清少納言 紫式部。 紫式部

『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部

清少納言 紫式部

清少納言とは? 清少納言 枕草子絵巻 鎌倉時代 出典:Wikipedia 清少納言は平安時代中期に活躍した女性です。 優れた教養を持ち、藤原定子の女房として活躍する傍ら、枕草子を書き上げています。 清少納言が宮廷で出仕したのはわずか7年程ですが、その時のエピソードは枕草子でいきいきと描かれています。 定子が亡くなった後は出仕を辞め、その後については良く分かっていません。 容姿 平安時代は真っ直ぐな黒髪が女性の美しさとして、大きな意味合いを持っていました。 清少納言はくせ毛だったようで、かなりのコンプレックスを持っていました。 枕草子で「灯した灯で自分の髪の節が昼間より見えて恥ずかしい」等と何度も自身の髪について触れています。 宮廷では付け毛をしていたとも言われます。 また顔については不明ですが、百人一首のイラストでは横向きに描かれている事が多いです。 一説では容姿が良くないから正面から描くのを避けたとも言われています モンストでは美女ですが。 とは言え清少納言は2回結婚しており、宮廷では多くの男性からアプローチを受けています。 容姿は優れなかったとしても、人間的な魅力に溢れていた事は想像出来ます。 本名は? 清少納言の本名は不明です。 この時代、女性は結婚する男性にしか名前を教えないという習わしがありました。 清少納言に限らず多くの女性は名前が分かっていません。 諾子 なぎこ と言う説もありますが、確証はありません。 また清少納言の少納言とは職名の事であり、正式な読み方は「せい・しょうなごん」です。 しかし親族に少納言職を務めた人物はおらず、名前の由来は不明です。 清少納言の生涯・年表 清少納言の前半生 清原元輔 出典:Wikipedia 生没年は不明で、966年頃と言うのが定説です。 父親は 清原元輔と言う著名な歌人であり、万葉集の訓読や後撰和歌集の編纂をしています。 曽祖父は 清原深養父と言い、古今和歌集を代表する歌人でした。 清少納言は幼少期から漢学を学び、この時代の最高水準の教育を受けています。 981年頃、15歳前後で陸奥守の 藤原則光と結婚し翌年には 則長を生みます。 しかし則光は無骨な性格だったようで教養深い清少納言とそりが合わず、10年程で離婚しています。 宮廷への出仕 藤原定子 枕草子絵巻より 出典:Wikipedia 993年の27歳頃に、関白藤原道隆から娘の定子の女房として出仕をお願いされます。 定子は977年生まれなので、清少納言より10歳程年下でした。 女房は政務、朝廷行事等の必要事項を主人に伝える仕事です。 男性貴族からの贈答や、機知をかけた応酬等に対し返答も求められます。 女房は優れた教養も必要だったので、清少納言には天職でした。 道隆が清少納言に定子の女房役をお願いしたのは、定子の教育係も兼ねていたからです。 当時は藤原家が権力を握りつつあった時代。 道隆は定子を 一条天皇に嫁がせました。 定子が一条天皇の子を産めば道隆の権力はさらに高まります。 道隆は定子が一条天皇から寵愛される教養ある妃になって欲しかったのです。 定子は清少納言に教育を受ける前から聡明な資質を持ち、父親譲りの明朗快活な性格でした。 清少納言は定子に献身的に仕え、強い尊敬の念を持っていました。 清少納言は貴族と対等に応酬を交わし、その教養は評判を呼びます。 定子のサロンは活気に満ちていました。 また多くの貴族と親交を持ち、特に藤原実方とは恋仲であったと言われます。 定子の没落 一条天皇像 出典:Wikipedia 清少納言が定子に仕えた頃、道隆の家系は隆盛を誇っていましたが、995年に道隆が糖尿病で病死すると、家運は傾いていきます。 道隆の弟である 藤原道長が朝廷で力を持つようになり、定子の兄弟も左遷させられ、道隆派は朝廷内で没落していきます。 清少納言はそんな中でも定子に献身的に仕えていましたが、「藤原道長と通じている」と噂を立てられてしまい、定子の為に宮中での出仕を辞めてしまいます。 定子も権力闘争に疲れ出家をしていましたが、一条天皇は定子を深く愛しており、宮廷に呼び戻します。 定子は清少納言に再び女房として出仕して欲しいと要請し、清少納言は再び出仕を始めます。 2人には年齢を超えた信頼が芽生えていたのです。 定子と一条天皇の仲は良好でしたが、1000年に定子は難産の末に24歳で亡くなります。 清少納言の悲しみは大きく、朝廷への出仕を辞めてしまいます。 出仕を辞めた後の清少納言 藤原実方(菊池容斎『前賢故実』より)出典:Wikipedia 宮廷での出仕を退いた後は親子程離れた年の 藤原棟世と再婚し、 子馬命婦と言う娘が生まれます。 再婚の時期ははっきりせず、離婚後まもなくと言う説もありますが、宮廷で実方と恋仲だったと言われる事から、朝廷時代に夫がいるとは考えづらいです。 1000年頃の再婚だとすると当時ではかなりの晩婚かつ高齢出産です。 その後は藤原棟世がいた摂津国で暮らしたと言われます。 死因やその時の状況は不明ですが、晩年には父親の山荘のあった東山月輪に住み、宮廷で親交のあった貴族や女房と親交を持った形跡があります。 後述する枕草子は1008年頃まで執筆していたようです。 清少納言の死因 その後は1025年頃に59歳で亡くなったと言われます。 醜い老婆になったとも言われますが、これは「才を持つ女性は不幸になる」という鎌倉時代の思想から来ています。 実際には宮廷の事を思いながら慎ましく暮らしたのではないでしょうか? 清少納言の生涯年表 966年 誕生 981年 藤原則光と結婚。 翌年に則長誕生 991年 則光と離婚 その後も宮廷で関わりあり 993年 藤原道隆の要請で定子の女房となる 995年 道隆死去。 翌年に定子の兄弟が左遷 この頃に定子も清少納言も宮廷から退く。 997年 定子の還俗に伴い出仕再開 1000年 定子死去に伴い宮廷から退く 後に藤原棟世と結婚し子馬命婦誕生 1008年?頃まで枕草子を執筆する 1025年頃死去 清少納言と紫式部との関係は? 紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵)出典:Wikipedia 清少納言と紫式部はライバルだったと言われていますが、2人に面識があった記録はありません。 999年に藤原道長が権力を掌握する形で、娘の 彰子を一条天皇に嫁がせます。 この時点で一条天皇には妃が2人いました。 しかし1000年には定子は死去。 清少納言は宮廷勤めを辞めてしまいます。 道長は彰子の女房を勤めて欲しいと打診しましたが断られています。 1006年に紫式部は彰子の女房となり宮廷勤めをしています。 2人が宮廷に出仕した時期はずれているのです。 紫式部日記に書かれた事 紫式部日記絵巻 出典:Wikipedia 面識がないとは言え、紫式部が清少納言の事を強く意識していた事が紫式部日記から伺えます。 現代語訳すると ・清少納言は得意顔で漢字を書き散らしてるけど、よく見たら間違いも多い。 風流を気取る人は、周囲と違う感性を持とうとするあまり、大した事ではない事に感動したり『素敵』と思う。 いずれ一般的な感覚とかけ離れてしまい、中身のない人間になる。 そんな人は将来ロクな事にならない。 と辛辣な評価を下しています。 紫式部が宮廷に出仕する頃は枕草子は貴族の間でも評判になっており、その中には清少納言が教養で男性をやり込めたり、いきいきとしたサロンの様子が綴られていました。 紫式部は漢字が読めるのに読めないフリをする等、優秀さを表に出さない性格でした。 清少納言の社交的な性格は根本的に合わなかったのでしょう。 紫式部は一方的に清少納言の事を悪く言っていますが、清少納言は紫式部の存在さえも知らないままだったのかもしれません。 歴史にifはありませんが、もし2人が同じ時期に宮廷にいたら、性格の違いや立場の違いからライバル関係にあった可能性はありますね。 清少納言の代表的な作品 枕草子 枕草子絵巻 出典:Wikipedia 清少納言を代表する作品です。 紫式部の執筆した源氏物語は日本最古の長編小説ですが、枕草子は日本最古の随筆でありブログです。 「をかし」という知的な趣を楽しむ様はこの枕草子から始まったと言われます。 枕草子は定子が冊子を清少納言に持ってきた事から始まります。 定子 「この冊子に何を書こうか迷っています。 一条天皇は史記 中国の歴史書 を書き写しているようです」と尋ねると 清少納言は 「 それは枕でございます」と答えました。 定子は返答に感嘆し、その冊子を清少納言に渡します。 当時は紙は貴重であり、天皇の妃から頂くのは名誉な事でした。 清少納言はその日から枕草子を書き連ねます。 枕の意味 白楽天・『晩笑堂竹荘畫傳』より 出典:Wikipedia 清少納言は中国の詩人、白居易の詩文集の一節である 「書を枕にして眠る」を引用して答えたと言われます。 書を枕にして眠るという事は、枕元に冊子を置いておき、気づいた事を書き留めておけばどうですか?という事になりますね。 枕の意味は諸説あり、他にも一条天皇が書いている史記を敷きと掛け言葉にし、 「帝が敷き布団だから、皇后は枕ですね」と返答したとも言われます。 枕草子の内容 清少納言が感じた事を書き綴ったものです。 内容は大きく3つに分けられます。 憎たらしいもの。 長話するお客。 硯に髪の毛が入ってすられたもの…etcという感じです。 あるテーマで感想を書きながら、清少納言の独自の感性が書き記されています。 定子との思い出や、とある貴族をやり込めた話等、清少納言の生き方がありありと記されています。 例は後の百人一首の項を参照して下さい。 最も有名なのはやはり枕草子の冒頭のフレーズでしょう。 春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる こちらは随想的章段と言われています。 これらの章段が約300あります。 実際には各章段は区切られておらず、時系列もバラバラです。 章段数については未だに議論が分かれています。 枕草子の歴史的な意味は? 藤原道長 出典:Wikipedia 枕草子が作られた背景には、清少納言が生涯尊敬し続けた定子の存在があります。 枕草子を読むと定子の聡明さを示した文章が随所に盛り込まれています。 枕草子を執筆し始めた頃、宮廷では藤原道長が台頭し道隆派は左遷されます。 定子も宮廷で居場所をなくして、出家していた事もありました。 後に復帰はするものの、定子の立場は微妙なものでした。 清少納言は女房として枕草子を通じて、定子の魅力や楽しかったサロンの様子を皆に発信しようとしたのです。 広報やSNSに近い意味合いもあったのです。 日記的章段の項目は定子が没落した頃のエピソードは描かれず、定子が唯一の一条天皇の妃だった頃の楽しかったエピソードばかりが書かれています。 定子死去後も執筆は続き、1008年頃までその様子が確認されます。 枕草子は定子が存命時から既に宮廷で読まれ始めており、定子死去後は評判となっていました。 藤原彰子が子どもを産み、権力が道長に定着した後も枕草子を読んで 「定子がいた頃は良かった」と懐かしむ貴族や女房はいたようです。 清少納言と百人一首 小倉色紙(蝉丸)出典:Wikipedia 清少納言は枕草子だけでなく、和歌にも優れていました 本人は苦手だと枕草子で言っていますが。 清少納言の和歌は漢詩の知識を活かした作品が多く、象徴する歌が百人一首に選ばれています。 夜こめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 意味は 「函館谷の鳥の声真似は騙せても、逢坂の関は開きません。 私は騙されて扉を開ける事はしませんよ」です。 この和歌だけだと意味が分かりませんが、この作品は宮廷での清少納言の様子や性格等を端的に表したものなのです。 和歌の意味 新安県の函谷関 出典:Wikipedia この和歌は清少納言と藤原行成のやり取りの中で生まれたもので、枕草子にも載っています。 夜明けまで清少納言と話が弾んできた藤原行成ですが、突然帰ってしまい、後日 「鶏の鳴き声が聞こえたから、朝だと思って帰ってしまった」と手紙を送ってきます。 清少納言は 「鶏の声は、函谷関の鶏の声だったのではありませんか?」の手紙を送ります。 函谷関の鶏の声とは、孟嘗君が函谷関の関所を越える際に鶏の鳴き声を真似し、門を開けさせたエピソードの事です。 行成が聞いた鶏の声は嘘であり、早く帰りたかったのではないか?と尋ねているのです。 行成は 「開いたのは逢坂の関です」と手紙を送ります。 逢坂とは実際にある関所ですが、逢という言葉と掛け、逢坂の関を抜けて清少納言に逢いたいと言っているのです。 その返答に対して清少納言が歌ったのが、先程の和歌になります。 函館谷の鳥の声真似は騙せても、逢坂の関は開きません。 私は騙されて扉を開ける事はしませんよ と返答したのです。 清少納言は深い教養を駆使して、男性相手に一歩も引かずに、機知に富んだやり取りを行なっていたのです。 清少納言の性格は? 枕草子絵巻 出典:Wikipedia 先程の和歌からも分かる通り、清少納言はとても強気な性格でした。 枕草子にはこのような応酬が多く収録されています。 当時は漢字や漢詩は男性が書くもので、女性が学ぶものではないと言われていました。 そんな宮廷においても、漢詩を使った応酬で、多くの男性をやり込めています。 現在に例えるなら、バリバリのキャリアウーマンというところでしょう。 とは言え枕草子には清少納言が始めて宮廷に出仕した時に、緊張のあまり半泣きになり、物陰に隠れていたエピソードが残されています。 また宮廷での仕事も定子が亡くなるとあっさりと辞めてしまう等、定子を尊敬する思いは生涯変わりませんでした。 勝ち気な性格の中にも、繊細で優しい一面もあったのですね。 清少納言にゆかりのある地 京都御所 京都御所 御所正門・建礼門 出典:Wikipedia 清少納言が宮廷に出仕していた京都御所・内裏の清涼殿です。 現在の御所はその時よりも小さいようです。 枕草子で語られるエピソードはこの地で沢山生まれました。 清水寺 清水寺 本堂 舞台 出典:Wikipedia 京都で最も有名なお寺の1つです。 平安時代も由緒正しい神社として、枕草子に何度も出てきます。 さわがしきもの 走り火。 板屋の上にて烏の齋の産飯食ふ。 十八日に清水に籠りあひたる…等です。 千年前も十八日の縁日の日は大混雑だったのですね。 清少納言は生没年も不明であり、居住地等も不明な点が多いです。 枕草子には清水寺等、現在の京都の名所の話が多く執筆されています。 html 枕草子 山本淳子:枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い 朝日選書 最後に 今回は清少納言の生涯と枕草子について紹介しました。 清少納言の性格や、枕草子に込められた思いを知ることが出来たでしょうか? 枕草子は千年経っても色褪せる事はなく、私達も共感できる部分が沢山あります。 読みやすく現代語訳されたものもあるので、ぜひ「をかし」を感じてみませんか?.

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清少納言について!枕草子や百人一首、紫式部との関係や性格・本名を解説!

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紫式部と清少納言はライバル同士 紫式部は世界初の長編恋愛小説 「源氏物語」、一方の 清少納言は「おかしの文学」という異名をとる 「枕草子」で平安時代中期にその名を轟かせ、後世において重要な文献を残し、皇室出身者以外の女性としては社会進出の先駆けとなった人物です。 偶然にも紫式部と清少納言はほぼ同年代で同時期に朝廷へ入り、しかも与えられた役職も同じときています。 同年代で同僚、しかも役職も同じとあるので紫式部と清少納言は仲が良いのかな?とイメージしがちですが、そんなことは全くありません。 なぜなら2人はライバル同士の間柄だったからです。 紫式部と清少納言は家庭教師 紫式部と清少納言は貴族の娘が嫁入り修行をする際の貴族お抱えの家庭教師として朝廷に入ります。 そして貴族の娘とは誰なのかというと 清少納言が仕えたのが 藤原道隆(ふじわらのみちたか)の娘である 定子(ていし)、一方の 紫式部が仕えたのが 藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘である 彰子(しょうし)でした。 まず先に動いたのは藤原道隆、彼は一条天皇(いちじょうてんのう)に娘の定子を嫁がせて中宮(平安時代の皇后)にします。 これに負けまいと藤原道長は自分の娘の彰子を一条天皇の中宮として入らせ前代未聞の中宮が2人いる状況を作りました。 この戦いはどのように決着がつくのかと言うと先に世継ぎ(皇太子)を産んだほうに軍配が上がります。 天皇に並ぶ身分の皇后は人並み以上の教養と品格がなければいけません。 そのため藤原道隆と道長は比類なき才能と称される知識人の清少納言と紫式部を娘の家庭教師として朝廷に招きます。 清少納言筆頭の定子サロンと紫式部筆頭の彰子サロン 平安時代の貴族の女性社会の実態は、有力な貴族の娘にそれに次ぐ地位にある貴族の娘が仕えてグループを形成していました。 そのあり様はまるで中世ヨーロッパで貴族の娘たちが集まってできたサロンのようなグループでした。 清少納言と紫式部が所属していた定子サロンと彰子サロンは定子と彰子の周りに未婚の貴族の娘が仕え、その娘たちに一度は朝廷を引退した未亡人や既婚者のベテラン女性が指導をするような集まりだったので、いわゆる貴族の女性たちの世代交代が行われる場でした。 先に頭角を現したのは清少納言 清少納言 清少納言と紫式部はライバル関係にあったと記しましたが、実際ふたりは対面したことがありません。 ふたりが活躍した年代には5年ほどの差があり、当時の女性社会の厳しさもあってふたりが直接顔を合わせて文才を比べ合うようなことはありませんでした。 紫式部は結婚する前に一度、彰子ではないお姫様の下で宮仕えをしていたのですが、紫式部の才能を妬んだ同僚たちにいじめられ、結婚を機に引退しました。 そうしているうちに清少納言が頭角を現します。 このときに「枕草子の発表で有名になるのか?」と思いきや、清少納言は当初文学者という面よりも「接待がうまい」、「彼女と接すると気分がよくなる」といったように対人スキルの面で有名になりました。 当時お姫様と対面したいときは、最初にお姫様に仕える女性たちの筆頭が取次をし、客人の接待や所要の確認、決済の手続きなどを行っていました。 清少納言もこのような役割を担っていた女性だったので、多くの貴族と顔を合わせる機会があり彼女の立ち居振る舞いが大変優れていると朝廷中で噂されるようになりました。 清少納言はお姫様の準備が整うまでの間、訪問しに来た男性と歌や絵合わせなどで勝負をしたり、世間話やときには男性たちの悩み事の相談に親身になって乗ることで多くの支持を得ました。 要するに清少納言は男性の扱いがとてもうまかったわけです。 そしてある日、清少納言は定子から上質で高価な紙をもらいます。 これは藤原道隆が定子の勉強のために買い与えたものなのですが、定子が日頃のお礼にと清少納言に贈ったものでした。 せっかくなので清少納言はその紙を使って日記を書きはじめます。 この日記こそ皆様ご存知の 枕草子です。 枕草子には当時の貴族の習慣や生活、清少納言本人が感じた感想などが書き綴られています。 さらに今このようなファッションが流行している、このような食べ物が好まれているなど宮中の最新情報を発信し、時には悪口もストレートに書かれており、たくさんの人々が好んで読む日記へと成長しました。 一条天皇も枕草子のファンとなり、毎日のように定子サロンに通うようになりました。 清少納言に対抗する紫式部 紫式部 一条天皇が毎日のように定子サロンへ通う光景を見て身の危険を感じたのは藤原道長です。 せっかく娘を天皇へ嫁がせたのに一条天皇が毎日定子サロンへ通ってしまえば次期天皇の母親に定子がなるのは時間の問題です。 このままでは自分も娘も立場が危ういということで藤原道長が頼ったのは藤原家の才女、 紫式部でした。 紫式部は宮仕えに良い思い出がなかったので子育てを理由に何度も断るのですが、再三に渡る藤原道長の誘いにようやく応じ宮仕えを決意します。 紫式部を呼んだことで彰子サロンに光が戻るだろうと思っていた藤原道長でしたが、その思惑は脆くも崩れていきます。 紫式部は高飛車な女性で男性たちからのウケが悪く、清少納言を支持層に変化は起きなかったのです。 そこで藤原道長は次なる対抗策を思案します。 それは、紫式部がかねてより執筆していた 源氏物語の執筆活動を支援して清少納言の枕草子に代わる読みものとすることでした。 藤原道長から支援を受けたことで紫式部は源氏物語の執筆活動を精力的に行います。 実家で執筆活動をしていた頃は紙の入手が困難だったり、手伝う仕事の忙しさから執筆を中断することもしばしばあったのですが、紙や筆記用具は藤原道長から無限に与えられ、適宜人事や作業分担を支持して昼間でも執筆活動ができる時間を確保してもらえました。 さらにそれだけでなく、源氏物語をひたすら写本(本を書き写す)する人や飲食物の給仕、墨をする要員など紫式部の執筆活動を手伝うアシスタントまでを雇用していました。 その数なんと20名。 紫式部が執筆した源氏物語は藤原道長の期待通りに大ヒット。 一条天皇も源氏物語の魅力に惹かれて彰子サロンに通うようになりました。 紫式部と清少納言のドロドロな戦い 紫式部が源氏物語と並行して執筆していた紫日記には清少納言を恨んでいることを匂わせる記述があります。 それは清少納言が枕草子の中で紫式部の夫である藤原宣孝(ふじわらののぶたか)をバカにしたことに起因します。 清少納言は枕草子で藤原宣孝が天皇とともに神社に参拝をするときのことをこのように書いています。 清少納言 「帝が参拝は質素な身なりで行くぞと言って帝自身も粗末な服装をしていたというのに…。 藤原宣孝と言ったらひとりだけたいそう立派な紫の袴に白い狩衣を着て来たわ。 しかも山吹色の上着を羽織るといったようなゴテゴテファッション。 ただ綺麗なものを着ればいいってもんじゃないのよ。 まったくセンスがないわ。 ひとりだけ周りから浮いているし…。 他の参拝客にもいまだかつてこんなに華美な服を着て来たやつはいないって言われたそうよ。 」 この記述に対しては紫式部も復讐の執念を燃やしました。 紫式部は紫日記の中でよく同僚の愚痴や悪口をオブラートに包んで書いているのですが、清少納言に対してはものすごくストレートに書いています。 紫式部 「私は清少納言の口ぶりとか立ち振る舞いが気に入らないわ。 女のくせに殿方に張り合って政治のことに口出ししたり、漢文とか書いちゃうのだから。 私だって本当は漢字くらい書けるのよ。 でもね、私は一も書けないふりをするし、それくらい知ってるよって思ってもわからないから教えてくださる?って聞くようにしているの。 そうしたほうが殿方って女のことを可愛いって思うものなのよ。 あっでもね。 清少納言は頭もいいし、尊敬に値する人だと思うの。 ほんとよ。 でもねやっぱり私こういうことできますとか私こういうことを知ってますみたいな清少納言の態度は気に入らない。 」 最終的には紫式部の勝利 紫式部と清少納言を筆頭とする定子サロンと彰子サロンの戦いは最終的に紫式部が率いる彰子サロンに軍配が上がりました。 定子サロンでは定子が亡くなり、清少納言は娘に後事を託して宮中を去り出家しました。 その後も枕草子の執筆を続け、引退してから約8年後に他界しました。 一方、紫式部は清少納言というライバルが宮中を去り、次期天皇の母親に学問を教えた大御所として格別の扱いを受けるようになります。 紫式部は彰子の出産を見届け、子育てのやり方を教えながら源氏物語をどんどん終結の方向へ進めていきました。 紫式部は物事の一切を彰子に教え切ると源氏物語に結末を与え、12歳の娘に自分の後を継がせて隠居しました。 それからわずか約5年後、紫式部はこの世を去ります。 まとめ 日本史上において女性の社会進出の先駆けとなった 紫式部と 清少納言はどちらも比類なき才能を見込まれて時の有力者から娘の家庭教師を依頼されたライバル同士でした。 清少納言は定子を紫式部は彰子を次期天皇の母親に育てあげるという重責を担いながら日本文学の名著である枕草子と源氏物語をこの世に残した文学者です。 直接対面したことはないとされる二人ですが、清少納言は紫式部の書いた源氏物語を紫式部は清少納言の書く枕草子を読んでいたことが彼女たちの日記の記述から読み取れます。 もしかするとお互いにライバルとして認め合い、互いの著作物を読むことでインスピレーションを受けたり執筆活動の意識を高めていたのかも知れません。

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【議論】紫式部も清少納言に対してめっちゃ文句言ってたんだろ?w

清少納言 紫式部

紫式部といえば『源氏物語』を著したことで超絶有名ですが、他にも色々書いていて、その中には『紫式部日記』なるものもあります。 紫式部が書いた日記であるからには、彼女の普段の気持ちや考えが出ているんでしょうなぁ、と若いときに読んだことがあります。 そしたら、何だか清少納言のことをかなりボロカスに書いてあってビックリしたあの日。 『紫式部日記』とは 『紫式部日記』は紫式部によって書かれたとされている日記で、1008年秋から1010年正月まで、宮中の様子を中心に書かれています。 中宮彰子の出産が迫った1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。 史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。 自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部・赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。 また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通や藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。 引用元: 『紫式部日記』は何気なく書かれた日記ではありますが、当時の宮中の様子を当事者の目線でみることができるので、後世からしたら上等な史料になっています。 清少納言をディスる紫式部 さて、この『紫式部日記』の中で、『枕草子』で有名なあの清少納言について書かれた部分があるのですが、これがおもいっきり清少納言をこき下ろしていて面白いので是非知っておいていただきたい。 『紫式部日記』の中の清少納言 原文はこんなカンジです。 清少納言こそ、したり顏にいみじう侍りける人。 さばかり賢しだち、眞字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬこと多かり。 かく人に異ならんと思ひ好める人は、必ず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすゝみ、をかしきことも見過ぐさぬ程に、おのづからさるまじく、あだなる様にもなるに侍るべし。 そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん。 古文に強い人は、もうこれを読んだだけで「うわー」ってなるでしょう。 訳してみた 清少納言は、ホンマに得意顔で偉そうにしとる人や。 あんなに賢こそうにして漢字を書き散らしとるその程度も、よう見たらまだまだイケてへんところが多いわ。 こんなふうに人とはちゃうねんと思いたがる人は必ずよう見えへんし、先行きは悪うなってまうばっかりやから、風流ぶってばっかの人は、ひどく無風流でつまらんときでもしみじみと感動してるようにふるまい、また趣深いことを見逃さないようにしとるうちに、自然とそうあったらアカン誠実やない態度にもなるねん。 そんな誠実やない態度が身についちゃった人の将来が、どうして良うなる言えんねん。 なぜ紫式部は清少納言をこき下ろしたのか なかなか辛辣な言葉で清少納言をこき下ろしている紫式部ですが、一体なんでこんな言葉になってしまったのでしょう。 そこには『枕草子』の存在があります。 『枕草子』は清少納言が宮仕えをしていた7年間が、華やかに風流に描かれています。 そして、その中には漢詩を書いて周囲に褒められたという、清少納言自身の自慢話もありました。 清少納言はそれくらいあっけらかんとして社交的な性格だったんです。 それが(おそらく)紫式部には気に食わなかった。 『紫式部日記』を読めばわかりますが、紫式部は清少納言と正反対と言っていいくらいの内気な性格だったようです。 そんな紫式部にとって、キラキラした清少納言は嫉妬の対象でしかなかったんでしょう。 しかし、紫式部が宮仕えを始めたのは清少納言が宮廷を辞してから6年後ですから、2人は会ったこともないんですけどね。 でも、紫式部が出仕したときにもキラキラした『枕草子』はまだまだみんなに読まれるベストセラーでしたから、それで「なんやムカつくわー」ってひとりで日記にシコシコと悪口を書いていたわけです。 夫の悪口を言われた? 今回、これを書くにあたって色々調べているときに、面白いことがわかりました。 『日本の白歴史』というブログの、「」という記事によると、『枕草子』に、藤原宣孝という人物に書かれた部分があります。 この人は、紫式部の夫となる人です。 後に、紫式部の夫となる藤原宣孝と言う人物の服装を『あわれなるもの』という章段で語っています。 宣孝は神社に参拝する時、悪趣味でド派手な服装に身を包み、すれ違う人が二度見するほどであったと・・。 ふむ、紫式部は、もしかしたら「清少納言が過去に我が夫をバカにしたことがある」と思っていたのかもしれません。 だから「あのクソ女~我が夫を~コノヤロコノヤロ」とか言いながら日記に書いていたのかもしれませんね。 最後に 関西風に訳してサックリ書いて終わりにしようと思ったのに、調べてるうちに面白くなってきて色々書いてしまいました。 みなさんも、不用意に日記に人の悪口を書いていたら1000年後に誰かに読まれて「悪口を日記に書いて、暗いやっちゃな~」って思われることになるかもしれないので、悪口もほどほどに。

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