この 世界 の さらに いくつ もの 片隅 に 感想。 映画『この世界の(さらにいくもの)片隅に』感想 何重にも重なる「ありがとう」

この世界の(さらにいくつもの)片隅に

この 世界 の さらに いくつ もの 片隅 に 感想

この世界の(さらにいくつもの)片隅に 上映館・上映スケジュール このせかいのさらにいくつものかたすみに• 関東 6館• 東京都 1館• 千葉県 3館• 埼玉県 1館• 茨城県 1館• 関西 1館• 京都府 1館• リベラ株式会社様の提供で配信しております。 上映スケジュールが判明した上映館を掲載しております。 上映予定劇場を全て掲載しているわけではありませんのでご注意ください。 当サイトの情報によるトラブル等につきまして責任は負いかねます。 あらかじめご了承ください。 このページをシェアする•

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この世界の(さらにいくつもの)片隅に|カシマエスヒロ|note

この 世界 の さらに いくつ もの 片隅 に 感想

『この世界の片隅に』に新たに約30分の新規シーンが付け足され、「さらにいくつもの人生」が描かれたもうひとつの映画。 ここではひとりぼっち、と思ってた。 広島県呉に嫁いだすずは、夫・周作とその家族に囲まれて、新たな生活を始める。 昭和19(1944)年、日本が戦争のただ中にあった頃だ。 戦況が悪化し、生活は困難を極めるが、すずは工夫を重ね日々の暮らしを紡いでいく。 ある日、迷い込んだ遊郭でリンと出会う。 境遇は異なるが呉で初めて出会った同世代の女性に心通わせていくすず。 しかしその中で、夫・周作とリンとのつながりを感じてしまう。 昭和20(1945)年3月、軍港のあった呉は大規模な空襲に見舞われる。 その日から空襲はたび重なり、すずも大切なものを失ってしまう。

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映画感想「快楽」「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」

この 世界 の さらに いくつ もの 片隅 に 感想

《推定睡眠時間:0分》 去年ぐらいの映画だと思っていたらオリジナル版は2016年11月公開ということで観たのはもう3年前、細かいところなどは忘れてしまったしそのときに自分がどう観たのかも忘れてしまったのでをまずは振り返ってみる。 『この世界の片隅に』は観たいけど観たくない映画フォルダに入っていて、こういうのはきっと良いことなんだろうなぁと思うんですが要するに好きな人の好きっぷりファンのファンっぷり応援するときの応援っぷりが能年玲奈のあれもあって半端ないので、なにもうぶっちゃけ引く本当に申し訳ないけど。 だって能年玲奈とか知らねぇし。 戦艦とか別に興味ねぇし。 いきなり酷いことを書いている。 俺が自分で引く。 能年玲奈のあれってたぶん名前に関する事務所とのイザコザでしょうからたぶんみんなが現芸名の「のん」と呼んでいるのに逆張りしてあえて能年玲奈と表記したりしてるんでしょうね。 面倒くさい。 絶対こいつと友達になりたくないわ。 このまえ観た『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』と『誰のせいでもない』とは個人的にハイパーリンクを形成する映画だったんですが個人的にしか形成されないので別にわかってもらおうとかは思わないのですが。 ついでに言えば昨今の邦画の流れというものをすごく感じる映画であったりして、なに『海街diary』 2015 とか、『バケモノの子』 2015 とか、『君の名。 』なんかと同じ軸線上にある映画なんじゃないか、いや『世界から猫が消えたなら』みたいなのだって必ずしも違う系列に属する映画とは思えない。 まぁ俺の中でだけは。 『君の名は。 』に脱字を見つけたが個人史的価値を考慮してそのままにしておこう。 しかし『海街diary』とか『バケモノの子』と通ずるところがあるというのは今の俺でもなんとなく理解できるが(寄る辺ない子供であるとか家族の構築の主題設定が)、『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』とか『誰のせいでもない』とかとハイパーリンクを形成したと言っているのはどういうことなのだろう。 3年も前の自分の考えることはよくわからん。 とても色っぽい映画だとおもう。 すずさんはボンヤリさんではなくてすごく気を遣うし考えすぎるほど考えすぎてしまう聡明な大人の女の人だとおもう。 戦争のリアリティでは語れないとおもう。 この戦争は震災のリアリティとして否応なしに現代語訳されてしまうとおもう(だから、ちょっと冷静に見ることはできない)。 なかなか良いことを言っているじゃないか。 そうなんですよそれ違和感あったんです。 これを戦時下の生活をリアルに表現した映画として評価する声が少なくとも公開時は圧倒的に多かった気がするので、たしかに緻密な時代考証のなされた映画だけれどもそこは本質なのだろうかって思ってた。 映画にじゃなくて観る側の受け止め方に違和感を覚えたんです。 かなしい話だとおもう。 平和な日常生活が戦争に踏みにじられたことがかなしいのではないとおもう。 戦争の非日常とは無関係に生活そのものの本質的なかなしさがここにはあったとおもう(これはとくに危うい見方だとは承知している)。 ネタバレ回避のためかえらく漠然とした書き方になっている。 この人、酷いことを書いているようで意外と人に気を遣っている。 し、基本的には色んな登場人物の生活に関わる部分が増量されたのが『さらにいくつもの』だったので素直かつニュートラルに映画を観ていたんだろう。 イデオロギー抜きで見ればこれが戦争よりも(リアリティに支えられた、しかしリアルであることを本質とはしない)生活の映画だということは自明に思えるのだ、ことに『さらにいくつもの』を観た後では。 完成度でいえばオリジナルの方が良く出来ていたと思う。 新撮部分も(といっても新撮なのか単にあったことを忘れているだけなのかわからないところも多かったが)面白かったが基本的にはオリジナル版の補遺で、とくにリンさんパートの大幅増量はすずさんと夫・周作の関係の見え方を大きく変えてしまう重要なものだったが、ほぼ止め画での説明的なダイアローグが多く物語の流れを止めてしまう。 悲惨の状況をあえて軽快なテンポで綴るところにオリジナル版の映画的な面白みがあったのだとすれば、ちょっと野暮な付け足しと言えなくもない。 でも野暮にしてやろうと思ったんじゃないすかねぇ、作った人。 なんかそんな気がしますよ。 綺麗に消化させてたまるかよみたいな。 美談として消費してんじゃねぇよみたいな。 これは作り手の心情っていうよりも俺がオリジナル版の公開時に観た人の感想とか読んで思ってたことなんですけど。 あったんですよ、オリジナル版の感想で「ついに自虐史観から脱却した!」みたいなのが。 説明が少なくて想像の余地の多い詩的な映画だからそういう見方もできる。 この手の映画にしては結構、明確に右翼思想を持つ人にも好評だった記憶がある。 俺は多様な観客に開かれて多彩な解釈を許すオリジナル版のやわらかさは美点だと思いますけどやっぱ色んな客の反応に触れる中でそうじゃねぇんだよって思うところも作り手にあったんじゃないすかね。 『さらにいくつもの』はオリジナル版ほどやわらかくない。 それと比べれば生硬とさえ言えるんじゃないかと思う。 「みんなのすずさん」のイメージに嬉々として(?)亀裂を入れる。 その生活が決して望まれた生活ではなくて、他に選択肢の(ほぼ)ない中でそうせざるを得なかった生活であるにも関わらず、あえて主体的に受け入れることで戦時下の全面的な疎外状況を主体的に乗り越えていこうとすること、そうすることで空襲による破壊に解放の希望を託しつつ逆説的に戦争を肯定すること、だからこそ玉音放送を聞いて自分が受け入れ主体的にそこに与していたはずの戦争すら取り上げられてしまったと知った時に、すずさんは慟哭が抑えられなかったということが、経済的な理由から遊女として生きるほかなかったリンさんと対比される形で鋭く描き出されるのが2019年版の俺の見たところの『さらにいくつもの』だった。 そこにあるのはどこまでも自分の生活の正当化を巡る内的な戦いであって、今まさに上空を爆撃機が飛び交っている状況でなお、すずさんがその光景を絵に収めようとするように、彼女は状況に適応しているようでそのじつ敵対的な世界に一歩も譲ろうとしない強靱な自己を持った人物なんである。 そしてそれが戦争状況に固有の私的戦闘ではなく、戦争の有無と無関係にリンさんが人身売買の犠牲となったように、その状況にあっても彼女がたおやかに生き続けていたように、この世界の片隅にいくらでも転がっている生きることを巡る普遍的な戦闘であることが、たぶんきっと俺が思うにここで示されているんである。 苛烈な映画なのだ。 もうひとつ新撮部分が強調していたように見えたのは映画のオーラル・ヒストリー性で、オリジナル版を観てから『さらにいくつもの』を観ると死にかけの婆のいつもの昔話を聞き流していたら不意にいつもとは違う殺伐としたことを話し出してびっくりしつつ認知症の妄想? みたいな感じになる。 個人の記憶や記述者との信頼関係に頼る以上オーラル・ヒストリーは語られる事柄の揺らぎから免れることができないが、その揺らぎが『この世界の片隅に』という映画の客観性を解体していたように俺には思えた。 そのことが何を意味するか考える。 たぶん、オリジナル版と『さらにいくつもの』は仮の姿と本当の姿というような関係ではないんだろうと思う。 そうではなくて、『さらにいくつもの』で語られるオリジナル版では語られなかったいくつかの出来事は、細部に至るまで客観的な事実かもしれないし事実ではない部分も混ざっているのかもしれないが、そのイメージはすずさんが送ってきた過酷な生活の実相を主観的に伝えるということが重要なんじゃないだろうか。 だってこれはヒロシマ関連の映画だし、ヒロシマといえば(ということもないでしょうが…)語り部だし、語り部は公文書に記録された客観的な事実を語るのではなく、公文書には残らない主観的な歴史を文字ではなくイメージを通して語る者なんである。 客観的な出来事と主観的な出来事が交錯しない歴史は時代の真実を伝えることができない。 だから『さらにいくつもの』は、オリジナル版の物語が客観的な歴史に即して観客に受け入れられたことに応じて、(さらにいくつもの)という形で複数的・主観的な歴史を強く打ち出すことで、そのリアリティゆえにリアルから切り離されたオリジナルを、歴史の真実にもう一度近づかせようとした映画に思えるのだ。 オリジナルの方が洗練されていて面白かったけれど、そういうわけでその洗練とか野暮とかを超えた作り手の作品にかける並々ならぬ情熱と愛情にハートをキャッチされてしまった『さらにいくつもの』だった。 オール俺の想像だから違うよ単に原作に近づけたかったんだよオリジナル版は会社に短くしろって言われたんだよ、とか身も蓋もないことをもし監督がどっかのインタビュー記事とかで話してたりしたら防空壕にすっぽり身を隠すしかないが。 【ママー!これ買ってー!】 逆に『さらにいくつもの』を観てからこっちを観るとどう思うんだろう。 やっぱちょっと後ろめたい感じになったりするんだろうか。

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