島倉 千代子。 「島倉千代子」絶縁弟が孤独死 過去には姉を告発も

島倉千代子の楽曲一覧

島倉 千代子

「お千代さん」の愛称で親しまれた歌手、島倉千代子。 昭和30年のデビュー以来、「からたち日記」「人生いろいろ」など数々の大ヒット曲を生み出し、60年近くも歌い続けた。 昭和13年、東京品川で生まれる。 幼い頃、疎開先で左腕に大けがを負う。 無口で引っ込み思案になった千代子を救ったのは母親の歌だった。 16歳の時、レコード会社の歌謡コンクールで優勝、プロ歌手となる。 デビュー曲「この世の花」は200万枚を超える大ヒット。 その後も、ミリオンセラーを連発し、NHK紅白歌合戦に連続30回出場するなど、時代を代表する歌手として活躍した。 しかし私生活は波瀾万丈。 25歳で結婚するも4年で離婚。 莫大な借金を抱えるという不運に見舞われる。 その後も再び莫大な借金を背負い、乳がんを患うなど歌手生命の危機にも直面した。 それでも歌を捨てることはなく、歌うことで乗り越えた。 日本歌謡史に大きな足跡を残した島倉千代子の、歌とともに生きた人生が語られる。 これまでの出演番組•

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島倉千代子「細木数子に搾取された“16億円返済”の地獄半生」

島倉 千代子

11月8日、歌手・島倉千代子(享年75)が肝臓ガンで死去した。 島倉といえば、演歌の王道を歩むように、その生き様は苦労の連続だった。 島倉は、男を信じて手形の保証人となったせいで莫大な借金を背負わされた。 90年には完済したと報じられたが、借金問題は彼女を悩ませ続けたものだ。 05年に出版された著書「島倉家 これが私の遺言」(文芸社)でも借金について触れているが、当時の出版記念会見を取材した芸能記者が語る。 「島倉は目に涙を浮かべて、『法律が許してくれるならばこの手で刺したい』と、名前こそ明かしませんでしたが、借金を自分に背負わせた相手に対する恨み節を口にしました。 すぐにベテラン記者からは、細木数子(75)の名が指摘されていた。 総額16億円と言われる負債を抱えた島倉の後見人に細木の内縁の夫がなったのである。 当時を知る、歌謡界のOBが明かす。 「ヤクザが大勢、取り立てに来た恐ろしい現場を盾になって裁いたのが細木の旦那なんだ。 その後、細木には利用されたけど、当時の島倉は『細木のママ』って甘えてもいたよ」 島倉の借金の額は、報道によって違うが、06年に出版された、溝口敦氏の著作「細木数子 魔女の履歴書」(講談社)にはこう記されている。 〈(前略)細木自身は島倉の負債額について、二億四〇〇〇万円、四億三〇〇〇万円、一六億円、一三億円、十二億円と、そのときどきで言い分を変えている。 (中略)島倉に聞こうにも、彼女は細木のロボット同然で、負債額がいくらか把握していない〉 つまり、島倉は一時期、ヤクザの脅威から守ってくれた細木サイドの言いなりになってしまったというのだ。 同書によれば、島倉の興行権も握った細木は、77年3月に「ミュージックオフィス」という芸能プロを立ち上げ、3年間、すでに返し終わっているかもしれない借金のため、島倉を馬車馬のごとく働かせたそうである。 「当時の島倉は自宅でヘビを飼っていて、巡業にも連れて出ていた。 「仕事には妥協がなく厳しい人だった。 歌手仲間とプライベートで交流を持つことは少なく、あくまで歌手・島倉千代子を演じ、食事に行っても仕事の話しかしなかったといいます」(前出・芸能記者) 晩年は弱みを見せないようにしていたかのようだ。 11月14日、大ヒット曲「人生いろいろ」で島倉は見送られた。

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島倉千代子と細木数子の関係は?借金地獄の壮絶人生! 島倉千代子を地獄の借金地獄に追い込んだのは細木数子だった?! 島倉千代子は、1938年生まれの演歌歌手。 1970年代に入り、歌手としては順調であった島倉千代子を、不幸が襲いました。 かつて失明寸前になったところを助けてもらった眼科医の頼みで、実印を貸してしまった島倉千代子。 知らない間に、眼科医だけでなく、マネージャーや、全く面識のない赤の他人まで、数多くの人々の保証人にされてしまいました。 これにより、島倉千代子は、当時の金で、20億円近い借金を背負わされるはめになります。 しかも、その借金の多くが、ヤクザや、筋の悪い街金へと流れてしまったとか。 ここに登場したのが占い師の細木数子でした。 裏社会にも通じていたという細木数子は、表向きは島倉千代子の借金の整理役に。 しかしその実態は、島倉千代子の興行権を丸3年間押さえて、実際の借金をはるかに上回るギャラをピンハネしていたといいます。 これが、硬派ジャーナリスト溝口敦による「細木数子魔女の履歴書」に詳しくリポートされている島倉千代子の借金地獄のからくりでした。 こんな絶望的暮らしの中でも、島倉千代子は歌を歌い続け、歌が支えとなって、その借金地獄からさえ抜け出すという「人生いろいろ」を身を持って示しました。 島倉千代子は美空ひばりと並ぶ昭和の代表的演歌歌手だった 島倉千代子は、1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、まだ15歳で、同社の専属契約歌手となります。 そして翌1955年のデビュー曲「この世の花」は、売上200万枚を達成。 続けて1957年には、「東京だョおっ母さん」が150万枚の大ヒットし、映画化もされて、自らが主演を務めました。 そしてこの年、初めてNHK紅白歌合戦に初出場を果たします。 また、すでに大歌手であった美空ひばりとの共演をきっかけに、2人は生涯を通じて、姉妹のような間柄となりました。 しかし、1960年代に入ると、島倉千代子の人生の歯車は、大きく狂い出します。 1961年には、ファンの投げたテープが目に当たり、失明寸前になりますが、なんとか失明を免れます。 このとき治療を担当したのが、後に実印を貸すことになる眼科医です。 まさにこれが不幸の始まりでした。 1963年には、周囲の反対を押し切って、元阪神タイガースの藤本勝巳と結婚しますが、結婚前、そして結婚後に授かった3人の子供を中絶してしまった島倉千代子。 この3人の子供をおろしたことがきっかけで、夫婦生活は冷め、すれ違いの生活と別居の末、2人は離婚してしまいます。 かつての演歌歌手は、売れっ子であればあるほど、壮絶な人生の体験者でもありました。 不幸な生い立ち、病苦、貧困、異性問題、信頼した人の裏切り、莫大な借金など、およそあらゆる厄災を抱えながら、歌一筋に生きていく、演歌そのものの人生。 昭和を代表する演歌歌手、島倉千代子もまた、そんな演歌歌手の1人でした 島倉千代子の死因は何?「この世の花」「人生いろいろ」名曲多数! 島倉千代子の晩年は乳がんや肝臓がんとの壮絶な闘病生活だった 島倉千代子の晩年は、一般にはあまり知られていませんが、乳がんや肝臓がんによる壮絶な闘病生活を重ねていました。 島倉千代子は、2010年に、肝臓癌であることが判明して以来、手術・入退院を繰り返していましたが、2013年前半には、ついに肝硬変へと病状が悪化します。 しかし、同年3月30日、75歳の誕生日には、コロムビアレコードの100周年を記念して復活したイベント、「コロムビア大行進2013」に出演。 数千人の聴衆を前に、気丈にも数曲を熱唱しました。 これは、とても普通の人にはできないことですが、島倉千代子の心の内には、死を前にした美空ひばりの、伝説の不死鳥コンサートが、きっとあったに違いありません。 島倉千代子は生涯を通じて2000曲以上の曲を歌っていた! 島倉千代子は、生涯を通じて、2000曲以上の曲を歌ったといわれています。 デビュー曲である「この世の花」は、人気小説の映画化作品の主題歌として世に出ると、売上200万枚を達成するといういきなりの大ヒットに。 続く、「逢いたいなァあの人に」「東京だョおっ母さん」「からたち日記」など、デビューから1960年までに出された曲も、軒並みミリオンヒットを記録しました。 1960年代以降も島倉千代子のリリースは止まらず、どの曲も確実にヒットを重ね、「ほんきかしら」や「愛のさざなみ」など、斬新な楽曲にも挑戦しています。 そして1987年に登場したのが、島倉千代子の人生そのものといってよい、「人生いろいろ」でした。 タレントのコロッケによる島倉千代子の物まねが受けたことで、若者の間でも知名度が高まったこともあいまって、大ヒットを飛ばすことになりました。 島倉千代子のまさに「人生いろいろ」を生き抜いた生涯とは 島倉千代子しかり、思えば、昭和の歌手たちは、ステージ上の輝く栄光だけでは、とても埋めきらない多くの不幸を抱えていました。 それらはまた、戦後間もない日本が抱える数々の矛盾や不幸とも重なりあっていました。 今でこそ、美空ひばりや島倉千代子は、昭和の歌姫、レジェンドともてはやされていますが、事件や不幸が起るたびに、世間の激しいパッシングにさらされた彼女たちは、どれだけ孤独であったことでしょうか。 やがて、島倉千代子らが歌う流行り歌は、1960年代から1970年代へと続く政治の時代に、孤独な民衆の心の叫びといった、うがった見方がされるようになり、人々の怨み歌、演歌として定着。 演歌で売れたいのならば、不幸であるほどよいといった逆説を生みます。 そのもっとも悲劇的な存在が、藤圭子であったといえるでしょう。 しかし、1970年代に起こった音楽業界におけるビッグバンは、演歌界すら飲み込み、演歌は音楽業界の中で、今や少数ジャンルとなってしまいました。 島倉千代子の「人生いろいろ」は、彼女の多くのヒット曲の中では、ポップス的テイストの強い異質な1曲ですが、彼女の最大のヒット曲であり、代表曲。 しかし、「人生いろいろ」のヒットの影にさえ、最愛の姉の自殺や、がんの病魔が彼女を襲うという悲劇が潜んでいたのです。 島倉千代子は、このヒットを第二のデビューとして、その後も歌を歌い続けます。 そして2013年、島倉千代子は亡くなりました。 彼女の告別式には、3000人を超える無名のファンたちが集まり、出棺の時には「人生いろいろ」が流され、みんな手拍子で島倉千代子を送ったそうです。

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