ディズニー 王様と私。 オオカミがモチーフのディズニーキャラクターは全部で何匹いま...

オオカミがモチーフのディズニーキャラクターは全部で何匹いま...

ディズニー 王様と私

ディズニーはピューロより一足早く再開とのこと。 ぬいぐるみを持参して涙を流して喜んでいるファンの人や、かがみんに会えたと喜んでいるファンの人を見ると、今まであまりディズニーのことって知らなかったのですが、なんかピューロファンとそんなに変わりがないようにも思えました^^ ピューロファンって、大きいぬいぐるみもって歩いている人が時々いますし、 「いちごの王様だ!」「ゆうこお姉さんだ!」とか「みゆたーん!」とかって喜んでいる人多いですし、 キャターファンというのは、行動や心理が一定程度共するのかなと思わず思ってしまいました^^ かがみんというのは、の会長だそうで、ディズニーファンにとってはミッキーに会えるぐらいうれしいことというのを聞いたのですが、 いちごの王様がサンリオの現会長で、サンリオファンが喜んでいるのと似ているのかな、と。 年末か何かのサイン会でゆうこお姉さんがキティちゃんをサインしてくださるっていうのに抽選で当たったんですが、ゆうこお姉さんは実績もあるし迫力もすごいので、ちょっと話しかけづらく…。 でもつい話しかけてしまいましたが…。 私は私で、ピューロの抽選に申し込もうかどうか、考え中です。 そりゃ行きたいですけど、やっぱりまだもうちょっと控えた方がいいのかなとか。 うーん。 でも初日に当たれば、やっぱりキティさんとか王様とかのアナウンスがあるんですかね。 でもそれ目当てでいってもなあ…。 どうしようかなというところです。 cyberlawissues.

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ディズニーパークの心くばりはここまで凄い

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アラジン 1993年8月公開のディズニー映画『アラジン』に登場するディズニープリンス「アラジン」。 アラジンは王子ではなく貧しい暮らしの中、泥棒をしている青年でした。 いつか貧しい暮らしではなく、豪華なお城で優雅に暮らしたいと夢見ます。 美しいジャスミンに恋しますが、王女だと知ってジーニーに魔法で助けてもらいながら、ジャスミンにプロポーズして結婚します。 ジャスミンが王女ですので、結婚したアラジンは王子(アリ王子)になりました。 エドワード王子は、思った通りに突っ走りやすく、素直というか物事を深く考えない性格です。 プリンスらしく女性を大切にして礼儀作法が美しいです。 ジゼル(プリンセス)を追いかけて、おとぎ話の中からニューヨークに来てしまいました! エドワード王子は、『美女と野獣』のガストンがモデルなんだとか。 サザンアイルズ王国のハンス王子は、13人兄弟の末っ子の13人目なのでハンス王子が国王になることは、ほぼありません。 兄弟が多くくて幼少から兄弟にいじめられ、国王にはなれないといじけていたことで、ハンス王子は計算高くて口がうまくなったのでしょう。 アレンデール王国はエルサとアナの姉妹ですので、結婚して婿入りすれば王様になれるとハンス王子はたくらんだのです。 しかし、ハンス王子のたくらみは、エルサとアナにばれてしまいました。 兄弟が多くて王位が低いだけでユーモアがある楽しい人なのに、少しかわいそうなプリンスです。 ディズニープリンス:番外編 ディズニープリンスではないけれど、プリンスのようなヒーローを紹介します。 ゴリラに育てられたターザンは、誠実で純粋で仲間思いに育ちました。 イギリスの貴族の息子だったターザンは、船が難破したことによって両親を亡くしてしまい、ターザンはジャングルで生き延びました。 ゴリラの研究に来た研究者に言葉などの教育を受けました。 研究者と故郷のイギリスに訪れようとしましたが、研究者の中にゴリラを売ろうとした裏切り者がいて、イギリスへ行くのを辞めてジャングルに残ります。 育ててくれたゴリラや動物たちは、ターザンにとってかけがえのない存在なのですね。 イギリスの探検家で、イギリスからポカホンタスがいるアメリカを開拓しに来た探検家のジョン・スミスは、ポカホンタスから自然の素晴らしさを教えてもらいました。 一緒に過ごすうちに、ジョン・スミスとポカホンタスは少しずつ惹かれ合っていきます。 しかし、ジョン・スミスのイギリスと、ポカホンタスのいる種族が戦争状態になります。 イギリスの発展のための開拓を選ぶか、大好きなポカホンタスの故郷を守るのか、ジョン・スミスは悩みます。 ポカホンタスをイギリスに連れて行こうとしますが、ポカホンタスの希望でジョン・スミスだけイギリスに帰ることにしました。

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ミュージカル『王様と私』2019年来日公演オフィシャルサイト

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以前この日記でも取り上げた、のリメイク版。 20世紀もどんづまりの1999年に公開された映画です。 ですが、『王様と私』とは、似て非なる映画です。 とても同じ原作小説によるものだとは思えません。 どちらがより原作に忠実なのかは分かりませんが、映画といえども、作られた時代の空気と無縁ではいられないのだ、ということを実感いたしました。 インターネットで「アンナと王様」の感想を検索してみると、 あまり好意的でない意見が結構目についたのですが、自分の考えは少し違います。 『王様と私』は確かに名画です。 名画ですが、クラシックです。 ミュージカルという制約もあるのでしょうが、俳優の動き、衣装、背景などは大変様式的で、 ディズニー映画のアニメーションのような印象を受けます。 1956年の映画では、シャムの総理大臣も王様も半裸で登場します。 一方、アンナは常に正装で、その態度たるや頑固なイギリス女性さながらです。 シャム王も彼女に負けず劣らず頑固でその上高圧的ですから、『王様と私』は頑固と頑固が対決するコミカルな映画になっています。 それはそれでいいのですが、折れるのはいつも王様。 アンナが折れたように見えるときも、王様が家を建てるなど条件を出したときに限られます。 ほとんどの場合、アンナは最終的に我を通します。 つまり、ここでは「近代」列強の脅威の前にシャムの「伝統」が折れざるを得ないという構図があるのです。 にもかかわらず、『王様と私』のアンナは自分が正しいと信じています。 実際、彼女にはそう主張するだけの映画的根拠があります。 なぜなら彼女は英国人女性でありながら執事も召使も連れず、息子と二人だけでタイにやってきたのですから。 また、夜会の席上に登場する英国人たちはきわめて紳士淑女的で、 帝国主義的侵略者の側面など、おくびにも出さない(!)のですから。 でも、実際はそうではありませんでした。 『王様と私』のアンナが身をもって体現しているのは、「近代=進歩的善」「伝統=封建的悪」という近代主義です。 ですから、 この映画のラストで王様が死に、アンナが子ども達に慕われて残ることを決意するのは、シャムの伝統の死と敗北を暗示するものに他なりません。 タイトルの登場人物の順番が物語っているように、この映画はまず何よりも 「シャムの王様」の変容と悲劇をかたる物語であったのでした。 『アンナと王様』はその辺りのことをかなり意識して作られているようです。 登場するシャム人が不自然に英語を話すというご都合主義はできるだけ排除されています。 それどころか、アンナはシャム語で子ども達に挨拶します。 時代考証的にも、こちらの方がはるかに正確でしょう。 教師と王様の恋物語というモチーフは継承されていますが、実際は 「アンナの成長物語」になっています。 『王様と私』のデボラ・カーはヴィクトリア女王でもつとまりそうな女性でしたし、それでよかったのですが、ジョディ・フォスターのアンナはまるで 「赤毛のアン」です。 思い出してください。 そう、アンもまた教師でした。 冒頭で、アンナは息子の問いかけ対して、「インドは植民地で英国よ」と答えます。 それを聞いた 彼女の執事と召使はお互いに目を見合わせます。 ここで彼女は無意識のうちに大英帝国の傲慢さを体現し、無自覚にそれを「善」と信じていることが観客に意識されます。 やがてアンナは総理大臣と謁見します。 『王様と私』の総理大臣は半裸の壮年男性でしたが、こちらは 初老の男性で、眼鏡をかけています。 つまり、旧作に比べてより知的であることを暗示しているのです。 大臣は旧作と同じようにアンナのプライベートについて根掘り葉掘り聞きます。 しかしアンナがそれに抗議すると、「この国ではプライベートなことを尋ねるのが礼儀なのだ」と諭します。 言い換えれば「郷に入っては郷に従え」ということで、アンナはここで大英帝国中心主義を改めなければならないという教訓を得、精神がゆすぶられるのを感じるのでした。 このあたりが、往年のデボラ・カーの役どころとは違うところです。 王様もまた半裸ではありません。 のみならず 読み書きの際には眼鏡を使用します。 また王になる前は僧院にいたことも語られます。 『王様と私』のシャム王はときとしてまるで聞き分けのない子どものようでしたが、今度の王は格段に知的なのです。 知的な王は、「大人に葉巻は許されるが、子どもには早すぎる」として、アンナが皇太子に貸した『アンクル・トムの小屋』を取り上げます。 アンナはそれに対して、特に抗議することも出来ませんでした(だから当然、『王様と私』にあったような、ストウ夫人の小説をリメイクした劇中劇のシーンもありません)。 できるわけがないのです。 だって彼女は『王様と私』のデボラと違って、 執事・召使という名の「近代的奴隷」を抱えて旅してきたのですから。 キリスト教で理想を語り、帝国主義で現実的に処するのが列強の常套手段でした。 「改革はゆっくりでなければならない」と王は言います。 急ぎすぎれば民心の不安と反動勢力の台頭を招き、外国につけ込まれることをよく理解していたからでしょう。 奴隷制がよくないということは王も理解していました。 だからこそ、『王様と私』のシャム王が自分の権威を高めるために手紙をアンナに代筆させたのに対し、自ら筆を執ってリンカーンにしたためたのでしょう。 たまたま猿に眼鏡を取られたために来た返事をアンナに読んで貰うシーンでは、 王の知性が曇った場合、助けになるのはアンナであることがそれとなく示唆されています。 『王様と私』で夜会に招かれた英国人達は紳士的でした。 『アンナと王様』でも表面上はそうですが、実際は侵略の意図が見え隠れしていることが席上でも明示されます。 このとき、アンナはシャム(王)のために弁護します。 この時点で、「インドは英国よ」と言った女性は、シャムと英国とを繋ぐ「中間者」に成長していたのでした。 「中間者」はしかし立場上不安定ですから間違いも起こします。 タプティムの恋は旧作と同じく本作でも悲劇にしかもより劇的に終わります。 ここで彼女は女性としての無理もない立場から一線を越えてしまいますが、 この事件がキッカケで、彼女は「学ぶ」ことについてより深く考えるようになります。 「中間者」といえば ルイもまたそうです。 旧作では母性的なデボラに押されてただの可愛い子どもだったルイですが、本作では「アンナ」と「王」の中間者、「アンナ」と「王の子ども達」の中間者としての役割を果たす少年へと成長していることに注目です。 さらには 「総理大臣」も中間者です。 旧作では完全に王サイドにいた側近は、王の危機に際してアンナに助けを求めます。 アンナはそれに応え、これもやはり旧作にはなかったシャム王の存亡の危機に際し、見事に気転を利かしてクーデターの阻止に貢献しました。 全編を通して、アンナと王はお互いからともに学びあうことによって理解と交友を深め、信頼関係を築きます。 デボラのように、王の死に際して感傷的になって全てを許すというような不自然な展開はもう必要ではありません。 しかし、お互いの立場をよく理解すればこそ、 「夫を失ってもう一人失うの?」「私は始めて理解したよ…一人の女性で満足するということがどういうことか」とお互いに間接的な愛の告白をしたにもかかわらず、別れなければならなりませんでした。 「恋愛映画」というメッセージの下に隠されたもう一つのメッセージ。 それは「成長物語」というロマンだったのでありました。 しかも、旧作の長所と短所を踏まえたうえで、それでも比較されるリスクを越えて、よく鑑賞に堪えうる作品として完成しているという印象を受けました。 だから。 この映画がタイで上映禁止なのは、「タイの王様と外国人の秘められた恋物語」というモチーフのせいであって、映画そのもののできばえとはなんら関係がないと思います。

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