萩尾 望都 ポー の 一族。 萩尾望都『ポーの一族 秘密の花園』が「月刊flowers」8月号で連載再開!|株式会社小学館のプレスリリース

ポーの一族:萩尾望都の傑作マンガ初舞台化 宝塚でミュージカルに

萩尾 望都 ポー の 一族

先日発売された『flowers』7月号に「」の4ページの番外編「月曜日はキライ」が掲載されました。 番外編とはいえ「 Vol. 1」から1年ぶり。 それにポーシリーズの番外編は初めてで(「はるかな国の花や小鳥」は番外編ではないと思うので)、もう「待ってました!」という感じです。 このブログではポー新シリーズの感想は特にネタバレ満載なのでショート番外編くらいはネタバレせずに書きたいと思ったのですが、やっぱり無理でした。 そんな訳で未読の方はご注意くださいね。 前の記事(65)にも載せましたが予告カットはこちらでした。 (『flowers』2020年6月号より) 予告が「 番外編」なのでてっきり1888~89年のクエントン館が舞台かと思ったのですが、全然関係なかったですね。 今月号の表紙にも「」と書かれているものの、作品ページは「 番外編」となっていて、もっと後の時代のお話でした。 いつ頃かはっきりとはわかりませんが1960年代か70年代でしょうか。 そして私は予告カットと『』のインタビューからガーが料理したりするコメディータッチの内容を想像していたのですが、またまた良い意味で裏切られました。 まさかアランがメインの話とは! アランファンとしては、それだけで嬉しい。 特に髪がいい感じで、こういう横分けで外にハネていなくて流れるようなスタイルが個人的には一番しっくりくるんですよね。 さ、前置きはこれくらいにして本題に参りましょう。 「ぼく誰かに売っちゃいますよ」と言うと、マダムは言います。 「いいえ 声でわかるわ 育ちのいい わがままな男の子ね 家に帰って そこらの引き出しにしまって忘れちゃうのよ でも10年後に引き出しのスミに転がってるのを見つけて あれ なんだっけ これ?と考えるんだわ ね? そういうのステキじゃない?」 マダムは当然アランを普通の少年だと思っているので10年後の姿をイメージしています。 その絵を見ると、あ、24歳のアランてこんな感じかも、と思います。 もしかしたらアランも一瞬だけ24歳の自分を想像したかもしれません。 それから数か月後にアランが再会した時、幸せそうな有閑マダムに見えた人は、実は少し違っていたのだとわかります。 マダムはもう自分のことを忘れている。 勧めたを気に入ってくれたけれど、彼女の中に10年後の自分はもういない。 家に帰ってアランはガーに言います。 「…もう月曜はキライだ…」 その後、アランは指輪をどうしたのでしょうか。 月曜日にはマダムを思い出したりしたのでしょうか。 こんな風に彼らは時々ゆきずりの人から言葉や気持ちや物を受け取ったり、あるいは与えたりしながら変わらぬ日々を生きているのだろうと思いました。 少ないセリフの中で私のベストは 「ふん きみは自分が かわいいって自信があるから 世の中に甘えているんだ」 これねー! 萩尾先生はガーとアランのおしゃべりを聞きながら作品を描くとおっしゃっていますが、先生の妄想の中でガーはこれを何度もブツブツ言ってるんじゃないかという気がします。 アランは本当に可愛い。 ただ、旧シリーズでも確かに「小鳥の巣」で小悪魔的だったけれど直接「可愛い」と形容されたことはなくて、新シリーズになってから急に強く前面に出てきた気がするんですよね。 宝塚版でガーがアランを選んだ理由に「生意気だが純粋で汚れていない」というセリフがあり、先生はこのセリフに感激して作品に使っていらっしゃるそうです。 (情報源は「作品目録」様の2020年2月9日付ニュース。 それとセットで「可愛い」も新シリーズの既定路線になり、同時にストーリー上のポイントにもなっているのかなと思います。 「可愛いって自信があるから世の中に甘えてる」。 まさにその通り! 本人は無自覚みたいですけどね。 まず、この作品の舞台はどこ? 下のコマの背景がヒントだと思うのですが… (同7月号より。 以下同) もし実際にあるとしたら、旅行好きの方ならパッと見てわかるような有名な場所でしょうか? おわかりになる方がいらっしゃいましたら、ご教示頂けると嬉しいです。 それからガーの机にある、この置物なんですが… 右のブタは何か意味がある物なのでしょうか。 左の方は何なのでしょう? そして服。 アランはずっとシンプルなシャツと大きく開いたVネックの無地のセーターを着ていますね。 「春の夢」と「」でも着ていたので、これが新シリーズの定番なのかな。 …と思ったら、今回ガーも着てる。 え? ペアルック? スーツと制服以外でペアって初めてじゃないですか? しかも最後のコマではアランがさりげなくガーの膝枕。 これが日常なら、2人は空白の40年間に前より仲良くなってたってことですかね。 ディテールで楽しませつつ、アランの心情、マダムの人生、ガーとアランの日常など多くを想像させてくれた素敵な番外編でした。 さて、来月号はいよいよ「」連載再開! 予告はこちら。 「アランの復活を願うガー。 」 う、美しい! 青いセーラー服姿のガーは「春の夢」の表紙にも描かれましたけど、また感じが違いますね。 「アランを求めるガーの彷徨。 1年ぶりにどんな話が展開するのかとても楽しみですね! あ、Vol. 1 を復習しておかなくちゃ。 それで思い出したのですが、この記事のはじめに載せた番外編のモノクロ予告、アランが釣り上げられてますけどVol. 1 で川に落ちてガーに救助されたのと関係あるんでしょうかね? 最後に一言。 先生、来月号の予告の絵が明日海さんと柚香さんに見え過ぎるんですが。 11 追記~ 作品の舞台についてsatokoさんからご教示を頂きました。 アランの背景に見えるのはロンドンの・ガーデンズにある・メモリアル(記念碑)とのこと! 検索してみましたら、とても大きくて立派な記念碑なんですね。 の夫、の功績を称えるモニュメントなのだそうです。 satokoさん、どうもありがとうございました!! アランとマダムが出会ったカフェのあるホテルは、その近くかもしれないですね。 mimosaflower.

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ポーの一族ユニコーン 萩尾望都 最新刊のネタバレ注意

萩尾 望都 ポー の 一族

私らしい着眼点だなと思ったのは三つだけで、あとはほかの方と同じような感想だと思います。 ユニコーンの感想のみのつもりが、ちょっと「トーマの心臓」と竹宮惠子さん著「地球へ…」のジョナ・マツカについても書いてました。 切り取り線のなかにあります。 はて、切り取り線の中は「ユニコーン」の感想の前に結構長い前置きです。 飛ばして構いません。 設定も忘れているところがあります。 それでも「あれ、これは多分新しい設定だ」と思うところは今作で結構ありました。 ~春の夢~は発売当時に読みました。 ブランカのブラジャーのところが印象的。 まず、私はリアルタイムで旧作のポーの一族を読んでいたわけではありません。 初めて読んだのは10数年前でしたが、思い入れもそこまでありません。 萩尾望都さんの作品では「トーマの心臓」が一番好きです。 少年たちの繊細な心の動き。 ユーリの心の傷にこちらも感情移入し、辛くなりました。 エーリク・オスカーの父との関係性には胸を打たれました。 花の24年組では初めて読んだときからかなり最近までは竹宮惠子さん著の「地球へ…」のジョナ・マツカが一番好きでした。 あとBLというか少年愛的な視点ではキースへの献身的なマツカ、というか「キスマツ」萌えでした。 ーーーーー切り取り線ーーーーー ここからようやく「ポーの一族 ユニコーン」の感想です。 まず、「エディス」のままで終わったほうがよかったのではないか? 続きを描く必要はあったのか? それについては、私はわかりません。 旧作に思い入れがある人のほうが拒否反応や、逆に続編が出たことの喜びが大きいと思います。 「エディス」のあと、エドガーが生きている というか、萩尾さんが殺さない的なことを言っていたらしいので、消息がわかった ことが今回確定した。 アランも灰の状態ではあるが滅びてはいないことが確定した。 それだけでオオッとなりました。 あと、「ユニコーン」の2巻があるかどうか、なんか店舗によって反応が違うんですが…。 まぁタイトルが変わっても続編はあるでしょう。 アランが灰のままで終わっては読者はやきもきします! エドガーの「アランを取り戻せるなら ぼくは悪魔とだって契約する」が全てを物語っていますしね。 今回のキーマン・バリーも、最初は悪党と見せておいてそうではない。 悪魔ではなさそうですが。 ただ兄であるフォンス フォンティーン を生き返らせることが彼の一番の目的なので、それが叶ったらまだ生き返ってないアランをぽいっと放り出す可能性は結構ありそうです。 」ってのが二番目に他の人と違う着眼点なのかなと自分では思います。 若い姿で同じところに長期間留まってられないエドガーが外の世界に順応できているのは、ファルカ やブランカは致し方なく命を助けるために一族に加えたわけですが、 仲間や知り合いがいるから。 全くだれも知らない状態でアランが灰だったら、精神的にヤバヤバのヤバになってるんじゃないか? なので、知り合いが外の世界にいることを羨ましく思います。 彼はアランに執着しているしそのことで精一杯なのはわかるけど、ファルカらに対して感謝とかもっとできたらなぁ…とは個人的に思いますね。 」ってのが一番他の人と違う着眼点なのかなと自分では思います。 シスター・クロエの話していたポーの村の新たな事実。 これは40年間の間に萩尾さんが新たにつけたした設定だと思うので、なくても構わないかな。 でもありだとは思います。 ハンナのことも新たに少しわかったし。 ジュリエッタ、ママ、サルヴァトーレ・ルチオの歌に関するストーリーは普通でした。 サルヴァトーレ・ルチオは今後も出てきそうですね。 最後に。 アラン、復活して欲しいような…でもそしたら今度こそ新・ポーの一族も終わりだから言い切れないような。 萩尾さんは殺さないと言っていたけど、エドガーとアランが滅びる、あるいはアランが復活しエドガーのみが滅びる、あるいはポーの一族全体が滅びるなどのENDもあっていいと思います。 」ってのが三番目に他の人と違う着眼点なのかなと自分では思います。 それではこの辺で。 続編を待っています。

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萩尾望都『ポーの一族 秘密の花園』が「月刊flowers」8月号で連載再開!|株式会社小学館のプレスリリース

萩尾 望都 ポー の 一族

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 草森紳一が「あるとき小説がすごく古臭いものだと思った」と書いていた。 草森は写真家やイラストレーターに会っているうちに、そう思うようになったらしい。 それがぼくには少女マンガでおこったようだった。 なかでも萩尾望都には驚いた。 これはどこにも類縁がない。 もし類縁があるとすれば、プラトンかエドガー・アラン・ポーかである。 しかし、ぼくはそういうものがまさか少女マンガになるとはまったく思っていなかったし、ましてそのマンガを読み耽ることになるなんて、考えもしなかった。 たしかに手塚治虫やつげ義春やかわぐちかいじや諸星大二郎に感服して、一夜が明けるということはよくあった。 それがいつのまにか、渋谷区松濤の通称「ブロックハウス」の階段を上がったところの広い踊り場に堆(うずたか)く少女コミックが次々に積まれるようになって、それをこっそりぼくが読むようになろうとは。 ここでは『ポーの一族』だけを相手に話すことにするが、この作品は第1に、なんといっても少年愛を描いている。 ぼくはそれまで稲垣足穂をさんざん読み、やジッドやの少年愛感覚の大半を通過し、のみならずやコクトーや三島のホモセクシュアルな感覚もかなり近寄せてきたのだが、そういうぼくの目にも萩尾望都の感覚は格別に新しかった。 こういう言い方では説明にならないが、まずもってメタフィジカルな少年愛なのである。 プラトンなのだ。 あえていうのならラファエロ前派というところ。 ともかくも、それはのでもないし、土方巽の男色芸術感覚でもなかった。 少女感覚の中の窓際に結晶するプラトン的でダンテ・ガブリエル・ロセッティふうの窓枠のような少年像なのである。 かつて、そういう感覚がなかったとはいえないが、それを女性が持ち出して描き切るなどということは、かのガートルド・スタインももなしえなかった。 第2に、『ポーの一族』では時間がとまっている。 主人公のエドガーは14歳のままであり、アランも「ときを越えて遠くへ行く」ことを決意する。 この停止した「時」の世界は、かつてダンセイニが描いた薄明である。 そこでは神々だけがサイコロで遊んでいた。 あるいは道元の「有時」である。 そこでは山水だけがこちらを向いていた。 しかし萩尾望都はこの薄明の「時」の世界に日常社会を持ち込んだ。 しかもごくありふれた少年たちの日々を。 ヘッセがダンセイニの書き割りに入ってきたわけである。 これによってこの作品は平板なSF性を突破した。 「リデル・森の中」に描かれたように、二人の歳をとらない少年と一人の成長しつづける少女の同時間進行という、いわば「時間の矛盾」をも主題に採り入れることができたのである。 これは萩尾望都が物語作家の才能の秘密を、ずいぶんはやくに手に入れたことを象徴していた。 第3に、この作品のすべての登場人物はバンパネラの一族であることによって、かの忌まわしいメンデルの遺伝法則をぬけぬけと免れている。 これはとびきりだ。 なにしろ少女たちにとって、エンドウマメの皺が優勢だか劣勢だかの遺伝子によって自分の顔の皺や色や形になることほど恐ろしいことはないのである。 しかもその継承を一代の永遠に閉じ込められる。 これは考えてみれば、断固とした反遺伝学なのである。 『ポーの一族』が分子生物学が強烈な勢いで浮上してきた1970年代前半の作品であることをおもうとき、この反時代性こそは萩尾望都の気骨のあるメッセージとなって、その後の少女マンガ界全体を引っ張っていたようにおもわれる。 第4に、この物語はエドガー・アラン・ポーの末裔であることを生かした。 ぼくはタイトルが『ポーの一族』となっているのを知ったとたん、あっ、これはやられたと思った。 ポーの末裔になることは、レイ・ブラットベリがずっと憧れ、しかもそのように自分がなりえたことを壮年になってやっと誇っていたことだった。 ぼくはそのことをロスアンゼルスのブラッドベリの自宅で確認したものだ。 「よくもうまうまとポーの末裔になりましたね」。 ブラッドベリは嬉しそうに言ったものだ。 「はっはっは、それがぼくが作家になろうとした動機だったんですからね」。 萩尾望都はそれをやすやすと20代のうちに成就した。 第5にまとめていうが、これは『ポーの一族』だけのことではないけれども、萩尾望都はこの一作によって物語作家としての力量があること、絵で読ませる才能に富んでいることを告示した。 とりわけコマ割りと絵のつづきぐあいが、堪能させた。 のだが、もともとコマ割りと残像効果は日本人の表現特性かとおもうくらいに、巧みなものがある。 おそらく絵巻、屏風、襖絵、連歌、俳諧、風呂敷、生け花、和菓子、懐石料理などの表象性と無縁ではないだろうが、しかし、そのような感覚をマンガにどう生かすかは、本人次第。 だいたいは手塚治虫このかた、映画やディズニー・アニメの影響と混ぜ合わせて使ってきたものだ。 ところが萩尾望都においては、これが心理心像のコマ割りと残像効果となって開花した。 というわけで、まあ技法的なことはともかくとして、ぼくは『ポーの一族』をもって、たちまち萩尾望都のファンに、いや正当な読者になったのである。 それだけではない。 萩尾望都をキーステーションにして、ぼくはなんと少女マンガが読めるようになったのだ。 それまで、少女マンガの登場人物がどう見てもほとんど同じ顔であるために、ぼくは髪型と服装をいちいち確かめ、前のページを繰りながら読まなくてはいけなかったのだ。 つまり、ほとんど長時間をかけないと読めない状態だったのだ。 それがページを前戻りせずに読めるようになった。 望都さんのおかげだった。 むろん萩尾望都にはそんなつもりはなかったかもしれないが、作品の大きさと基礎体力がそれを証している。 そのような秘密が萩尾望都のどこにあったのかは、ぼくは知らない。 聞けば、朝鮮特需に沸き返る九州大牟田の町に育って、その後は大阪の小学校に転じたり大牟田に戻ったり、また吹田の中学校に行ったりのだが、そこに何かの秘密が落ちていたのだろうか。 それとも、ヘッセ、、ユンク、コクトー、オルコット、アシモフ、ブラッドベリ、こそが萩尾望都の秘密の部屋だったのか。 ところでぼくは、その後、『トーマの心臓』にも『11人いる!』にも『メッシュ』にも、最近の『残酷な神が支配する』にも、ずいぶん心を動かされてきたのだが、とくに『メッシュ』はこういう青年こそがぼくの20代・30代を取り巻いていたので懐かしい極みなのだが(メッシュの全体が金髪で両側が銀髪であるというセンスは、いまやっと流行することになったもの)、そういうこととは別に、ぼくにとっての望都さんは、「少女のお姉さん」として君臨してくれてもいる大事な人でもあった。 というのも、。 数々の証言によると「女ごころ」もまったくわかっていないらしいのだが、それは此の際さておき、このがわからなくなると、ぼくは望都さんに電話を入れるのである。 「ちょっと聞きたいんだけど、松田聖子が女の子に人気があるのはどうして?」「あら、またそういうこと?」「うん、そうなんだけど」「ブリっ子というのは女の子の本質でしょ」「うん」「そういうこと、わかった?」「うん、まあ、はい」。 また、こうである。 「最近、アッシーとか、メッシーっているよね。 あれって何?」「女の子はね、みんなポンパドール夫人になりたいのよ、わかった?」「うん、はい」。 ぼくはそれでもまだ懲りないで電話する。 「あのね、プリクラはどうしてあんなに流行るのかなあ」。 だんだん質問にも自信がなくなっていて、声はしだいに小さくなっている。 それでも望都さんは、まったくしょうがないわねえという感じで、ちゃんとお姉さんをしてくれる。 「あのね、女の子は幾つになってもタカラヅカなのよ」「うん」「わかった?」「うん」「それで、松岡さんはそんなに女の子のことを知ってどうするの?」「いや、ちょっとわからなくて」「あのね、ひとつ教えておくけどね、女の子は女ごころなんてわからない男に惹かれるのよ」「えっ、そうなの?」「そう、だから心配しないで、いいのよ。 松岡さんほど無知なら立派なものよ」。 ああ、萩尾望都センセイ!.

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