伊東 四朗 死亡。 15年続く人気シリーズ 伊東四朗・羽田美智子主演『おかしな刑事』最新作

伊東四朗の急死のガセはなぜ?現在2018年の仕事は何してる?

伊東 四朗 死亡

伊東四朗の死去、急死、死亡報道が多すぎる!その真相とは? 伊東四朗が、「伊藤四郎」と間違えられて死亡説 伊東四朗と言えば、今やビックネームであり、年齢もかなりいっています。 当然何かあればニュースにもなるし、亡くなりでもすればたいへんなことになるでしょう。 先日、そそっかしい人が、伊藤四朗と言う別人の死亡記事を間違って、伊東四朗が死んだとネットにアップし、それがまたたく間に拡散。 大騒動となりました。 伊東四朗はこの話を聞いて、「今度はあなたが間違えられる番ですよ。 ドーン!」と、喪黒福造口調で怒ったとか……。 ニン!(これも、伊東四朗往年のギャグです) 伊東四朗は、キャンディーズと共演した名コメディアン 伊東四朗は、今でこそ、硬軟オールマイティの名わき役で知られる存在です。 しかし若い方には、「どーかひとつ」、コメディアンとして吹っ切れていた若い頃の伊東四郎を知っていただきもの。 伊東四朗は、1937年生まれで、もうなんと78歳になりました。 テレビドラマには欠かせない俳優として活躍していますが、デビューは、戦後の浅草の軽演劇出身で、1960年代は、三波伸介、戸塚睦夫とてんぷくトリオを組んで、一世を風靡します。 しかし戸塚、三波が相次いで亡くなり、その後、ピンのコメディアンとなった伊東四朗。 70年代後半には、伝説のアイドルグループ、キャンディーズとともにTBS「みごろ!たべごろ!わらいごろ!」で、親子コントを演じたり、「電線マン音頭」のベンジャミン伊東というキャラクターが爆発的人気となったりします。 そして1983年、NHKの「おしん」でヒロインの父親役を演じてから現代までは、もっぱら俳優業がメインとなりました。 しかし伊東四朗自身は、喜劇役者であることにこだわりを持ち続けているようです。 伊東四朗と吉田照美ラジオ「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛」がオモシロすぎる! 伊東四朗と吉田照美の生ラジオ「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛」 伊東四朗は、ラジオのレギュラーも持っています。 1997年春から始まった、毎週土曜日15時から17時の生放送「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛(おやじパッション)」です。 この番組では、伊東四朗の素に近い、昭和のおやじ的語り口が人気で、おやじたちの社会やものに対するさまざまな怒りや思い入れが、吉田照美との軽妙な掛け合いで展開しています。 番組で伊東四朗は、若者たちの言葉使いや非礼ぶりをよく怒っています。 例えば、「『なにげに』っていう言葉はないんだよ、本当は『なにげなく』だからね」や、「『すごい早い』っていう言葉はおかしいよ。 形容詞と形容詞がくっつくことはないんだから、本当は『すごく早い』だからね」など、伊東四朗は、怒らせたらなかなか恐いおやじです。 伊東四朗と小松政夫の名(迷)コンビがオモシロすぎる!」 伊東四朗は、東京は台東区の下町で育ち、戦後の浅草演芸場で芸人のいろはを教わった根っからのお笑い芸人であり、喜劇役者なのでしょう。 TBS「みごろ!たべごろ!わらいごろ!」では、キャンディーズだけでなく、小松政夫との爆笑コントがいまや伝説となっています。 小松政夫は、クレイジーキャッツの植木等の付き人からコメディアン、そして今では名優として知られています。 そのコントセンスは抜群で、後年タモリと組んだ「製材所コント」などでも有名です。 伊東四朗と小松政夫が突然歌い踊る「ニンドスハッカッカ、マー! ヒジリキホッキョッキョ! トーベトベトベガッチャマン〜、ガ〜ッチャマンニマケルナ、マケルナガッチャマン、ワ〜! しかも、それを毎回アドリブの中にいくつも織り込むのですから、見る側にとっては飽きることがありませんでした。 伊東四朗のように本物のコメディアンは、今の若手芸人のように、自分たちの中だけで完成された笑いでなく、アドリブの中で、自在に笑いを引き出すことができるということでしょう。 伊東四朗が、V6三宅健に教えた礼儀の大切さ 伊東四朗を尊敬する芸能界の若手のひとりに、ジャニーズV6の三宅健がいます。 三宅健は、この夏出演した日本テレビ「行列ができる法律相談所」で、伊東四朗とのこんなエピソードを語りました。 三宅健と伊東四朗は、97年から10年間、日本テレビ「伊東家の食卓」で共演して以来のつき合いですが、6年前の正月、伊東宅を訪問する際、約束の時間に1時間遅れてしまったそうです。 三宅が近くの駅に着き、到着が遅れてしまったことを詫びる電話を入れたところ、なんと伊東四朗は直前まで駅で待っていてくれたそうで、三宅健があわてて家に着くと、伊東四朗はそれでも、あたたかく迎えてくれたそうです。 翌日、三宅健が「昨日は寒い中、お待たせして申し訳ありませんでした」と謝罪のメールを送ったところ、伊東四朗から「気にするな。 待つほうは何もつらくない。 待たせてしまったお前のほうが申し訳ない気持ちになってつらいはず。 だから謝らなくていい」との返信をもらったという話でした。 三宅健は、客として相手を訪問する際、約束の時間に遅れてしまったときの連絡や、後のフォローの仕方などを、伊東四朗との長年のつき合いの中で、それなりに学んでいたことが想像できます。 さらに、礼儀を尽くせば、相手も寛容に迎えてくれるということを、伊東四朗は三宅健に教えたものと思われます。 しかし、伊東四朗に礼儀が大切だと教わったと自負しているほど、三宅健が礼儀正しいかと言えば、そうも見えませんが……。 いずれにせよ伊東四朗には、芸能界の頑固おやじとして、今後もがんばり続けてほしいものです。

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伊東四朗が死去で病気の真実が?現在の年齢や息子って!

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4月30日、落語家・桂歌丸(79)の「笑点」(日本テレビ系)の司会降板のニュースが流れ、日本中が歌丸師匠へ感謝の意を表した。 しかし、なかには早とちりで「桂歌丸死去」と勘違いした人が少なからずいたのだという。 なかなか失礼な話だが、「笑点」で散々ネタにされているだけに信じてしまった人も多いという。 歌丸師匠に限らず芸能人につきものなのが「死亡説」。 かつて志村けん(66)など生きているのもかかわらず「死亡した」というデマ情報がよく流れたものである。 現在はインターネットの普及により、悪質なデマが拡散することは少なくなったが、なぜか定期的に「死亡説」が流されてしまう芸能人がいる。 有名なのがコメディアンの伊東四朗(78)。 ざっと確認すると、10回以上もネット上で「死亡説」が流されている。 なぜ、伊東四朗にばかり死亡説が流れてしまうのか理由は不明だが、おそらく同じ名前の人が多くいて(伊藤四郎、井藤士郎など)、新聞のラテ面に紹介されることが多いのが原因のひとつではないかと思われる。 逆に言うと、「いとうしろう」という名前の人は、新聞に掲載されるほどの大人物になれるという意味でもあり、近年新たな都市伝説が生まれている。 (提供=ミステリーニュースステーションATLAS).

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伊東四朗の死去、急死、死亡報道が多すぎる!その真相とは?

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本名は?最初の芸名は? 伊東さんの本名は、伊藤 輝男(いとう てるお)というそうで、最初の芸名は、師匠の石井均さんに 「いとうにしよう」と言われたことから 「伊藤証(いとうしょう)」だったそうです。 ( 「一等賞」をもじって名付けられたとの説も) ただ、ポスターなどに名前が連なる時に 名前が一文字なため、先輩より目立つ。 生い立ち さて、伊東さんは、洋服の仕立て職人だったお父さんのもと、5人兄弟(3男2女)の上から4番目の三男として、東京市下谷区竹町(現・台東区台東)に誕生するのですが、 お父さんは、働きたくなければ働かないという、わがままな人だったことから、家賃が払えず、夜逃げを繰り返していたため、兄弟全員、違うところで生まれたそうです。 (そのくせ、言いたいことだけは言っていたそうで、伊東さんは、子ども心にも理不尽だと思っていたそうです) 3歳にして流行歌を歌っていた また、お父さんは趣味で三味線を弾き、お母さんは家で一日中鼻歌を歌っていたことから、伊東さんは3歳にして、お母さんに、ねんねこ絆纏(ばんてん)でおんぶされながら、 ハア~島で~育てば~ と、小唄勝太郎さんという人の 「島の娘」という歌を歌っていたそうで、 お母さんによると、買い物に出かけた際には、周りの人は、まさか、おんぶされている幼児が歌っているとは思えず、「誰が歌ってるんだろう」と見回していたとか。 さらに、伊東さんの一番上(13歳年上)のお兄さんが喜劇が大好きだったことから、伊東さんは、3、4歳の頃、 「新橋演舞場」で上演されていたお芝居 「勧進帳」を、初めて観に連れて行ってもらったそうですが、 たちまち喜劇が好きになったそうで、その後もお兄さんにしばしば浅草や有楽町の喜劇に連れて行ってもらったそうです。 Sponsored Link 少年時代には太平洋戦争を経験 こうして、貧しいながらも芸事が好きだった家族のもと、すくすくと自由に育たれた伊東さんですが、1941年、太平洋戦争が始まると、1944年11月には(伊東さん7歳)、 「B29」による本格的な空襲が始まり、伊東さんは、空襲警報が鳴るたびに、自宅の防空壕に駆け込む日々を送るようになります。 そして、ある日のこと、今でも忘れられない光景に出くわしたそうです。 ある日、空襲警報が解除されたことから、近所の人たちが家から出てきて、 ああ、みんな助かったな と、安心していると、その瞬間、電線に引っかかっていた焼夷弾が突然落ちてきて、タテノさんという近所の人の顔に直撃。 タテノさんの顔半分がスパっと削ぎ落とされて死んでしまったというのです。 この時、伊東さんは、「即死」という言葉を覚えたそうで、 私は間近で見たから、あの光景はいまだに頭から離れませんね。 と、語っておられるのですが、 その後も、翌年の1945年3月10日未明には、 「東京大空襲」に見舞われ、家族全員で手をつないで(お父さんは仕立て屋だったため、ミシンを持って)、上野の山に命からがら逃げられたのでした。 に続く.

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