般若心経 意味 現代語。 般若心経とは?わかりやすい般若心経全文訳!写経体験や意味、宗派の違いなど

般若心経(大本)_現代語訳

般若心経 意味 現代語

ある時、み仏は王舎城の霊鷲山(りょうじゅせん)に、 お弟子の比丘なる大僧侶と、菩薩の大僧侶たちと、 一緒に居られました。 もし善男子や善女人がありまして、 最勝智の境地に到るところの、深妙なる行道を行いたいと願いますれば、 いかように学んでよろしいかといいました。 物を離れて空はない。 空を離れて物はない。 それと同じく知覚と想像と意行と知識等も空であります。 生もなく、滅もなく、垢もなく、無垢もなく、 減もなく増もありませぬ。 それと同じく、苦もなく、集もなく、滅もなく、道もなく、智もなく、 得もなく、得ないこともありませぬ。 この所由で、最勝智の境地に到りまする真言、大明の真言、無上の真言、 無等と等しい真言はいっさいの苦厄を全滅しうる真言であって、 虚妄でないから、真実であるとしるべきであります。 大菩薩等は是(こ)のように 最勝智の境地に到るところの、深妙の法を行なわねばなりませぬ。 善い事だ、善い事だ、その通りだ、その通りだ、 お前の説いた通りに、最勝智の境地に到るところの、 深妙の法を修行すべきである。 このようにしていっさいの如来も随喜(ずいき)せられるであろう。 と、このようにみ仏は仰せられました。

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『般若心経』を現代語訳するとこうなる

般若心経 意味 現代語

もっとも有名なお経の1つ 『般若心経』は短いお経であり、おそらく日本でもっとも広く知られているお経です。 そして、知られるだけの内容が、確かにこの経典には存在します。 ただ、 読めばその内容が理解できるかといえば、それは難しいと言わざるをえません。 基礎的な仏教の知識がなければ理解できない言葉がいくつもでてきますし、余分な言葉は削ぎ落とされてエッセンスだけで構成されているため、わかりやすく伝えようとする配慮は皆無。 それだけに、解説書も山のように存在します。 しかし悩ましいのは、その解説書がまた難解なところ。 解説書の解説書が必要なのではないかと、私自身、思わず断念して閉じてしまった本も少なくありません。 『般若心経』の構成 『般若心経』は ブッダの弟子の一人であるシャーリプトラに、観音菩薩が教えを説くというシチュエーションで全文が構成されています。 しかし、それも一般的には知られていないことであり、それがこの物語の理解を一層遠ざける結果となってしまっているようにも思います。 じつは日本に伝わっている『般若心経』は「小本」とよばれるものであり、このほかに「大本」よばれるものが存在するのです。 「小本」と「大本」は、その説かんとする内容に違いはありませんが、 「大本」にはプロローグとエピローグが付いているという点が異なります。 そこで述べられている状況設定が「小本」には存在しないため、どうしても「小本」は唐突に話がはじまるように感じられてしまうのです。 もし「大本」の内容を知りたい方は、『般若心経』の訳本として古典のような不動の存在となっているをご一読されることをオススメします。 わかりやすく現代語訳する 物語のなかで観音菩薩は、一人の人間のような存在として登場しているので、ここでの訳においても観音菩薩は人間のような存在として書きました。 そのほうがわかりやすいと思うからですが、そうした配慮が果たして訳として相応しいかといえば、それはわかりません。 私はあくまでも、 1つの物語としてもっとも理解しやすい形の『般若心経』の現代語訳が書きたいのであって、原文を忠実に訳したいわけではありません。 『般若心経』は何が言いたいのか、何を伝えたいのか、その意図するところを訳したいのです。 したがって、原文には記載がないけれども補足すべき事柄があるというような箇所には、注釈とすべきことも本文のなかに組み込んで書きました。 これはもう訳を越えてしまっているわけですが、それがなければ『般若心経』をわかりやすく読むというのは不可能に思います。 正確性を重視した忠実な訳の解説書は数多あるので、ここで一通り内容を理解した後にそれらで詳細に学ぶという方法をとったほうが、おそらくは理解しやすいものと思います。 では、さっそく『般若心経』の現代語訳(私訳)に移りましょう。 太字で書かれているのが原文で、( )に書かれているものが読み方(唱え方ではない)で、その下に書かれているのが訳になります。 照見五蘊皆空 度一切苦厄 (しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく) 私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。 だから私は、自分とは何かを知るために、 この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。 しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。 確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。 驚いたことに、 「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。 その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。 色不異空 空不異色 (しきふいくう くうふいしき) まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。 つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。 これは事実として理解できるね? 体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。 不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。 この、 「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。 「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。 色即是空 空即是色 (しきそくぜくう くうそくぜしき) 私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質によって成り立っている。 存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。 そして 存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。 もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。 変化をしないから固定的な物体なのだ。 しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。 どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。 受想行識 亦復如是 (じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ) そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。 すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。 つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。 これが何を意味しているかわかるだろうか? そう、 自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。 固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。 ただ、 私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。 できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。 しかし真実としては、自分というものは存在しない。 これはつまり、 「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。 不生不滅 不垢不浄 不増不減 (ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん) あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。 私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。 あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。 私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。 「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議な「はたらき」なのである。 「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。 それが、 命だ。 だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。 この、 「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。 「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」 これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。 存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。 ただ、変化を続けるだけである。 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 (むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ) あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。 それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。 じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。 ここはとてもややこしいところだが、 頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。 これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。 私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。 真実を受け取るとは、知識で理解することではない。 だから、得ることなどできないのだ。 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 (おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん) 人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。 だが、本当にそうだろうか。 たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か? この体を作ったのは、自分か? 熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか? 自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。 それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。 存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからである。 このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。 『般若心経』のまとめ 以上が私なりの般若心経の現代語訳です。 頭で理解するだけが理解のすべてではない。 自分の体験でもって理解すること、「腑に落ちる」というような体験、すなわち「体解(たいげ)」を禅は重視しますが、しかし『般若心経』を体解するというのも雲を摑むような話に聞こえるかもしれません。 けれども、「生きること」それ自体が『般若心経』の世界を生きることにほかならないのですから、本当は何も難しく考える必要はないのでしょう。 目の前に広がる世界のすべて、小石1つとってみても、そのすべてが「空」という真理を体現していることを感じで生きれば、それでいいのです。 だから逆に、考えれば考えるほど迷いの深みにはまっていくようなものといえるかもしれません。 前述のように、 『般若心経』は「空」の思想を説いた経典です。 あらゆるものに自性はなく、変化を続けることが存在の本質としてある。 しかし その真実を知ろうとせず、不変を求めたり、不変なるものが存在すると錯覚することで、真実との間に溝が生じ、そこから苦悩が生まれる。 真実を知れば、人はもっと安らかに生きることができるというのに……。 『般若心経』が「空」を説く理由はそこにあります。 すなわち、 執着から離れよ、執着すべきものなど何もない、ということが言いたいのです。 訓読文 観自在菩薩、般若波羅蜜多を深く行じし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。 舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。 受・想・行・識もまた是の如し。 舎利子よ、是の諸法は空なる相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず。 是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法も無し。 眼界もなく、乃至、意識界も無し。 無明も無く、また、無明の尽くることも無し。 乃至、老も死も無く、また、老死の尽くることも無し。 苦も集も滅も道も無く、智も無く、また得も無し、得る所無きを以ての故に。 菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。 罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、一切の顚倒せる夢想を遠離して涅槃を究竟す。 三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。 故に知るべし、般若波羅蜜多は是れ大神咒なり、是れ大明咒なり、是れ無上咒なり、是れ無等等咒なり。 能く一切の苦を除き、真実にして虚しかず。 故に般若波羅蜜多の咒を説く。 即ち咒に説いて曰く、 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経.

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般若心経は間違い?

般若心経 意味 現代語

日本人の多くは無宗教といわれますが、意識していないだけで、神道、あるいは仏教等の様々な宗教のエッセンスが生活に溶け込んでいる国です 年末の1週間を例にとると、クリスマスから、大掃除。 除夜の鐘に、初詣・・・ 海外の方から見ると無節操にも思える宗教との付き合い方も、「信じる」宗教と、「感じる」宗教と表現できそうです。 海外ドラマをみていると、教会が物語のキーになっている作品が多々あります。 海外では生き方に悩んだとき、あるいは人生のほとんどの場面で宗教と向き合うことが多いようです。 そうした意味では、日本人は無宗教かもしれませんが、神様に頼らなくても?生きていけるのも、日本人の特徴なのでしょう 多くの日本人が宗教と向き合うのは葬式ぐらい・・・ 葬式仏教と悪口を叩かれるように、よく分からない儀式に、眠すぎるお経も宗教を遠ざけてしまう原因かもしれません。 今回のブログでは、案外知らない「お経」の世界をちょっぴり紹介させていただきます お経で、一番有名なものが、『般若心経』です。 その中身について知っている方はすくないのではないでしょうか? そもそも、お経とは、紀元前に仏教を興したブッタの言葉をのちの時代に、弟子たちが書き記したものです。 原文は、サンスクリット語であり、これが中国語に訳され、さらに日本にやってきて、今に至ります。 誰でも幸せに生きる方法のヒントだ もっと力を抜いて楽になるんだ。 苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。 この世は空しいモンだ、 痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。 この世は変わり行くモンだ。 苦を楽に変える事だって出来る。 汚れることもありゃ背負い込む事だってある だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。 この世がどれだけいい加減か分ったか? 苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。 見えてるものにこだわるな。 聞こえるものにしがみつくな。 味や香りなんて人それぞれだろ? 何のアテにもなりゃしない。 揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。 それが『無』ってやつさ。 生きてりゃ色々あるさ。 辛いモノを見ないようにするのは難しい。 でも、そんなもんその場に置いていけよ。 先の事は誰にも見えねぇ。 無理して照らそうとしなくていいのさ。 見えない事を愉しめばいいだろ。 それが生きてる実感ってヤツなんだよ。 正しく生きるのは確かに難しいかもな。 でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。 菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。 愉しんで生きる菩薩になれよ。 全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな 適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。 勘違いするなよ。 非情になれって言ってるんじゃねえ。 夢や空想や慈悲の心を忘れるな、 それができりゃ涅槃はどこにだってある。 生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。 心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。 本書は、簡単な家訓づくりのコツを教え、それを通じ、家族はもちろん、子供の成長、さらにはお孫さんの代まで、役立てるコツを指南する。 hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. html 魔鬼天使Muira. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. hikanpou. html•

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