明智 光秀 家紋。 【闇の日本史】明智光秀は天海だった…東照宮の猿は何を語る(1/2)

明智光秀

明智 光秀 家紋

もくじ• 明智光秀の妻たち ここでは、明智光秀の妻たちについてご紹介していきます。 この方、基本的には側室を持たなかったことでも有名ですね。 最初の正室は、1546年に明智光秀が18歳のときに、千草と結婚して最初の妻にしたというふうに言われています。 しかし、のち死別したという話もありますね。 京都で子供を産んだとか、色んな逸話があって、この辺りはまだ明らかにはなっていないようですよ。 次に、妻木煕子 つまきひろこ と、結婚し、正室としたというのが有名な記録ですね。 この辺りから、史実が見えてくるのでしょうね。 明智光秀の妻:妻木煕子 つまきひろこ の最後とは 明智光秀が天下の謀反人となってしまった時から、世間は明智家の記録を多くは残さないような動きになってしまったようですね。 そして、明智光秀の妻の妻木煕子の記録、そしてその最後も明確に記録として残っているわけではないようです。 明智光秀と妻木煕子の間に生まれた有名な人物とは、ガラシャ夫人ではないでしょうか。 あの関ヶ原前夜に自害をして三成を追い詰めてしまった女性ですね。 そんなガラシャ夫人の母親である妻木煕子夫人の最後も、実は謎に包まれていて、いまだにわかっていないようです。 明智光秀の子孫たち これもよく言われている話でもありますが、明智光秀の子孫たち、その末裔についても語られるという機会が多いようですね。 書籍などでもよく取り上げられたりもしている状態です。 有名な本ですと以下の本ですね。 明智光秀の子孫について書かれた本• 明智家の末裔たち• 光秀からの遺言 最近ですと、明智光秀のイメージというのもいい印象の部分というのが出てきているのかもしれませんね。 僕の子供のころとかは、やっぱり信長を殺してしまったという悪いイメージ、ダークヒーロー的なイメージの方が強いですね。 それが、どんどん変わってきて、このような本とかも発売されるようになったのかもしれませんね。 (単なる僕の憶測ですけど) 明智光秀と「駒」、駒は実在したのか? 大河ドラマの登場人物に、「駒」という女性が登場してきていますね。 この女性は、実は架空の人物のようです。 少し大河ドラマではヒロインのような感じでも描かれているのですが、もしかしたら最初の光秀の正室のモデルにもなっているのでしょうか? 明智光秀の縁の城を紹介 こちらでは、明智光秀の縁のあるお城についてご紹介しています。 坂本城 光秀の主君で戦国の世に覇を唱えた織田信長は、数々の戦国大名と戦いました。 しかし、その武装した宗教徒も強大な敵でした。 比叡山延暦寺は強敵であっただけでなく、信長の根拠地の岐阜と京の間に位置していました。 地理的に浅倉家、浅井家と近く同盟を組みやすかったため大いに苦戦し、信長は比叡山焼き討ちの後、この地ににらみを利かせ、琵琶湖を制するため、もともとは足利義昭に仕えながら織田家の有力な家臣になっていた光秀に滋賀の支配を任せます。 そうして、坂本城を築かせます。 坂本は古来より交通の要衝であり、日吉大社の門前町としても栄えていました。 またこの地は、琵琶湖と山脈に挟まれて大変守りやすい土地だったのです。 亀山城 天下布武を進める織田信長の有力家臣だった光秀が、丹波国の制圧を任されます。 その際に、丹波にある亀岡盆地の中心部を選び、丹波平定中の光秀が亀山城の築城を開始しています。 落成後の城は丹波平定の拠点となり、平定後も支配の中心とされました。 そして、光秀は亀山城と同じ丹波国に、銅門番所などで今でも有名な福知山城も築城しています。 明智光秀の城のまとめ 明智光秀が築いた二つの城は共に戦略的に重要な地に建築されています。 そして歴史上、大きな役割を果たしました。 特に琵琶湖沿いに築かれた坂本城は、当時のイエズス会宣教師ルイス・フロイスによって、信長が築いた安土城に次ぐ豪壮華麗の城として記録されていますね。 なお、戦略家としても優れていた光秀が築いた城は、その壮麗さもあり名城と評価されました。 光秀の城として有名な坂本城は現存していません。 安土城に並ぶ名城として、現代までその名を残しています。 明智光秀の家紋「水色桔梗」 光秀の家紋が「桔梗」であることはよく知られていますね。 これは、秋の七草のひとつで、上品な青紫の色合いと可憐な姿で親しまれている五弁の野の花ということです。 本来は美濃の土岐氏の紋であり、これは鎌倉幕府御家人であった土岐氏初代「土岐光衡」が、戦陣で兜に桔梗の花を飾って勝利をおさめたことに由来すると伝わっています。 その伝統を引き継いで桔梗紋を用いたとされています。 植物紋として多くのバリエーションをもつ桔梗紋。 しかし、光秀が使用したものは「水色桔梗」ともいって、その名のとおり青系統に着色されたたいへん珍しいタイプの家紋のようです。 明智光秀の最後とは? 明智光秀の最後も、いろいろと逸話があるようですね。 1つは、山崎の戦いにてわき腹を刺されたことによる出血死という説があります。 これは、合戦の後に逃亡して、その後刺し傷が致命傷となったという考え方ですね。 また、もう一つは、死を覚悟した光秀が家臣あるいは近くの農民に介錯をさせたという説があります。 こちらの方が有力とされていますが、まだはっきりしたことは判っていませんね。 その後に、農民が光秀の首を織田信孝へ届けたという話も残っているようですね。 関連記事: 関連記事: 明智光秀のおすすめ本 ここでは、明智光秀のおすすめ本をご紹介して参ります。 光秀の定理 「信長の原理」と姉妹本であることでも知られていますね。 あの時代、時を同じくして時代を駆け上り、そして一瞬にして散っていった信長と光秀。 この2人と同じもの、そして異なったものはなんだったのか、真理に迫る小説でおすすめですね。

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明智光秀の家紋~桔梗紋の由来と水色桔梗~

明智 光秀 家紋

皆さんは自分の家の家紋を知っているでしょうか?家紋というのはその家の歴史をひも解くカギとなるものです。 今回は幕末の勤王の志士・坂本龍馬の家紋について詳しく解説していきます。 スポンサーリンク 組あい角に桔梗 坂本龍馬の家紋として有名なのはこの「組あい角に桔梗」の紋ではないでしょうか。 元々坂本龍馬家の家紋は「丸に田紋」という家紋でした。 なぜ坂本家が途中で家紋を変えたのか理由はわかりませんが、一説によると郷士坂本家が誕生するにあたって、新しく家紋を決めたのではないかということです。 しかし、憶測の域を出ず真実はわかりません。 坂本家以外にもこの桔梗紋は、様々なバリエーションを持って戦国大名はもちろん、歴史に名を残す有名人たちがこぞって使用しています。 誰でも知っている有名な人物で言うと、土岐光衡・太田道灌・明智光秀・加藤清正・谷啓・五代目三遊亭円楽・山田康男などが 桔梗紋を使用しています。 元々は土岐氏の代表的な紋であった桔梗紋。 明智光秀は美濃源氏の土岐氏の支流・明智氏の一族であるために桔梗紋を使用したといわれています。 そして桔梗紋を使用していたため、坂本龍馬は 明智光秀の末裔だという話もあります。 明智光秀の末裔だという説が一番初めに出てくるのは、明治16年に坂崎紫瀾の「汗血千里駒」という坂本龍馬を主人公にした本だそうです。 資料が残っていないため、創作である可能性も否めませんが坂本家にはそういった口伝があるということです。 スポンサーリンク 明智家と龍馬の関係 近年、坂本家を興した太郎五郎の祖であると言われている明智光春(左馬助)の妻の墓が、南国市亀岩で発見されたそうです。 その墓が発見された光春の妻というのが明智光秀の娘なのですが、楠戸義昭の「戦国武将名言録」によれば、坂本城まで落ち延びた光春(左馬助)は光秀の妻子と自分の妻子を刺殺した後、坂本城に自ら火を放ち自害したということになっています。 もしも、その墓が本当に明智光春の妻・明智光秀の娘のものであれば、光春の本妻は近江・坂本城で死んでいるはずなのに…. なぜ墓が南国市にあったのか? 関ヶ原の戦いまで土佐を治めていた長宗我部家が、明智の重臣である美濃の斎藤家から妻を迎えていることから、その縁を頼って土佐に落ち延びたということも考えられます。 確かに明智家と土佐との繋がりはできますが、光秀の子孫ということを結び付けるのは少し曖昧なところが多い気がします。 この光春に嫁いだ明智光秀の次女は、養女だったようなのでそこから明智光秀の子孫と言えるかどうかは疑わしいような気もしますね。 そもそも明智光春と明智秀満は別人だという説もありますし、同一人物だという説もあります。 その辺りの真実がわからない限りは坂本龍馬と明智光秀の関係もわかりませんね。 このうなると真実は闇の中ですね。 その辺のことを考えるのには資料が少ないです。 残念…..。 スポンサーリンク 桔梗の家紋 歴史的著名人で使用する人が多いとされる桔梗紋ですが、元々は清和源氏の流れをくむ美濃源氏・土岐氏の代表的な家紋だったということは先に記した通りです。 桔梗の花というのは、字の中に「吉・更」の二字が入っているため縁起のいい花とされてきました。 別名オカトトキとも呼ばれ「岡に咲く神草」という意味があります。 ちなみに土岐という地名は、このトトキが咲くから土岐なのだそうですよ。 では、なぜ土岐氏が家紋を桔梗紋にしたかというと土岐氏の祖である土岐光衡が先陣で桔梗の花を兜に差し、敵を大いに打ち破ったと「見聞諸家紋」にあることから、戦いに勝つという縁起を担ぐ意味もあったのではないでしょうか。 当時、戦に勝てなければ、家の存続自体が怪しかったでしょうからね。 そして超有名な陰陽師・安倍清明が使った「清明桔梗」いわゆる五芒星ですが、これには 魔よけの意味があり、土岐氏が使用した桔梗紋にも魔よけの意味があるとされています。 桔梗紋は主君・織田信長を打った明智光秀が使用していたことから一時期は裏切り者の紋として認識されていたこともあったそうです。 桔梗紋に秘められた意味をすべて踏まえる「更に吉な上に戦勝の縁起が担げ、魔よけにもなる」万能な家紋が桔梗紋なのです。 明智光秀の末裔説はともかくとして、坂本家を興す時に縁起のいい家紋を使用したのかもしれません。 そして「組み合い角」というのは、方角の八方を表していて結界のような意味があるのだとか…..。 こうして考えて深読みしていくとなんだか意味深な家紋にも思えてきますが、すべては憶測の域を出ないことばかりです。 しかし、桔梗紋を使用している家系は清和源氏を祖とする家が多く、坂本龍馬もどこかで繋がりがあるのかもしれませんね。 自分の家の家紋を知らない人も多いかもしれませんが、家紋から自分のルーツを探ってみると意外な発見があるかもしれません。

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明智光秀は朝倉義景の家臣だった!?越前にいた痕跡とは

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明智光秀とはどんな人物か? 名前 明智光秀 誕生日 1528年(明智軍記説)もしくは1512年(当代記説) 没日 1582年7月2日 没地 下関市桜山 配偶者 玉 光慶 光泰 乙寿丸 埋葬場所 滋賀県大津市西教寺 京都府亀岡市谷性寺 和歌山県高野町奥の院 なぜ明智光秀は織田を殺したの? 明智光秀は織田信長を本能寺で殺害した原因の一つとして四国に対する外交問題があります。 戦国時代の四国には長宗我部元親という大名が勢力を拡大して勢いを伸ばしておりました。 織田信長は明智光秀に四国の長宗我部に対して織田家へ従わせるように命令。 明智光秀は重臣である斎藤利三の娘を長宗我部元親の元へ嫁がせることに成功します。 しかし本能寺の変が起きる2年前、織田信長は四国に対して長宗我部元親を織田家に従わせるよりも、自分の領土にしたほうがいいと外交方針の転換。 明智光秀は四国に対しての方針転換に反対しますが、織田信長の方針を覆すことができず、面目を潰されてしまいます。 そのため明智光秀は織田信長に対して怒りを感じ、本能寺で殺害したとされています。 明智光秀の出身やゆかりの地は? 明智光秀の出身地は諸説があります。 明智光秀の出身地の有名な説は美濃(みの、現在の岐阜県)で、「立入隆佐記」によれば美濃国住人と記されています。 また現在岐阜県には明智と呼ばれる地名が二ヶ所あるから有力な説として言われています。 しかし近年、明智光秀は近江(現在の滋賀県)出身だったのではないかと言われています。 その理由として「淡海温故録」という書物に明智光秀の二、三代前の明智家の当主が近江に住んでおり、この当主の結縁者が明智光秀だと言われている説が出現しています。 このように明智光秀は出身地が謎に包まれておりますが、現在の所美濃国出身の武将だと言われています。 明智光秀の妻や子孫、家族構成は? 明智光秀の奥さんは妻木煕子(つまきひろこ)と言います。 彼女は明智光秀が越前朝倉家に仕えて間もない頃、お金がなくて苦しい時、自分の髪の毛を売って光秀を支えていたエピソードが残っています。 このように妻木煕子は明智光秀を支えてきた糟糠の妻と言える存在で、彼との間には三男四女を設けます。 長男明智光慶• 次男明智光泰• 三男明智乙寿丸• 長女明智光春の奥さん(名前不明)• 次女明智光忠の奥さん(名前不明)• 三女細川ガラシャ(明智珠) 明智光秀はなぜ水色の家紋を使用したの? 戦国時代には多くの旗に自分の家の家紋を描いて、戦場へ赴きます。 明智光秀が水色の家紋を使用した理由は、光秀が美濃の名族である土岐氏の支流だったからです。 土岐氏は桔梗紋を水色に塗った家紋を使用していました。 そのため土岐氏の支流であった明智光秀は土岐氏が使用していた家紋を受け継いで使ったとされています。 明智光秀と織田信長はどんな仲だった? 明智光秀は織田信長を本能寺の変で殺害しているので、明智光秀と織田信長の関係は良くないと思っている方も多いと思います。 しかし光秀と信長の関係は仲が悪かったわけではありません。 明智光秀は織田信長から信頼されていました。 その証拠として、織田信長は佐久間信盛を追放する際に出した書状の中で「丹波の国を平定した日向守(明智光秀の官職名)の働き天下の面目をほどこし候」と絶賛。 また織田信長は明智光秀が仕え始めにも関わらず、要衝である京都の行政を担当するチームに抜擢されています。 これらのことから織田信長は明智光秀を信頼していたと言えます。 明智光秀のふたりの君主に仕えていた? 明智光秀は織田家で能力を発揮した武将ですが、かなり苦労した戦国武将でした。 明智光秀は織田信長に仕える前、越前の朝倉家に仕えていました。 しかし朝倉家の給料は薄給で、収入面で非常に苦労をしていたそうです。 また明智光秀は織田家に仕えた始めた頃、足利幕府の将軍である足利義昭にも仕えていました。 そのため織田信長と足利義昭が揉めた際、間に立って仲裁しなくてはならなかったため、とっても苦労していたエピソードが残っています。 明智光秀は優秀が故に苦労ばかりしていた? 明智光秀は織田信長に仕えすぐに頭角を表し、大きな兵力を与えられることになります。 しかし明智光秀にとって大きな兵力を与えられることによって苦労することになります。 明智光秀は自分が攻略する担当地域があるにも関わらず、織田信長から色々な戦線へ向かわされ、へとへとになってしまいます。 その結果、明智光秀は体調を崩して病にかかってしまったそうです。 明智光秀の名言は? 敵は本能寺にあり 鳴かぬなら私が泣こうホトトギス。 仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。 これをみれば、土地百姓は可愛いことなり。 明智光秀とはなにがすごいのか?功績は? すごさ1「織田家で最初に家法を制定」 織田家は織田信長が作り出した国の法律はありますが、織田軍の司令官クラスに所属している豊臣秀吉や柴田勝家、丹羽長秀らは自分軍隊の中での軍律を確立することなく、戦いを行っていました。 しかし明智光秀は織田家の中で一番早く、軍隊の規律と呼べるものを策定します。 明智家の軍律は1条~18条まであり、軍団の秩序や規律、軍役について記されています。 また明智光秀は軍の兵士が平定した土地で乱暴などを働かないように礼節などについて書かれている部分もあるそうです。 すごさ2. 「教養を持った戦国武将」 明智光秀は高い教養を持った戦国武将でした。 例えば明智光秀は連歌が好きで本能寺の変がおきる数日前に行った「愛宕山」での連歌会や坂本城を築城した時にも連歌を歌い上げています。 また明智光秀は戦国時代に流行っていた茶の湯にハマり、有名な茶道家である千利休へ弟子入りして学んでいます。 他にも和歌を嗜み「我ならで誰かはうえむひとつ松こころしてふけ志賀の浦かぜ」と言う歌をよんでいます。 このように明智光秀は戦国時代の武将には珍しく教養を持った人物だったのです。 明智光秀にまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1「合理主義者だった明智光秀」 明智光秀は比叡山延暦寺を焼き討ちした際、比叡山延暦寺が保有していた領土をすべて没収し、自らの領土にしています。 明智光秀は織田信長が行った比叡山延暦寺の焼き討ち作戦には反対していたとされる説も存在していますが、どちらが本当の明智光秀だったのかは、定かになっていません。 もし前説が明智光秀の性格だったとすれば、合理主義者としての考え方を持っていたことになります。 都市伝説・武勇伝2「実は明智光秀は死んでいなかった?」 明智光秀は本能寺の変の後、豊臣秀吉と戦って敗北し、農民によって討ち取られたとされています。 しかし一説によると明智光秀は討ち取られずに生き残って、徳川家康に仕えた南光坊天海と言われています。 南光坊天海が明智光秀かもしれない可能性として徳川家康が祀られている日光東照宮には明智光秀が使用していた水色桔梗の家紋があるそうです。 明智光秀=南光坊天海かどうか分かりませんが、強く否定できる要素も無い為、謎のままになっています。 あなたはどう思いますか。 明智光秀の早見年表 明智光秀の具体年表 1528年 — 0歳「明智光秀誕生」 明智光秀は享禄元年(1528年)に美濃の明智家で誕生します。 家族構成は下記の通りです。 父:明智光綱• 母:お牧の方• 長男:明智光秀• 次男:明智信教• 三男:明智康秀 明智光秀の出自は未だに謎が多く彼の幼少期に関する確実な資料が無い為、信憑性の低い資料によれば、幼少期に斎藤道三へ仕えていたそうです。 その後明智光秀は斎藤道三と息子である斎藤義龍との戦いで斎藤義龍が勝利したため、父の居城である明智城が陥落し、一家が離散されたと言われています。 1569年 — 41歳「本圀寺防衛戦に参加」 明智光秀は足利義昭が寄宿していた本圀寺が三好家の襲撃を受けた際、足利義昭を守るため、本圀寺防衛戦に参加。 この戦いで明智光秀は初めて軍功を上げることに成功します。 京都の行政担当チームに加わる 明智光秀は丹羽長秀や羽柴秀吉たち織田家の人々と室町幕府の奉行役人と一緒に荘園保護を担当します。 また明智光秀はこの仕事の他に京都の行政担当チームに配属されます。 1571年 — 43歳「比叡山焼き討ち作戦に参加」 明智光秀は織田信長が実行した比叡山焼き討ち作戦に参加。 この作戦後明智光秀は比叡山の領土や近江志賀郡を与えられます。 明智光秀は領地を拝領した後、天守や小天守がある坂本に城を築城して、坂本城を居城として定めます。 織田信長を主と定める 明智光秀は足利義昭と織田信長の二人の君主に仕えていました。 そのため明智光秀は足利義昭と織田信長の板挟みなる事が多くかったそうです。 しかしこの年足利義昭が明智光秀を責める事件が勃発。 織田信長は明智光秀をかばいます。 その結果、明智光秀は足利義昭に見切りをつけて主従関係の縁を切って、織田信長を主と定めることにします。 1575年 — 47歳「丹波・丹後攻略を命じられる」 明智光秀は織田信長から丹波・丹後の攻略を命令されます。 明智光秀は織田信長の期待に応えるべく丹波・丹後の攻略戦に邁進していくことになります。 明智光秀は丹波の宇津氏や内藤氏を討伐するべく何度も出陣し、功績を残していきます。 しかし明智光秀は丹波・丹後攻略だけに集中するわけには行かず、越前の一向一揆の反乱鎮圧や河内にある高屋城攻略戦などの戦に参加することになり、丹波・丹後攻略は中々捗らなかったようです。 1579年 — 51歳「丹波・丹後の攻略を完了する」 明智光秀は織田信長から丹波・丹後の攻略を命じられていましたが、各地の戦線に参加させられていたため、丹波・丹後に集中することができませんでした。 しかし少しずつ丹波・丹後の大名たちを討伐していき、命令を受けてから4年後、丹波・丹後の攻略を成し遂げます。 織田信長は明智光秀が丹波・丹後の攻略を成功させたことを高く評価し、明智光秀へ感状を送って、彼を褒めたたえます。 1582年 — 54歳「徳川家康の接待役に命じられる」 明智光秀は織田家の長年の同盟者である徳川家康の接待を織田信長から命じられます。 明智光秀は徳川家康をもてなすため、近隣の名物を取り寄せて家康をもてなす準備を行いますが、織田信長から接待についての内容について叱られて、何度も叩かれたそうです。 その後明智光秀は中国地方の司令官であった豊臣秀吉の援軍を織田信長から命令されたため、居城亀山城へ帰還することになります。 愛宕参詣 明智光秀は豊臣秀吉の援軍に向かう前、愛宕山にお参りをした後、里村紹巴らと一緒に連歌会を行います。 この時に明智光秀は後世にまで残る「時は今あめが下知る五月哉」の歌を歌っています。 本能寺で織田信長を殺害 明智光秀は愛宕山で連歌を行った後、豊臣秀吉を助けるため援軍を率いて出陣しますが、途中で方向を変えて、織田信長が寄宿している本能寺へ。 明智光秀は本能寺に到着すると、本能寺を包囲して、織田信長が寄宿している本能寺へ総攻撃を開始。 織田信長は明智軍に対して抵抗しますが、少数の兵士か伴っていないため勝つことができないと判断し、本能寺へ火を放って自害します。 こうして明智光秀は織田信長を殺害し、二条城に寄宿していた織田信長の嫡男である織田信忠も殺害し、謀反を成功させます。 こうして織田信長、信忠親子を倒し天下統一へ近づいた光秀ですが、彼に悲運が訪れます。 豊臣秀吉と対決 明智光秀は織田信長を殺害後、機内を掌握するべく手を打っていきますが、豊臣秀吉率いる軍勢が大坂辺りに到着したことを知って、彼と対決するため出陣。 明智光秀率いる明智軍と豊臣秀吉率いる軍勢は山崎の地で合戦を行います。 当初は明智軍が優勢でしたが明智軍よりも多い兵力を保有していた豊臣軍が明智軍を押し切って勝利を手にします。 戦に敗北した明智光秀は豊臣軍の追撃を逃れて、近江にある坂本城へ向けて側近を引き連れて逃亡していきます。 農民に襲われて討ち死に 明智光秀は近江にある坂本城へ逃亡するため、坂本城の途上にある小栗栖を通過。 この地で反乱を起こした農民たちが明智光秀を襲撃します。 明智光秀は農民たちを退けることができず、彼らの手にかかって亡くなってしまうのでした。 享年55歳だったそうです。 天下統一に王手をかけた明智光秀ですが、自分のやりたいような政治も行えず、天下を統治することもできずに亡くなってしまう悲運の名将と呼べるのではないでしょうか。 明智光秀の関連作品 おすすめ書籍・本・漫画 国盗り物語 来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の次回予告動画です。 明智光秀を長谷川博己が織田信長を染谷翔太が演じています。 他にも明智光秀の親友である細川藤孝を眞島秀和が演じており、豪華キャストが出演。 一体どのような明智光秀の歴史が放映され、「本能寺の変」はどのような結末を迎えるかなど見どころ満載で筆者は楽しみで仕方ありません。 関連外部リンク• 明智光秀についてのまとめ いかがでしたか。 明智光秀について彼の出身地や一族について解説させていただきました。 私は明智光秀を小学校の歴史の教科書で初めて知ったのですが、その後戦国時代にハマった時、必ず明智光秀が登場してくるのでどのような人物なのか詳しく知るため、小説や歴史的な資料などを読み漁りました。 そして歴史的な資料を読み漁れば漁るほど彼についての諸説が色々と出現するため、どの説を選択すればいいのか非常に困惑しました。 ですが、一つだけ彼に関して言えるのは、彼が戦国時代において戦術面や謀略面、教養面においての名将であることです。 この記事を読んで明智光秀のことを一人でも多く知っていただければ幸いです。

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