お経 を 読む。 浄土真宗、法要の時は毎回同じお経なのでしょうか?

陶淵明:山海経を読む

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雑学クイズ問題 お経を唱える時に木魚を叩く本当の意味は? A. 故人の魂を静めるため B. リズムをとるため C. お経だけだと味気ないため D. 眠気覚まし 答えは記事内で解説していますので、ぜひ探しながら読んでみてくださいね! 木魚を叩く意味が意外すぎる、お経を読む時のアレを防ぐため。 木魚の意味は意外と知られていない 皆さんも人生で一度は法事に参加したり、お墓参りをした経験があるかと思います。 その際にはいろいろな法事の作法であったり、マナーを勉強していくかと思いますが、 意外と知られていないことって実は結構たくさんあるんです。 例えば、お坊さんがお経を唱えながら木魚をポクポクと叩いている姿は見たことがあるかと思いますが、 そもそも木魚を叩く本当の意味って知っていますか? お坊さんがお経を唱えながら叩くものですから、とても神聖な意味合いをもった物のように思えますが、実はそこには意外な意味が込められていたのです。 また、お盆のお墓参りや法事など線香をあげる機会がそこそこあるかと思いますが、 実は意外と線香をあげる本当の意味についても知られていないんですよね。 今回はそんな木魚をたたく意味や線香をあげる意味など知っているとためになるような雑学を紹介します。 お経を唱える時に木魚を叩く意味 まずはお坊さんが お経を唱える時に木魚を叩く意味について解説していきます。 お坊さんがお経を唱える際に使う仏具であることから、ご先祖様の魂を鎮めるといった神聖な意味合いが込められているように思う人も多いはずです。 しかし、お経を唱える時に木魚を叩くようになった本当の意味は全く神聖なものではなく、 木魚が誕生したころには単なる眠気覚ましとしての意味合いで叩かれていたのです。 お坊さんのお経を長い時間聞いているとついウトウトしてしまうことがあり、それはいくら修行を積んだお坊さんでも同じことなのです。 木魚が誕生したころのお寺ではお経の時に眠ってしまうお坊さんや修行僧が多かったそうで、これを防ぐために木魚を叩くようになったのでした。 なぜ魚を模した木なのかというと、 魚はずっと目を開けていることから寝ないと考えられていて、魚のようにしっかりと目を開けて起きて修行に励むという意味が込められているからなんです。 また、木魚を叩くことによって煩悩が吐き出されていくという説も存在しているようです。 線香をあげる意味 続いて仏壇などで 線香をあげる意味について解説していきます。 現在では線香の煙は亡くなった人の食事だと考えられていることから、良い食事にしておらうと少し高めの線香をあげる人もいますよね。 亡くなった人が次の命に生まれ変わるまでには線香の香りを食べることから、良い線香をあげれば来世が良い魂として生まれてくるとも考えられています。 しかし、実は線香をあげるようになったきっかけはこうした霊的な意味が込められているわけではなく、 単純に死臭を消すためだったそうです。 昔は現在のように亡くなった人に防腐処理などを施していなかったことから、どうしても死臭が出てしまったり、それによって虫が集まったりしていました。 現在でもお香といえば部屋の匂いを良くするために使いますが、 線香も焚くことによって強い香りを充満させ、故人の死臭を消したり虫を除けたりしていたんですね。 以上がお経を唱える時に木魚を叩く意外な意味や実は勘違いされている線香の意味についてでした、いかがでしたか? 注目記事 それでは雑学クイズの正解発表です、答えはもうお分かりですよね? 雑学クイズ問題解答 雑学クイズ問題の答えは 「D. 眠気覚まし」でした! この問題以外にも、思わず人前で披露したくなる楽しい雑学クイズ問題を用意しています。 全て解けたら雑学王かも!? 他にも、こんな雑学がお勧めです。 まとめ お経を唱える時にお坊さんが木魚を叩く意味は眠気覚ましのためである。 昔はお経の時間に眠くなって寝てしまうお坊さんや修行僧が多く、常に目を開けている生物である魚を模した仏具を叩くことにより、魚のようにちゃんと目を開けて修行に励む意味を込めていた。 また、線香は故人の防腐処理などがされていなかった時代に、死臭や故人に群がる虫を除けるために焚かれていた。 現在では故人の食事だと考えられていて、次の命に生まれ変わるまで故人は線香の煙を食べるとされている。

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門前の小僧習わぬ経を読むの意味・例文・類語を解説!

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お経は読書が基本 お経はが説かれた話の記録です。 したがって内容を理解し、実践するために何度も読みます。 また教えを伝えるため、暗記するまで読み込んだりします。 これが読経の始まりです。 後にお経を読むことが宗教的な意義を持つようになり、読経=のようになります。 仏教ではお経を読むが説かれています。 そこでや祈願のためにお経を読むことが行われるようになりました。 願いを実現させるために、仏様の前でお経を読んだり、亡くなった人に功徳を向けるために、お葬式や法事でお経が読まれます。 いろいろな読み方 読経 どきょうorどくきょう 普通お経を読む、と言うとこれを指します。 お経の本を見ながらを声を出して読むことです。 お経の音読です。 読誦 どくじゅともいいます。 看経 かんきん お経を看る。 つまり黙読です。 で使われる言葉です。 経を「きん」と読むのは唐音の発音です。 まれに読経の意味で使われることもあります。 諷経 ふぎんorふきょう 声を出してお経を読むことです。 看経と対になる言葉です。 朝夕のお勤めのお経を指すこともあります。 諷誦 ふじゅ 諷経と同じような言葉で、声を出して読むことです。 また、お経を読む趣旨などを述べる文章を読むことも諷誦といいます。 趣旨を述べる文を諷誦文といいます。 願文 がんもんとか表白 ひょうびゃくと言う場合もあります。 ときには読経よりこちらを重視することもあります。 誦経 ずきょう お経を暗誦することです。 勤行 ごんぎょう 勤=精を出す、努力して行う、から熱心に修行することを勤行といいます。 通常、朝夕などの定時の読経を指します。 「お勤め」ともいいます。 C Copyright 2007 Tobifudoson Shoboin. All Rights Reserved.

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それぞれの時に読むお経は何ですか? : 我が家は臨済宗の妙心寺派です。臨済宗のお経の本の中に

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||||||||| 鎌田茂雄「法華経を読む」 筆者は日常的にお経を読む習慣は持たないが、法華経は折りに触れて手にすることがある。 初老にさしかかった頃には岩波文庫版の「法華経」全三巻を通読した。 その時を含め、筆者の法華経の読み方は理知に傾いたものなので、法華経を、いわゆる教えの本として理解する姿勢はなかったと言える。 だから法華経読みの法華経知らずで、法華経をきちんと読んだことにはならない、と言われるかもしれない。 今回、鎌田茂雄著「法華経を読む」を読んだのは、ひとつには、鈴木大拙の宗教論の一端に接して、日本の仏教についてもう少し突っ込んだ理解を得たいと思ったことと、もうひとつは、法華経を教えの本として読むにはどのような心構えが必要か、そのヒントを掴みたいと思ったことによる。 鈴木大拙が論及している禅や浄土仏教の本ではなく、法華経を選んだのは、やはり法華経は筆者にとってもっとも近づきやすいものであったのと、折角仏教をお浚いするのなら、大乗仏教の聖典といわれる法華経にあたるのがよろしかろうと思ったこともある。 小乗と大乗の違いは、前者が個人の宗教的な救済を主たる目的とするのに対して、後者は、個人が自分自身の救済にとどまらず隣人の救済、ひいては人類全体の救済に努力せよと解くところにある。 ごく単純化して言うと、禅や念仏が、個人の個人としての救済を強調するのに対して、法華経は個人の個人としての救済を超えて、隣人ひいては人類全体の救済を目指すものだと言えよう。 無論、禅や浄土宗と雖も大乗仏教の一派であるから、個人の個人としての救済に限定したものではない、ということはわかったつもりであるのだが、やはり人類全体の救済と言うテーマは、法華経のほうに強く現われているということができる。 人類全体の救済というようなテーマは、キリスト教や回教にもないわけではないようだが、キリスト教や回教はあくまでも個人が神の前に直立し、神の超越的な愛によって救われるという、非常に個人主義的な色彩の強い宗教である。 それらにあっては、神という超越者が、個々の人間とストレートにつながっており、個々の人間はこの超越者としての神とのかかわりにおいて、自分の救いを求めなければならない。 したがって宗教は、きわめて超越的な色彩を帯びる。 超越的という点では、浄土宗も同様である。 浄土宗においては、阿弥陀仏が超越者として個々の人間の前に現れる。 個々の人間はこの阿弥陀仏という超越者との間で直接的なかかわりを確立し、そのかかわりを通じて救済されるということになっている。 つまりキリスト教の神や回教のアッラーに相当するのが阿弥陀仏ということになる。 人々はその阿弥陀仏に対して南無阿弥陀仏と念仏を唱えることで、直接に阿弥陀仏との一対一の関係に入り、その中で救われるのである。 禅においては、個人は釈迦仏とのあいだで直接的な関係を確立しようとする。 浄土宗と異なるのは、個人は超越者によって他律的に救われるのではなく、自分自身が修行を通じて釈迦仏と一体化するのである。 個人は南無釈迦仏と念仏を唱えていただけでは釈迦仏と一体化できない。 つまり成仏できない。 成仏というのは、自分自身が仏になるということなのだが、浄土宗の場合には阿弥陀様の慈悲によって仏になれるのに対して、禅においては、自分自身の修行を通じてでなければ成仏できない。 自分自身の修行を強調する点では法華経も同様である。 個々人は厳しい修行を通じてでなければ救われないのである。 しかし修行をするだけでは十分ではない。 自分自身の成仏だけを目指すものは、法華経では声聞とか延覚とか呼ばれ、そういう人達はそのままでは成仏することは出来ないとされる。 成仏できるためには、自分自身にとどまらず、広く隣人や他者の救済をも念じなければならぬ。 念じるにとどまらず、それを実践しなければならぬ。 実践と言っても、(禅のように)こむつかしいことではない。 法華経の教えをよく聞き、それを実践すればよいのである。 南無妙法蓮華経と唱えるのは、そうした実践の一つの形なのである。 このように、自分自身のみならず人々の救済に向けて修行する人のことを菩薩という。 法華経の中では、観音菩薩とか普賢菩薩といった菩薩が数多く登場し、仏の後見を受けながら、人々の救済に向けて多大の努力をするさまが美しく描かれている。 この「美しい」ということは法華経の最大の特徴である。 普通お経といえば、ご利益があるとか、ありがたいとか表現されるが、法華経は美しいのである。 ざっとこんな趣旨のことがこの本には書かれている。 この本を読むと、法華経というお経の歴史的な背景や仏教の中での位置づけ、その世界観や一つ一つの言葉(仏教用語)の意味などが、わかりやすく伝わってくる。 法華経を通じて仏教というものをとりあえず理解するには好都合な書物である。 著者鎌田氏自身は日蓮に深く帰依しているということもあって、その法華経解釈は日蓮に依拠している。 法華経はもともと天台宗にもっとも重んじられてきた教典であり、天台宗を通じて日本のほかの宗教流派にも多大な影響を及ぼしたと言われるが、なんといっても日蓮宗における法華経の扱い方はもっとも先鋭的である。 それは、仏によって救われることを求める点では他力本願だが、それについては己自身に厳しい修行を課し、あまつさえ他者の救済をも念じるという点で、法華経の大乗としての本質をもっとも切実に追求したと言ってよい。 そうした日蓮による法華経の受け止め方を、なるべく忠実に再現しようとしたのが、この本であると言える。 | 作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved C 2015-2016 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである.

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