニクソンは「神の存在を疑った」という。 しかし学校では学外活動にも熱心で、放課後にはの練習に励み、万年補欠ながらガッツは人一倍であった。 また、弁舌の才能を発揮し、弁論大会でも好成績を収めている。 地元のウィッティア高校卒業後にハーバード大学から奨学生(tuition granted)としてのオファーを受けるが、兄弟の病などもあり地元を離れることは難しく、母方の祖父の援助を得て地元の ()(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学し、に2番目の成績で卒業した。 そして卒業後にに進んだ。 この法科大学は南部の石油成金の億万長者が基金を寄贈し、将来有望な学生を養成するための奨学金制度を設立して全米から貧しいが優秀な大学生を募集した法律専門大学で、ニクソンは成績抜群でこの奨学金を得ている。 弁護士 [ ] デューク大学法学大学院を3番目の成績でに卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。 そしての大手事務所への就職を希望し、サリバン・エンド・コムウェル・オフィスを受験したが東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめた。 この時この事務所には当時有名な法律家であったがいて彼は16年後には、ニクソンが副大統領を務めたアイゼンハワー政権の国務長官となった。 またもう一つ大学の推薦で連邦捜査局FBIの試験を受けたが返事がなく、諦めてカリフォルニアに戻った。 16年後に部下となったFBI長官に副大統領となったニクソンが問いただしたところ、一度は採用が決まったものの、予算削減で急遽取りやめになったということであった。 この後にフーバー長官とは親密な関係を築くこととなる。 カリフォルニアに戻ったニクソンは地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職し、やがてには自らの弁護士事務所を開業した。 そして弁護士として活動中のに、演劇サークルで知り合った出身の(愛称パット)とした。 結婚後の12月に、によるでアメリカが対日参戦した時に、首都ワシントンの連邦物価統制局に就職して、リチャードとパットはに居を移すこととなった。 アメリカ海軍時代 [ ] アメリカ海軍時代のニクソン少佐 1941年12月にアメリカも参戦したの太平洋戦線では、アメリカ軍は真珠湾攻撃で太平洋艦隊が手痛い損失を受けた上に、ニクソンの地元のカリフォルニア州南部にを受けたほか、を受けるなど各地で日本軍に対し劣勢に立たされていた。 そのような状況下で、6月にニクソンは募集に応募してに入隊した。 海軍への入隊後には海軍士官としての通常の訓練を受けたものの、のみならず弁護士資格を持つことや、物価統制局での勤務経験があることから一般の戦闘要員とはならず補給士官に任命された。 入隊後はしばらくアメリカ国内のアイオワ州の基地で勤務した後に、5月より日本軍と死闘が繰り広げられていた戦線のに配属された。 やがて戦線の移動とともに領などへ転属され、主に戦線へ軍需物資を補給する補給士官として前線にほど近い戦場で兵站業務に就いた。 7月にはの前線より国内に帰還してカリフォルニア州アラメダの海軍航空基地に勤務し、その後1月にはアメリカ東部のフィラデルフィアの基地への移転を命じられ、そこで5月のドイツ降伏、8月の日本降伏で終戦を迎えた。 この海軍勤務時代に後にニクソン政権のとなるウィリアム・P・ロジャーズと知り合っている。 また海軍にいる間にを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。 政治家へ [ ] 弁護士 [ ] 第二次世界大戦の終結に伴い、少佐で海軍除隊後に社のになり、の世界進出に協力。 「アメリカの産業を保護する」という大義名分のもとに各国の炭酸市場での販路拡大活動に活躍し、さらに国際的な弁護士の看板はやで人脈を築くのにも役立った。 しかしこの仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。 下院議員 [ ] 上院議員選挙時のニクソン そしてに母校であるウィッティア大学の総長や、母の知人のウィッティア支店長ら地元有力者からの推薦を受け、地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から候補として立候補した。 このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、選出で、をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴアリスを破りに選出された。 同じ年の選挙でで民主党から立候補したも初当選し、この2人は南太平洋地域で従軍したアメリカ海軍の退役軍人出身という共通の経歴から、議員活動では友好関係を築いた。 下院議員となったニクソンはのメンバーとなり、ウィリアム・P・ロジャーズなどの協力を受けて、東西でソ連との緊張激化の中で当時「赤狩り」旋風を巻き起こしていた共和党上院議員とともに、元共産党員でソ連にアメリカの機密情報を流したとされたトルーマン政権の高官について、当初事実無根というヒスの証言を受けて他の議員が追及しなかった中で唯一人追及の手を緩めず、ついに偽証罪に追い込んだことで「反共の闘士」として彼の名が全米に知れ渡った。 上院議員 [ ] に議員選挙に立候補して、民主党の対立候補で女優である ()と議席を争った。 この選挙では地元の開発に反対するダグラスのな言動が有権者に嫌われ、また選挙の活動期間中にが勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出された。 しかし、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引くこととなった。 夫がとして有名であったが自らは「リベラル派」との評価を受けていたダグラス に対してニクソンは「共産主義者」のレッテルを貼った。 そのことが多くの左派リベラル派のの反感を呼び、後の副大統領候補として立った際に執拗な攻撃を受ける要因となった。 彼にとってはリベラル派も共産主義であり、対立候補をことごとく「共産主義者」のレッテルを貼って攻撃する戦略をとったため、民主党は「トリッキー・ディック」と呼んで反駁した。 1952年アメリカ合衆国大統領選挙 [ ] しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、において、わずか39歳での副大統領候補に指名された。 この年の大統領選挙での顕著な出来事の1つは、当時一般家庭に普及が進んでいたが大統領選挙に大きな影響力を持っていることが明らかになったことである。 その最初の例がニクソンが行ったテレビ演説であった。 「チェッカーズ・スピーチ」 [ ] 詳細は「」を参照 副大統領候補に指名される前からニクソンは、彼に金銭的余裕が無いことを知った地元の有志たちが作った支援基金団体から政治活動資金の援助を受けていた。 民主党大統領候補のも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、共和党に批判的であったタブロイド大衆紙紙は、共和党全国大会で副大統領候補に指名されて大統領選挙の本選に入った1952年9月18日に、このニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し 、さらに「2万ドルを受け取った」、「物品の提供も受けた」と伝えた。 さらに元々共和党支持の「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙までがその社説で「ニクソンは辞表を提出すべきである」と主張した。 その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選挙に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた。 これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員を辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否し、テレビで自ら潔白であることを訴える演説を行うこととした。 1952年9月23日夜にその模様は全米にテレビ中継された。 この演説の冒頭にニクソンは「今夜私は皆さんの前に、米国の副大統領候補として、またその正直さと誠実さを問われている一人の人間として立っています」と述べて、ニクソン家のありとあらゆる私財リストをさらけ出した。 「カリフォルニアの両親が住んでいた家が3千ドルで借金1万ドル、ワシントンの自宅が2万ドルでそのまま借金2万ドル、生命保険が4千ドルで借金5百ドル、株と社債はゼロ、ワシントンの銀行からの借金が4千5百ドル、両親から借りた金が3千5百ドル……」自分の個人資産の詳細を事細かく説明して、いかに質素な生活をしているかを訴えた。 逆にトルーマン政権の閣僚の妻達の中には「院外活動をする人々から高価なのを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」と言ってトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、「以上が私たちの財産と負債の全てです。 問題の1万8千ドルは私たちのためには使っていません」として支援基金団体から提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。 そして「物品の提供を受けたことはない。 しかし例外がある。 娘二人がを飼いたいと言っていたことを耳にしたの支援者からをもらった。 けれど6歳の長女トリシアが『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはありません」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた。 この放送は、その後「 ()」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払拭し、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。 さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補として留めることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補として留まることになった。 しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった。 しかし最初テレビによって救われたニクソンだが、その後はテレビに躓き、最後までテレビに苦しむ政治家となった。 副大統領 [ ] の大統領とともに このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは大統領選挙の本選挙で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとのコンビを破り、ニクソンはにアイゼンハワー政権の副大統領となった。 副大統領に就任したニクソンは初の外国への公式訪問として、アメリカに隣接し関係の深いやをはじめとする諸国を訪問した。 ベネズエラの首都のを訪問した際に反米デモが起こり、暴徒化して地元の警察でさえコントロールできなくなった状況でニクソンのデモ隊に対する沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。 またその後も諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のへの訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った。 同年の10月5日から12月14日にかけて ・・などの北東アジアから・・・などの東南アジア、・・などの西アジア、・などのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。 この時に11月15日に戦後初のとして来日し、日米協会の歓迎会の席で「アメリカが日本の新憲法に非武装化を盛り込んだのは誤りであった」と述べている。 また、これより前に1954年4月16日の全米新聞編集者協会の年次大会で「万一インドシナが共産主義者の手に落ちれば全アジアが失われる。 アメリカは赤色中国 レッドチャイナ や朝鮮の教訓を忘れてはならない」と述べた。 当時の有力政治週刊誌は活動に熱心な政治家の一人としてニクソンをあげて、1950年の上院議員選挙の際にのから資金の援助があったという噂を書いている。 1954年にディエンビエンフーでフランス軍が敗北した際には「フランスが撤退すればアメリカが肩代わりをする」としてインドシナ出兵論を唱えた。 同じ年に中華人民共和国が中華民国の金門・馬祖両島に爆撃をした時は、への軍事的対抗を主張した。 なおベトナムからのアメリカ軍撤退と中華人民共和国訪問を自ら実現するのはこれからほぼ20年後のことである。 そしてこの当時中華人民共和国に結びつこうとしたインドを牽制して、対立するパキスタンに軍事援助を与えた インドを訪問した時にネール首相と会談したが、ネールはニクソンを「原則の無い若者」として侮蔑の言葉で呼び捨てた。 下院議員時代に「赤狩りニクソン」のニックネームで呼ばれ、副大統領になってもその反共主義は変わらなかった。 そしてやがて東西対立がまだ厳しい中でソ連を公式訪問してフルシチョフ首相とやりあうこととなった。 「台所論争」 [ ] ソ連のフルシチョフ首相と「台所論争」を行うニクソン副大統領 には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、の首都であるを初めて公式訪問した。 これは当時のフルシチョフ政権下におけるいわゆる「雪融け」()にともなう緊張緩和(一時的なものではあったが)などが背景にある。 このニクソンのソ連訪問の折にフルシチョフをアメリカに招待し、そのまた返礼でアイゼンハワー大統領のソ連訪問を実現するためのものであった。 この年の初め1月にニューヨークで「ソビエト博」が開催されて、出品された展示品は当時のソ連が誇るなどの軍事兵器を主力としたもので、対してモスクワでの「アメリカ博」の展示品はアメリカ生活文化の粋を集めたものであった。 この時モスクワのソコルニキ公園で開催されたアメリカ博覧会の開会式は、ソ連の首相を招いて行われた。 ニキータ・フルシチョフ首相を会場内を案内している時に、ニクソンとフルシチョフの間で、会場内に展示してあるアメリカ製の台所用品や日用品・電化製品を前にして、アメリカにおけるの普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の「」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、とのそれぞれの長所と短所について討論となった。 この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙及び軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。 その討論内容は冷戦下のアメリカ国民のみならず自由主義陣営諸国の国民に強い印象を残し、当時は米ソ間の「台所論争」 として有名になった。 アイゼンハワーとの関係 [ ] 妻のパットとともに長女のトリシアと次女のジュリー 腕に抱えて をアイゼンハワーに紹介するニクソン 1952年9月10日にワシントン国際空港にて アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、3月にスティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役をこなし、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。 しかしながらアイゼンハワー大統領がの心臓発作、6月の回腸炎に伴う入院、また11月の心臓発作の際に3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督した。 これは通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。 そして1956年の大統領選挙の時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知った共和党全国委員長レン・ホールらによって、この指示が取り消されたということもあった。 さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれた時「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。 これらのアイゼンハワーによる冷遇を薄々感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった。 また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しい出身のパットのことを陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている。 しかしニクソンが大統領に就任した1968年に娘のジュリーがアイゼンハワーの孫のデーヴィッド・アイゼンハワーと結婚するなど、アイゼンハワー家との関係はその後改善されただけでなく、より密接なものとなっていく。 1960年アメリカ合衆国大統領選挙 [ ] 選挙中にニューヨークで歓迎を受けるニクソン アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、憲法により三選が禁じられているため 、共和党は1960年の大統領選挙で新しい候補者が立つこととなった。 そして副大統領であったニクソンは予備選挙に出馬することとなった。 に行われた共和党予備選挙は共和党中道左派の指導者で、で大富豪のが立候補の構えを見せたが、離婚歴があってこの当時では大きな不利となり、共和党の大半がニクソンを支持している情勢に、立候補を断念すると表明して、有力対抗馬ロックフェラーの撤退でニクソンは共和党の大統領候補指名争いで有利な戦いとなった。 7月にで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員が10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。 その共和党大統領候補指名受諾演説でニクソンは選挙期間中に50州全てを遊説することを明らかにした。 本選 [ ] 大統領選挙の本選挙に入る時にニクソンが立てた選挙戦略は、前半はペースを上げず、あまり早い段階で盛り上げることはせず、後半のある時期から一気に選挙運動のムードとペースを変えて、特に投票日の3週間前からはテレビと広告を使って盛り上げていき、そしてアイゼンハワー大統領の応援も最終段階に入ってから行うというものであった。 前半から盛り上げていくと必ずどこかで中だるみがあり、最初は緩いペースからでいく予定であった。 しかし9月に入ってからの序盤に突然体調を崩し、治療のため2週間入院したことで選挙日程が大幅に狂い、これが選挙運動全体に影響することになった。 一方ケネディ陣営は最初から一気に盛り上げていく作戦で積極的に選挙運動を展開する間、ニクソンは病院のベッドにいた。 ある人は余裕と見ていたが、8月時点での世論調査の支持率はニクソン53%、ケネディ47%であった。 テレビ討論 [ ] ケネディとのテレビ討論 そして退院後すぐに行われたのがテレビ討論会である。 序盤には支持率で完全に優勢であったニクソンは、この時病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず「議論の内容が重要である」としてその勢いを保ったまま、得意の外交政策などで論戦してケネディに勝つ作戦であった。 しかし後に「ニクソンが接戦に追い込まれ敗北した最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」とされている。 そのテレビ討論会は1960年9月26日に第1回が開かれた。 この討論会は全米で約7,000万人がテレビかラジオで視聴した。 白黒テレビに映えるように黒っぽいスーツを着こなし健康的に見えたケネディに対して、グレーのスーツを着て病み上がりの顔のニクソンは視覚的には最初から不利であった。 当時はまだ白黒テレビの時代で多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用し、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。 一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが白黒テレビを意識して選んだスーツを身に付け、若く健康的に見えた。 討論をで聞いた人々は「討論の内容でニクソンが勝った」と考えたが、テレビで見た人々の印象はそれとは違っていた。 後にケネディ陣営はこのテレビ討論会は引き分けであったとしたが、ニクソンと互角であったということで十分な成果であった。 結果的には討論内容には劣るものの、テレビ的な見栄えでケネディが勝ったとされる。 なおこのテレビでの討論会は合計4回行われた。 そしてニクソンの誤算は共和党で指名を受けた時に50州全てを遊説すると述べたことで、病気のために休まざるを得なかったため選挙日程が狂い、選挙戦の一番大事な終盤に選挙人の多い重要な接戦州を回れず、遠いハワイ州やアラスカ州などを回らざるを得なかったことである。 ケネディはその間に多くの接戦州を重点的に遊説して最後の逆転につながった。 最終的に投票総数ではケネディとは僅差でありながら、獲得した選挙人数では303対219と差をつけられた。 ケネディの選挙不正への対応 [ ] この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のから紹介してもらったシナトラの元恋人ジュディス・キャンベルを経由して、シカゴのの大ボス、を紹介してもらいにおける選挙への協力を直接要請した他、当時シナトラとマフィアの関係に注目し捜査を行っていたの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている。 さらに時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係から、東海岸やシカゴ一帯のマフィアと関係の深いケネディの父も、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い・非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている。 これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正 に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、ニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去 がある証拠をケネディ陣営がつかんでいたものの「切り札」として公開しなかったこともあり、「やぶ蛇になることを恐れ告発に踏み切れなかった」ことと、アイゼンハワーから「選挙結果が出てから告発を行い、泥仕合になり大統領が決まらないままになると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている。 敗北 [ ] アイゼンハワーからの説得を受けてケネディ陣営に対する告発を取りやめたニクソンは、最終的に得票率差がわずか0. 2パーセント(ケネディ49. 勝った州はケネディ24州、ニクソン26州。 しかし獲得した選挙人数は全選挙人数537人でケネディは303人獲得しており、ニクソンは選挙人219人の獲得に終わり、ケネディの選挙人の多い州を重点に回る選挙戦略の成果であったとも言われている が、やがてケネディの不正が明らかになった。 なおケネディは民主党党員ではあるものの、前記のように友好的な関係を築いていたこともあり、ニクソンがアイゼンハワー政権の副大統領候補者に選ばれた時、ニクソンを祝う一番の友人のうちの1人だった。 不遇時代 [ ] 弁護士活動再開 [ ] 詳細は「」を参照 大統領選挙落選から2年後のには政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷である選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のに大差で敗れ落選した。 選挙翌日のにのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見で失意のニクソンは、詰め掛けたの記者団を痛烈に批判したあげく「諸君がニクソンを虐めるのはこれで終わりだ。 Because, gentlemen, this is my last press conference. ")」と口走る始末であった。 そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることが無いであろう」と評した。 しかしその後も社の弁護士として世界各国を訪れる。 その傍ら1964年4月9日にを来日、同年4月10日に首相(当時)とで会談 、駐日大使で学者のに対して、アメリカによる中国共産党政府()の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた。 ニクソンが野に下っている間にアメリカは、ケネディ政権下でへの「アメリカ軍軍事顧問団」の派遣と大量の武器供与が行われたことにより本格的な軍事介入を始め、その後を継いだジョンソン政権下で正規軍の地上部隊を投入し北爆を初めて軍事介入が本格化した。 このをめぐり国内の世論は分裂し、を中心とした若者の反戦運動が過激化するなど混乱状態に陥った。 そして1964年大統領選挙で共和党は超保守派のゴールドウオーター上院議員を大統領候補に立てて惨敗し、党内の体制の立て直しが急務となったことでニクソンは各州を回って地道な党活動を行い、1966年の中間選挙で上下両院とも共和党が圧勝して、ニクソンは党内での自己の地盤を強化し1968年の大統領選挙の布石となった。 1968年アメリカ合衆国大統領選挙 [ ] ジョンソン大統領夫妻とアグニューとともに(1968年) 共和党の予備選挙ではの知事、の知事、の知事などと争い終始リードを保ち、選挙戦を有利に進めて8月5日から8日にかけてのマイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回目の投票で候補者に指名され復活を遂げた。 副大統領候補にはのを選んだ。 一方民主党は当初大統領が再選を目指すはずであったが、ユージーン・マッカーシー上院議員がベトナム戦争反対をスローガンに予備選挙に出馬し、その予備選の直前のベトナムでのテト攻勢で国内世論の流れが変わり、最初のでのマッカーシーの予想外の善戦で、急遽ロバート・ケネディ上院議員が出馬宣言をし、窮地に立たされたジョンソン大統領は3月31日にベトナム政策の大幅な変更と大統領選挙不出馬を宣言して、以後ケネディ上院議員が予備選の本命候補に浮かび上がった。 しかし、ケネディ上院議員は最後のカリフォルニア州予備選挙で勝利宣言した直後に暗殺され、その後マッカーシー上院議員ではなく、予備選挙に出ていなかった副大統領が本命視されるようになった。 そして同年8月26日から29日にかけてで行われた党大会で、ジョンソン大統領のベトナム政策に反対するデモ隊が押しかけ、リチャード・J・デイリー市長が動員したと衝突し、流血の事態となり600人以上の逮捕者を出すなど大混乱に陥った。 最終的に民主党はハンフリーを大統領候補に選んだが、この衝突の模様が全米にテレビで流され、民主党は大統領選挙で回復不可能なほどの大きな不利を受けることとなった。 選挙戦 [ ] 1968年アメリカ合衆国大統領選挙の時のニクソン 選挙戦では前回の轍を踏まず早い時期から選挙運動を開始し、やベトナム反戦運動が過激化したことに対して「法と秩序の回復」を訴えた。 さらに民主党のケネディ政権が始めジョンソン政権で拡大の一途を辿ったベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」と語った。 対する民主党の大統領候補のハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関してジョンソン政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。 なお他に第三党の候補者として、民主党の前知事で、を支持する綱領を掲げるが立候補した。 ウォレスはへの無差別爆撃の継続を訴えるを副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナムに対しての強硬な政策の実施を主張した。 ハンフリーは選挙戦が進むにつれニクソンに肉薄し、最終盤では世論調査の支持率で逆転するなど接戦となった。 結果は一般投票でニクソンは3,178万3,783票 得票率43,4% で、ハンフリーの3,127万1,839票 得票率42,7% 両候補者の得票率の差が0. 7%と、まれに見る接戦をニクソンが制して、第37代アメリカ合衆国大統領に就任する。 第37代アメリカ合衆国大統領 [ ] ニクソン大統領とアグニュー副大統領 ニクソンは1969年に大統領に就任した。 大統領就任当時はベトナム戦争に対する反戦運動が過激化しており、学生を中心とした過激な「反戦運動」を嫌う多数派と保守層が、ニクソンの掲げた「法と秩序」のキャッチフレーズを支持した上、ジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争からの早期撤退を公約したことで、戦争終結を求める反戦志向の無党派の票も獲得した。 就任後はを遠ざけ、官僚排除、、秘密主義外交を主とする主導の積極的な外交を展開し、と共に、ベトナム戦争からのアメリカ軍の撤退を図り、戦後続いたアメリカによる自由世界の警察官としての役割でなく、経済成長が著しい日本や西欧各国の連携を深め、なおかつ北ベトナムと微妙な関係にある中華人民共和国との接近を図った。 当時の状況としては、戦後の東西対立が激しい時代であったトルーマン政権の「」から、一時アイゼンハワー政権で東西の緊張緩和が進み、ケネディ政権ではキューバ危機以後に米ソ間でのデタントが進んで、欧州では米ソ協調の時代に入っていた。 しかし一方アジアでは依然中華人民共和国との厳しい対立が続き、ベトナム戦争への介入で硬直したアジア外交であったジョンソン政権の失敗を教訓に、中華人民共和国との外交関係の樹立に動いた。 この中華人民共和国との関係改善が、対北ベトナム関係のみならず、対ソ関係でもアメリカに優位な位置を築き、などの成立に繋がる。 これらの外交における大きな功績のみならず、思い切った保護主義で衰退期に入ったアメリカ経済をアメリカ主導でドル切り下げと他国通貨の切り上げを行うなどの経済面でも高い評価を受け、1972年の大統領選挙には地滑り的な大勝利を挙げて再選される。 また内政的には、当時の環境保護運動の盛り上がりを受けての(EPA)の設置、を掲げた DEA の設置など、主に環境対策面や麻薬対策で一定の功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されている。 支持基盤 [ ] 訪問先で支持者からの歓迎を受けるニクソン 経済界では自らが顧問弁護士を務めていたペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣ので大規模遊園地の「」を経営し、映画界でもアニメ映画の製作で高い評価と人気を得ていた保守派の実業家などから多くの支援を受けていたといわれ 、1959年ののグランドオープンにニクソンも立ち会い、テープカットをしたのはニクソンの娘トリシアとジュリーの二人であった。 ニクソンの支援基盤の1つに、地元のに工場を所有していたや、などの軍需企業があり、ニクソンもロッキードなどから多額の献金を受けていた。 しかし冷戦下で軍拡を推し進めたアイゼンハワー、ベトナムへのアメリカ軍の軍事介入を拡大し続けたケネディ、ベトナム戦争を拡大・泥沼化したジョンソンなど、軍需産業への発注拡大や軍の規模拡大になる政策を多数推し進めた前任者らとは異なり、デタントの推進やベトナム戦争からの全面撤退という、軍需産業への発注削減と軍の規模削減政策を大規模に遂行したことは後年高い評価を受けることとなる。 南部戦略 [ ] 1972年アメリカ合衆国大統領選挙におけるニクソン ニクソンは大統領に就任してすぐに4年後の大統領再選を目指した選挙戦略として南部戦略を立てた。 それは南北戦争後に共和党は北部に強く、民主党は南部に強いと言われてきたが、ニクソンの共和党は南部に対して共和党の影響力を増す努力を惜しまなかった。 もともと奴隷制廃止を主張していた共和党は南北戦争後に議会で絶対的多数派となり、大統領以降では20世紀初頭のまで、1人の大統領を除いて共和党の大統領が続いていた。 この背景には共和党のもともとの支持基盤が北部の商工業者や労働者、そして解放された黒人層であって保守的な南部白人を支持基盤とする民主党を圧倒していたことがその理由であった。 ところがこの19世紀後半から続いていた共和党の圧倒的優位の体制が崩れたのは1929年の大恐慌で、歴代の共和党政権の経済への不介入政策が国民からの離反を招き、民主党のフランクリン・ルーズベルト政権が誕生しニュー・ディール政策の実行で、北部労働者や農民、そして黒人層が民主党支持に結集して、これにもとからの支持基盤であった保守的な南部白人を加えたいわゆるニューディール連合と呼ばれる強固な民主党の支持基盤が出来て、フランクリン・ルーズベルト以降はアイゼンハワーを除いてまで民主党大統領が続く結果となり、共和党は議会でも常に少数派に留まることになった。 これに対してベトナム戦争の国内での混乱から、南部白人層に対してリベラルな民主党が次第に支持を失っている現状から、この南部白人層に対して共和党への支持を増やすことをニクソンは目指していった。 1972年大統領選挙でが民主党大統領候補に指名されると南部の保守的な白人の民主党員はこれに反発して共和党支持へ回る傾向が増していった。 ニクソンは南部諸州での票を取り込むために精力的に運動を展開して、選挙で圧勝して、共和党の南部進出を強固なものとした。 これが後に1981年のロナルド・レーガン共和党政権の誕生とともに南部での強固な共和党支持基盤となり、民主党員でありながらレーガン大統領を支持するレーガン・デモクラットと呼ばれる共和党支持層を形成することとなった。 内閣 [ ] 職名 氏名 任期 リチャード・ニクソン 1969 - 1974 1969 - 1973 1973 - 1974 () 1969 - 1973 1973 - 1974 1969 - 1971 1971 - 1972 1972 - 1974 1974 () 1969 - 1973 1973 - 1973 1973 - 1974 1969 - 1972 () 1972 - 1973 1973 - 1974 () 1974 () 1969 - 1974 () 1969 - 1971 () 1971 - 1974 1969 - 1971 1971 - 1974 () 1969 - 1972 () 1972 - 1973 () 1973 - 1974 1969 - 1970 1970 - 1973 () 1973 - 1974 1969 - 1970 1970 - 1973 1973 - 1974 1969 - 1973 1973 - 1974 () 1969 - 1973 () 1973 - 1974 ニクソン大統領と側近 左からハルデマン、ジーグラー、アーリックマン ニクソンの政権の特徴は、それまでの大統領よりさらにホワイトハウスに権力を集中させ、閣僚の権限を抑え込んでと呼ばれたところにある。 国務長官のロジャースなどは重要政策で蚊帳の外に置かれ、キッシンジャー補佐官が重要な外交交渉にあたった。 また商務次官補(上院承認の必要な高官)に解任を言い渡したのは国家安全保障会議のヒラのスタッフ(C・フレッド・バーグステン……後に財務次官など)であった。 一方で、ハルデマン、アーリックマンの2人は重用され政権の中枢を担った(各人ドイツ系のため「」と呼ばれていた)。 しかしやがてこの弊害によりニクソンは政治生命を失うことになる。 首席補佐官 副補佐官 スチーブン・V・ブル 日程担当特別補佐官 ドワイト・L・チェーピン• 内政担当補佐官• 国家安全保障担当補佐官 ヘンリー・A・キッシンジャー 副補佐官 (後に陸軍大将、国務長官、大統領首席補佐官) 副補佐官 (後に空軍中将、国家安全保障担当大統領補佐官) 上級スタッフ C・フレッド・バーグステンJr. 上級スタッフ (沖縄返還交渉でと接触、国防次官補) 上級スタッフ デービッド・R・ヤング(元NSA、アーリックマンの部下)• 大統領報道官 ロナルド・Z・ジーグラー(名目上の上司はハーバート・G・クライン広報連絡局長、ケネス・W・クローソン広報連絡局次長)• 大統領個人秘書 ローズ・メアリー・ウッズ• 大統領個人法律顧問 ハーバート・W・カームバック• 特別補佐官(政治担当)チャールズ・W・コルソン、マレー・チョティナー• 大統領顧問 レナード・ガーメント• 行政管理予算局(OMB) 局長 ジョージ・P・シュルツ(後に国務長官) 局長 ジェームズ・R・シュレジンジャー(後にエネルギー長官、国防長官、CIA長官) 次長 フレデリック・V・マレク 外交政策 [ ] を迎えるニクソン ニクソンの外交政策には、カンボジアとチリにおいて政権転覆とクーデターと傀儡政権の樹立などの力を背景とした政策を行うとともに、ベトナム戦争からのアメリカ軍の全軍撤退と軍縮政策の推進、国際協調外交の推進など腹心のキッシンジャーが奉ずるを基調とした硬軟織り交ぜた政策を展開した。 ベトナム戦争では交渉と同時にカンボジアやラオスへの侵攻を辞さず、交渉に応じさせるために北ベトナムへの大規模な爆撃と機雷による海上封鎖()を強行したり、また北ベトナムと友好国であったものの、ソ連とは対立していた中華人民共和国と突然外交関係を結んで世界を驚かせ、アメリカの威信を傷つけず、主導権を確保したうえでの外交を展開した。 国際経済では突然ドルの金交換を停止し10%の輸入課徴金を課し、ドルの切り下げをアメリカが主導権を取って多国間通貨調整という枠組みで行った。 これは自由貿易の理念からは外れ他国を混乱に巻き込んだが、アメリカの国益を追求し、同国が西側の中心であることを維持するための外交展開であった。 1969年• ベトナムからのアメリカ軍の段階的撤退を開始 6月。 日本の首相と会談、在沖縄アメリカ軍の駐留維持と引き換えに1972年のを合意 11月。 1970年• の王政を打倒 3月。 南ベトナムとの国境を越えてカンボジアに侵攻 5月。 1971年• 南ベトナムとの国境を越えてラオスに侵攻 2月。 日本と協定を締結 6月。 中華人民共和国に翌年訪問すると発表 7月。 (第1次)• ドルと金との交換停止。 10%の輸入課徴金実施 8月。 (第2次・ドル・ショック)• アンカレッジで欧州訪問途次の昭和天皇・皇后と会談 9月。 スミソニアン博物館での多国間通貨調整会議でドルと金との交換レートを引き下げ、円などの他国通貨との為替レートでドルの切り下げを決定 12月。 国際連合で採択された海底軍事利用禁止条約に調印。 1972年• 日米繊維交渉で政府間規制で妥結 1月。 アメリカ合衆国大統領として初の中華人民共和国を訪問。 事実上の外交関係を結ぶ 2月。 沖縄を日本に返還 5月。 ソビエト連邦を訪問。 米ソで戦略核兵器の配備数を制限するに合意し調印し、また米ソ間で弾道ミサイルに対する迎撃ミサイルの配備数を制限するに合意し調印 5月。 国際連合での採択を推進し調印。 とで商業捕鯨の停止を提案。 に調印。 1973年• パリでに調印 1月。 ドル不安から外国為替取引を市場取引による変動相場制へ移行 2月。 からアメリカ軍が全軍撤退 3月。 ハワイで日本の田中首相と会談 8月。 の政権を打倒 9月。 第4次中東戦争勃発 10月。 オイルショック デタント推進 [ ] ソビエト連邦共産党書記長(左)とニクソン(右) ニクソン時代にはトルーマンやアイゼンハワーの時代の東側諸国に対する「封じ込め政策」はすでに過去のものであり、ケネディ政権の時代に米ソ関係はデタント(緊張緩和)が進んで、部分的核実験停止条約が締結されていたがアジアでの緊張緩和は進まなかった。 しかしベトナムからの撤退をスローガンに大統領に当選したニクソンはその政策を進めるために中国との関係改善を就任前から考えていた。 またジョンソン時代に比較的良好な関係にあったソ連とは一層「政策」を推進した。 また同時にも締結するなど、米ソ両国の間における核軍縮と政治的緊張の緩和が推進された。 この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するために中華人民共和国との関係改善を進めたことが、同国と対立していた対ソ関係にも波及したことと、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費が財政を圧迫してドル不安を引き起こしたことで軍事費を押さえる目的もあったと推測されている。 デタントを進めていたニクソン時代でも冷戦特有のの1つが起きており、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の4月には、近くの公海上でが発生し、31人の搭乗員が死亡した際、ニクソンは北朝鮮への核攻撃準備を軍に命じるも 、当時ニクソンは酩酊状態にあったことからキッシンジャーが「大統領の酔いが醒めるまで待ってほしい」と進言して撤回された という証言もある。 ベトナム(インドシナ)戦争の終結 [ ] 選挙公約 [ ] への進攻について説明を行うニクソン(1970年) アイゼンハワーがフランスに代わって行った軍事援助に始まり、後任のケネディにより本格的な軍事介入が開始され、さらにその後任のジョンソンによって拡大・泥沼化されたを終結させ「名誉ある撤退」を実現することをニクソンは大統領選に向けた公約とした。 そして当時アメリカの若者を中心に増加していた「」や過激なベトナム反戦論者、またそれらと対極に位置する強硬な保守主義者などの強い主張も嫌う、アメリカ人の大多数を占める「」(物言わぬ多数派)に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。 ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉 [ ] 大統領に就任したニクソンは、にへ予定外の訪問をし、大統領およびアメリカ軍司令官と会談を行った。 その5日前、1969年7月25日には「」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて政府との和平交渉を再開した。 前年のジョンソンの北爆停止声明直後の1968年5月にパリに於いて、政府との正式な協議は始まっていた。 しかしその後の4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたへ侵攻、翌2月には侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう。 撤退するために戦線を逆に拡大するニクソン流のやり方は、最後のパリ和平協定が締結する直前まで続く。 その後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、パリでの北ベトナム政府との和平交渉 四者会談 を継続させた上でキッシンジャー補佐官が和平交渉とは別に極秘に北ベトナム担当者と交渉に入った。 それは北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問した1972年の秋で、ようやく秘密交渉が進み締結寸前までいった1972年12月には逆に北爆が強化されて爆撃が交渉のカードとして使われるなど硬軟織り交ぜた交渉は、パリでの正式な交渉開始から4年8ヶ月経ったに北ベトナム特別顧問のとの間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。 しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、最後にはハノイに爆撃するなど「ニクソン・ドクトリン」の発表からも、3年半以上に亘って戦争を継続する結果となった。 アメリカ軍の完全撤退 [ ] そして4日後の1月27日に、ロジャーズ国務長官と南ベトナム外相チャン・バン・ラム、北ベトナム外相グエン・ズイ・チンと南ベトナム共和国臨時革命政府外相グエン・チ・ビンの4者の間で「」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年には撤退が完了。 ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。 なおこの功績に対して、キッシンジャーとレ・ドク・トにが授与された(レ・ドク・トは受賞を辞退した)。 中華人民共和国訪問 [ ] でと握手するニクソン。 1972年年2月29日 に中華人民共和国が建国された後、における米中の交戦と休戦を経て長年の間アメリカと対立関係にあったが、1971年7月にの一党独裁国家である中華人民共和国との関係を正常化することで、中華人民共和国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、アメリカ軍の南ベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンが、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国との国交を成立させることで北ベトナムも牽制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進めることの一石二鳥を狙い、キッシンジャー大統領補佐官を極秘にの経由で中華人民共和国に派遣した。 この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国首相のと会談して、正式に中華人民共和国訪問の招待を受けたことからニクソンはテレビで「来年5月までに中華人民共和国を訪問する」と声明を発表し、副大統領時代に印象付けた猛烈な反共主義者で()のイメージをニクソンに抱いていた世界を驚愕させた。 「 ()」という政治用語も生まれた。 また1971年12月に起きたではニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した。 そして翌年にで北京空港に到着し、周恩来首相が出迎え握手を交わし、のと中南海で会談し、ニクソンと対面した毛沢東は「我々の共通の旧友、蒋介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した。 また周恩来首相との数回にわたる会談の後、中華人民共和国との関係は改善してやがて国交樹立へと繋がり、その後の外交で大きな主導権を獲得することとなった。 訪中から3か月後にニクソンが行った北ベトナムへの北爆再開と港湾封鎖も中華人民共和国の了解を得たともされている。 なおアメリカ合衆国と中華人民共和国の間の国交樹立は、カーター政権下の1月になってようやく実現することとなる。 ニクソン訪中時に国交樹立まで至らなかったのは長年中華人民共和国との対立を続けている中華民国との関係であった。 1979年に米中間の正式な国交樹立時における中華人民共和国からの強硬な申し入れを受けて、中華民国とは国交断絶せざるを得なくなり米台相互防衛条約は失効された。 しかし両国内での強い反発があり、議会で国内法として「」が成立して、アメリカ合衆国は中華人民共和国との正式な国交樹立以後も、国交断絶した中華民国への経済的、軍事的、外交的な支援を含む密接な関係を続けている。 ニクソンと握手をする。 プレスリーはこの際ニクソンより麻薬捜査官の資格を与えられた(1973年) 国内政策では前半は失業やインフレ対策で有効な施策が打てず、国内から批判が強かったが、ドル・ショック時に減税と輸入課徴金制度の設立、物価・賃金の凍結を打ち出すなど国内経済の保護主義を断行した。 それはで一歩も譲歩しないのに対して ()で揺さぶった姿勢にも現れている。 また、長らく議長を務め、低金利政策に反対してきた ()を解任して自らに忠実なをマーティンの後任に任命して利下げを強いた。 「 ()」(もともとはニクソン政権の顧問だったに由来し、実際のニクソンの言葉は「私はもうで言うだ」とされる )と有名な発言をして経済に積極的に介入するを行った。 これらは ()と呼ばれた。 その他では、これまでの政権下では行われなかった環境保護政策の推進、麻薬取締の推進などを展開した。 1970年• 環境を保護し、環境破壊の予防と回復のための観察と政策のためのアメリカ環境保護局 EPA を設立。 海洋と大気の状態を観察し、海洋の資源と生態系の観察を行う、海洋大気局を設立。 包括的薬物乱用予防管理法に署名。 職業安全衛生法に署名。 大気浄化法 マスキー法 に署名。 自然環境と生態系と自然資源の被害を予防するための国家環境政策法に署名。 猥褻物およびポルノに関する委員会の「犯罪の原因にならず成人に自由に提供されてよい」とする報告書を「道徳の崩壊」として不承認(1970年10月2日)。 1971年• 景気対策としての減税とドルと金との交換停止、10%の輸入課徴金の実施、賃金・物価の凍結を発表 8月。 (第2次・ドル・ショック)• 1972年• 1月に計画を承認 1月。 に調印。 水質清浄法 水のマスキー法 に署名。 1973年• DEA を設置。 ドル・ショック [ ] 1971年8月の新しい経済政策の発表は世界を驚かせた。 ニクソンは景気対策で好ましい成果を挙げることが出来なかった。 そして1971年夏にはインフレ、高い失業率、不況というスタグフレーションに苦しめられて、中華人民共和国への電撃的な訪問を発表した直後に、上下両院の共和党議員との懇談の席で国内の経済状況についての苦言と注文を出されていた。 そして8月に発表した新経済政策で誰も想像しなかったドルの金交換停止、輸入課徴金制度の設立、物価、賃金の凍結という思い切った施策を打ち出した。 これらは不況から抜け出せないアメリカを取り巻く状況で、ドルの切り下げが避けられない局面で、単なるドル平価の問題とせず、多国間での通貨調整という場にして劇的に行うことで、当面の問題解決を狙ったものであった。 しかし、結局は固定相場制が崩れて変動相場制に完全に移行して、アメリカが再び強い経済力を発揮するのは1980年代に入ってからであった。 また、1974年には財政赤字を賄うのにも必要なドルの裏付けのためにキッシンジャー国務長官とともにを訪問して国王や第二副首相兼内相との会談で原油をドル建て決済で安定的に供給するに米国は安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を結んでを確立することでドル防衛に成功した。 環境対策の推進 [ ] 工場などからの排出物による・・に対する非難の声が高まっていたことを受けて、市民の健康保護と自然環境の保護を目的とする連邦政府の行政機関であるを1970年12月2日に設立した。 設立に先立ち、共和党の支持基盤である大企業からの反発は大きかったものの、環境保全に対する信念と、環境問題に敏感な地元のカリフォルニア州民を中心とした国民の声を背景にこれを推進した。 麻薬取締局の設置 [ ] ニクソンはベトナム戦争やヒッピーの流行に合わせてアメリカ国内で若者を中心に流通が増加し、当時アメリカにおいて深刻な社会問題になっていた麻薬に対して強硬な態度をとり続けた。 1970年には特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を禁止したの策定を行い、1973年5月には、連邦麻薬法の国施行に関する主導機関であり、国外におけるアメリカの麻薬捜査の調査及び追跡に関する単独責任を有している「(DEA)」の設置を行った。 1972年アメリカ合衆国大統領選挙 [ ] 2期目の就任式で宣誓を行うニクソン では、1期目の実績を高く評価されたニクソンが予備選段階で圧勝し、共和党候補としての指名を受けた。 副大統領候補は1期目においてその実務能力が高く評価されていたスピロ・アグニューが引き続き努めることとなった。 民主党は上院院内幹事のがすでににの上で女性秘書を死亡させた「」で1972年アメリカ合衆国大統領選挙の立候補を辞退した。 当初は1968年アメリカ合衆国大統領選挙で副大統領候補だったが本命候補と目されたが、予備選挙途中で失速してが民主党大統領候補となった。 しかしマクガヴァン陣営は、副大統領候補のトマス・イーグルトンが病気で急遽候補を降り、ケネディ家の遠縁に当たる ()が変わって候補となるなど混乱したことや、マクガヴァンの妊娠中絶やマリファナ合法化容認に対する姿勢の甘さなどが指摘されたこともあり、劣勢に置かれることとなった。 2%という大差を付け、マクガヴァン陣営を破り、アメリカ政治史上で最も大きな地滑り的大勝の1つで再選された。 全米50州のうちでのみ敗れた(州ではないコロンビア特別区でも敗れている)。 しかしこの選挙において、ニクソンの再選に向けて動いていたのスタッフが、ニクソンの大統領として、そして政治家としての命運を絶つ事件を起こすことになった。 副大統領交代 [ ] 左からキッシンジャー国務長官、ニクソン、フォード副大統領、ヘイグ大統領補佐官 高い実務能力で第1期を通じてニクソン政権を支えた功績を評価され、2期目も引き続き副大統領を務めたアグニューは、ボルチモア連邦地方検事のジョージ・ビールにメリーランド州知事時代の収賄の証拠をつかまれ、に副大統領職を辞任した(その後、法曹資格も失った)。 同日にニクソンは下院院内総務を副大統領に指名した。 その後、上下両院の承認をうけて(上院はに賛成92対反対3で承認、下院はに賛成387対反対35で承認)、フォードは第40代副大統領に就任した。 これはを契機にに制定された合衆国憲法修正第25条(大統領が欠けた時の副大統領の昇格ならびに副大統領が欠けた時の新副大統領の任命に関する規定)が適用された初めてのケースとなった。 ウォーターゲート事件と辞任 [ ] 詳細は「」を参照 外交と内政で大きな成果をおさめ、内外からその手腕が高い評価を受けて大統領選挙で再選を果たしたニクソンをアメリカ史上初めての大統領任期中の辞任という不名誉な状況に追い込んだのが、大統領選挙の予備選挙が最終盤を迎えた6月に起きた本部への不法侵入および事件、いわゆる「 ウォーターゲート事件」である。 にのウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうち、1人はでニクソン大統領再選委員会の警備主任であった。 また他の2人が所持していた手帳には、元ホワイトハウス顧問の自宅の電話番号と「House. WH」と書かれていた。 このために、ニクソン政権に近い者がこの事件に何らかの形で関与されていると疑われたが、当初ニクソンとホワイトハウスのスタッフは「民主党全国委員会本部オフィスへの侵入事件と政権とは無関係」として、1972年秋の大統領選挙には全く影響は無かった。 しかし2期目の大統領就任後の1973年3月になって、マッコードが大統領再選委員会とホワイトハウスのスタッフが関与していることを明らかにして、これが政権の屋台骨を揺さぶるスキャンダルに発展した。 そして上院に特別調査委員会が設置されて、委員会の質疑からやがて侵入事件発覚後のかなり早い時期にニクソンが知って「もみ消し」に関わっていたかが焦点となっていった。 そしてこの事件調査の過程で、大統領執務室内の会話が録音されている(バターフィールド証言。 但しこれはニクソン以前にケネディも行っていた)ことが判明して、その会話を録音したテープの提出を求められて、事件の調査は事件直後にホワイトハウス内でどのような会話がされていたのかが焦点となった。 最初は録音テープの提出を拒み、やがて一部提出されたテープには18分も消去された部分があって、謎が深まった。 そして1973年10月にニクソン自身がこの事件調査のため設置して司法長官が任命したアーチボールド・コックス特別検察官を突然解任しようとして司法長官や次官が相次いで辞任する事態()となり、国民にも「大統領はもみ消しに関わっていた」という疑惑が拡大し、しかも同じ時期にアグニュー副大統領が知事時代の収賄事件で突然辞任してニクソン政権は窮地に陥った。 これで議会は大統領弾劾に動き始めた。 当初ニクソンはこの盗聴事件についてその詳細を知ったのは事件から9ヶ月後の1973年3月であるという説明を行っていた。 しかし連邦最高裁の決定で提出された録音テープの会話記録から、実際には1972年6月23日(侵入事件の6日後)にはすでに事件を知っており、明らかなFBIへの捜査妨害を指示していたことが明らかになった。 このため下院司法委員会が弾劾の発議を可決し、さらには上院での弾劾裁判で反対票を投じるはずの与党共和党の議員からも雪崩のようにニクソンへの支持撤回が相次ぎ、8月7日に共和党上院の有力者からもはや大統領弾劾を回避することが不可能と伝えられ、ついに辞任を決意した。 そして夜、ホワイトハウスからテレビで全米の国民に大統領を辞任することを表明し、ウォーターゲート事件の責任をとる形でに正式に辞任した。 なお、大統領の辞任はアメリカ史上初めてのことであり、その後も辞任した大統領は現れていない。 大統領が議会の弾劾の動きに直面したのは、リンカーン暗殺後に昇格した第17代大統領以来であった。 また、辞任の瞬間大統領専用機に搭乗しており、辞任の瞬間に別のコールサインへ変更された。 こちらも現在のところ唯一の例である。 ニクソン大統領図書館 後任の大統領に昇格したフォードはウォーターゲート事件の調査が終了した後、同年にニクソンに対する特別を行った。 誰が何のために不法侵入と盗聴を指示したかは未だに定かではないし、ニクソンもどこまで関わっていたのか明らかにならず、事件は幕が下ろされた。 結局自ら辞職したことでニクソンは現実にされず有罪と判決されもしなかったが、恩赦の受理は実質的に有罪を意味した。 アメリカ国内での諜報機関が非合法監視活動を行っていたこの事件は自由の国アメリカのイメージを国内外で大きく失墜させ、に元上院議員によって組織された委員会の提言で(FISA)の成立につながった。 なお事件後にニクソンや事件関係者が証拠隠滅のためにウォータゲート事件の資料を廃棄できないよう、アメリカ合衆国議会が制定した大統領録音記録および資料保存法によってウォーターゲート関連書類は政府が押収した。 資料は地域外への持ち出しが禁止されたので、カリフォルニア州ヨーバリンダの「ニクソン生誕地図書館」ではなく(NARA)に保管されていた。 なおニクソンの死から10年以上が経過した3月に合衆国 (国立公文書記録管理局長)とリチャード・ニクソン生誕地図書館財団との間で書簡が交わされ、にこれまでは私営として運営されてきた「ニクソン生誕地図書館」は、NARAによって完全に運営されるアメリカ連邦政府管轄のに変わった。 大統領辞任後 [ ] ウォーターゲート事件の後遺症 [ ] レーガン大統領とともに ニクソンの首席補佐官であったや、内政担当補佐官であったがウォーターゲート事件への関与により有罪宣告を受け、からの間に懲役刑を受けたことが、ニクソンがウォーターゲート事件において事件で道義上の責任があったことを大きく印象付けた。 さらにその後のウォーターゲート事件関連のさらなるテープの公開、さらにニクソンの死後の7月に、1972年の大統領選挙の際の再選運動本部長だったジェブ・マグルーダーが、「ニクソンが電話で個人的に民主党本部侵入と盗聴を命じてきた」と主張したことは、事件の隠蔽および不法な資金融資、民主党本部への侵入と盗聴に対するニクソンの関与に関する疑惑をさらに深めている。 また、副大統領時代からの長年の「リベラル」的な民主党を中心としたマスコミや政治評論家などからの攻撃は、大統領辞任後も消えなかった。 イメージの修復 [ ] しかしながらニクソンは、ソ連や東ヨーロッパ諸国との冷戦が続く中で「外交に強い政治家」として、ソ連や中華人民共和国へ大統領として初めて訪問しこれらの国々との関係構築に貢献した。 また大統領辞任後も、特に関係を構築した中華人民共和国とは、その歴代の指導者との関係の深さを誇った。 ニクソンは1968年アメリカ合衆国大統領選挙で対立候補として戦ったレーガンとはそりが合わなかったが、にロナルド・レーガンが大統領に就任するとアドバイスを授けた。 また多くの講演会を行った。 これらの活動を通じてアメリカ国民の許しを得たこと、さらに辞任後だけで回顧録を含め10冊もの書籍を執筆し、そのいくつかは全米でベストセラーとなったことで、晩年までにニクソンは自身のイメージをある程度修復することに成功した。 死去 [ ] ニクソンは6月に肺及びで死去した妻パットの後を追うように、にでとその関連症により81歳で死去した。 通常は大統領経験者の死去の際はが行われるが、ニクソンはアメリカの歴史上初となる辞任を行ったことや本人の意志などから国葬は行われず、一市民として生まれ故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにある「」の敷地内にある妻の墓のそばに埋葬された。 評価 [ ] ウォーターゲート事件の後遺症や大統領退任後も続いた国内外の左派マスコミからの攻撃もあり、完全な名誉回復はついになされなかったが、大統領時代の外交への関与については高い評価を与えられることも多い。 ニクソンの外交をの政治家で、後半に保守派のの下で首相を務めた、やはり保守派のは、1月に行われた紙のインタビューの中でニクソンの外交政策とその手腕を評価した。 また内政的には当時環境保護運動が盛り上がり、ニクソンも(EPA)の設置、 DEA の設置など、主に環境対策面や麻薬対策で一定の功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されている。 リベラル派の歴史家であったは、こうした実績からすると、「ニクソンはむしろリベラルに属する大統領であった」と指摘している。 密約 [ ]• でに合意した3日後の1969年11月24日付のからに宛てたメモによると、「大変満足できる内容の秘密合意を日本と結んだ」「との約束に背かない範囲で」「外部に漏れたら密約の存在は否定する」と上院の民主党の有力議員2人に伝えるように指示した。 参考文献 [ ] 著書 [ ]• 『ニクソン回顧録』全3巻、・斎田一路訳、、1979年。 『リアル・ウォー 第三次世界大戦は始まっている』訳、文藝春秋、1984年。 『指導者とは』訳、文藝春秋、1986年/文春学藝ライブラリー(文庫)、2013年。 『ノー・モア・ヴェトナム』宮崎成人・共訳、、1986年。 『1999年 戦争なき勝利』社外報部訳、、1989年。 『ニクソン わが生涯の戦い』訳、文藝春秋、1991年。 『変革の時をつかめ』福島正光訳、、1992年。 参考文献 [ ]• 、共著(訳)『 ニクソンを追いつめた300日』、1980年、新版2005年。 ボブ・ウッドワード、カール・バーンスタイン共著(常盤新平訳)『最後の日々 続・大統領の陰謀』全2巻、1980年。 マービン・カルブ『ニクソン・メモ 大統領のメディア工作』岡村黎明訳、、1996年。 William Burr『Nixon's Nuclear Specter』:洋書• Douglas Brinkley『The Nixon Tapes1971-1972』:洋書• Douglas Brinkley『The Nixon Tapes1973』:洋書• ・毛里興三郎共訳『ニクソン訪中機密会談録』、2001年。 藤本一美・濱賀祐子著『米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~』専修大学出版、2004年。 室山義正『日米安保体制 下 ニクソン・ドクトリンから湾岸戦争まで』有斐閣、1992年。 『戦略家ニクソン 政治家の人間的考察』、1996年。 『R・ニクソン』祥伝社、1971年。 ニクソンを描いた映画 [ ]• Secret Honor (1984年、監督:)• Nixon (1995年、監督:)• Dick (1999年、監督:アンドリュー・フレミング)• All The President's Men (1974年、監督:)• Forrest Gump (1994年、監督:)• The Assassination of Richard Nixon (2004年、監督:ニルス・ミュラー)• Watchmen (2009年、監督:)• Edgar (2011年、監督:)• X-Men: Days of Future Past (2014年、監督:)• The Nice Guys(2016年、監督・)• The Post (2017年、監督:) ニクソンを(基として)描いたテレビドラマ [ ]• (1977年、監督:ゲイリー・ネルソン、原作:「The Company」)• Kissinger and Nixon (1995年、監督:ダニエル・ペトリ)• Elvis Meets Nixon (1997年、監督:アラン・アーカッシュ)• The Simpsons (原作:マット・グレイニング) ニクソンを描いた舞台 [ ]• (歌劇) Nixon in China (1985年、作曲:)• Ohio (1970年、、シングルA面)• He's Misstra Know-It-All (1973年、、『』に収録)• You Haven't Done Nothin' (1974年、スティーヴィー・ワンダー、『』に収録)• Sweet Home Alabama (1974年、、『』に収録)• レット・イット・オール・フォール・ダウン Let It All Fall Down (1974年、、『ウォーキング・マン』に収録)• 大統領殿 Mr. President Have Pity on the Working Man (1974年、、『グッド・オールド・ボーイズ』に収録)• Young Americans (1975年、、『』に収録)• ライン・エム・アップ Line 'Em Up (1997年、ジェームス・テイラー、『アワーグラス』に収録)• ザ・ラヴ・オブ・リチャード・ニクソン The Love Of Richard Nixon (2004年、、シングルおよび『』に収録)• リチャード・ニクソンからの葉書 Postcards from Richard Nixon (2006年、、『』に収録)• Cuba Si, Nixon No (1969年、、ライブのみ) 注釈 [ ]• アイゼンハワーの回顧録によれば、9月20日にはこの資金についての調査を要請して2つの会社の弁護士と会計士が問題の資金を調べ、総額1万8,235ドル、献金者76名 全て名前は確認 、資金の管理者がパサデナの弁護士ダナ・スミス、支出は全て政治的目的で執行されて、この資金は副大統領候補にニクソンがなった時にはすでに執行済で残額は存在しない事実を確認していた。 「R・ニクソン」78P 大森実 著 祥伝社• これはもともと予定していたものではなく、礼儀上の会場案内をしている時にフルシチョフの居丈高な態度が自然に論争になったものであると言われている。 最近はこの英語名Kitchen Debateの直訳として「キッチン討論」と訳することがあるが、歴史的には「台所論争」として記憶されている。 1951年にの成立によって、1956年に大統領選挙で再選されたアイゼンハワー大統領は次の大統領選挙には出馬することができなかった。 大統領までは三選はしないという習慣があり、二次世界大戦下でのがこの慣習を破ったが、大統領の時代から、大統領は長くても2期8年という制度が法律で明文化された。 「イリノイでニクソンからケネディに差し替えられた4,480票、ミズーリでの4,491票の操作、これがなかったら1960年の選挙は決着がつかないまま下院の裁定に持ち込まれていたであろう。 」「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」95P 藤本一美・濱賀祐子著 専修大学出版 2004年10月出版。 これは「大統領の犯罪」ヴィクター・ラスキ著 白城八郎訳 集英社 1979年発行 からの引用である。 これより12年後の1972年の大統領選挙で、民主党大会でマクガヴァン大統領候補の指名で副大統領候補になったイーグルトン候補が同じような過去の受診歴を明らかにしなかったことで批判されて副大統領候補を辞退している。 ただし一方では、「チェッカーズスピーチ」で明らかにした自己の資産で株や社債がゼロである事実は、政治資金と自己の資産とを厳密に分けていたことになる。 元毎日新聞外信部長で、竹村健一とも親しい親米右派の大森実は、元毎日新聞外信部長の大森実は、「私はニクソンには個人的にいかがわしい企業との癒着はないと思う」と述べて「アメリカの政治はこの点、意外に清潔である。 汚職の介在が許されぬほどよく監視されている」として、企業と政治との関係は強いが、それは共和党という党と企業間の癒着である。 日米繊維交渉でアメリカ国内企業の強い圧力がかかったことは事実だが、それは「企業が党を通じてニクソンに強圧し続けたというほうが当たっている」とその著「R・ニクソン~矛盾に悩むアメリカの顔~」で述べている。 後述の軍縮への積極的な動きや環境保護への対策、物価賃金の凍結など、彼がただ経済界への人気取りのスタンスをとる政治家ではなかった、といえる。 キッシンジャーはその後ロジャーズの後に国務長官に就任している。 補佐官は大統領行政特権があるため、行動や任免について議会に対する説明責任がないとされ、議会の規制を受けずに政策を実行できる。 将軍を支援してその後ロン・ノル政権を樹立したが、1975年に内戦でに敗れ、政権は崩壊した。 1968年大統領選挙で繊維業者の多いの支持を取り付けるために、製品の輸入制限を公約に掲げたことで妥結まで3年を要した。 米中の正式な国交樹立は、1979年1月1日であった。 ただし国連人間環境会議は商業捕鯨の停止を採択したが、当時の国際捕鯨委員会は商業捕鯨の停止を否決した。 国際連合で採択された野鳥の生息地として重要な湿地を保護する条約。 自動車の排気ガスを規制する初めてのもので世界的に注目された。 マスキー上院議員が推進したので彼の名前を冠した法である。 ニクソンの名前はの表面に置かれた特別の飾り額の上で前、の名前と並んでいる。 国際連合で採択された野鳥の生息地として重要な湿地を保護する条約。 産業廃棄物・生活廃棄物の有害汚染を除去せずに環境に排出し、地下水、河川、湖沼、海洋の水質汚染を予防するための法でマスキー議員が推進した。 ニクソンは弾劾裁判の被告には立たされていない。 したがって弾劾裁判で有罪の評決を受けたわけではない。 これより24年後に「研修生とのホワイトハウス内での性行為で弾劾裁判を受けた大統領がジョンソンに次いで史上2人目となった。 出典 [ ]• 『R・ニクソン』61P 大森実 著 祥伝社 1971年• 『ニクソン わが生涯の戦い』P. 117 (福島正光訳、、1991年)• 『ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影 第2部』(金子宣子訳、新潮文庫、2002年)元版は新潮社で上下巻、1997年• 『R・ニクソン』61P 大森実 著 祥伝社 1971年• 「戦略家ニクソン」P. 20 著 中公新書• 『R・ニクソン』63P 大森実 著 祥伝社 1971年• 『R・ニクソン』63P 大森実 著 祥伝社 1971年• 『R・ニクソン』71P 大森実 著 祥伝社 1971年• Aitken, Jonathan 1996. Nixon: A Life. Washington, D. : Regnery Publishing• リチャード・ニクソン 『ニクソン わが生涯の戦い』略年譜より (福島正光訳、文藝春秋 1991年)• 「戦略家ニクソン」P. 54 著 中公新書• 「R・ニクソン」85~86P 大森実 著 祥伝社• 「ザ・フィフティーズ」P. 267 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社• 「R・ニクソン」90P 大森実 著 祥伝社• 「戦略家ニクソン」P. 66 著 中公新書• 「R・ニクソン」106P 大森実 著 祥伝社• 「R・ニクソン」108P 大森実 著 祥伝社• 「ザ・フィフティーズ」P. 270 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社• 「ザ・フィフティーズ」P. 272 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社• [ ]• 「R・ニクソン」17P 大森実 著 祥伝社• 「R・ニクソン」17P 大森実 著 祥伝社• 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」83~84P 藤本一美・濱賀祐子著 専修大学出版 2004年10月出版。 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」91P 藤本一美・濱賀祐子著• 344 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 刊• 『マフィアとケネディ一族』朝日新聞刊 1994年 ジョン・H. デイヴィス著、市雄貴訳• ケネディ兄弟、モンロー死の真相』 サム ジアンカーナ、チャック ジアンカーナ著、落合信彦訳 光文社刊 1992年• 「戦略家ニクソン」著 中公新書• 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」68~69P 藤本一美・濱賀祐子著• 編『岸信介証言録』• 『ライシャワー自伝』エドウィン・O・ライシャワー著 文藝春秋刊• 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」131P 藤本一美・濱賀祐子著• 「アメリカ政治」久保文明・砂田一郎・松岡泰・森脇俊雄著 有斐閣 2006年10月発行 73~74P参照• 2010年7月7日. 2017年10月28日. USC News. 2001年2月1日. 2019年11月21日閲覧。 "Berlusconi Goes to China". Foreign Policy. 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