モンゴメリー クリフト。 モンゴメリー・クリフト

身長が170cm代もしくは160cm代の海外の有名人(男性のみ)を教えてく...

モンゴメリー クリフト

モンティーの愛称で親しまれたモンゴメリーは、その美貌で一躍ハリウッド・スターの座を射止め、『山河遥かなり』、『陽のあたる場所』などに主演、オスカー候補に名を連ね、エリザベス・テイラーやマリリン・モンローなどと浮名を流した。 だが、交通事故を起こし、負傷した顔を手術で基に近い形にまで戻したものの、ドラッグとアルコール中毒の末、心臓発作により45歳という若さで亡くなった。 事故から10年後のことだった。 ハリウッド史上最も緩慢な自殺と言われもする。 ビューティフル・ルーザー、美しき負け犬と訳していいだろうか、などとも呼ばれ、その生涯を描いた伝記が数多く出版されている。 それに対し、「一般に記憶されているモンティーと、家族や親しい人々に記憶されているモンティーとの間には大きな溝がある。 その溝に、苛立ちと苦痛を感じる」とコメントするのは、モンティーの甥、ロバート・クリフトだ。 モンティーが亡くなった後に生まれたロバートには、幼い頃、その溝が理解できなかった。 そして、大人になったロバートは、妻であるヒラリー・デモンと共同監督兼プロデューサーを務め、このドキュメンタリー映画を作り上げた。 それは「当時の感覚に戻って、物語の陰の物語を深く掘り下げる機会」になったという。 それを可能にしたのがロバートの父、モンティーの兄にあたるブルックス・クリフトによる記録だ。 戦時中は情報を集める仕事を担当していたという職業的な習い性なのか、ありとあらゆるデータ、弟と自分の電話での会話まで残している。 豊富なデータと、親しい人々が語る思い出の中にあるのは、よりリラックスしたモンティーの姿だ。

次の

モンゴメリー・クリフトとは

モンゴメリー クリフト

俳優界の反逆児であり、パイオニアだった なにかとミステリアスな俳優である。 彼は「サンセット大通り」、「波止場」、「エデンの東」などの大作の出演を蹴ってでも、マイナーな作品に出演する性格など、自分の生きたいままに生きるアンチ・ハリウッド的なところがかっこいい。 あのマーロン・ブランドでさえも、ここまでひねくれてはいなかったはずだ。 「若手実力派」という褒め言葉を背負って立てる役者は、僕の中ではモンゴメリー・クリフトしかいない。 昔から舞台でその実力は認められていながら映画の出演をあえて避けてきた彼が、「赤い河」 48 でとうとうその風貌を銀幕に現したとき、ステレオタイプな演技を保守してきたベテランの俳優たちはクリフトのまったく新しい演技を見て、たじたじになった。 そのナイーブな瞳は、あのジョン・ウェインを出し抜くほどの奥深さであった。 クリフトは、喋っているときよりも、じっとしているときの方が、より多くを語る。 「女相続人」 49 では、クリフトが正義なのか悪なのか、わからなくなるような複雑な演技を披露し、おおいに観客を戸惑わせた。 名優スペンサー・トレイシーが得意としていた沈黙の演技を、より精神的なものに熟成させたもので、この演技法は60年代になってニューシネマの台頭と共に急速に普及していくものなのだが、クリフトはそれを10年以上も早く実現させていた。 クリフトは俳優界の反逆児であり、パイオニアだった。 演技を高め合うために産まれたアクターズ・スタジオ(映画俳優の共同体)の組員のほとんどの者は、クリフトの影響下にあるといっても過言ではない。 「私は告白する」 53 、「地上より永遠に」 53 など、エキセントリックな作品にこそ、その手腕を発揮するため、観客がついていけないこともあり、主演から脇へ回されることが多かった。 彼の出演作の中には、公開当時より、むしろ今見た方が面白く、彼が早すぎた天才だったことを裏付けている。 56年には自動車事故で顔をつぶしてしまい、61年には「ニュールンベルグ裁判」にノーギャラで出演するなど、型破りな活動を続けていた。 演技を芸術に高めたクリフトは、3度共演したエリザベス・テーラーとの失恋、男との悪い噂、アル中、全裸の死など、私生活でも謎の多い俳優であった。

次の

モンゴメリー・クリフトとは

モンゴメリー クリフト

さて、古き良きハリウッドのスターだったモンティーだが、当時のスタジオ・システム、スタジオと契約して与えられる役をこなすという形式を嫌っていた。 そうする代わりに1本、1本、自分で選び、反逆児と呼ばれた。 蹴った仕事の中には、『波止場』や『エデンの東』などもあった。 ご存知のように両作とも大成功し、前者はマーロン・ブランドにオスカーをもたらし、後者はジェームス・ディーンを世に送りだすこととなった。 モンティーは悔しがるどころか、その結果を誇ったという。 確かに、自分には合わないと考え蹴った役に、より適役がいた、自分の判断が正しかった証明とも言える。 自由に選んだのは、役だけではなかった。 美人女優と騒がれる一方で、男性との関係も噂された。 男性に声をかけたと表すのに、MenではなくYoung Boysという言葉を使った伝記もある。 年端のいかない少年を漁ったとミスリードさせるような記述に、当時のホモフォビアがうかがえる。 このドキュメンタリー映画に関わった親しい人々から要望はなかったか問われ、クリフト監督は「ロレンゾ(・ジェームズ=晩年の看護師)にはセクシュアリティーを暴き立てるようなことはするなと言われたね」と答えた。 続いて、デモン監督が「それぞれに、モンティーをこういうふうに記憶してほしいという思いがあるから」と加えた。 その思いに沿ったわけではないだろうが、この映画は何かを暴き立てることも、否定することもしていない。 声高なドキュメンタリーではないのだ。 悲劇的俳優のイメージを打ち消そうともしていない。 それどころか、後年、私生活での苦しさが、スクリーン上にまで出てしまっているようなシーンさえ入れている。 だが、悲劇に収束するだけの物語にはしていない。 現代的な考えで俳優業に取り組んでいたことや、茶目っ気のあるパーソナリティーが印象に残る。 悲劇のヒーローとして矮小化されていたかもしれないモンティーの、俳優としての功績や人物像が伝わってくる。 「もっと広い見方での叔父の人生が浮かび上がってくるものになれば」というロバート・クリフト監督の願いは、十分に果たされている。 文/山口ゆかり ロンドン在住フリーランスライター。 日本語が読める英在住者のための映画情報サイトを運営。

次の