教皇 ミサ 東京 ドーム。 年間第13主日ミサ@東京カテドラル

年間第13主日ミサ@東京カテドラル

教皇 ミサ 東京 ドーム

ローマ教皇フランシスコ説教 東京ドームミサ 今聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。 「山上の説教」と呼ばれているもので、わたしたちが歩むよう招かれている道の美しさを説いています。 聖書によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。 神はモーセに、「わたしのもとへ登りなさい」(出エジプト24・1参照)と仰せになりました。 その山頂には、主意主義によっても、「出世主義」によっても到達できません。 分かれ道において師なるかたに、注意深く、忍耐をもって丁寧に聞くことによってのみ、山頂に到達できるのです。 山頂は平らになり、周りがすべて見渡せるようになり、そこはたえず新たな展望を、御父のいつくしみを中心とする展望を与えてくれるのです。 イエスにこそ、人間とは何かの極みがあり、わたしたちの考えをことごとく凌駕する充満に至る道が示されています。 イエスにおいて、神に愛されている子どもの自由を味わう新しいのちを見いだすのです。 しかし、わたしたちはこの道において、子としての自由が窒息し弱まるときがあることを知っています。 それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。 息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。 まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。 そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、心を表面的ではかないことがらへと向かうよう押しやるのです。 何でも生産でき、すべてを支配でき、すべてを操れると思い込む熱狂が、どれほど心を抑圧し、縛りつけることでしょう。 ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。 今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。 家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。 多くの人が、当惑し不安を感じています。 過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。 力づける香油のごとく、主のことばが鳴り響きます。 思い煩うことなく、信頼しなさい、と。 主は三度にわたって繰り返して仰せになります。 自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6・25、31、34参照)。 これは、周りで起きていることに関心をもつなといっているのでも、自分の務めや日々の責任に対していい加減でいなさいといっているのでもありません。 それよりも、意味のあるより広い展望に心を開くことを優先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさいという励ましなのです。 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)。 主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。 それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。 何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。 世俗の姿勢はこの世での己の利益や利潤のみを追い求めます。 利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。 そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展をはばむのです。 孤立し、閉ざされ、息ができずにいるわたしに抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち、これしかありません(「一般謁見講話(2019年2月13日)」参照)。 主のこの招きは、わたしたちに次のことを思い出させてくれます。 「必要なのは、『わたしたちの現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだということを、歓喜のうちに認めることです。 それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。 それゆえ、第一朗読において、聖書はわたしたちに思い起こさせます。 いのちと美に満ちているこの世界は、何よりも、わたしたちに先立って存在される創造主からのすばらしい贈り物であることを。 「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。 見よ、それはきわめてよかった」(創世記1・31)。 与えられた美と善は、それを分かち合い、他者に差し出すためのものです。 わたしたちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの創造的な夢にあずかる者なのです。 「わたしたちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然とのかかわりをも真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。 この現実を前に、キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています。 知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。 それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です。 「そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま」(「ワールドユースデーパナマ大会の前晩の祈りでの講話(2019年1月26日」)引き受けるのです。 わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています。 つまり、「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。 障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。 よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。 イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。 ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。 十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされたのです」(同)。 いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。 それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。 キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。 善意あるすべての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、絶えざる協力と対話を重ねつつ、主に結ばれるならば、わたしたちは、すべてのいのちを、よりいっそう守り世話する、社会の預言的パン種となれるでしょう。 (カトリック中央協議会).

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教皇フランシスコ、東京ドームで5万人のミサ 「教会は傷ついた人を癒やす野戦病院」

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私がミサに参列したいきさつ 家は浄土真宗という私が、教皇のミサに参列したきっかけは、カトリックの従兄弟のFacebook投稿でした。 「パパ様の来日が発表されました。 東京ドームでミサって、聖体拝領どうすんだろ。 」 聞けば、1グループ6人まで申し込みOK。 非カトリックであっても参列は可能とのこと。 実は、ローマ教皇には、ちょっとした思いいれがあります。 というのは、18年前、当時6か月の長女と二人で、イタリアを3週間旅したことがあります。 このとき、年配女性から「赤ちゃんを守ってくれますように」(と言っているような雰囲気で)、当時のローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世のブロマイドやミニフレームをいただくことが数回ありました。 最後に訪れたローマからバチカン市国にも赴き、日曜日のミサを遠目にみていました。 また、2度めに3歳長女、1歳次女と一緒にローマに行ったときは、数日前にヨハネ・パウロ2世が逝去。 市内の店はほとんどが閉まり、雨まで降ってなんの観光もできなかった思い出があります。 というわけで、洗礼は受けていないものの、カトリックやキリスト教の文化・美術などには、関心があります。 ローマ教皇の訪日は38年ぶりだとか。 こんな機会はめったにない!と従兄弟にミサの申し込みを頼みました。 そして待つことしばし。 11月10日ごろ、当選の連絡が! こうして、従兄弟とその家族、同じく好奇心で申し込んだ姉2と5人で、教皇のミサに参列することになったのでした。 教皇フランシスコってこんな人 カトリック教会は、教皇を頂点に枢機卿、司教、司祭、助祭と階層をなす組織です。 教皇フランシスコは、前教皇のベネディクト16世の後を継いで、2013年に第266代ローマ教皇となりました。 フランシスコ・ザビエルでおなじみのイエズス会の出身で、フランシスコは本名ではなく、清貧と奉仕の生涯を送った聖人「アッシジのフランシスコ」に由来します。 生まれ育った地は南米のアルゼンチンという、非ヨーロッパ出身の教皇は珍しいそう。 多くの国を訪れ、民衆と直接触れ合うことを大切にしているそうです。 法王? 教皇? どっち?? ちなみに、以前は「法王」と「教皇」という呼び方の両方が使われていましたが、日本の司教団では1981年のヨハネ・パウロ2世の来日時に、日本政府はでは今回の教皇フランシスコ訪日に合わせて「教皇」で統一することを決めました。 「教える」という字のほうが教皇の職務をよく表わすから、というのがその理由です。 会場の東京ドームは人・人・人! さて、当日は、朝発の新幹線で東京に向かい、東京駅で姉2と待ち合わせ。 東京ドームに向かいました。 所定のゲートから、まずは荷物検査です。 いよいよドームの客席です。 開始までまだ2時間ほどありますが、すでに人・人・人! 私たちの席は、スタンドの前のほう。 まあまあ近そうです。 受付では、旗が配られていました。 浄土真宗の私と姉は、「これ、いつ振るの?」と???マークです。 アイドルのコンサートを彷彿とする教皇入場 開式の1時間ほど前に、聖職者の方々(ざっと見て100人くらい?)が入場。 その後、黄色いジャンパーを着たスタッフの方々が柵を持って、移動してこられました。 こんな感じでスタンバイ。 警備員やSPと思しき眼光鋭きスーツの男性らもこちら側に。 なんでしょう?? と、不思議に思った謎はすぐに溶けました。 教皇フランシスコの登場です! 「パパモービレ」と呼ばれるオープンカーに乗ってアリーナの通路を1周する教皇に、参列者が「キャー!」の声援とともに走りよります。 そう! 旗はこのとき振るものだったのです!! この姿に「トロッコにのってファンサービスするジャニーズアイドル」を彷彿とする私。 ちなみにジャニーズファンのみなさんは、トロッコが来ても走り寄ることはしません。 その意味では、コンサート以上の興奮状態です。 これは、バリケードで止めないと大変なことになります。 写真を取る人たちもこの熱狂ぶり! 教皇の登場って、「キャー!」なんですね。 まず、度肝を抜かれました。 多言語で行われたミサ その後、ミサが始まると、ドームは一転、厳粛なムード。 写真も旗振りもNGのようです。 ミサは、日本語だけでなく、英語、韓国語やタガログ、ベトナム語など、日本に多い外国人の言葉やラテン語がまぜこぜ、手話もつけて行われ、大きなモニターがいくつも設置され、字幕もつけられました。 こうした多言語のミサは日本では珍しいようですが、日本に多い外国人にも配慮されているかららしいです。 言葉や歌が記された式次第は、当日配布されただけでなく、HPにも掲載されていました。 >> 式次第になかったのは、当日の言葉です。 午前中の若者との対話について取り上げ、 「日本は経済的には高度に発展していますが、社会で孤立している人が少なくない。 最も重要なことは、何を手にしたかではなく、それを誰と共有するかだ」と、他者と分かち合うことの大切さを述べられました。 ミサは、高校生らの聖歌あり、オーケストラやパイプオルガン、トランペットソロ、ギター演奏なども交え、まるでミュージカルのようでした。 約2時間半のミサは小さい子どもには長いようで、寝落ちする子、泣き叫ぶ子もいましたが、そうした子たちも追い出されはしないところがいいなと感じました。 聖体拝領はドームの外で ミサのクライマックスと言えば「聖体拝領」。 「聖体」とはキリストの体をさし、「聖体拝領」ではキリストの体として信じられた特別なパンを、神父から一人ひとりいただいて食べます。 ちなみにパンといっても、コイン型に薄く焼いたウェハースのような、モナカの皮のようなものです。 5万人の参列の東京ドームミサで、「聖体拝領はどうするんだろう」という疑問が。 正解は、「ミサの中では、アリーナ席だけで聖体拝領が行われ、スタンド席は出口で」でした。 というわけで、ドームの出口はこの混雑。 カトリックの洗礼を受けていない私や姉は、聖体拝領はできません。 しかし、祝福を受けることができると従兄弟から教えられました。 そこで、洗礼を受けていないこと伝えると、神父さまは私の頭に手を置いて「神様の祝福がありますように」と言ってくださいました。 なんだか、清々しいような、暖かいような、すっきりした気分になっていることに気が付きました。 今まで、アメリカでホームステイしたときや、イタリアを旅したときなどに、ミサには参列したことがありましたが、日本語訳つきで始めから終わりまで、ミサに参列したのは初めての経験です。 お話や歌の内容を理解すると、ミサは日常のアレコレをしばし忘れ、世界の平和を願い、自分の行いを省みる時間なのだなとしみじみ感じました。 信仰はどうあれ、みんながこういうひとときを持つようにすれば、世の中はもっと平和に、人の孤独も少しは癒やされるのではないかと感じました。 貴重な経験をもたらしてれた従兄弟に感謝しています。 返信もOK! 1974年6月5日富山県射水市生まれ、在住 新潟大学人文学部で現代日本語学を専攻。 卒業後、正社員の新聞記者として社会人生活をスタート。 その後、東京に転居し、在宅コピーライターとしての活動を開始。 大手企業の情報サイト立ち上げと運営に携わる。 2006年、富山にUターンし編集プロダクションで書籍・雑誌の編集者に。 育児情報誌の編集長も務める。 2014年、家族の転機あれこれをきっかけに独立。 翌年、林原商店合同会社設立。 現在は、ブランディングコンサルや情報発信ツールの企画・編集、社外広報などで、ファミリーフレンドリーな中小企業や「自宅しごと」派・起業家らの業務効率化と利益アップを支援している。 富山県商工会連合会が実施する経営・技術強化事業(専門家派遣制度)のエキスパート(専門家)• 銀座コーチングスクール認定コーチ• 高等学校教諭第一種免許(国語)、中学校教諭一種免許(国語)取得• トライアスロン愛好家• 料理愛好家• 着物愛好家• 娘3人と猫2匹を育てるシングルペアレント >>.

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見逃し組に朗報!ローマ法王(教皇)の長崎/東京ドームミサライブ配信はアーカイブで見られる!

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年間第13主日ミサ@東京カテドラル 2020年06月27日 東京では連日五十人ほどの感染者の報告があります。 まだまだ感染症の終息からはほど遠いと感じております。 ミサの再開と言っておりますが、実際には、まだまだ教会の活動を全面的に再開するにはほど遠い状況であり、慎重に対応しなければなりません。 教会はまだ普通の状態に戻っているわけではありません。 先週よりミサを再開しましたが、これはミサの再開と言うよりも、再開に向けた段階的な試みであるとご理解ください。 2月27日以降、ミサはまだ完全には再開されておらず、いまは完全な再開を目指して、様々な条件を定めて、教会のメンバーの安全を優先しながら、限定的にミサを行っている段階です。 ですから、様々な制約があり、みなさまにはご迷惑をおかけしております。 「ミサが再開されたのに、自分は参加できない」という声があることも承知しております。 申し訳ありません。 それぞれの小教区で状況が異なりますから、全体の大枠方針に沿って、それぞれの対応をお願いしています、現在の状況や条件が、未来永劫続く制度改革なのではありませんから、状況に応じて制約の条件は変更されますので、いましばらくは、お互いのためにご協力いただきますようにお願いいたします。 宣言自体は解除されていますが、現実にはいまだ緊急事態は継続していると考え、緊急避難的な制約にご協力いただけますようにお願いいたします。 以下、説教原稿です。 年間第十三主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年6月28日の前晩 教会活動の段階的な再開を始めてから一週間が過ぎました。 ご存じのように、未だ感染者は毎日のように報告されており、以前のような完全な状態で安心してミサなどを再開できる状況ではありません。 まず第一に、まだ安全な状況ではないのだということを念頭に置いていただければと思います。 その状況下でも、なんとかひとりでも多くの方に秘跡にあずかっていただきたいと考えて、様々な制約の中で、ミサなどを再開いたしました。 とりわけ、感染した場合に重篤化し、いのちのリスクがある高齢のみなさまには、まだ今しばらく自宅に留まってくださるようにお願いしており、大変申し訳なく思っています。 歴史に残る事態の荒波の中を、先へと進んでいるわたしたちは、互いにいのちを守るために、耐え忍びながら、支えあっていきたいと思います。 本日の、マタイ福音は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という、主イエスの言葉を記しています。 「十字架を担って生きていく」と耳にすると、どのような状況を想像されるでしょう。 苦しみを背負って耐え忍びながら、ひっそりと生きていくようなイメージでしょうか。 感染症が終息しない中で、様々な困難に直面し、教会でも様々な制約を課されてしまった。 十字架を背負って耐えて生きていこうと呼びかけている言葉でありましょうか。 そうではないように、わたしは思います。 そもそも、十字架とはいったいなんでしょう。 重荷のことでしょうか。 苦しみのことでしょうか。 十字架が重荷や苦しみだけであるならば、それはどう見てもマイナスのイメージでしかありません。 しかしここでイエスが語る十字架は、主にふさわしいものとされるための十字架であり、すなわち神に良いものとして認められるための、前向きな存在であります。 十字架とはいったいなんでしょう。 コリントの信徒への第一の手紙の1章17節に、パウロの言葉が記されています。 「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」 コリントの教会にあって、誰から洗礼を受けたのかということで派閥争いが起きたとき、パウロは、自らに与えられた使命は、「洗礼を授けるためではなく、福音を告げしらせる」ことなのだと宣言します。 もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、洗礼よりも前に、まず大切なことがある。 それはイエス・キリストの福音を告げることなのだと、パウロは宣言します。 加えてパウロは、「しかも」と続けます。 「しかも、キリストの十字架がむなしいものとなってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げしらせるためだからです」 福音を、言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなるというのです。 ここではじめて、パウロが語る十字架の意味が明らかになります。 すなわち、言葉の知恵によらずに福音を告げしらせているのが、キリストの十字架そのものであります。 言葉の知恵によらないとは、具体的に目に見える行動をもってのあかしが、十字架だということであります。 十字架は、自らが創造された人間の救いのために、神ご自身がその愛といつくしみの充満として、積極的に行動した愛のあかしであります。 神ご自身の行いによる愛のあかしそのものが、十字架です。 十字架は、重荷や苦しみの象徴ではなく、積極的な愛の行動の象徴です。 神の満ちあふれる愛といつくしみが、目に見える形となった時、イエスは十字架に自らかかり、そのいのちをいけにえとして御父にささげられました。 これほど前向きで、積極的な、愛のあかしはありません。 教会は、神がその似姿として創造された人間のいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく尊重され護られなくてはならないと、繰り返し主張してきました。 いま、いのちを守るために世界が連帯しようとするとき、政治体制の違いや経済的利益の追求などの壁を乗り越えて、優先するべき価値を見直すときに来ていると感じます。 教皇フランシスコは、人間のいのちの尊厳を守るために、そのいのちが生きている地球全体を守ることの大切さを強調されています。 教皇フランシスコは、5月24日のアレルヤの祈りの際に、このように宣言されました。 「5月24日から来年(すなわち2021年 の5月24日までのこの一年間は、この回勅(「ラウダート・シ」)について考える特別な年となります。 わたしたちがともに暮らす家である地球と、もっとも弱い立場にある兄弟姉妹を大切にするために力を合わせるよう、わたしはすべての善意の人に呼びかけます」 教皇はこの回勅「ラウダート・シ」の中で、現代社会についてこう指摘しています。 「現在の世界情勢は、『不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床』となります。 人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。 」(204) 教皇は、世界に広がりつつある個人主義や利己主義を克服するために、新しいライフスタイルを生み出し、社会を変えていかなくてはならないと呼びかけています。 世界中で自粛生活が続いた今、わたしたちはライフスタイルを見直すチャンスを与えられているようにも思います。 「神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとっての任意の、あるいは副次的な要素ではありません」(217)と教皇は呼びかけます。 愛のあかしである十字架を、わたしたちは自らの生き方で、言葉で、行いであかししていきたいと思います。 あかしして生きることこそ、十字架を担って生きていくことです。 そうすることで、神のふさわしいものとされることができます。 神にふさわしいものは、当然、神が愛を込めて創造されたこの世界を大切にするものでもあります。 いま、わたしたちにとって必要な生きる道は、どこに向かって開かれているのかを、信仰の目をもって見極めてまいりましょう.

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