小倉 山荘 百人一首。 小倉百人一首|国史大辞典・日本大百科全書

小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)とは

小倉 山荘 百人一首

百人一首を楽しみながらの、おやつタイム 広瀬すず主演映画「ちはやふる」で百人一首ファンが増えるといいな 百人一首を百種全部暗記しています。 小学生の頃、学校で強制的に全首暗記させられたのです。 強制的に、というのは大げさではなく、 「期日までに暗記できなければビンタ」という 今ではありえない指導法により、覚えました。 他にもいろいろな暗記課題を出す担任で、 今思えば役に立っていますが、 子供の頃は訳も分からず暗記していました。 おかげさまで、今でも百人一首は大好きです。 百人一首マンガの『』も大好きで 1巻発売当初からずっと読んでいます。 百人一首という思いっきり文系部活動でスポ根マンガ、 というのが斬新でした。 もきまりましたね。 ただ、私は「百首暗記している」というだけなので 試合に出るほど強くは無く、まわりに一緒にやる人はいません。 百人一首は「知っている人」と「知らない人」では勝負にならず、 「知っているだけの素人」と「知っているプロ級」でも、まったく勝負になりません。 なので、もっぱらスマホアプリで一人で遊んでいます。 そういう人、私だけじゃないですよね? 他にもいますよね? そんな、私やあなたにピッタリな 百人一首で遊べるお菓子が「かるたあそび」です。 表には上の句、裏には下の句。 パッケージが違うだけで、中身はみんな同じなのかと思ったら なんと10種類もありました。 左上から、サラダ、えび、カレー、塩ザラメ、柚子蜜、 黒ごま、たがね、紫いも、あおさ、メイプル 一口サイズて可愛らしい丸さのおせんべい。 味のバリエーションの豊かさがとても楽しい。 おせんべいの生地そのものが美味しいのですが、 それぞれの味が際立っています。 甘いのから、塩気のあるもの、 定番の味から、意外な味、 海の幸から、山の幸まで、 小さなサイズなので、飽きることなくあれこれと たくさん食べることができます。 噛んだときの歯ざわりの食感にもバリエーションがあるのが また、気が利いている。 百人一首にまったく興味が無い人でも おせんべいの楽しさ、美味しさに絶対に大満足できます。 光琳かるたのような美しさのおせんべい 小倉山荘と言えば、百人一首。 「百人一首と王朝文化をテーマにしたお菓子を届ける」 が小倉山荘のコンセプトです。 パッケージングも全商品を通して百人一首などの和歌、 日本の雅さが伝わるようなデザインになっています。 紙袋に書かれているのは 「人のよろこびかなしみまさに我が心とす 先人の伝えし一期一会のこころ 百人一首の里に 花ひらく こころづくしをおかきによせて」 一期一会の精神を書にしたためたもの、とのこと。 マチの部分には、百人一首が書かれている。 そして、おせんべいの個包装は、尾形光琳の光琳かるたを見本にして 2年かがりで描いた200枚のイラスト(表と裏)が使われている 小倉山荘のオリジナルかるたです。 本当に百首あります。 かなりちゃんとしているので、実際に遊べます。 (百種類入っていないこともあります) 自分の好きな歌を選んで食べたり、 絵で選んだりするのも楽しい。 お姫様揃え。 美しい。 一字決まりセットを揃えようと思ったら 「むすめふさほせ」の内「す・め」が入っていなかった。 ちなみに私は名前が「ちはる」なので、 「ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」 が「自分の札」でした。 かるたが好きな人は「読まれたら必ず取りたい」という 自分の札(得意札)があります。 『ちはやふる』のヒロイン、ちはやちゃんと同じ札です。 やはり自分の名前が入る歌があると、そうなりますね。 『ちはやふる』の1巻を買ってみたのも、自分の札だったから という理由が大きいかな、と思います。 面白いですよ。 価格:13,427円(税込、送料込) お菓子data 京都を中心にしたお店 小倉山荘の本店は長岡京にあります。 「」と銘した、茶寮併設のとても美しいお店のようです。 京都を中心に関西方面で展開しています。 関東では、日本橋、新宿、横浜の高島屋など 一部の百貨店にしか入っていませんが、 名古屋から西の百貨店に行くと、必ず入っているお店、 という印象があります。 実際には、京都、大阪、兵庫、滋賀、飛んで、福岡 という展開のようです。 おせんべいの美味しさもさることながら、 品が良くて繊細な心遣いのきいたパッケージングで 贈り物にはピッタリ。 そして、かるたあそびと言えば、お正月のイメージ。 これからのお正月シーズンにはなお一層 活躍するお菓子です。 写真は80袋入り1,080円。 化粧箱や缶に入っていない、袋入り簡易包装の もっと小さいサイズもあります。

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『小倉百人一首』の撰者 藤原定家に迫る◆その四

小倉 山荘 百人一首

メニュー• 読み物• 後鳥羽院に引き立てられるも、歌人としての自負から決別。 それが幸いして『新勅撰和歌集』の撰者となるも、もどかしい気持ちが覚めぬ間に、一転、優れた歌人の秀歌を選んだ『小倉百人一首』を完成させるのです。 今回は、日本古典文学を専門に研究されている小林一彦先生に、『新古今和歌集』後から晩年に至るまでの定家について、ご紹介していただきます。 院はもとより定家ら側近の歌人たちの熱意もあって、わずか四年で『新古今和歌集』は成立しました。 歌才にめぐまれ、和歌の知識や歌会の作法にも通じていた定家は、院から重宝がられました。 後鳥羽院は芸術的センスに秀で、また運動神経も抜群で蹴鞠・乗馬、さらに楽器の演奏などに通じ、どこで覚えたのか水泳も達者でした。 刀剣も自ら打ったほどです。 万能の才は、和歌にも発揮されました。 後鳥羽院は、絶対君主としてすべてを差配しなければ気がすまない帝王でした。 定家も竹を割ったような真っ直ぐな性格でしたから、ことに和歌の方面では専門歌人のプライドをかけて、院としばしば衝突しました。 単独撰だが、悔いを残した『新勅撰和歌集』 院の心中には鎌倉幕府を倒し、自ら政治の権力を掌握しようという思いがしだいに育っていました。 けれども、危うい身の処し方ではありました。 新古今時代を築いた帝王と臣下は、互いに仲違いしたまま、再び顔を合わせることはありませんでした。 処罰は院に従った側近たちにも及びました。 乱後、定家は政界に復帰します。 皮肉なことに院と距離を置いていたことが幸いしました。 和歌については一貫して主張を変えず、誰にもへつらわなかった定家でしたが、世の中に波風が立たないよう社会の平安を守るために、涙を飲んでこの要求を受け入れたのでした。 大歌人の後鳥羽院の秀歌がまったく存在しない『新勅撰和歌集』など、時代を代表する歌集とはいえません。 定家には達成感よりも、絶望感が強く残ったことでしょう。 妥協することなく完成させた『小倉百人一首』 『新勅撰和歌集』は、嘉禎元年(一二三五年)三月に、浄書本(清書された完成品)が御所に献上され、正式に勅撰和歌集として成立しました。 ちょうどその頃、嵯峨小倉山の麓に滞在することが多かった定家に、隣家で暮らしていた宇都宮頼綱(蓮生法師)から、山荘の襖障子に貼るために、百人の優れた歌人の秀歌を色紙に書いてほしい、という依頼が舞い込みます。 これが「嵯峨山庄色紙形」(小倉山荘色紙和歌)、すなわち『百人一首』の原形と考えられているものです。 『百人一首』が、しばしば『小倉百人一首』と呼ばれるのはそのためです。 定家は『百人一首』には、遠慮なく後鳥羽院や順徳院の和歌を撰び入れています。 『新勅撰和歌集』の成立から二か月後、同じ年の五月に、山荘の色紙和歌を染筆します。 芸術家として妥協することなく、定家は百人の優れた歌人の秀歌を撰び、胸のつかえも下りたのではないでしょうか。 現代に至っても広く人々に親しまれている『小倉百人一首』には、このような秘話が隠されていたのです。 討幕を計画し「承久の乱」を起こすが、幕府に完敗し隠岐に流される。 頼朝の次男で母は北条政子。 和歌は、定家の指導を受ける。 妻は北条時政の娘。 謀反の嫌疑を受けて出家し、蓮生と号す。 出家後は京都に住み、藤原定家と親交を深める。 承久の乱で敗れて佐渡に流される。 定家とも親交があり、和歌や文学の才があった。 小倉山荘からのメッセージ 定家や後鳥羽院に限らず、人生における幸不幸は予測できないものです。 また、時間が経ってみなければ、幸不幸がはっきりしないものもあります。 中国の故事の一つに「人間万事塞翁が馬」というものがあります。 これは、人生においては何が幸いして何が禍するかわからないものだ、という例えです。 生きていれば、誰しも悩みは抱えているもの。 早計に喜んだり悲しんだりするのではなく、好調な時ほど気持ちを引き締め、不調な時には諦めることなく精進していくことが大切なのだと教えられます。 誰しも幸せになりたいもの。 大晦日の夜半から元日にかけて、寺院では、梵鐘が108回突かれます。 さまざまな煩悩を除去し、希望に満ちた新年を迎えたいものです。 私たち小倉山荘は、これからも商品を通してみなさまの暮らしに寄り添ってまいりたいと考えています。 山本雄吉• 小倉山荘「メールマガジン」登録• 【特典1】メールマガジン会員様限定のクーポンなどをお送りいたします。 【特典2】新商品や無選別など販売情報をいち早くご案内いたします。 【特典3】京都情報や百人一首など特別コンテンツの配信いたします。

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ちょっと差がつく『百人一首講座』

小倉 山荘 百人一首

他人の作品をちゃっかり借用して自分の歌を作ることのようですが、 何か決まりはあるのでしょうか。 辞書・事典の類にはこうあります。 ・古歌を素材にして新しく作歌すること。 とられた古歌を本歌という。 ・先人の歌をもとにして新しい別の歌を作ること。 ・古歌の語句・発想・趣向などを採り入れて新しく作歌する手法。 わかったようなわからないような…。 同じ言葉が一つや二つあってもそれだけで本歌取りとはいわず、 本歌との間に密接な関係があってはじめて 本歌取りと認められるようです。 ややこしい。 本歌取りが盛んになったのは『新古今集』の時代。 小倉百人一首の撰者藤原定家の本歌取りも載っています。 駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野の渡りの雪のゆふぐれ (新古今集 冬 藤原定家朝臣) 馬をとめて袖をはらう物陰もないことだ 佐野の渡し場の雪の降る夕暮れは この歌の本歌は『万葉集』にあります。 苦しくも降りくる雨か 三輪が崎佐野の渡りに家もあらなくに (万葉集 巻三 長忌寸奧麻呂) 困ったことに雨が降ってきてしまった 三輪が崎佐野の渡りには雨宿りする家もないのに 長忌寸奧麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌は旅の途中の雨がテーマで、 雨宿りする家さえないことを嘆いています。 定家の歌は「佐野の渡り」という一句だけを借用。 雨を雪に替え、馬の旅だとしながらも 旅の途中の困難を描いているのは同じです。 場所も同じだし、真似しただけ、でしょうか。 そっくりといえばそっくりですが、 読んで思い浮かべる情景はかなりちがいます。 そして読者は、 定家の歌から奧麻呂の一首を思い出し、 その素晴らしさを再発見することになります。 定家の歌が本歌取りの典型としてよく紹介されるのは、 そんな理由なのです。 まず清原元輔(きよはらのもとすけ)の一首。 元輔は清原深養父(ふかやぶ 三十六)の孫で、 清少納言(六十二)の父でもあります。 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは (四十二 清原元輔) 誓いましたよね 涙に濡れた袖を絞りながら 末の松山を波が越すことがないように ふたりの思いも変わることはないと 恨みの歌ですね。 これの本歌は『古今集』にあるよみ人知らず。 きみをゝきてあだし心をわが持たば 末の松山浪も越えなん (古今集 東歌 みちのくうた) あなたをさしおいて もしもわたしが浮気心を持つならば 末の松山を波が越えてしまうでしょう 松の名所である末の松山は丘なので、波が越えることはあり得ません。 だから浮気なんてあり得ないよと、誓っているわけです。 元輔の歌も本歌取りの典型といわれます。 それは本歌に対する返事みたいだから。 本歌は浮気なんかしないと誓っていますが、 元輔はいきなり「契りきな」(約束しましたよね)とツッコミを入れます。 決して心変わりはしませんと、約束しましたよね。 それなのにあなたは…。 元輔の歌に心変わりをあらわす言葉はありませんが、 相手を責めているところから、 ははぁさては心変わりをしたんだなと、わかるわけです。 本歌を知らなくても元輔の歌はわかりますが、 当時の貴族たちはさまざまな和歌集を学んでいたので、 すぐに何が本歌なのかピンときたことでしょう。 とくに『古今集』は代表的な和歌のテキストでした。 本歌を知らなくてもよくわかる歌です。 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む (九十一 後京極摂政前太政大臣) 霜が降りるような寒い夜 こおろぎの鳴き声を聞きながら わたしは筵(むしろ)に衣の片袖を敷いてひとりで寝るのか 孤独な秋の夜を思わる歌です。 これの本歌は次の二首。 あしひきの山鳥のをのしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む (三 柿本人麻呂) 山鳥の長く垂れる尾のように 長い長い秋の夜を わたしはひとりで寝るのだろうか さむしろに衣かたしきこよひもや 我をまつらんうぢのはし姫 (古今集 恋四 よみ人知らず) 筵に衣の片袖を敷いて(独り寝をして) 今宵もわたしを待っていることだろう 宇治の橋姫は 本歌はどちらも恋の歌です。 良経は二つの本歌の恋の思いを活かし、 さらに「きりぎりす」と「霜夜」という寂寥感をかき立てる語句を選んで、 このような秀歌を産み出したのです。 さて、ここで女性歌人に登場してもらいましょう。 二条院讃岐(にじょういんのさぬき)です。 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし (九十二 二条院讃岐) 潮が引いたときでさえ水面に見えない沖の石のように 人は知らないでしょうが わたしの袖は乾く間もないのです この歌の本歌となったのは和泉式部(五十六)の作品です。 わが袖は水の下なる石なれや 人に知られで乾く間もなし (和泉式部集) わたしの袖は水の中の石でしょうか 人に知られることもなく乾く間もないのですから これなどは本歌を超えてしまっていますね。 讃岐はこの歌をきっかけに「沖の石の讃岐」という ニックネームで呼ばれるようになったそうです。 しかし百人一首の中には、曾禰好忠(そねのよしただ)のように 本歌取りされてしまった歌もあります。 由良の戸をわたる舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな (四十六 曾禰好忠) 由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が楫をなくしてさまようように わたしの恋のみちもどこに向かうのかわからない この歌を本歌取りしたのは「うかりける」で知られる 源俊頼(みなもとのとしより 七十四)でした。 与謝の浦に島がくれゆく釣船の ゆくへも知らぬ恋をするかな (源俊頼) 与謝の浦の島に隠れていく釣船のように わたしもゆくあてのない恋をしていることだ 源俊頼(七十四)は好忠を尊敬していたといいます。 有名な古歌を本歌にするだけでなく、 尊敬する歌人の作品を本歌として オマージュを作るという例もありました。 しかし本歌取りがブームになると、 ただの模倣やパロディまで出まわるようになったといいます。 そんな風潮に危機感をつのらせた定家、 弟子たちにはこう教えていました。 ・最近(八十年以内)の作品を本歌取りしてはいけない ・古歌から採るのは二句ていどがよい ・本歌とは異なるテーマで作歌するのが理想的 俊頼の歌はすれすれ大丈夫だったでしょうか。 本歌取りの手法は『新古今集』以後は廃れていきますが、 現在まで伝えられている本歌取りの和歌は 厳しい撰者たちに選ばれたもの。 作歌のテクニックを味わう楽しみがあります。

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