かみ むら ひな の 大喜 利。 実在苗字辞典 お~おか

わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 落らまくは後

かみ むら ひな の 大喜 利

ジャパンカップ2010出場選手一覧 ジャパンカップ2010出場選手一覧 ジャパンカップ2010出場選手の一覧です。 誤字・脱字・データの抜け・間違い等をご確認の上、 2月10日までにご連絡ください。 幼児 年中男子 豊田 涼介(とよた りょうすけ)117cm21kg極真会館坂本道場 栃木 氷上 大晟(ひかみ たいせい)109cm18kgノーティーカラテアカデミー 亥飼 渚生(いがい しょう)108cm21. 5kg極真会館埼玉県木村道場 小林 慶次郎(こばやし けいじろう)105cm18kg極真会館坂本道場武蔵小山 田中 亜蓮(たなか あれん)107. 5cm17. 4kgMAC本部 内田 隼(うちだ はやと)98cm17kgMAC埼玉中央 細越 竜之介(ほそこし りゅうのすけ)110cm20kg桜琳塾 吉村 泰晴(よしむら たいせい)104cm17kg極真館さいたま中央 平川 翔大(ひらかわ しょうた)107. 5cm18. 5kgMAC本部 松下 悠成(まつした ゆうせい)103cm16kg極真会館坂本道場東京城東 澤村 英二(さわむら えいじ)107cm17kg空手塾 同志会 岡本 大空(おかもと きら)111cm17kgMAC本部 土屋 翔斗(つちや しょうと)108cm17kg空手塾 同志会 宮本 皐央(みやもと さひろ)107cm20kg極真会館坂本道場 港北 丸山 颯太(まるやま そうた)106cm17kgMAC埼玉中央 渡邊 颯馬(わたなべ そうま)116cm22kg真士会 石田 和夢(いしだ かずむ)110cm19kgMAC埼玉中央 酒井 亮太(さかい りょうた)115cm20kg極真館さいたま中央 幼児 年長男子 成海 魁人(なるみ かいと)116cm21kg士衛塾 吉澤 波音(よしざわ なおと)116cm24kg極真会館坂本道場 栃木 濱田 紳太朗(はまだ しんたろう)118. 5cm20. 6kg極真会館釘嶋道場 木村 秀大(きむら しゅうだい)110cm17kgMAC埼玉中央 加納 諒治(かのう りょうじ)120cm24kg西山道場 山口 来希昌(やまぐち るきあ)113cm21kg桜塾 大戸 日向(おおと ひなた)110cm20kg極真館中浦和道場 新保 拓也(しんぼ たくや)115cm20kg誠真会 木村 涼(きむら りょう)117cm21kg士衛塾東京 沖本 陽生(おきもと はるき)120cm22kgMAC仲町台 小山 寛士(こやま かんじ)120cm20kg誠真会館西荻 増田 優作(ますだ ゆうさく)116cm20kg極真会館坂本道場 港北 桑原 迅平(くわばら じんぺい)107cm17kg士衛塾 池田 健将(いけだ けんすけ)110. 1cm21kg極真会館坂本道場 座間 福垣 太朗(ふくがき たろう)105cm17kgMAC埼玉中央 野上 瑛太郎(のがみ えいたろう)117cm24. 5kg真正會 清水 翔太郎(しみず しょうたろう)111cm21kg勇志会川越 菊池 真己人(きくち まこと)121cm29kg極真会館千葉県田中道場 坪井 碧月(つぼい あつき)107. 5cm18kgMAC茨城 床井 祐太(とこい ゆうた)120cm22kg岐神空手 細矢 秀太(ほそや しゅうた)120cm24. 8kgカラテスクール 神野 貴良人(こうの きらと)114cm19. 3kg大和会館 小沼 瑞祈(おぬま みずき)111cm18kg拳友会 土浦本部 星野 力也(ほしの りきや)123cm30kg誠真会館清瀬支部 菅原 修悟(すがわら しゅうご)124cm22kg士衛塾 坂本 翔太(さかもと しょうた)118cm19kg鈴木道場 下田 深山(しもだ しんざん)112cm18. 5kg月心会宗家本部 定野 恵介(さどの けいすけ)120cm25kg極真館さいたま中央 柳川 真祐(やながわ しんすけ)115cm19kg岐神空手 山中 優英(やまなか ゆうえい)106cm18kgMAC埼玉中央 田野倉 丈(たのくら じょう)119cm22kg西山道場 加藤 健大(かとう けんだい)107cm17. 5kgMAC本部 安藤 一平(あんどう いっぺい)114cm20kg士衛塾東京 西之原 亘博(にしのはら のぶひろ)110cm22kgMAC埼玉中央 三柴 拓海(みしば たくみ)117cm22kg極真会館坂本道場 栃木 本田 善成(ほんだ よしなり)117cm21kg極真会館浜井派 清水 健吾(しみず けんご)118cm21kg極真会館坂本道場 港北 内呂 歩斗夢(うちろ あとむ)120cm21kgMAC埼玉中央 滝澤 大心(たきざわ たいしん)118cm20kg士衛塾 本道 真央(ほんどう まお)107cm17kg真士会 高木 秀斗(たかぎ しゅうと)115cm20kg正拳会 砂川 柊人(すながわ しゅうと)113. 5cm20kgカラテスクール 石澤 大輝(こくざわ ひろき)115cm20kg極真会館坂本道場 栃木 秋山 蓮(あきやま れん)112cm19. 5kg拳友会 土浦本部 田中 勇利(たなか ゆうり)124cm22kg極真会館千葉県田中道場 白石 雅也(しらいし まさや)105cm15kgMAC埼玉中央 高橋 李屯(たかはし りひと)118cm21kg宮本道場 原 然理(はら ねんり)111cm18kg極真会館坂本道場 座間 宮澤 楓芽(みやざわ ふうが)115cm20kg極真館さいたま中央 幼児 年中女子 山﨑 星蘭(やまざき きら)110cm20kg桜塾 星 友里桜(ほし ゆりお)109cm17kgMAC仲町台 渡辺 美和(わたなべ みわ)108cm17kgMAC埼玉中央 村上 蘭(むらかみ らん)106cm17kg真正會 幼児 年長女子 望月 美咲(もちづき みさき)118cm24kgMAC本部 冨所 梨々愛(とみどころ りりあ)117. 2cm20kg極真会館釘嶋道場 佐藤 日向子(さとう ひなこ)106cm16kg士衛塾 後藤 莉琉(ごとう りる)119cm20kg極真館さいたま中央 鈴木 彩良(すずき さら)107cm17kg真士会 山崎 樹璃(やまざき じゅり)118cm22kg勇志会 鈴木 哉子(すずき やこ)119cm20kg正拳会 寺崎 裕遊(てらさき ゆんゆ)118cm19kg士衛塾石川 大道 晴香(おおみち はるか)112cm19kg極真会館坂本道場 港南台 森 唯華(もり ゆいか)118cm26kgMAC仲町台 髙橋 のどか(たかはし のどか)120cm21kg士衛塾東京 村越 心桜(むらこし こころ)105cm17kg極真会館釘嶋道場 栗崎 紗名(くりさき さな)112cm21kg極真館さいたま中央 坂本 みゆき(さかもと みゆき)112cm18kgMAC宮前平 小学 1年 女子 久保田 優海(くぼた ゆうな)118cm20kg桜塾 髙橋 李奈(たかはし りな)119cm21kgMAC本部 安齋 凜(あんざい りん)119cm22kg極真会館釘嶋道場 金子 理沙(かねこ りさ)120cm19kg極真館さいたま中央 北村 愛花(きたむら あいか)120cm23kg月心会宗家本部 小林 麗於菜(こばやし れおな)117cm28kg士衛塾 藤原 見奈巳(ふじわら みなみ)128cm30kg武心塾カラテ 土橋 詩(どばし うた)130cm24kgMAC三鷹 荒井 実夏(あらい みなつ)114cm18. 5kg月心会宗家本部 藤森 未琴(ふじもり みこと)119cm19kg極真会館坂本道場東京城東 髙橋 那奈(たかはし なな)119cm22kgMAC本部 本間 珠莉(ほんま しゅり)117cm20kg紅衛会 堤 夏蓮(つつみ かれん)122cm24kg武心塾カラテ 竹村 理(たけむら みち)120cm24kgMAC江戸川 向井 菜々美(むかい ななみ)128cm27kg飛心会 小学 2年 女子 高橋 瑞稀(たかはし みずき)130cm29kg紅衛会 安田 理沙(やすだ りさ)132cm29kg極真会館心刀流道場 原 夏花(はら なつか)124cm24kgMAC埼玉中央 藤井 涼葉(ふじい すずは)120cm20kg武心塾カラテ 吉岡 つぐみ(よしおか つぐみ)126cm22kg渡邊道場 村越 美柚(むらこし みゆ)122cm25kg極真会館釘嶋道場 秋野 梨紗(あきの りさ)123cm24kg誠真会 高瀬 氣穂(たかせ きほ)122cm23kg極真会館坂本道場 栃木 上島 千英(かみじま ちはな)123cm24kg極真館さいたま中央 浜田 友里子(はまだ ゆりこ)125cm25kg西山道場 中根 美沙(なかね みさ)127cm25kgカラテスクール 和田 靜里奈(わだ せりな)120cm22kg飛心会 浅見 好(あさみ このみ)120cm25kg士衛塾 浅井 日葉利(あさい ひより)122cm24kg桜塾 秋葉 紗希(あきば さき)120cm20kg極真会館千葉県田中道場 鈴木 里菜(すずき りな)125cm23kgMAC本部 中村 多恵(なかむら たえ)128cm29kg士衛塾 岩崎 愛未(いわさき あみ)120cm23kg義和流拳法 長谷川 そら(はせがわ そら)131cm24. 5kg極真会館千葉県田中道場 小野 百合子(おの ゆりこ)135cm25kg極真館旗の台 冨所 梨来(とみどころ りら)124cm24. 1kg極真会館釘嶋道場 秋山 凜(あきやま りん)121cm22kg拳友会 土浦本部 吉原 京香(よしはら きょうか)141cm30kgMAC茨城 丹野 紗奈絵(たんの さなえ)13? cm30kg極真会館宮城 片岡 蒼葉(かたおか あおば)128. 5cm22kg武心塾カラテ 市川 音和(いちかわ とわ)127cm24kg極真館さいたま中央 木下 綾乃(きのした あやの)132cm30kg極真会館坂本道場 栃木 坪谷 向日葵(つぼや ひまわり)128cm25kgカラテスクール 小暮 愛水里(こぐれ えみり)124cm23kg園部道場 武内 麻琴(たけうち まこと)129. 1cm25. 9kg極真会館坂本道場 港南台 木村 萌那(きむら もな)137cm28kg桜塾 小学 3年 女子 尾﨑 日菜(おざき ひな)133cm32kg士衛塾 小椋 莉歩(おぐら りほ)126. 6cm24. 5kg極真館さいたま中央 大塚 湖々呂(おおつか こころ)130cm26kg桜塾 山内 文乃(やまうち あやの)120cm20kgカラテスクール 谷川 亜美花(たにかわ あみか)127cm24kg正氣塾 佐々木道場 服部 円香(はっとり まどか)132cm31kgMAC埼玉西 森島 来実(もりしま くるみ)127cm22kg真士会 照喜名 琉衣(てるきな るい)129cm27kg勇志会 草野 百々(くさの もも)128cm24kg極真館さいたま中央 竹吉 杏(たけよし あん)127cm28. 5kg極真会館浜井派 藤澤 舞(ふじさわ まい)128cm30kg極真会館坂本道場 栃木 本間 紫月(ほんま しづき)134cm30kg紅衛会 中薗 綾乃(なかぞの あやの)130cm26kg極真会館千葉県田中道場 小松原 希美(こまつばら のぞみ)129cm29kg誠真会 石渡 夢乃(いしわたり ゆめの)136cm26kgMAC埼玉西 金谷 香(かなや かおり)127cm27kg西山道場 村瀬 二千華(むらせ にちか)128cm30kg男塾 本田 奈菜(ほんだ なな)126cm26kg極真会館浜井派 市川 風香(いちかわ ふうか)140cm40kg拳友会 土浦本部 藤巻 明日香(ふじまき あすか)133cm29kg士衛塾山梨 佐々木 羅奈(ささき らな)136cm30kg正氣塾 佐々木道場 大道 美咲(おおみち みさき)127cm32kg極真会館坂本道場 港南台 大橋 音春(おおはし おとは)128cm25kg極真館さいたま中央 樋口 梨乃(ひぐち りの)143cm32kg勇志会 清水 空(しみず そら)136cm44kg寺西道場 小学 4年 女子 丹野 珠伽(たんの みか)142cm33kg極真会館宮城 宮城 汐里(みやぎ しおり)135cm27kg武心塾カラテ 中村 ほのか(なかむら ほのか)131cm25kg士衛塾 八板 和花(やいた わか)133cm27kg秋山道場 上瀬 千里(かみせ ちさと)134cm33kg西山道場 瀧上 怜央菜(たきがみ れおな)138cm30kg士衛塾石川 小川 美奈(おがわ みな)140cm36kg極真館さいたま中央 佐藤 優月(さとう ゆづき)142cm30kg飛馬道場 石川 怜(いしかわ れん)129cm28kg精鋭会 榊原 里奈(さかきばら りな)138cm30kg義和流拳法 高橋 るみか(たかはし るみか)144cm37kg勇志会 吉澤 紗央里(よしざわ さおり)130cm27kg極真会館坂本道場 栃木 宮島 幸乃(みやじま ゆきの)133cm26kgMAC江戸川 高野 美帆(たかの みほ)142cm36kg極真館鳩ヶ谷支部 浅見 和(あさみ なごみ)132cm30kg士衛塾 小浦 菜々美(こうら ななみ)132cm31kg翔拳塾小浦道場 久保田 乃愛(くぼた のあ)132cm26kg西山道場静岡伊東 矢部 桃香(やべ ももか)141cm31kgMAC埼玉中央 阿部 柚美(あべ ゆずみ)133cm27kg士衛塾 佐伯 知夏(さえき ちなつ)138cm30kgカラテスクール 宇田 今日子(うだ きょうこ)127cm28kg真士会 清水 帆菜(しみず はんな)134cm27kg極真館さいたま中央 藤巻 美琴(ふじまき みこと)138cm33kg士衛塾山梨 古泉 優花(こいずみ ゆうか)140cm34kg士衛塾 榊田 彩子(さかきだ あやこ)133cm28kg極真館さいたま中央 和田 小梅(わだ こうめ)136cm39kg極真会館坂本道場 栃木 山本 彩音(やまもと あやね)132. 5cm29kg秋山道場 島袋 彩奈(しまぶくろ あやな)126cm24kg空拳道誠心会 北村 美優(きたむら みゅう)134cm34kg極真会館釘嶋道場 金田 望来(かねだ みく)147cm46kg士衛塾 小学 5年 女子 秋山 唯(あきやま ゆい)140cm38kg秋山道場 中村 遥(なかむら はるか)152cm38kg勇志会 草野 さくら(くさの さくら)138cm29kg極真館さいたま中央 佐藤 らら(さとう らら)144. 5cm39kgMAC本部 赤木 莉杏子(あかぎ りなこ)146cm36kg飛心会 熊谷 亜美(くまがい あみ)140cm33kg西山道場 石渡 真悠(いしわた まゆ)140cm29kg極真会館坂本道場 港南台 横山 日子(よこやま ひこ)148cm54kg渡邊道場 東 花凜(あずま かりん)148cm38kgMAC本部 髙田 愛里朱(たかだ ありす)148cm37kg士衛塾 水嶋 美波(みずしま みなみ)143cm32kg極真会館釘嶋道場 太田 菜々美(おおた ななみ)156cm40kg極真館さいたま中央 名倉 早羅(なぐら さら)148cm43kgMAC茨城 峯 和香奈(みね わかな)135cm30kgノーティーカラテアカデミー 秋戸 さおり(あきと さおり)152cm50kg西山道場千葉大宮 髙木 琴伽(たかぎ ことか)148cm40kg極真会館坂本道場東京城東 大石 麻帆(おおいし まほ)144cm34kg西山道場静岡伊東 木下 優香(きのした ゆうか)150cm49. 5kg極真会館坂本道場 栃木 長谷川 由海(はせがわ ゆうみ)138cm36kg極真会館千葉県田中道場 山本 鈴音(やまもと すずね)137. 5cm32kg秋山道場 木村 日向子(きむら ひなこ)144cm31kg勇志会 大西 亜美(おおにし あみ)148cm45kg極真会館登別支部 熊倉 みゅう(くまくら みゅう)152cm48kg士衛塾 大房 優香(おおふさ ゆうか)150cm32kgMAC埼玉西 佐々木 明日香(ささき あすか)152cm42kg鈴木道場 岩崎 菜緒(いわさき なお)135cm33kg志優会 並木 彩加(なみき あやか)144cm32kgMAC茨城 安島 ゆい(あじま ゆい)138cm26kg西山道場千葉大宮 出縄 芽生(いでなわ めい)140cm35kg武心塾カラテ 関口 怜那(せきぐち れいな)145cm33kg誠真会 榎田 樹里奈(えのきだ じゅりな)138cm33. 5kg極真会館釘嶋道場 山口 礼奈(やまぐち れな)150cm43kg極真館さいたま中央 小学 1年 男子 宮脇 志温(みやわき しおん)122cm24kg飛心会 氷上 翔大(ひかみ しょうた)123cm21kgノーティーカラテアカデミー 小原 将太郎(おばら しょうたろう)120cm20kg清心館 内田 耀介(うちだ ようすけ)117cm16. 5kg月心会宗家本部 原田 つばさ(はらだ つばさ)131cm31kg志優会 坂本 拓己(さかもと たくみ)126cm24kg岐神空手 櫻井 駿(さくらい しゅん)117cm20kgMAC埼玉中央 吉澤 海音(よしざわ かいと)128cm44kg極真会館坂本道場 栃木 榊田 憲司(さかきだ けんじ)115cm21kg極真館さいたま中央 鈴木 瑛二(すずき えいじ)114. 5cm19kg鈴木道場 富岡 竜ノ介(とみおか りゅうのすけ)116cm23kg西山道場静岡伊東 櫻井 秀斗(さくらい しゅうと)111cm19kg誠真会 切田 海畝斗(きりた みくと)126cm23kgMAC江戸川 東﨑 一眞(とうさき かずま)126cm24kg真士会 長岡 風弥(ながおか ふうや)118cm20kg極真会館釘嶋道場 尾﨑 太一(おざき たいち)121cm26kg士衛塾 松沢 健太(まつざわ けんた)123cm23kg紅衛会 石原 亜朗(いしはら あろう)121cm21. 5kgMAC江戸川 野村 怜央(のむら れお)123cm23kg秋山道場 斉藤 琉(さいとう るう)125cm23kg星和会館 佐久間 凱(さくま がい)125cm24kg士衛塾 舘林 海誠(たてばやし かいせい)120cm23kg西山道場静岡伊東 下村 空琉(しもむら あいる)120cm25kg星和会館 木 七星(き ななせ)120cm20kg真正會 小林 隼太郎(こばやし しゅんたろう)114cm19kg極真会館坂本道場武蔵小山 千葉 陽太(ちば ようた)123cm25kg極真会館埼玉県木村道場 乗光 星来(のりみつ せら)115cm20kg飛心会 山田 陸(やまだ りくと)123cm26kg武心塾カラテ 今野 椋太(こんの りょうた)115cm20kgMAC埼玉中央 藤川 匠(ふじかわ たくみ)128cm26. 5kg極真館中浦和道場 塚本 力斗(つかもと りきと)118cm20kg正拳会 荻原 魁里(おぎわら かいり)115cm18kgMAC埼玉中央 武蔵 陸統(むさし りくと)131cm22kg士衛塾石川 上瀬 竜之介(かみせ りゅうのすけ)120cm27kg西山道場 斉藤 秀弥(さいとう しゅうや)123cm21kgMAC埼玉中央 坂井 涼(さかい りょう)120cm21kg桜塾 成尾 拓輝(なるお ひろき)125cm25kg月心会宗家本部 榊原 朋毅(さかきばら ともき)128cm26. 5kg義和流拳法 小林 陽人(こばやし はると)117cm21kg極真会館坂本道場 栃木 中村 愛煕(なかむら まなき)123cm23kgノーティーカラテアカデミー 大多和 星也(おおたわ せいや)123cm23kg極真会館千葉県田中道場 濱村 修斗(はまむら しゅうと)120cm20kg星和会館 渡辺 凜太郎(わたなべ りんたろう)127cm26kg士衛塾 小川 凌雅(おがわ りょうが)127cm30kg西山道場 菅原 啓介(すがわら けいすけ)118cm20kgMAC江戸川 石井 諒(いしい りょう)119cm20. 1kg極真館さいたま中央 原 拓海(はら たくみ)123cm25kg清心館 堀口 祐馬(ほりぐち ゆうま)120cm23kg武心塾カラテ 京 隆希(きょう りゅうき)117cm23kg月心会宗家本部 高田 賢太(たかだ けんた)125cm27kg真士会 丸山 隼人(まるやま はやと)117cm20kgMAC埼玉中央 高橋 良朋(たかはし よしとも)124cm24kg極真会館坂本道場 栃木 佐々木 大和(ささき やまと)119cm20kg正氣塾 佐々木道場 佐伯 侑馬(さえき ゆうま)107cm16. 8kg正拳会 高田 将護(たかだ しょうご)113cm19. 4kg極真館旗の台 菊池 学人(きくち まなと)131cm30kg星和会館 岩尾 鉄(いわお てつ)127cm25. 5kg渡邊道場 渡辺 魁斗(わたなべ かいと)119cm20kg極真館さいたま中央 小滝 蔵人(こたき くろうど)132cm32kg西山道場静岡伊東 藤原 力也(ふじわら りきや)115cm20kg高空會 倉繁 瑠樹明(くらしげ るきあ)125cm22kgMAC埼玉西 加藤 遼也(かとう はるや)120cm19kg月心会宗家本部 郭山 峻也(かくやま しゅんや)123cm22kg極真会館坂本道場 港南台 七野 然(しちの ぜん)116cm19kg拳友会 土浦本部 森井 颯大(もりい そうだい)118cm25kg真士会 羽黒 慈夢(はぐろ じむ)117cm19kg極真館さいたま中央 石渡 勇輝(いしわたり ゆうき)128cm31kg真正會 小山 央祐(こやま おうすけ)130cm30kg誠真会館西荻 五十嵐 充(いがらし みつる)122cm24kg士衛塾 並里 怜夜(なみざと れいや)118cm21kg極真会館坂本道場 栃木 清水 玲央名(しみず れおな)127cm26kg極真館さいたま中央 佐藤 駿成(さとう しゅんせい)125cm25kgカラテスクール 野中 優翔(のなか ゆうき)133cm35kg宮本道場 山崎 修弥(やまざき しゅうや)120cm22kg極真会館心刀流道場 濱﨑 渉(はまさき わたる)117cm21kgMAC埼玉中央 青木 陽平(あおき ようへい)121cm22kg誠真会 萩原 敦史(はぎわら あつし)120cm20kg星和会館 友長 仁(ともなが じん)131cm27kg飛心会 小学 2年 男子 滝澤 陸弥(たきざわ りくや)140cm35kg士衛塾 山田 純也(やまだ じゅんや)127cm23. 5kg鈴木道場 新井 廉央(あらい れお)132cm35kg誠真会 秋元 啓吾(あきもと けいご)129cm24kg極真会館埼玉県木村道場 三寺 海都(みてら かいと)126cm25kgMAC宮前平 西澤 颯人(にしざわ はやと)124cm27kg極真会館釘嶋道場 原田 将汰(はらだ しょうた)121cm21kg極真会館坂本道場 港北 矢沢 晴生(やざわ はるき)131cm24. 4kg渡邊道場 鎌田 潤(かまた じゅん)127cm23kg正拳会 藤原 龍冴(ふじわら りゅうが)131cm27kg勇志会 佐藤 壱樹(さとう いつき)122cm20kgMAC埼玉中央 木村 麟(きむら りん)117cm21kg拳友会 土浦本部 菊地 諄弥(きくち しゅんや)128cm33kg極真会館千葉県田中道場 由井 岳海(ゆい たけみ)121cm23kg寺西道場 山口 紘武(やまぐち ひろむ)125cm24. 5kg清心館 三宅 駿矢(みやけ しゅんや)125cm22. 5kg極真館さいたま中央 倉田 永輝(くらた えいき)127cm24kg極真会館釘嶋道場 江原 瑛紀(えはら えいき)132cm33kgMAC埼玉西 池田 圭史朗(いけだ けいしろう)133cm26kgMAC埼玉中央 土屋 祐海(つちや ひろみ)126cm26kg志優会 赤塚 駿(あかつか しゅん)123cm30kg星和会館 岩﨑 我門(いわさき がもん)127cm21kg松栄塾 佐藤 優人(さとう ゆうと)116cm20kg士衛塾 菅野 駿(すがの しゅん)125cm25kg極真館鳩ヶ谷支部 高橋 直希(たかはし なおき)130cm30kg紅衛会 原 鉄馬(はら てつま)130cm0kg極真会館坂本道場 座間 田代 裕也(たしろ ゆうや)137cm36kg極真館旗の台 諏訪 翔太(すわ しょうた)120cm22kg拳友会 土浦本部 大味 樹人(おおみ たつと)121. 9cm23kg健成会 小峯 桃之介(こみね もものすけ)121cm22kgMAC埼玉中央 菊地 蒔士(きくち まきし)136cm33kg清心館 髙島 享(たかしま きょう)125cm25kg秋山道場 鴫田 侑武(しぎた ゆうむ)137cm39kg昭武館 小出 真聖(こいで まさきよ)138cm40kg誠真会 池田 大晟(いけだ たいせい)126cm29kg志優会 張間 真幸(はりま まさき)123cm27kg極真会館千葉県田中道場 福田 汐音(ふくだ しおん)125cm24kgMAC本部 川俣 涼(かわまた りょう)132cm28kg士衛塾 坂本 洋志(さかもと ひろし)128cm25kg岐神空手 渡部 裕喜 (わたなべ ゆうき)122cm22kgMAC埼玉中央 玉生 哲也(たまお てつや)134cm34kg禅真塾 青木 馨(あおき けい)125cm25kg極真会館千葉県田中道場 秋山 竜馬(あきやま りょうま)125cm23. 5kg極真会館釘嶋道場 越善 晴人(えちぜん はると)130cm21. 5kg水滸会丈夫塾 青木 凌翔(あおき りょうと)125cm29kg極真会館坂本道場 栃木 田中 孝樹(たなか こうき)127cm24kg渡邊道場 竹吉 帝(たけよし てい)121cm24. 5kg極真会館浜井派 山田 拳真(やまだ けんしん)130cm29kg空手塾 同志会 岡村 皇洋(おかむら こうよう)133cm28kgMAC茨城 木村 稲吾(きむら とうご)130cm28kg宮本道場 多良間 大志(たらま たいし)124cm26kg極真館さいたま中央 生方 崇太郎(うぶかた しゅうたろう)134cm31kg拳心会館 森橋 知広(もりはし ちひろ)123cm23kg極真会館埼玉県木村道場 渡辺 英暉(わたなべ えいき)123cm21. 5kg極真会館釘嶋道場 平野 駿介(ひらの しゅんすけ)126cm26kgMAC埼玉中央 猪飼 真央(いかい まお)135cm26kg士衛塾 クレイバン 希音(くれいばん けいん)130cm28kg勇志会 八木 隼斗 (やぎ はやと)124cm23kg志優会 松下 悠登(まつした ゆうと)120cm22kg極真会館坂本道場東京城東 大村 駿(おおむら しゅん)128cm26kgMAC江戸川 伊藤 優太(いとう ゆうた)135cm38kg極真会館千葉県田中道場 加藤 蓮太郎(かとう れんたろう)128cm32kg義和流拳法 清水 勇吾(しみず ゆうご)129cm26kg極真館さいたま中央 伊永 勇人(これなが ゆうと)118cm21kg誠真会 溝手 真斗(みぞて まなと)118cm21kg極真会館釘嶋道場 波平 楓(なみひら かえで)119. 6cm27kg宮本道場 五十嵐 準(いがらし じゅん)127cm26kg士衛塾 布川 晃基(ふかわ こうき)123cm23. 5kg桜塾 秋山 凱(あきやま がい)120cm29kgMAC埼玉中央 吉村 幸輔(よしむら こうすけ)123cm23kg極真館さいたま中央 望月 雅也(もちづき まさや)132cm31kgMAC本部 菅野 龍聖(かんの りゅうせい)126cm26kg清心館 鈴木 竜雅(すずき りゅうが)133cm27kg空手塾 同志会 斎藤 太陽(さいとう たいよう)117cm19kg正拳会 油井 蒼生(ゆい あおい)121cm21. 9kg寺西道場 吉岡 夕馬(よしおか ゆうま)128cm25kg渡邊道場 永嶋 克成(ながしま かつなり)125cm27kg極真会館千葉県田中道場 髙橋 直人(たかはし なおと)132cm30kg士衛塾東京 本橋 俊甫(もとはし たかと)130cm28kg士道館植野道場 渡邊 龍(わたなべ りゅう)131cm28kg真士会 水白 侃秀(みずしろ かんしゅう)132cm30kg紅衛会 素野 翔太郎(その しょうたろう)136cm29kg極真館旗の台 小川 翔矢(おがわ しょうや)130cm27kgMAC埼玉中央 池田 貫将(いけだ かんた)123cm22kg拳摯会 野村 仁(のむら じん)127. 9cm28. 8kgMAC埼玉中央 長谷川 広騎(はせがわ こうき)119cm22kg極真会館千葉県田中道場 永井 竜也(ながい りゅうや)130cm35kg飛馬道場 柴田 祐希(しばた ゆうき)125cm25kgMAC本部 石神 翔南(いしがみ かなん)131cm25kg志優会 渡部 雄輝(わたなべ ゆうき)130cm28kg極真会館坂本道場 座間 和田山 雄平(わだやま ゆうへい)123cm22kg渡邊道場 飛野 翔平(ひの しょうへい)135cm29. 8kg極真会館千葉県田中道場 矢部 竜大(やべ りゅうた)135cm27kgMAC埼玉中央 仲西 大智(なかにし だいち)123cm22kg極真館さいたま中央 高野 優希(たかの ゆうき)124cm23kg拳友会 土浦本部 三浦 翔(みうら しょう)135cm29kgMAC江戸川 君田 琉伊(きみた るい)131cm28kg極真会館釘嶋道場 嶋田 剛太(しまだ ごうた)121cm22kg岐神空手 堀内 大和(ほりうち やまと)134cm31kg白連会館富士吉田道場 柳田 拓海(やなぎだ たくみ)128cm27. 5kgMAC茨城 橋根 晧士(はしね ひろと)130cm27kg志優会 山中 寛務(やまなか ひろむ)125cm23kg誠真会 榮 龍生(さかえ りゅうせい)131cm31kg飛心会 小学 3年 男子 金田 零央(かねだ れお)139cm35kg士衛塾 齊藤 寛志(さいとう かんじ)126cm25kg極真館武蔵中央 石原 匠人(いしはら たくと)140cm31kg誠真会 川内 陸(かわうち りく)132cm30kgMAC埼玉中央 本道 玲央(ほんどう れお)128cm30kg真士会 渡部 蒼汰(わたなべ そうた)132cm25kg西山道場 中村 海聖(なかむら かいと)140. 5cm36kg宮本道場 垂水 蓮人(たるみ れんと)134cm36kgMAC本部 鶴岡 楓真(つるおか ふうま)121cm26. 5kg極真会館千葉県田中道場 内村 隆元(うちむら りゅうげん)137cm32kg正拳会 栗崎 由暉(くりざき ゆうき)128cm26kg極真館さいたま中央 森野 竜哉(もりの りょうや)135cm29kg極真会館坂本道場 港北 藤森 丈(ふじもり じょう)132cm27kg極真会館坂本道場東京城東 山科 力輝(やましな りき)126cm31kg高空會 三宅 鷹矢(みやけ たかや)129cm28kg極真館さいたま中央 和田 隆希(わだ りゅうき)138. 5cm34kg男塾 鎌田 槙(かまた しん)137cm32kgカラテスクール 小林 斗樹於(こばやし ときお)136cm40kg士衛塾 下川 大輔(しもかわ だいすけ)133. 2cm39. 8kg義和流拳法 山田 雄二(やまだ ゆうじ)135cm36kgMAC本部 渡辺 拓実(わたなべ たくみ)133cm35kg鈴木道場 柳澤 侑哉(やなぎさわ ゆうや)142cm54kg渡邊道場 山同 光(さんどう らいと)125cm25kg清心館 高倉 琉斗(たかくら りゅうと)132cm26. 5kg水滸会丈夫塾 和田 暉元(わだ あきちか)136cm27kgMAC本部 片岡 真嵩(かたおか ましゅう)135cm32kg極真会館千葉県田中道場 古泉 進之助(こいずみ しんのすけ)139cm30kg士衛塾 矢﨑 大誠(やざき たいせい)140cm35kg拳摯会 大石 翔洋(おおいし しょうよう)135cm28kg西山道場静岡伊東 鬼頭 慶多(きとう けいた)137cm38kg男塾 住谷 龍星(すみや りゅうせい)132cm27. 5kg極真館鳩ヶ谷支部 菊池 颯(きくち はやて)136cm32kg宮本道場 箕澤 眞弥(みのさわ まさや)142cm32kg正伝流中村道場 青木 紀樹(あおき のりき)133cm35kgカラテスクール 中村 慧人(なかむら けいと)134cm27kg極真館さいたま中央 坂本 晴彦(さかもと はるひこ)137cm32kgMAC宮前平 小野 竜弥(おの たつや)135cm26kgMAC埼玉中央 増田 春樹(ますだ はるき)137cm35kg極真館さいたま中央 角田 弧南(つのだ こなん)125cm23kg空拳道誠心会 江見 京祐(えみ きょうすけ)126cm24kg宮川道場 蔦木 将吾(つたき しょうご)134cm33kg寺西道場 越田 啓介(こしだ けいすけ)132cm33kg極真会館坂本道場 田町 若松 龍之介(わかまつ りゅうのすけ)140cm42kg紅衛会 吉川 大介(よしかわ だいすけ)132cm28kg士衛塾 大塚 圭悟(おおつか けいご)128cm24kg真士会 坂本 海渡(さかもと かいと)135cm36kgMAC埼玉中央 藤井 竣汰(ふじい しゅんた)130cm29kg武心塾カラテ 後藤 瑠海(ごとう るあ)130cm24kg極真館さいたま中央 田中 堪多(たなか かんた)138cm36kg極真会館宮城 宇佐見 大樹(うさみ たいじゅ)136cm28kgMAC本部 増井 賢梧(ますい けんご)130cm40kg西山道場静岡伊東 鈴木 直生(すずき なおき)126cm23kg真士会 加賀谷 翔聖(かがや しょうせい)137cm37kg正拳会 石井 波琉輝(いしい はるき)137cm31kg士衛塾 木口 丞(きぐち じょう)126cm26kg極真館さいたま中央 山口 幸輝(やまぐち こうき)129cm30kg極真会館千葉県田中道場 太田 涼介(おおた りょうすけ)136cm33kg宮本道場 渡邊 太一(わたなべ たいち)136cm38kg極真会館坂本道場 田町 大房 翔太(おおふさ しょうた)136cm26kgMAC埼玉西 清水 丈太郎(しみず じょうたろう)127cm26kg勇志会川越 比留間 悠(ひるま ゆう)135cm30kg極真館所沢支部 清水 隆也(しみず りゅうや)131cm28kg誠真会館西荻 小松 弦太(こまつ げんた)144cm40kg極真会館坂本道場 港南台 前田 秀隆(まえだ ひでたか)130cm25kg男塾 大友 亮太郎(おおとも りょうたろう)120cm21kg真士会 佐藤 豪海(さとう たけうみ)142cm30kg西山道場 本多 善光(ほんだ よしみつ)130cm26kgMAC江戸川 市川 智基(いちかわ ともき)139cm28kg清心館 比多賀 修斗(ひだか しゅうと)130cm22kg極真会館渡辺道場 吉田 昌弘(よしだ まさひろ)135cm30kg園部道場 鶴見 佳緯(つるみ かい)129cm26kgMAC茨城 高橋 龍晃(たかはし たつあき)133. 5cm32kg鈴木道場 渡邉 大地(わたなべ だいち)134cm44kg士衛塾 羽黒 登夢(はぐろ とむ)131cm28kg極真館さいたま中央 浜田 祐太郎(はまだ ゆうたろう)129cm29kg西山道場 小原 拓巳(おばら たくみ)132cm26kg翔真会館 大島 翔汰(おおしま しょうた)124cm21kg極真会館千葉県田中道場 中山 翔太(なかやま しょうた)127cm27kgMAC埼玉西 梅澤 章人(うめざわ あきと)126cm25kg極真館さいたま中央 仙道 平雅(せんどう ひょうが)130cm29kg紅衛会 鈴木 空(すずき そら)128cm26kg拳摯会 萩村 太陽(はぎむら はる)141cm42kg高空會 真壁 旺斗(まかべ あきと)139. 5cm30kgMAC本部 中川 滉斗(なかがわ ひろと)142cm36kg桜琳塾 桑原 壮平(くわばら そうへい)127cm26kg士衛塾 三寺 将太(みてら しょうた)138cm39kgMAC宮前平 田島 陽斗(たじま あきと)132cm30. 9kg極真館武蔵中央 中村 槙愛(なかむら しんあい)130cm27kgノーティーカラテアカデミー 若林 巧人(わかばやし たくと)132cm38kg義和流拳法 森井 広大(もりい こうだい)132cm30kg真士会 宮本 葵央(みやもと きひろ)131cm31kg極真会館坂本道場 港北 倉繁 璃明武(くらしげ りあむ)130cm28kgMAC埼玉西 浅井 寛武(あさい ひろむ)132cm27kg桜塾 瀧本 一樹(たきもと かずき)128cm24kg空拳道誠心会 濱田 健太朗(はまだ けんたろう)137. 5cm30. 6kg極真会館釘嶋道場 久保田 風毅(くぼた ふうき)126cm27kg西山道場静岡伊東 渡辺 怜史(わたなべ れいし)122cm22kg極真館さいたま中央 丸山 周真(まるやま しゅうま)137cm32kg士衛塾 小学 4年 男子 阿部 祥大(あべ しょうた)142cm39kg士衛塾 渡辺 幸哉(わたなべ ゆきや)132cm27kg真正會 新井 駿吾(あらい しゅんご)128cm28kg極真館さいたま中央 杉田 颯斗(すぎた はやと)138cm30kgMAC埼玉中央 小泉 謙伸(こいずみ けんしん)136cm36kg極真会館坂本道場東京城東 森 且貴(もり かつき)131cm29kg武心塾カラテ 齊藤 佳憲(さいとう よしのり)130. 1cm32kg極真会館釘嶋道場 松沢 友輔(まつざわ ゆうすけ)128cm28kg紅衛会 森 大周(もり とものり)138cm30kg極真会館千葉県田中道場 田代 悠多(たしろ ゆうた)138cm29kg勇志会 山本 楓(やまもと かえで)131cm31kg桜琳塾 竹内 栄規(たけうち えいき)139cm30kgMAC江戸川 渡辺 達也(わたなべ たつや)140cm41kg宮本道場 和田 琉聖(わだ りゅうき)134cm33kg飛心会 伊永 啓吾(これなが けいご)133cm27kg誠真会 岩淵 彪(いわぶち ひょう)128cm28kg極真会館坂本道場東京城東 栗山 征也(くりやま せいや)132cm33kg極真館旗の台 荒井 悠汰(あらい ゆうた)132cm26. 5kg月心会宗家本部 堀井 佳伸(ほりい よしのぶ)137cm30kg真士会 鎌田 岳(かまた がく)131cm28kg正拳会 永嶋 甫信(ながしま もとのぶ)130cm28kg極真会館千葉県田中道場 中根 大河(なかね たいが)137cm32kgカラテスクール 新垣 翔吾(あらかき しょうご)145cm35kg鈴木道場 北野 僚一(きたの りょういち)141cm45kg極真館さいたま中央 須永 悠斗(すなが ゆうと)144. 5cm31kg義和流拳法 三宅 勇大(みやけ はやと)139cm33kgMAC埼玉西 松山 大雅(まつやま たいが)141cm32kg士衛塾 塚本 成夢(つかもと なるむ)141cm43kg星和会館 増田 源太郎(ますだ げんたろう)146cm45kg極真会館坂本道場 港北 野本 翔大(のもと しょうた)136cm33kg極真館さいたま中央 鈴木 颯太(すずき そうた)133cm35kg極真会館釘嶋道場 中木 将成(なかぎ まさなり)139cm35kg紅衛会 小松原 尚翔(こまつばら なおと)131cm27kg誠真会 中垣 龍汰朗(なかがき りゅうたろう)133cm31kg竜閃会 関口 勝大(せきぐち しょうた)145cm32kgMAC本部 赤羽根 烈(あかばね れつ)130cm28. 5kg極真会館坂本道場 大平 武田 臨(たけだ りん)140cm49kg極真会館千葉県田中道場 石渡 丈斗(いしわたり たけと)128cm27kg真正會 柴山 叶(しばやま かなう)132. 5cm32kg士衛塾山梨 枦山 真大(はぜやま まひろ)143cm32kg虎鉄会 澤 勇悟(さわ ゆうご)140cm50kg栄光会館 斉藤 翔琉(さいとう かける)130cm27. 5kg礼心会 中嶋 健斗(なかじま けんと)137cm35kg極真会館埼玉県木村道場 高橋 雄真(たかはし ゆうま)137cm35kg極真会館千葉県田中道場 川畑 心(かわばた しん)141cm40kg西山道場 福田 涼一(ふくだ りょういち)138cm36kg極真会館釘嶋道場 前田 隆仁(まえだ たかひと)141cm31kg男塾 渡部 恭太(わたなべ きょうた)140cm38kg極真会館坂本道場 座間 山崎 優太(やまざき ゆうた)137cm34kg真士会 村上 魁斗(むらかみ かいと)135cm38kg桜琳塾 友長 太壱(ともなが たいち)139cm30kg飛心会 照喜名 雅也(てるきな まさや)140cm28. 5kg勇志会 深谷 昴平(ふかや こうへい)132. 5cm34kg極真館さいたま中央 五十嵐 拓星(いがらし ひろとし)139cm29kg士衛塾 伊澤 魁(いざわ かい)139cm31kgカラテスクール 水津 空良(すいづ そら)135cm32kgMAC江戸川 早川 天崇(はやかわ てんしゅう)144cm52kg水滸会丈夫塾 安武 佑悟(やすたけ ゆうご)135cm35kg極真会館坂本道場 座間 村上 航健(むらかみ こうけん)130cm28kg宮本道場 飛野 龍志(ひの りゅうし)143cm39kg極真会館千葉県田中道場 戸叶 龍也(とかの りゅうや)144cm37kg極真会館坂本道場 野庭 越田 皓稀(こしだ こうき)143cm40kg正伝流中村道場 奥西 泰地(おくにし たいち)138cm32. 5kg極真館さいたま中央 小野 颯人(おの はやと)136cm35kg鈴木道場 飯川 潤一(いいかわ じゅんいち)130cm30kg紅衛会 佐野 星馬(さの せいま)138cm40kg翔拳塾小浦道場 太田 響己(おおた ひびき)132cm31kg極真会館釘嶋道場 玉村 晶吾(たまむら しょうご)132cm35kg極真会館宮城 中山 琉希(なかやま るき)146cm38kgMAC宮前平 日中 裕介(ひなか ゆうすけ)131cm25kg士衛塾 堀口 和馬(ほりぐち かずま)130cm23kg武心塾カラテ 定野 耕介(さだの こうすけ)133cm30kg極真館さいたま中央 高坂 龍己(たかさか りゅうき)125cm24kg士衛塾 クレイバン 莉恩(くれいばん りおん)138cm28kg勇志会 米川 虎之介(よねかわ とらのすけ)134cm29kg飛心会 伊代野 拓実(いよの たくみ)134cm27kg西山道場静岡伊東 萩原 熙(はぎわら ひかる)134cm36kg水滸会丈夫塾 中嶋 駿(なかじま しゅん)144cm39kg桜琳塾 砂川 絋太(すながわ こうた)141. 5cm34. 5kgカラテスクール 内田 龍太郎(うちだ りゅうたろう)135cm24. 5kg月心会宗家本部 尾原 武人(おばら たけと)134cm33kg桜塾 大味 浩樹(おおみ こうき)133cm30. 6kg健成会 阿久津 渉太(あくつ しょうた)138cm38kgMAC埼玉西 野崎 太志(のざき ふとし)135cm45kg極真会館千葉県田中道場 川村 嵐(かわむら あらし)135cm28kg極真会館坂本道場 港南台 豊田 隼也(とよだ じゅんや)138cm40kg真士会 野本 拓摩(のもと たくま)137cm34kg極真館さいたま中央 佐藤 銀河(さとう ぎんが)138cm38. 5kg真士会 安齋 和磨(あんざい かずま)133cm27kg極真会館釘嶋道場 宮下 純乃(みやした じゅんの)136cm29kg極真会館坂本道場 港南台 高橋 斗南(たかはし となん)141cm32kg極真会館千葉県田中道場 澤谷 大樹(さわたに たいき)140cm39kg士衛塾石川 新井 健悟(あらい けんご)131cm30kgMAC江戸川 石原 宙(いしはら そら)138cm31kg極真会館千葉県田中道場 藤田 大騎(ふじた だいき)132cm26kg真正會 坪谷 旭紘(つぼや あさひ)138cm28kgカラテスクール 石川 璃京(いしかわ りきょう)145cm32kg岐神空手 小林 陸央(こばやし りくお)139cm34kg虎鉄会 大槻 真冬(おおつき まふゆ)133cm29kg鈴木道場 竹内 彰浩(たけうち あきひろ)139cm30kgMAC江戸川 秋葉 晃希(あきば こうき)133cm25kg極真会館千葉県田中道場 榎田 礼哉(えのきだ らいや)128cm27. 5kg極真会館釘嶋道場 桑原 滉季(くわはら こうき)140cm30kg礼心会 数馬 海斗(かずま かいと)136cm34kg武現塾 阿部 拓海(あべ たくみ)130cm31kg誠真会館清瀬支部 川崎 優介(かわさき ゆうすけ)135cm29kg武心塾カラテ 高橋 駿介(たかはし しゅんすけ)145cm34kgMAC埼玉西 高田 健護(たかだ けんご)131cm30kg極真館旗の台 塚本 康太(つかもと こうた)137cm32kg桜琳塾 伊倉 英治(いくら えいじ)133cm28kgMAC埼玉中央 秋野 朋輝(あきの ともき)136cm45kg誠真会 山畑 龍人(やまはた りゅうと)133cm38kg拳友会 土浦本部 福田 勝紀(ふくだ まさき)145cm55kg極真会館坂本道場 栃木 矢澤 要平(やざわ ようへい)134cm34kg紅衛会 熊谷 伊織(くまがや いおり)156cm48kg士衛塾 小学5年 男子 40kg未満 久保田 波輝(くぼた なみき)144cm37kg久保田道場 玉村 幸成(たまむら こうせい)133cm30kg極真会館宮城 柾木 拓人(まさき たくと)140cm35kgMAC宮前平 小川 侑大(おがわ ゆうだい)144cm35kgカラテスクール 五十嵐 広稜(いがらし こうりょう)148cm36. 5kg桜琳塾 橋口 龍之介(はしぐち りゅうのすけ)148cm37kg武心塾カラテ 大城 廉(おおしろ れん)138cm38. 5kg極真会館千葉県田中道場 小原 悠汰(おばら ゆうた)141cm35kg翔真会館 中里 弘樹(なかざと ひろき)142cm36kg空拳道誠心会 岩崎 泰我(いわさき たいが)153cm39kg松栄塾 川村 翔吾(かわむら しょうご)145cm39. 5kgMAC奈良 猪飼 令央(いかい れお)151cm35kg士衛塾 盛田 健介(もりた けんすけ)143cm34. 8kg水滸会丈夫塾 片木 雅哉(かたぎ まさや)136cm27kgMAC埼玉中央 岩田 凜(いわた りん)137cm37kg正拳会 諏訪 綾佑(すわ りょうすけ)137cm27kg拳友会 土浦本部 三宅 龍矢(みやけ りゅうや)135cm34kg極真館さいたま中央 樋口 尚行(ひぐち なおゆき)149cm38kg勇志会 島袋 優輝(しまぶくろ ゆうき)138cm30kg空拳道誠心会 林 翼隆(はやし たかし)147cm32kg極真館さいたま中央 沼田 創太朗(ぬまた そうたろう)136cm31kg虎鉄会 小林 秀多(こばやし しゅうた)139cm37kg精鋭会 新井 開渡(あらい かいと)140cm31kgMAC江戸川 大久保 優斗(おおくぼ ゆうと)144cm33kg真士会 黒田 徹(くろだ てつ)144cm36. 5kg水滸会丈夫塾 油井 亮太朗(ゆい りょうたろう)139. 4cm32kg北晋寺西道場 高橋 成蓮(たかはし せれん)138cm29. 5kg極真会館千葉県田中道場 住谷 祐太(すみや ゆうた)130cm30kg紅衛会 池田 凌斗(いけだ りょうと)140cm35kg志優会 亀山 大輔(かめやま だいすけ)142cm37kg白連会館堺 藤田 恵佑(ふじた けいすけ)143cm39kg極真会館坂本道場 港北 土井 祥蔵(どい しょうぞう)128cm23kg鈴木道場 石井 正人(いしい まさと)139cm35kg極真館さいたま中央 大房 宇斗(おおふさ たかと)146cm36kgMAC本部 糸谷 佳幸(いとや よしゆき)141cm35kgノーティーカラテアカデミー 山内 杜人(やまうち もりひと)135cm30kgカラテスクール 横田 柊矢(よこた しゅうや)145cm33kg極真館さいたま中央 松下 武(まつした たける)141. 5cm31kg極真会館千葉県田中道場 土屋 拓海(つちや たくみ)137cm30kg志優会 貞本 駿(さだもと しゅん)141cm32kgMAC宮前平 井藤 優斗(いふじ ゆうと)145cm33kg男塾 稲積 大介 (いなづみ だいすけ)146cm37kg紅衛会 手塚 一誠(てづか いっせい)130cm28kg武心塾カラテ 藤森 凌太(ふじもり りょうた)141cm28kg極真会館坂本道場東京城東 角田 宇蘭(つのだ うらん)135cm31kg空拳道誠心会 高橋 裕輝(たかはし ゆうき)139. 5cm32. 6kg鈴木道場 山﨑 優海(やまざき ゆうみ)142cm34kg桜塾 銘形 和威(めいがた かずい)147cm37kg水滸会丈夫塾 清水 鴻志(しみず こうし)143cm32. 5kg極真館さいたま中央 中島 魁斗(なかじま かいと)143cm36kg誠真会 福田 楽渡(ふくだ がくと)149cm34kgMAC本部 山崎 滉太(やまざき こうた)139cm33kg極真会館心刀流道場 森島 汰門(もりしま たもん)141cm32kg真士会 奥田 悠太(おくだ ゆうた)148cm35kg志優会 玉村 大成(たまむら たいせい)134cm30kg極真会館宮城 貫井 将吾(ぬくい しょうご)146cm39kg秋山道場 小牧 尚弥(こまき なおや)144cm38kg士衛塾石川 平井 柊光(ひらい しゅうき)142cm32kgMAC本部 佐藤 遼河(さとう りょうが)133cm28kg精鋭会 鈴森 勇哉(すずもり ゆうや)133cm32kg七州会 関水 一平(せきみず いっぺい)130cm28kg武心塾カラテ 金子 達彦(かねこ たつひこ)140cm38kg極真館さいたま中央 中田 祐希(なかだ ゆうき)140cm35kgMAC埼玉中央 飯田 蓮(いいだ れん)138cm31kg拳友会 土浦本部 郭山 貴一(かくやま きいち)142cm32kg極真会館坂本道場 港南台 粕谷 海人(かすや かいと)136cm33kg昭武館 中薗 雄介(なかぞの ゆうすけ)141cm32kg極真会館千葉県田中道場 岡本 尚也(おかもと なおや)143cm34kg桜琳塾 神野 矢真人(こうの やまと)145cm32. 5kg大和会館 小学5年 男子 40kg以上 後藤 優太(ごとう ゆうた)157cm41kgMAC本部 須永 莞輔(すなが かんすけ)140cm55kg誠真会 山村 晴希(やまむら はるき)150cm42kg宮本道場 小川 隼斗(おがわ はやと)150cm47kg勇志会 豊巻 源(とよまき げん)149cm39kg昭武館 中村 風里(なかむら ふうり)150cm51kg栄光会館 佐藤 真樹(さとう まさき)140cm47kg虎鉄会 林 悠樹(はやし ゆうき)142cm42kg志優会 近藤 大樹(こんどう だいき)154cm48kg志優会 武内 詞音(たけうち しおん)153cm39kg極真会館坂本道場 港南台 小湊 悠登(こみなと ゆうと)143cm43kg星和会館 菅原 一成(すがわら いっせい)145cm46kg久保田道場 望月 亮(もちづき りょう)148. 5cm44kg極真館石川台 菊地 康暉(きくち こうき)142cm42kg極真会館千葉県田中道場 鶴見 眞旺(つるみ まお)138cm42kgMAC茨城 五十嵐 猛(いがらし たける)152cm54kg士衛塾 渡辺 恭平(わたなべ きょうへい)160cm64kgMAC茨城 柳生 将太(やぎゅう しょうた)153cm45kg極真会館坂本道場東京城東 大石 智也(おおいし ともや)151cm52kg星和会館 瀬戸 綸太郎(せと りんたろう)152cm47kg水滸会丈夫塾 小島 大我(こじま たいが)150cm53kg士衛塾 田口 将大(たぐち しょうだい)148cm43kg栄光会館 浦山 大雅(うらやま たいが)144cm44kg真士会 細野 将司(ほその まさし)148cm42kgMAC宮前平 堀内 大誠(ほりうち たいせい)152cm41kg白連会館富士吉田道場 石神 勇智(いしがみ ゆうと)150cm50kg志優会 渡辺 貴弘(わたなべ たかひろ)140cm45kgMAC埼玉中央 星 龍之介(ほし りゅうのすけ)150cm65kg極真会館埼玉県木村道場 本田 良介(ほんだ りょうすけ)147cm49kg開心塾 稲森 優昴(いなもり ゆたか)149cm55kg昭武館 内田 光則(うちだ みつのり)157cm50kg極真館石川台 斎藤 誠晃(さいとう まさあき)158cm53kgMAC本部 小学6年 男子 40kg未満 宇佐見 将己(うさみ まさき)150. 6cm38kgMAC本部 長谷川 航汰(はせがわ こうた)140cm32kg真士会 鈴木 拓海(すずき たくみ)132cm27kg正伝流中村道場 羽黒 未来(はぐろ みく)149cm40kg極真館さいたま中央 千田 黎一(せんだ れいいち)147cm33kg極真会館坂本道場 港南台 福富 真生(ふくとみ まお)147cm37. 5kgMAC埼玉中央 森田 勇作(もりた ゆうさく)143cm34kg西山道場静岡伊東 田村 直人(たむら なおと)148cm38kg極真館武蔵中央 大島 祐也(おおしま ゆうや)148cm36kg極真会館千葉県田中道場 加藤 宏武(かとう ひろむ)148cm36. 5kg武心塾 椿 篤哉(つばき あつや)145cm39. 5kg極真会館坂本道場 港北 島袋 直輝(しまぶくろ なおき)146cm37kg空拳道誠心会 中野 鷹平(なかの ようへい)141cm35. 6kgMAC中山 栗山 直也(くりやま なおや)141cm35kg極真館旗の台 諏訪 公隆(すわ きみたか)140cm32kg拳友会 土浦本部 塚本 裕太(つかもと ゆうた)141cm31kg桜琳塾 大橋 冬威(おおはし とうい)140cm33. 5kg極真館さいたま中央 宮島 正和(みやじま まさかず)139cm31kgMAC江戸川 大木 隆平(おおき りゅうへい)153cm35kg正伝流中村道場 豊永 勇次(とよなが ゆうじ)136cm34kg極真会館坂本道場 港北 高井 駿也(たかい しゅんや)145cm39kg士衛塾 根岸 拓海(ねぎし たくみ)148cm39. 8kg誠真会 関口 秀也(せきぐち ひでや)150cm39kg真士会 堀岡 風雅(ほりおか ふうが)145cm38kg極真会館浜井派 三吉 克樹(みよし かつき)140cm33kg紅衛会 荻原 康太郎(おぎはら こうたろう)143cm32kg正伝流中村道場 宮内 悠佑(みやうち ゆうすけ)145cm32kg極真館さいたま中央 中川 瑞基(なかがわ みずき)149cm36kg桜琳塾 菊川 結衣(きくかわ ゆい)141cm38kg西山道場 小川 新之介(おがわ しんのすけ)154cm36kg士衛塾 川瀬 永遠(かわせ とわ)137cm30kgMAC中山 三田 翼(みた つばさ)143cm34kg極真会館坂本道場 港北 布川 大喜(ふかわ だいき)153cm39. 5kg桜塾 北村 力也(きたむら りきや)141cm37kg極真会館釘嶋道場 中村 魁(なかむら かい)142cm37kg誠真会 永山 拓郎(ながやま たくろう)153cm38kg極真館さいたま中央 小松 壮太(こまつ そうた)148cm39. 8kg月心会宗家本部 倉本 蓮(くらもと れん)134cm32kg真士会 花牟礼 元輝(はなむれ げんき)137cm35kgMAC埼玉西 落合 俊貴(おちあい としき)146cm36. 5kg極真会館坂本道場 野庭 小澤 優翔(おざわ ゆうしょう)140cm37. 5kg極真会館千葉県田中道場 藤巻 光(ふじまき ひかる)138cm34kg士衛塾山梨 村上 碧咲稀(むらかみ あさき)140cm37kg拳摯会 伊代野 直希(いよの なおき)142cm31kg西山道場静岡伊東 有山 蓮也(ありやま れんや)141cm35kg正伝流中村道場 坪井 優斗(つぼい ゆうと)153cm38kgMAC茨城 小学6年 男子 40kg以上 太田 創(おおた そう)167cm53kg極真会館坂本道場 座間 望月 雄躍(もちづき ゆうや)140cm39kg鈴木道場 武蔵 真宙(むさし まひろ)172cm60kg士衛塾石川 千葉 大輔(ちば だいすけ)163cm46kg極真館本庄 東 滉稀(あずま こうき)153cm45kg西山道場千葉大宮 小久保 流一(こくぼ るい)142cm41kgMAC埼玉中央 登 飛翔(のぼり つばさ)165cm68kg極真会館坂本道場 港北 柴尾 奉希(しばお ともき)162cm55kg極真会館浜井派 垂水 崚太(たるみ りょうた)151cm44kgMAC本部 鈴木 竜翔(すずき りゅうと)148cm46kg士衛塾 依田 拳人(よだ けんと)158cm42kgMAC埼玉中央 山口 涼(やまぐち りょう)154cm42kg極真会館坂本道場東京城東 森 元貴(もり げんき)152cm43kg武心塾カラテ 村田 良(むらた りょう)163cm43kg水滸会丈夫塾 福田 将斗(ふくだ しょうと)155cm42kg極真会館坂本道場 栃木 佐野 天馬(さの てんま)148cm49kg翔拳塾小浦道場 大塚 勇太(おおつか ゆうた)148cm44kg西山道場千葉大宮 福田 一也(ふくだ かずや)149cm41kg極真会館千葉県田中道場 池田 直人(いけだ なおと)157cm50kgMAC宮前平 松橋 隼人(まつはし はやと)150cm41kg星和会館 加藤 雅也(かとう まさや)150cm51kg極真会館坂本道場 座間 伊倉 祐樹(いくら ゆうき)162cm51kgMAC埼玉中央 清水 政宗(しみず まさむね)152cm52kg寺西道場 二羽 駆(にわ かける)156cm44kg桜塾 遠藤 颯人(えんどう はやと)148cm43kg極真館さいたま中央 吉田 天青(よしだ てんせい)146cm45kg勇志会 猪股 嵩海(いのまた たかみ)157cm60kg士衛塾 村上 友志(むらかみ ゆうし)160cm51kgMAC埼玉西 鈴木 裕亮(すずき ゆうすけ)153. 5cm40kg空拳道誠心会 宮下 健人(みやした けんと)153cm40kg極真会館坂本道場 港南台 鈴木 滉平(すずき こうへい)164cm46. 5kg勇志会 山田 省吾(やまだ しょうご)158cm54kgノーティーカラテアカデミー 藤井 茂樹(ふじい しげき)150cm45kgMAC埼玉中央 保坂 勇樹(ほさか ゆうき)155cm43kg士衛塾山梨 武井 暢亨(たけい のぶゆき)165cm62kg極真会館坂本道場武蔵小山 佐藤 啓太(さとう けいた)152cm48kg士衛塾 鈴木 聖也(すずき せいや)164. 5cm51kgMAC埼玉中央 焼山 大雅(やきやま たいが)163cm59kgTEAM零 白毛 廉(しらげ れん)154cm44kg武心塾カラテ 西村 成矢(にしむら せいや)152cm51kg西山道場静岡伊東 高橋 和希(たかはし かずき)156cm60kg紅衛会 丸山 洸輝(まるやま こうき)149cm41kg士衛塾 上田 幹之(うえだ もとゆき)153cm45kg宮本道場 中山 凱(なかやま かい)161cm48kgMAC本部 飯野 隆成(いいの りゅうせい)154cm45kg渡邊道場 川北 一仁(かわきた かずひと)160cm67kg極真会館坂本道場 港南台 数馬 颯斗(かずま はやと)158cm51kg武現塾 三宅 隆介(みやけ りゅうすけ)148cm46kgMAC埼玉西 宮里 長昇(みやざと ながのり)147cm45kg勇志会 中島 響(なかじま ひびき)150cm49kg西山道場千葉大宮 中村 匠(なかむら たくみ)150cm45kg極真会館坂本道場 栃木 徳丸 裕大(とくまる ゆうだい)150cm43kg武心塾 高橋 一雄(たかはし かずお)152cm50kg東道場 岡本 蒼史(おかもと あおい)164. 5cm63kg水滸会丈夫塾 小学 6年 女子 中島 茉奈(なかしま まな)156cm42kgカラテスクール 福徳 萌花(ふくとく もえか)143cm35kg紅衛会 渡辺 優花(わたなべ ゆうか)145cm35kg宮川道場 長岡 結夏(ながおか ゆいか)154cm48kg極真会館釘嶋道場 更科 桃子(さらしな ももこ)156cm41kg士衛塾 篠﨑 万由美(しのざき まゆみ)161cm48kg武心塾 片山 史華(かたやま ふみか)152cm38kg極真会館坂本道場 港北 浅古 麗美(あさこ れいみ)148cm43kg極真会館埼玉県木村道場 関添 瑠夏(せきぞえ るか)148cm44kg飛馬道場 栗原 佑果(くりはら ゆうか)158cm52kg極真会館宮城 久保 亜唯里(くぼ あいり)148cm34kgMAC江戸川 阿部 未来(あべ みく)152cm51kg開心塾 三浦 真希(みうら まき)158cm53kg士衛塾 藤谷 和愛(ふじたに わかな)153cm43kg極真館埼玉県西 小森 洸奈(こもり ひろな)159cm47kg桜塾 石井 彩愛(いしい あやめ)145cm37kg紅衛会 中木 由香(なかぎ ゆか)154cm45kg紅衛会 砂川 貴蘭(すながわ きらん)148cm45kg勇志会 青木 優佳(あおき ゆうか)140cm31kgカラテスクール 大野 菜月(おおの なつき)155cm48kg桜塾 穂積 夢李亜(ほづみ ゆりあ)154cm48kg武心塾 望月 星伽(もちづき せいか)150cm45kg鈴木道場 安田 磨優(やすだ まゆ)143cm34kg極真会館心刀流道場 吉澤 明香里(よしざわ あかり)147cm38kg極真会館坂本道場 栃木 竹内 麿鈴(たけうち まりん)154cm43kg正伝流中村道場 佐久間 凪(さくま なぎ)155cm36kg士衛塾 矢部 穂乃香(やべ ほのか)146cm38kgMAC埼玉中央 高坂 みなみ(こうさか みなみ)155cm51kg極真館所沢支部 花木 さおり(はなき さおり)154cm67kg正拳会 椚 くる美(くぬぎ くるみ)147cm37kg宮川道場 東﨑 美優(とうさき みゆう)146cm34kg真士会 福田 美月(ふくだ みづき)160cm47kg極真会館坂本道場 栃木 糸谷 文菜(いとや あやな)155cm48kgノーティーカラテアカデミー 中学 女子 45kg未満 小椋 麻利子(おぐら まりこ)149cm42kg極真館さいたま中央、? 佐野 楓花(さの ふうか)153cm44kg翔拳塾小浦道場、秋葉台中学校 佐藤 エリカ(さとう えりか)154cm44kg極真会館千葉県田中道場、千葉市立生浜中学校 青柳 海花(あおやぎ うみか)153cm44kg正拳会、篠崎第二中学校 新田 華子(しんた かこ)150cm43kg極真会館浜井派、? 宮森 いずみ(みやもり いずみ)150cm43kgカラテスクール、上和田中学校 松下 美乃和(まつした みのわ)151cm42kgMAC中山、横浜女学院 大木 紗理奈(おおき さりな)152cm42kg非公開A、区立上平井中学校 桑原 茉子(くわばら まこ)147cm36kg士衛塾、? 石原 優香(いしはら ゆうか)152cm44kg飛心会、豊中市立第六中学校 榮 優利奈(さかえ ゆりな)149cm39kg飛心会、豊中市立第十四中学校 平山 実夏(ひらやま みか)149cm43kg極真会館坂本道場東京城東、昭和学院中学校 川内 咲穂(かわうち さほ)157cm39kgMAC埼玉中央、大東中学校 岩戸 千晴(いわと ちはる)152cm44. 5kg極真館さいたま中央、? 鈴村 菜々(すずむら なな)155cm43kg宮川道場、甲府市立上条中学校 小川 舞(おがわ まい)153cm44kg極真館さいたま中央、? 木村 真鈴(きむら まりん)150cm45kg極真会館千葉県田中道場、大原中学校 南 久美子(みなみ くみこ)151cm44kg士衛塾、? 中学 女子 55kg未満 立迫 愛(たてさこ あい)156cm46kg男塾、? 福田 千遥(ふくだ ちはる)150cm47kg極真会館釘嶋道場、? 田中 幸来(たなか ここ)155cm51kg鈴木道場、相模原市立小山中学校 小牧 美櫻(こまき みお)153cm49kg西山道場静岡伊東、伊東市立北中学校 中島 茉侑佳(なかじま ふゆか)160cm54kg栄光会館、八潮市立大原中学校 尾前 さくら(おまえ さくら)160cm53kg極真会館千葉県田中道場、大網町立増穂中学校 秋山 優女(あきやま ゆめ)158cm48kg秋山道場、清瀬市立清瀬中学校 雨宮 未沙(あめみや みさ)153cm50kg寺西道場、一宮中学校 久保田 千尋(くぼた ちひろ)158cm49kg久保田道場、? 菊田 麻未(きくた まみ)161cm47. 5kg極真館旗の台、大田区立大森第6中学校 長谷部 ひかる(はせべ ひかる)155cm48kgカラテスクール、光丘中学校 山﨑 友梨(やまざき ゆり)152. 5cm48kg真士会、吉川中央中学校 勝又 日奈子(かつまた ひなこ)156cm48kg西山道場、上尾市立西中学校 小川 恵(おがわ めぐみ)161cm48kg極真館さいたま中央、? 高田 真莉愛(たかだ まりあ)160cm50kg士衛塾、新潟市立新津第2中学校 穂積 樹李亜(ほづみ じゅりあ)149cm48kg武心塾、町田市立南中学校 大野 絵実菜(おおの えみな)162cmMAC本部、横浜市立中川西中学校 中学 女子 55kg以上 樋口 朱里(ひぐち あかり)156cm鈴木道場、相模原市立小山中学校 五十嵐 優貴(いがらし ゆき)158cm極真会館坂本道場 港南台、横浜市立小山台中学校 中学 男子 45kg未満 大石 航輝(おおいし こうき)150cm41kg西山道場静岡伊東、伊東市立南中学校 佐々木 純(ささき じゅん)162cm45kg鈴木道場、相模原市立小山中学校 原田 征哉(はらだ せいや)153cm43kg極真会館坂本道場 港北、東山田中学校 若松 恭介(わかまつ きょうすけ)150cm42kg紅衛会、葛飾区立水元中学校 寺崎 昇龍(てらさき りゅう)155cm44. 5kg士衛塾石川、清泉中学校 田中 伶男(たなか れお)155cm44kg極真会館千葉県田中道場、泉谷中学校 安島 竜司(あじま りゅうじ)156cm39kg西山道場千葉大宮、? 外谷 隆人(とや たかと)151cm44kg栄光会館、八潮市立大原中学校 武田 潤也(たけだ じゅんや)153cm44. 8kg悠和会、? 平岡 恭也(ひらおか きょうや)154cm40kg西山道場千葉大宮、? 足助 涼太(あすけ りょうた)150cm42kg真士会、松伏第二中学校 伊藤 龍平(いとう りゅうへい)145cm44kg士衛塾山梨、笛吹市立一宮中学校 三木 翔太(みき しょうた)155cm44kgMAC本部、横浜市立東山田中学校 佐藤 颯平(さとう そうへい)152cm43kg真士会、松伏第二中学校 速水 大輝(はやみず だいき)158cm41kg星和会館、荒川区立第7中学校 坪内 拓斗(つぼうち たくと)152cm42kg士衛塾石川、? 新田 万季人(しんた まきと)160cm44kg極真会館浜井派、? 水津 陸斗(すいづ りくと)152cm41kgMAC江戸川、江戸川区立鹿骨中学校 金谷 昴児(かなや こうじ)152cm44kg西山道場、? 大塚 勇太(おおつか ゆうた)145cm37kg極真会館千葉県田中道場、千葉市立有吉中学校 平岡 龍矢(ひらおか りゅうや)152cm40kg西山道場千葉大宮、? 小髙 凌(おだか りょう)148cm38kg極真会館千葉県田中道場、いすみ市立岬中学校 工藤 翔(くどう かける)145cm35kg栄光会館、三郷市栄中学校 森 健人(もり けんと)154cm42kg極真館埼玉県西、ふじみ野市立福岡中学校 森田 耕右(もりた こうすけ)149cm41kg西山道場静岡伊東、伊東市立南中学校 椿 力哉(つばき りきや)154cm44. 5kg極真会館坂本道場 港北、東山田中学校 猿子 和貴(ましこ かずき)147cm41kg士衛塾、新潟市立藤見中学校 中学 男子 55kg未満 馬場 雄大(ばば ゆうだい)162cm51kg桜塾、桜塾 矢部 将大(やべ しょうた)167cm55kgMAC埼玉中央、大東中学校 伊澤 笙(いざわ しょう)165cm54kgカラテスクール、? 前田 悠太(まえだ ゆうた)163cm47kgMAC江戸川、江戸川区立小岩第1中学校 澤谷 龍也(さわたに たつや)168cm54kg士衛塾石川、城南中学校 高坂 遼(こうさか りょう)165cm50kg極真館所沢支部、所沢市立南陵中学校 高橋 天空(たかはし そら)160cm47kg極真会館千葉県田中道場、増穂中学校 吉野 雄介(よしの ゆうすけ)170cm52kgMAC埼玉西、狭山東中学校 松田 翼(まつだ つばさ)163cm47kg星和会館、足立区立第8中学校 横田 悠平(よこた ゆうへい)169cm53kg葉隠塾、0 澤栗 光輝(さわぐり こうき)160cm51kg武心塾、町田市立成瀬台中学校 松本 澪央(まつもと れお)166cm53kg極真会館浜井派、川北中学校 金田 卓磨(かねだ たくま)165cm50kg士衛塾、? 仲上 龍馬(なかがみ りょうま)168cm53. 5kg極真会館坂本道場 港北、横浜市立東山田中学校 竹澤 勇真(たけざわ ゆうま)160cm51kgMAC江戸川、江戸川区立小岩第2中学校 小澤 優喜(おざわ ゆうき)160cm47kg極真会館千葉県田中道場、竜野中学校 高坂 晋太郎(こうさか しんたろう)168cm? kg極真館所沢支部、所沢市立南陵中学校 加藤 拓弥(かとう たくみ)168cm51. 6kg武心塾、町田市立南中学校 川村 優真(かわむら ゆうま)163cm54kgMAC奈良、桜井市立大三輪中学校 小山 恵悟(こやま けいご)160cm49kg寺西道場、南牧中学校 大井 裕貴(おおい ひろき)160cm52kg極真会館坂本道場 栃木、? 東海 政太郎(とうかい まさたろう)163cm55kg虎鉄会、横浜市立荏田南中学校 大橋 怜平(おおはし れんぺい)156cm48kg桜塾、桜塾 田代 和也(たしろ かずや)169cm50kgMAC本部、茅ヶ崎中学校 竹吉 瑠希(たけよし りゅうき)162cm53. 5kg極真会館浜井派、寺井中学校 赤坂 聡海(あかさか さとみ)155cm55kg極真館さいたま中央、? 山口 雄也(やまぐち ゆうや)168cm53kg清心館、? 小牧 勇太(こまき ゆうた)156cm48kg士衛塾石川、? 小浦 翼(こうら つばさ)159cm51kg翔拳塾小浦道場、横浜市立芹が谷中学校 中学 男子 65kg未満 高木 貴一(たかぎ きいち)165cm55kg極真会館坂本道場東京城東、葛飾区立新宿中学校 界外 斗夢(かいげ とむ)170cm62kg極真会館千葉県田中道場、御宿中学校 北島 悠希(きたじま ゆうき)165cm56kg紅衛会、渕江中学校 細渕 大樹(ほそぶち だいじゅ)165cm61kgMAC埼玉西、狭山市立山王中学校 米川 龍之介(よねかわ りゅうのすけ)158cm58kg飛心会、伊丹市立松崎中学校 平野 希龍(ひらの きりゅう)165cm63kg極真館旗の台、大森第6中学校 加藤 虎於奈(かとう こおな)173cm64kg士道館荻野道場、藤沢中学校 小野 悠太(おの ゆうた)163cm56kg正伝流中村道場、川崎市立麻生中学校 杉崎 駿(すぎざき たかし)172cm58kgカラテスクール、大和市立上和田中学校 佐藤 諒哉(さとう りょうや)167cm56kg士衛塾、? 藤野 了伍(ふじの りょうご)169cm58kg清松会、福岡市立松崎中学校 竹内 皇貴(たけうち こうき)170cm58kg正伝流中村道場、川崎市立中野島中学校 山中 誠道(やまなか まさみち)170cm63kg極真会館坂本道場東京城東、葛飾区立桜道中学校 山﨑 彪冴(やまざき ひょうご)165cm60kg真士会、松伏第二中学校 佐藤 大海(さとう ひろうみ)168cm64kg西山道場、私立京華中学校 屋敷 龍貴(やしき りゅうき)169cm65kg聖武会館、報徳学園中学校 武田 龍也(たけだ りゅうや)176cm63kg悠和会、? 安藤 裕也(あんどう ゆうや)170cm64kg極真会館釘嶋道場、? 本間 政丞(ほんま まさのじょう)163cm56kg士衛塾、新潟市立亀田西中学校 木下 毅顕(きのした たけあき)167cm57kg武心塾、横浜市立十日市場中学校 実川 駿(じつかわ しゅん)167cm57kg極真会館千葉県田中道場、八千代市立萱田中学校 鈴木 孝太(すずき こうた)163cm60kgMAC本部、横浜市立中川中学校 中学 男子 65kg以上 大石 昌輝(おおいし まさき)175cm72kg星和会館、蕨市立第1中学校 岩澤 雄真(いわさわ ゆうま)173cm90kg非公開、大目市立猿橋中学校 澤 翔悟(さわ しょうご)164cm80kg栄光会館、三郷市立栄中学校 伊藤 拳也(いとう けんや)173cm88kg極真会館坂本道場東京城東、上平井中学校 松浦 弘泰(まつうら ひろやす)169cm65kgMAC奈良、桜井市立大三輪中学校 小寺 一平(こでら いっぺい)179cm72kg水滸會丈夫塾、札幌市立北栄中学校 砂川 貴蓮(すなかわ きれん)175cm66kg勇志会、? 大山 絋之介(おおやま こうのすけ)173cm75kg士衛塾、? 木田 貴弥(きだ たかや)172cm80kg極真館さいたま中央、? 山口 透(やまぐち とおる)172cm65. 5kg秋山道場、清瀬市立清瀬中学校 増田 真之介(ますだ しんのすけ)175cm79kg極真会館坂本道場 港北、横浜市立日吉台西中学校 青木 遼(あおき りょう)172cm100kg士道館橋本道場、原市場中学校 高田 祐輝(たかだ ゆうき)169cm74kg義和流拳法、草加市立谷塚中学校 上田 幹雄(うえだ みきお)181cm80kg宮本道場、川崎市立富士見中学校 高校 女子 48kg未満 伊藤 帆南(いとう ほなみ)158cm47. 5kg士衛塾山梨、山梨県立山梨園芸高校 野邊 暁音(のべ あかね)158cm48kg極真館総本部、川口市立川口高等学校 山田 彩夏(やまだ あやか)157cm48kgMAC本部、神奈川県立荏田高校 高校 女子 55kg以上 上野 萌子(うえの もえこ)160. 3cm西山道場静岡伊東、静岡県立伊東商業高校 細川 優(ほそかわ ゆう)164cm水滸會丈夫塾、札幌北斗高校 増田 優花(ますだ ゆうか)160cm開心塾、川口市立川口総合高等学校 実川 彩乃(じつかわ あやの)160cm極真会館千葉県田中道場、千葉日本大学第1高校 杉浦 いつか(すぎうら いつか)157cm正伝流中村道場、神奈川県立菅高校 中島 ひかる(なかじま ひかる)168cm西山道場千葉大宮、千葉県立千葉高等学校 高校 女子 55kg未満 金山 千尋(かなやま ちひろ)158cm50kg寺西道場、帝京第3高校 伊藤 里紗(いとう りさ)151cm50kg士衛塾、開志学園高校 須藤 里沙(すどう りさ)160cm52kg鈴木道場、神奈川県立上溝高校 小野寺 希和(おのでら きわ)158cm54. 5kg寺西道場、北杜高校 高校 男子 60kg未満 杉崎 勇人(すぎざき ゆうと)171cm59kgカラテスクール、柏木学園高校 大堀 隼人(おおほり はやと)164cm59kg士衛塾、新潟県立東工業高校 秋山 唯(あきやま ゆい)170cm59kg拳聖会静岡南部、? 斎藤 雅也(さいとう まさや)167cm59kg宮本道場、東京高校 加藤 勇也(かとう ゆうや)171cm55kg武心塾、光明学園相模原高校 米良 俊輝(めら としき)166cm59. 5kg桜琳塾、江戸川学園取手高校 加島 一也(かしま かずや)160cm58kg極真館武蔵中央、埼玉県立越生高校 髙野 駿一(たかの しゅんいち)174cm59kg極真会館坂本道場 港南台、神奈川県立磯子高校 真澄 将(ますみ しょう)168cm59kg宮本道場、川崎高校 鈴村 誠也(すずむら せいや)168cm56kg宮川道場、甲府昭和高校 高校 男子 70kg未満 鈴木 勇人(すずき はやと)174cm64kgMAC本部、国士舘高校 佐藤 真弘(さとう まさひろ)172cm69. 5kg士衛塾、開志学園高校 荒川 拓弥(あらかわ たくや)169cm69kg正伝流中村道場、平塚工科高校 矢ケ崎 龍弥(やがさき たつや)177cm70kg非公開、? 山上 優太(やまがみ ゆうた)173cm63kg桜琳塾、柏市立柏高校 武田 直樹(たけだ なおき)174cm69kg士衛塾、新潟県立新潟東高校 高校 男子 70kg以上 大山 竜之介(おおやま りゅうのすけ)180cm98kg士衛塾、? 小川 凌(おがわ りょう)174cm76kg極真会館千葉県田中道場、市原八幡高校 北村 剛(きたむら つよし)175cm78kgMAC小牧、愛知県立春日井西高校 中田 累(なかだ るい)173cm98kg寺西道場、北杜高校 森田 奈男樹(もりた なおき)172. 5cm74kg宮本道場、橘高校 細川 翔(ほそかわ しょう)175cm78kg水滸會丈夫塾、札幌丘珠高校.

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天夷鳥命:玄松子の祭神記

かみ むら ひな の 大喜 利

日本の神の一覧(にほんのかみのいちらん)は、およびのやの神、その他ののの神および日本に土着した外国の神の一覧である。 人代以降(同世代以降)の人物はを参照。 ただし、由来の神(-如来、-菩薩、-明王、-天)や(-明神、-権現)はここには加えないので を参照。 項目の見方• 神名の表記や読み方は一例であって同じ神でも様々な表記がある。 命(…のみこと)、尊(…のみこと)、神(…かみ、…のかみ、しん、じん)などの神号の部分は原則として省略。 神群(例:宗像三女神)は括っていない。 日本神話由来の神 [ ] あ行 [ ] あ [ ]• (あおぬまぬおしひめ)• (あかるひめ)• (あきぐいのうし) - のから神になる• (あきびめ)• (あきやまのしたびおとこ)• (あくとびめ)• (あくる)• (あしがらのさかもと):坂の神• (あじすきたかひこね)- 農業、雷、不動産業の神• (あしなだか) :「古事記」にみえる女神。 (あすは)• (あずみのおおはま):の祖• (安曇磯良)(あづみのいそら)- 海の神• (あねくらひめ)• (あなと)• (あわしまのかみ) あま・あめ [ ]• (あましるかみづひめ)• (あまつくにたま)• (あまつくめ)• 、天津日子根命(あまつひこね)- 日の神、海の神、風の神• (あまつまら)- 鍛冶の神• (あまつみかぼし)- 星の神• (あまてらすおおみかみ)- 、太陽神• 、天石戸別神(あまのいわとわけ)• (あまのたねこ)• (あまのみちね)• (あめのいくたま)• (あめのうずめ)- 芸能の女神• (あめのおしひ)• (あめのおしほみみ)- 稲穂の神、農業神• (あめのおはばり)• (あめのかがみ)• (あめのかぐやま)• (あめのかむたま)• (あめのこやね)- 託宣の神• (あめのさぐめ)• (あめのたぢからお)- 腕力・筋力を象徴する神• (あまのたなばたひめ)- 織機の神• (あめのつどへちぬ)• (あめのとこたち)- 始源神、天空神• (あめのとよたらしからひめのみこと)• (あめのなえますのみこと)• (あめのはづちのお)• (あめのひばらおおしなどみ)• (あめのひわし)- 豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神• (あめのふゆきぬ)• (あめのほあかり)• 、天穂日神(あめのほひ)- の祖• (あめのまひとつ)- 鍛冶の神• (あめのみかぬし)• (あめのみそらとよあきつねわけ)• (あめのみつたまてるひめ)• (あめのみなかぬし)- 宇宙の根源神• 天三降命(あめのみふり)• (あめのやあきつひこ)• 天八十萬魂尊(あめのやそよろず)• (あめのゆかわたな)• 、天稚彦(あめのわかひこ、あめわかひこ)• 荒熊大神(あらくまおおかみ)• (あわじのほのさわけしま)• (あんば) い・う・え・お [ ]• (いおついわむら)• (いかすりのかみ)• (いくたまさきたまひめ)• (いくつひこね)• (いこなひめ):• (いこまつひこ):• (いこまつひめ):• 、伊耶那岐命(いざなぎ)- 創造神、の神• 、伊耶那美命(いざなみ)- 創造神、の神• (いしこりどめ)- 金属加工の神、鏡の神• (いするぎひこ)• (いせつひこ):『』逸文に見える神• (いそたける、いたける)- 林業、造船、航海安全、大漁の神• (いづなひめ)• (いづのめ)- 厄払いの神• (いなせはぎ):天穂日神の子• (いひか)• (いわおしわくのこ)• (いわさく・ねさく)- 武神• (いわつつのを)- 武神• (いや)• (いわながひめ)- 不老長生の神• (うかのみたま)- 穀物の神• (うがやふきあえず)- 農業の神• (うけもち)- 食物神• (うひぢに・すひぢに)- 大地の様子を表す神• (うましあしかびひこぢ)- 活力を司る神• (うわはる)- 開拓、学問、技芸、裁縫、安産、婦女子の守護神。 (えのもと):• (おうみのしばぬいりき)• (おおあさひこ)• (おおかむづみ)• (おおぐちまがみ)- 日本狼の神格化• (おおくにぬし)• (おおげつひめ)- 食物神• (おおごとおしお)• (おおとのぢ・おおとのべ)- 大地の様子を表す神• (おおぬでひめ)• (おおものいみ)• (おおものぬし)- 水神、雷神• (おおやまくい)- 山の地主神、農耕の神• (おおやまつみ)- 山の神、海神• (おかみ)- 水神• (おきさかる) - 伊弉諾尊の左手の腕輪から神に成る• (おきたまのかみ)• (おきつかいべら) - 伊弉諾尊の左手の腕輪から神に成る• (おきつなぎさひこ) - 伊弉諾尊の左手の腕輪から神に成る• (おとごさひめ)• (おかみ)• (おみずぬ)• (おもいかね)- 知恵の神• (おもだる・あやかしこね)- 大地の様子を表す神 か行 [ ]• (かぐつち)- 火の神• (かすが)• (かたくろくしん)- 石の神、門の神、屋根の神、風神• (かなやこ)- 鍛冶職人に信仰される神• (かなやまひこ)- 鉱山の神、鉱業・鍛冶の守護神• (かなやまひめ)- 鉱山の神、鉱業・鍛冶の守護神• (かみなおびかみ) - の一柱• (かみむすび)- 創造神• (かむおおいちひめ)- 農耕神、食料神• (かむやたてひめ)• (かもたけつぬみ)• (かもわけいかづち)• 、賀夜奈流美(かやなるみ)• (萱野姫神)(かやのひめ)- 草の神• (から)• (きのまた)- 木の神、水神、安産の神• (きんとび、きんし)• (くえびこ)- 田・農業の神、土地の神、学業・知恵の神• (くくのち)- 木の神• (くくりひめ)- 縁結びの神• (くしいわまど)• (くしなだひめ)- 稲田の女神• (くしまち)• (くしやたま)• (くずりゅう)• (くにおしとみ)• (くにたま)• (くにさつち)- 大地の様子を表す神• (くにのとこたち)- 始源神、大地神• (くまのはやたまのお):• (くまのくすび)• (くまのふすみ):• (くらみつは)- 水神• (けつみこ):• (こけむすめ)• (ことさかのお)• (ことしろぬし)- 託宣神、海神、五穀豊穣商売繁盛の神• (このはなのさくやびめ)- 火の神、水神、妻の守護神、安産の神、子育ての神、酒造の神• (このはなちるひめ) さ行 [ ]• (さかしなひこな)• (さきたまひめ)• (さくいのかみ)• (さしくにおおかみ)• (さしくにわかひめ)• (さほひめ)- 春の女神• (さむかわひこ)• (さむかわひめ)• (さるたひこ)- 道の神、旅人の神• (しおつちのおじ)- 航海の神、潮流を司る神、製塩の神• (しきつひこ)• (しきやまぬし)• (したてるひめ)• (したはる)- 開墾の神• (しなつひこ)- 風神• (すぎはら)• (すくなひこな)- 国造りの協力神、常世の神、医薬の神、温泉の神、呪術の神、穀物神、知識の神、酒造の神、石の神• 、素盞嗚尊(すさのを)- 、海神、嵐の神• (すせりびめ)• (すみよし)- 水神• (せおりつひめ)• (たかみむすひ)- 創造神• (たかてるひめ)• (たぎつひめ)• (たきりびめ)• (たくはたちぢひめ)- 織物の神• (たけひらとり)• (たけみかづち)- 雷、剣の神• (たけみずわけ)• (たけみなかたとみのみことひこがみわけ)• (たつたひめ)- 秋の女神• (たにぐく)• (たひりきしまるみ)• (たまのおや)- 勾玉の神• (たまよりびめ):の妻• (たまよりびめ):やなどの母• (たまよりびめ):の母• (ちまたのかみ) - 伊弉諾尊の袴から神に成る• (月読尊、月弓尊、月夜見尊)(つくよみ、つくゆみ、つきよみ)- 、月神• (つぬぐい・いくぐい)- 大地の様子を表す神• (とおつまちね)• (とおつやまさきたらし)• (ときはかし) - 伊弉諾尊の袋から神に成る• 、歳神、大年神、御年神、若年神、大歳神、正月様、恵方様、歳徳神(とし)• (ととり)• (とりなるみ)• (とようけびめ)• (とよくもの)- 大地の様子を表す神• (とよたまびめ)- 海神、龍神• (とよひわけ)• (とりのいわくすふね)- 船の神、運輸・交通の神 な行 [ ]• (地震の神)• (なおび)- 厄払いの神• (ながしらはのかみ)• (なきさわめ)- 水神、井戸の神• (にうつひめ):• (にぎはやひ)• (ににぎ)- 稲穂の神、農業神• (ぬなかわひめ)• (ぬのおしとみとりなるみ) は行 [ ]• (はじかみ):• (はちまん、やはた)• (はにやす)、埴安彦神(はにやすひこ)、埴山姫神(はにやまひめ)- 土の神• (はやあきつひこ・はやあきつひめ)- 川の神、港の神• (はやちね)• (はやみかのたけさはやじぬみ)• (はらえど)• (ひかわひめ)• (ひさつひめ)• (ひとことぬし)• (ひなてるぬかたびちおいこちに)• (ひはやひ)- 火の神• (ひひらぎそのはなまづみ)• (姫大神)(ひめ)• (ひるこ)• (ふかぶちのみずやれはな)• 、布都努志命(ふつぬし)• (ふてみみ)• 、太玉命(ふとだま)- 託宣の神• (ふぬずぬ)• (ふわのもぢくぬすぬ)• (へさかる) - 伊弉諾尊の右手の腕輪から神に成る• (へつかいべら) - 伊弉諾尊の右手の腕輪から神に成る• (へつなぎさびこ) - 伊弉諾尊の右手の腕輪から神に成る• (ほおり)- 、稲穂の神• (ほすせり)- 稲穂の神• (ほでり)- 、稲穂の神• (ほのいかづち)• (まがつひ)- 災厄の神• (みかしきやひめ)• (みかぬしひこ)• (みかはやひ)- 火の神• (みくまり)• (みけつ):• (みしま):• (みちのながちは) - 伊弉諾尊の帯から神に成る• (みつはのめ)、弥都波能売神(みづはのめ)- 水神• (みひかりひめ)- 水神、井戸の神• (みほつひめ)• (みろなみ)• (むとう)• (むなすきひめ) や行 [ ]• (やがわえひめ): - 諸芸上達・諸願成就の神• (やさかとめ)• (やしまじぬみ)• (やしまむじ)• (やたがらす)• (やまとおおくにたま)• (わかうかのめ)• (わかつくしひめ)• (わかひるめ)• (わかふつぬし)• (わくむすび)- 穀物の生育を司る神• (わずらいのうし) - 伊弉諾尊の衣から神に成る• (わたつみ)- 海神 陰陽道(道教)の神 [ ]• (かはく)• (こんじん)• (じゅうにてんしょう)• (しんのう)• (しょうき)• (しょうめんこんごう)• (だいこんじん)• (としとく)• (はっしょうじん)• (ひめこんじん)• (ふうじん)• (らいじん) 民俗・民間信仰の神 [ ]• (あかぎ)• (あしてこうじん)• (あめのやあきつひこ)• 神(荒脛神)• (いけのう)• (いけわかみこ)• (いずはやぶる)現在はと同一視• (いづはやお)• (いづはやひめ)• (いぬがみ)• (うがじん)• (うちあがた)• (うばがみ)• (うまや)• (うらこ)• (水江浦島子)• (えちご)• (えながみ):後産の神• (えなたけみみ)• (戎、夷、胡、恵比寿、恵比須、蛭子)• (おおあがた)• (おおくぬぎ)• (おおしまべ)• (おぎはぎ)• (おきついわたて)• (おに)• (おほつの)• (かかしがみ)• (かたくらべ)• (かっぱ)• (かむさかお)• (うかぬし)• (くさないひめ)• (くるす)• (くろひめ)• (こしなお)• (こだまひこ)• (こまゆみ)• (こんせいしん)• (さきたまひこ)• (ささやまひこ)• (ざしきこぞう)• (ざしきわらし)• (さなつらひめ)• (しだらがみ)• (しちふくじん)• (しばがみ)• (すがね)• (すわわかひこ)• (そこたく)• (たかいしひめ)• (たかもり)• (たけいえみし)• (たけいおおともぬし)• (たけひこね)• (たけみなかたひこかみわけ)• (たつこひめ)• (たつわかひめ)• (たてしな)• (たまる)• (たるひめ)• (ちかと)• (ちぬ)• (ちまた)• (つくもがみ)• (つまきはぎ)• (つましなひめ)• (つまやみずひめ)• (てんぐ)• (てんとう)• (てんにょ)• (てんぱく)• (どうそじん)• (とこよがみ)• (とのあがた)• (にわつめ)• (ひらふ)• (びんぼうがみ)• (ふなだま)• (ほうきがみ)• (ほうそう)• (ませのかみ)• (みしゃつひこ)• (みつたまひめ)• (もりや、もれや)• (もりた)• (もりた、もりや)守田之神(もりたのかみ)• (やきね)• (やしきがみ)• (やすらお)• (やくし)• (やくびょうがみ)• (やづかお)• (やとの)• (やなひめ)• (やね)• (わかぎひめ) 主な人神、現人神 [ ] 日本人 [ ]• (あしかがみわけのみこ)• (晴明大神、晴明霊神、晴明霊社)• -高屋大明神とも• 、天之日矛(あめのひぼこ)• (いずきひこ)• (いすずひめ)• (いにきみ)• (いわかむつかり)• (毛利元就)• (建勲大明神)• (乙橘媛、おとたちばなひめ)• 、、らの諸祭神• -藤栄神社• (伝長男)• -吉備大臣、八所御霊の一柱とされる。 真備の祖母も「光助霊神」として祀られる。 (大楠公)• (小楠公)• ほか硫黄島守備隊• -福岡・光雲神社、姫路・広峯神社内に官兵衛神社• -光雲神社• (苅田比古)• の后(苅田比売)• (平高望)• 以下14名の乗艇員• (崇道天皇)• (土守霊社)• (藤原山蔭)• (神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊・かむやまといわれひこ)• 代々とされた• (たぢのもり)• (立花道雪)• (立花宗茂)• (立花誾千代)• (辰子姫)• (伊達政宗)• (徳川光圀)• (豊臣秀吉)• 饅頭の祖、菓祖神社• (ひえだのあれ):・• 天領・備後尾道の港奉行。 尾道発展の基礎を築く。 尾道住吉神社。 (談山大明神)• (藤原吉子)• 庖丁道の祖、庖丁神社• (埴津霊社)• (宇多天皇)• (水野勝成)• (足神霊神・)• (垂加霊社)• (やまとひめ)• 吉田神道(唯一宗源神道)の提唱者。 卜部兼倶。 に祀られる• (ろくげい) 外国人 [ ]• () 琉球の神 [ ]• () あまみく 、あまみきよ、しねりきよ、あーまんちゅ• アイヌのカムイ [ ] は、語で神格を有する高位の霊的存在である。 ()(カムイチカプ)• (巨鳥)• (疫病神)• カムイ(火の神様)• (山の神様;一般的にを指す。 キンカムイとも。 (悪の神様;一般的に人間を襲うヒグマを指す。 キムンカムイが変化したもの。 ()(沖の神様;一般的にを指す。 (オキキリムイ) 新宗教/その他の神 [ ] 新宗教 [ ]• 教派神道系• (てんちかねのかみ)-• (うしとらのこんじん)-• 諸派系• 天理王命(てんりおう)=親神(おやがみ)-• 大光明主神(みろくおおみかみ)- 系諸教団の多く• 御親元主真光大御神(みおやもとすまひかりおおみかみ)- の大部分• 伊都能売大国魂大国主之大神(いずのめおおくにたまおおくにぬしのおおかみ)- 上記神と表裏一体の神• (える・かんたーれ)-の根本仏・地球神 その他 [ ]• 米国国魂神• ハワイ産土神• 朝鮮国魂神 日本の神に付随する用語集 [ ]• (あらかみ、あらがみ、こうじん)• (いなり)• (うじがみ)• (うまやがみ)• (おんみょうどう)• (かまどがみ)• (ごりょうしんこう)• 古神道(こしんとう):ここでは外来宗教が入る前の原始神道を差す。 (ことあまつがみ)• (こんせいしん)• (ぢぬしがみ)• (かみよななよ)• (すいじん)• (それいしんこう)• (たたり)• (た)• (ちまた)• (ちんじゅがみ)• (てんじん)• (どうきょう)• (にぎみたま・あらみたま)• (ひとりがみ)• (ひとがみ)• (みこ)• (みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)• (みさかどののかみ)• (みはしらのうずのみこと、さんきし)• (みやのめぐり)• (みんかんしんこう)• (むなかたさんしん)• (やくびょうがみ)• やしきがみ• (やねがみ)• (やまがみ)• (八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)•

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の軍事行動では、事前に兵力100〜10,000規模での威力偵察を数度行った後、本格的な侵攻を行うことがある。 例えば、モンゴル帝国の外交交渉では、からの時代に掛けて行われた侵攻では、数度にわたり「軍事行動に先立ち、あるいは並行して使節を派遣し服属を呼び掛けていたことが知られており、侵攻した地域で掠奪や交戦は行われたものの、領土征服をせずに軍が撤退する場合もあった。 また、『』には文永の役において、元軍の矢が尽きたという記述が見られ、当時の主力武器である矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくいこと、日本を征服するには33,000人程度という少ない兵力であることを威力偵察の根拠に挙げている。 しかしながら、元軍の日本以外の派兵兵力は、渡海侵攻である三別抄の乱鎮圧戦ではおよそ12,000 、樺太侵攻でも最大で10,000 、ジャワ侵攻で20,000 であり、文永の役の兵力はその他の侵攻と比べて、決して規模の小さいものではなかった。 また、偵察目的であることを裏付ける史料はなく、『元史』の矢が尽きたという記述の前に、撤退理由として「官軍(元軍)整わず」とあり、日本軍との戦闘に及んで編成を乱し、撤退することに決した元軍の様子の記述があり、予定通りの撤退であったとは書かれていない。 また、『』においても、元軍は日本軍の頑強な抵抗に遭い、兵力不足を勘案した結果、元軍の総司令官である都元帥・(忽敦)が撤退を決断したことが記されている。 一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。 旧南宋軍が主力となった江南軍10万人については軍隊兼移民団だったのでは、との見解がある。 元々、南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかったのではないかとしている。 旧南宋軍の新たな雇用先として受け入れたことも元朝にとって負担であり、また軍を解散させると職を失った大量の兵士たちが社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では創建初期からよく行われており、日本との戦いの時のみことさら強調すべきこととは考えにくい、というものである [ ]。 海底調査 元軍の壷 高さ34cm、重さ1. 2kg 鷹島沖から発見された壺。 現地では、元軍の壺は唐壺(とうつぼ)と呼ばれている。 所蔵 近年の海底調査では、南部の海底から元軍の刀剣や碇石などが発見されている。 海から引き揚げられた物の中には、元軍中隊長クラスの管軍総把の証である「 管軍総把印」と刻まれている青銅印が発見されている。 管軍総把印の印字は、元朝の国字で刻まれており、印面の裏の左側は漢字で「中書礼部 至元十四年(1277年)九月 日 造」の字がみえる。 10月24日、教授・池田栄史の研究チームが、の鷹島沖海底に沈んでいる沈没船を元寇時の元軍船と判定したと発表した。 2011年11月16日に参議院に提出された「長崎県松浦市鷹島沖で発見された元寇船の文化財指定及び保存の在り方に関する質問主意書」 に対して、政府は同1月25日の答弁書において文化庁において文化財指定に向けた準備を進める見解を示し 、その後元軍船が発見された鷹島東部沖合は「 」として国のに指定され、日本初の水中遺跡となった。 10月2日には、さらに2隻目となる元軍船を1隻目の発見地点より東に約1. 7kmの地点で発見したことを池田栄史が発表。 左右両側の外壁板や船体内の隔壁板の構造が分かる良好な状態で残っていることを明らかにした。 なお、船体は長さ約12m、最大幅約3mで、周辺から中世の中国製とみられる茶碗、壺といった陶磁器が約20点見つかり、船体は外板が3枚打ち付けられ、船内が9枚の隔壁で仕切られている等、中世の中国船の特徴が確認できることから、江南軍の船体であったと思われる。 元軍海底遺物• 磚(せん) 重さ1kg・2kg・2. 5kgの三タイプ 元軍が使用したレンガ。 用途としては船のバランスをとるためのバラストとしての機能や簡易の建築に利用したものとみられる。 松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 日本の封建制 は、日本の勝因として、その理由を強固な組織としてのとそれに基づく挙国一致体制の完備によるという見解を出している。 は、蒙古軍が制圧できなかったエジプトの や と日本の3つの地域に共通するものとして、強固な組織としての封建制があることを指摘している。 今谷はマムルーク朝について研究で著名なの説明を引用し、マムルークが主君であるから与えられる()等の租税徴収権とその当該地であるイクターを「職と読み換えれば、日本の制にそっくりの構造が浮かび上がる」と述べ、加えてスルターンとの強い忠誠心やマムルーク相互の間での強い仲間意識など日本の御家人制との共通点を指摘している。 また、マムルーク軍団の源流としてアラブ征服時代のアラブと征服地域の非アラブとの間に行われたパトロン(保護者) - クライアント(被保護者)の関係、「ワラー関係」についての清水和裕の研究 にも触れ、清水の「主人と従属者の間に結ばれる、法的に保証された個人的紐帯であった」という説明から、これらも「日本のの勃興とその封建制的関係に極めて似通った軍団の性格がみられるということになろう」と評している。 高麗人の関与 上記「」の節にもあるように、(2年・2年)、高麗人である趙彝(ちょうい)がクビライに「日本はの隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。 また、・の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました」 とし、日本との通交をクビライへ進言している。 このことがクビライが日本に興味を持つ契機となった。 (9年・9年)には、国王・の子の・(しん、後の)が、のに「日本は、いまだ陛下の聖なる感化を受けておりません。 ゆえに命令を発して我が軍の装備や糧食を整えさせました。 今こそ戦艦兵糧を使うべきです。 わずかではありますが、臣たる私めにお任せくだされば、つとめて心力を尽くし、帝の軍をいささかでもお助けできますことを切願しております」 と具申した記録が『』に残っている。 のの『』にも「昔、高麗が元の兵を導いて日本を攻撃した」とあり、李氏朝鮮時代においても元寇に対する高麗の主導的な関与があったとの認識であった。 また『』によると高麗国王・忠烈王は弘安の役後、「高麗国王、請自造船一百五十艘、助征日本。 」と150艘の軍船を自ら作り、日本遠征を援助したいとクビライに上奏している。 高麗はモンゴル帝国の侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴル帝国の兵力を借りることによって王権を奪い返したため、それ以後、高麗王はほとんどモンゴル帝国に頼り、モンゴル名を貰い、モンゴル帝国皇帝の娘を王妃にし皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた。 このようなモンゴル帝国に頼らざるを得ない状況の忠烈王が、自身の王権を保つためにクビライの意を迎えようと、これらの発言を行ったとする見解がある。 日蓮伝「手ヲトヲシテ船ニ結付」の解釈 「」を参照 は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片を含めても600点を越えるとされている。 しかし、一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する頃から本格的に始まる。 室町時代、以降にの勢力拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。 このうち『元祖化導記』と『日蓮聖人註画讃』が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となったが、の『元祖化導記』は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。 『元祖化導記』と時期を同じくして成立したの『日蓮聖人註画讃』はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた「超人的で理想的な祖師像」に合致した内容でもあった。 『日蓮聖人註画讃』の第59段「蒙古来」は文永の役について「一谷入道御書」を主な典拠としており、「一谷入道御書」で日蓮が伝えた「手ヲトヲシテ船ニ結付」という文言はここでも現れている。 特に『日蓮聖人註画讃』は室町時代からにかけての一般的な(超人的な能力や神通力を具有する祖師としての)日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる。 『日蓮聖人註画讃』は江戸時代に入って幾度も刊本として出版されており、江戸時代における元寇関係の研究書では、津田元貫の『参考蒙古入寇記』やの編者でもあるの『螢蠅抄』、の『蒙古諸軍記弁疑』などで頻繁に引用されている。 本来『日蓮聖人註画讃』は文永・弘安の役についての史料としては日蓮の没後200年程たって成立したことからも明らかなように二次的なものに過ぎないのだが、江戸時代における『日蓮聖人註画讃』の扱いは、が「日蓮画讃の如き実記」と述べているように「実記」として意識され、大抵は無批判に引用される傾向があった。 『日蓮聖人註画讃』の文永・弘安の役についての史料価値についての批判的研究は、、(24年)になって小倉秀貫が『高祖遺文録』などにある日蓮書簡の詳細な分析を通さないうちは史料とはみなせない、と論じるまで待たねばならない。 明治期に入り、小倉と同じ1891年(明治24年)11月に山田安栄は日本内外の元寇関係の史料を収集した『伏敵編』を著した。 『伏敵編』は『』や『』、『螢蠅抄』、『蒙古諸軍記弁疑』、『元寇紀略』など江戸時代やそれ以前から続く元寇史研究の成果を批判的に継承したもので、従来から引用されて来た諸史料をある程度吟味しながら引用やその資料的な批判を行っている。 一方で、『伏敵編』の編纂は、当時、福岡警察署長の湯地丈雄の主導で()を期に進められていた元寇記念碑建設運動との関係で行われたものであり、への緊迫した情勢を反映して、江戸時代からの攘夷運動の流れを組みつつも自衛のための国家主義を標榜するという山田安栄の思想的な表明の書物でもあった。 山田安栄は『日蓮聖人註画讃』の「手ヲトヲシテ船ニ結付」についても論じており、『』の記述「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」や、『日本書紀』と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。 女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。 索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。 」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と文言の解釈を行っている。 さらに山田安栄は、『』のの時代()について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)やり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としたうえで 、この行為を蒙古というより高麗人によるとしている。 翻って、日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している。 元使殺害 文永の役後に行われた使者殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためという見解がある。 文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。 そのため、使者による間諜行為が行なわれたようである。 『』には「此牒使、夜々ニ筑紫ノ地ヲ見廻リ、船津・軍場・懸足待路ニ至ルマデ差図ヲシ、人ノ景色ヲ相シ、所ノ案内ヲ註シ、計リスマシテゾ帰ケリ。 」 とある。 更に1370年に訪日した明使・趙秩に対してが「願るに蒙古は戎狄にして華に莅み小国をもって我を視る。 乃ち趙良弼を使わし我を「言朮」うに好語もてす。 初めその我が国を覘うを知らざるなり。 既に而して船数千を発し我を襲う。 」 と述べており、元寇から約100年後でも日本側はが日本侵略のためのスパイ行為を行っていたと認識していたことが分かる。 『』でも、はほぼ1年間、に留まっていたが、その間「日本の君臣の、州郡の名称とその数、風俗と産物」などの情報収拾を行い、帰還して後にに報告した。 ただし、趙良弼は日本侵攻については「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見るに、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。 その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。 その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。 まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性が無く、禍害を測ることもできません。 これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。 臣が思うに(日本を)討つこと無きが良いでしょう」と述べ、日本侵攻に反対した。 こういった行為が間諜であったと考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。 また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置する考え方などがある。 元使殺害の評価については同時代では日蓮が批判し、後世では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙とする見解もあるが、『』やらは国難に対しては手本にすべき好例と評価している。 神国思想 「」を参照 異国調伏祈祷 文永の役に先立つ(8年・8年)10月25日に、がへして異国の事について祈願しており、文永に際して、はへこの報賽のため自ら、参拝し徹夜して勝利と国土安穏の御祈謝を行った。 翌9日には賀茂・北野両社へも行幸している。 弘安の役においても朝廷から22社への奉幣と異国調伏の祈祷が命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所でも・らの、上皇の身辺を警護するによる30万巻の転読などの祈祷や持仏堂への供養が行われた。 朝廷や幕府は、からの使者が来航した直後から石清水八幡宮や宇佐八幡宮などの主な八幡社、、、、、、、など諸国諸社寺に異国調伏の祈祷や祈願、奉幣を連年盛んに行っていた。 幕府は4年から翌5年にかけて、これら九州の諸社およびに対して「」と呼ばれる一種の徳政令が発布し、幕府の安堵状が出されているも含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じている。 文永・弘安の役に関する日本語によるほとんどの著作・論文では「ヒンドゥ(忻都)」としているが、『』『』などの高麗側の資料によると、文永の役の時の総司令官は、ヒンドゥ(忻都)ではなく「クドゥン(忽敦)」という人物であった。 「忽敦」は『元史』にも10度ほど現れる人名だが、『元史語解』によると「忽敦」は「火敦」、つまりモンゴル語で「星」を意味するhotun〜udunの漢字音写の別表記の一つであるという。 『元史』の至元十一年三月庚寅の条に「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」とあり、ヒンドゥ(忻都)が洪茶丘らとともに派遣されたはずだが、『高麗史』の元宗十五年八月己酉の条に、「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦来。 令加発京軍四百五十八人。 」とあって、高麗に侵攻軍全体の都元帥として着任して来たのは「クドゥン(忽敦)」であった。 『元史』洪茶丘伝に「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島。 」とあり、下記にもある『高麗史』金方慶伝や『高麗史節要』での博多上陸後の侵攻軍内の軍議で金方慶とやり取りしている人物も「クドゥン(忽敦)」と書かれている。 『高麗史』『高麗史節要』では八月己酉の高麗到着から、侵攻から高麗へ帰還し、翌忠烈王元年正月丙子(1275年2月1日)に北還するまで、都元帥は一貫して「クドゥン(忽敦)」であり、「ヒンドゥ(忻都)」とは書かれていない。 上述のように、「ヒンドゥ(忻都)」と「クドゥン(忽敦)」は同じ語彙の別転写ではなく、全く別の単語である。 そのため、「ヒンドゥ(忻都)」と「クドゥン(忽敦)」は別の名前を持つ同一人物か、あるいは全くの別人だと考えられるが、この問題に関しては十分な論考が行われていない。 『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 王綧・附阿剌帖木兒「十一年、進昭勇大將軍、従都元帥忽都征日本國、預有戰功。 十五年、加鎭國上將軍、安撫使、高麗軍民總管、尋陞輔國上將軍、東征左副都元帥。 十八年、復征日本、遇風涛、遂没於軍。 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年十一月癸巳の条「召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。 與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本。 『蒙古襲来絵詞』詞三「そのせい(勢)百よき(余騎)はかりとみへて、(中略)ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)二郎たけふさ(武房)と申すものに候、」 赤坂の戦い直後の兵力。 赤坂の戦い以前の兵力は不詳。 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「以蒙漢軍二萬五千、我軍(高麗軍)八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女眞軍、女眞後期、乃發船。 『元文類』巻四十一 経世大典序録 征伐 日本「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒 二萬五千伐之、」• 歴史学者の池内宏は大元朝から日本へ派遣された軍勢は20,000である、という見解を示している。 根拠は高麗に駐兵していたヒンドゥ(忻都)率いる兵4,500と洪茶丘率いる兵500の他に「元征東兵萬五千人來」と大元朝から新たに15,000の日本侵攻軍の増派されたことが確認できるため、ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘ら率いる兵5,000に15,000を足して20,000としている。 そして、『元史』洪茶丘伝に「與都元帥忽敦等領舟師 二萬、渡海征日本、」とあり、20,000という数字が合致していることを見解の補強としている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 125頁)。 他方、歴史学者の大葉昇一は『元史』至元十一年三月庚寅の条「合 万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」の15,000とは高麗に駐兵していた軍と新たに大元朝から派遣された軍勢を含んだ総計が15,000であって大元朝の日本侵攻軍は『元史』至元十一年三月庚寅の条の15,000で正しい、という見解を示している。 (大葉昇一『軍事史学-文永の役における日本遠征軍の構成--耽羅(濟州島)征討から元寇へ--』第35巻第2号 軍事史学会編集 1999年)。 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年二月甲子(十七日)の条「又正月十九日奉省旨云、忻都官人所管軍 四千五百人、至金州行糧一千五百七十碩、又屯住處糧料及造船監督洪總管軍 五百人行糧八十五碩、亦令應副、」、同元宗十五年(五月)己丑(十四日)の条「己丑、元征東兵 萬五千人來。 高麗軍の兵力は『元史』や『高麗史』の中でも一定していない。 『元史』や『高麗史』に記載された高麗軍の兵力を挙げると、 5,300(『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年己酉の条)、 5,458(『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌の条及び同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉の条)、 5,600(『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國)、 8,000(『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一十月乙巳の条)となっている。 なお、歴史学者の池内宏は、『元史』高麗伝の高麗軍数5,600人に後に加えられた458人の高麗兵を足して高麗軍総数が約6,000であるという見解を示している(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 126頁)。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「小國一千軍鎭戌耽羅者、在昔東征時、係本國 五千三百軍額。 」、同巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌(九日)の条「三月丙戌、元遣經略司王總管來、命發軍 五千、助征日本。 」、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍) 四百五十八人。 」、『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一)三月、遣木速塔八、撒本合、持詔使高麗、簽軍 五千六百人、助征日本。 27)• 『八幡愚童訓』「宗右馬允戦(たたかう)ト云ヘ共、辰ノ終ニ打レヌ。 同子息宗馬次郎、養子弥次郎、并右馬允、同八郎、親類刑部丞郎、郎等三郎右馬允、兵衛次郎、庄ノ太郎入道、源八、在庁左近ノ右馬允、流人肥後國御家人口井(タイノ)藤三、源三郎、以上十二人、同時ニ打死ス」(これらの戦死者名については諸本で若干異同がある)萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p. 183。 『八幡愚童訓』「同十四日申時尅ニ、壱岐嶋ニ西面ニ蒙古人ノ船着ク。 (中略)守護代平内左衛門尉経高(景隆)并御家人百余騎、庄三郎ガ城ノ前ニテ矢合ス。 (中略)異敵ハ大勢也。 可(ベウモ)叶無カリケレバ、城ノ内ヘ引退テ雖防戦、同十五日終(ついに)、被責落、城中ニテ自害ス」萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p. 183-184。 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之。 軍不還者無慮萬三千五百餘人。 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年十二月辛未の条「以高麗中贊金方慶爲征日本都元帥、密直司副使朴球、金周鼎爲管高麗國征日本軍万戸、并賜虎符、」• 翼祖蒙上司文字、將本所人戸、簽撥軍人、與雙城摠管府三撒千戸蒙古大塔失等赴征、」• 『元史』巻一百三十二 列傳第十九 哈剌䚟「十八年、擢輔國上將軍、都元帥、從國兵征日本、值颶風、舟回、明年二月、還戍慶元、」• 論功行賞、受池州總把。 歸附之初、新令未洽、豪民潛擾郷邑。 公撫治以嚴、民頼以安。 久之、朝廷以日本梗化不庭、出帥征之。 公又行。 由慶元汎舟入海凡七晝夜、抵達可島。 去其國七十里。 潮汐盈涸不常、舟弗能進。 乃縛艦爲寨、碇鐡靈山下。 命公守之。 八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。 震撼撃撞、舟壞且盡。 軍士號呼、溺死海中如麻。 明日、大帥命公先歸。 公由躭羅逾高麗、渡遼水以趍京師。 遂歸于池。 『肥前松浦一族』 新人物往来社 2008年。 なお外山はこの記述を誇張であろうとしている。 『歴代鎮西要略』「弘安四年辛巳、蒙古大軍襲來。 夏六月。 元蒙古阿剌罕范文虎爲上將。 忻都洪茶丘爲次将。 遣數千之舟師。 以伐我國。 其兵不知幾百萬。 」 なお、同書は文永の役においても日本軍「10万余騎」に対して元軍を「数百万」と記載している。 「文永十一年九月異國大元蒙古兵舟五百餘艘襲來(中略)(日本側)都合十万余騎。 至壹岐、松浦、今津、博多、姪濱所々相戦。 十月二十日。 合戦於筑前赤坂數回。 於蒙古數百万之兵其交鉾之間、靡敵助我。 破堅碎強。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二30頁、巻之四35頁)• 其兵十餘萬侵九州、探題秀堅、大友豊後守時重、太宰小貳父子三人、菊池四郎武通、秋月九郎、原田、松浦、宗像大宮司、三原、山鹿・草野、島津等。 其外御家人三十二人。 防戰于豊筑之際、厚東、大内介來加、于豊前賊兵挑戰不利而退、探題被疵、大友戰死、從六波羅宇都宮貞綱爲大將其勢六萬餘騎、先陣已著于長府、蒙古大將出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺、歸者幾希、神國霊験異國舌、此時深堀左衛門尉時光、深堀彌五郎時仲有戰功。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四29頁)• 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(八月)乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、兩軍畢集、直抵日本、破之必矣、」• 4万を戦闘員のみとするか、水夫を含めるかで兵力が異なる。 水夫を含めない場合は蒙古・漢軍30,000に『高麗史』に記載されている戦闘員9,960名と水夫17,029名を足すと東路軍の総兵力は56,989人となる。 『元史』世祖本紀の至元十七年八月戊戌の条によると弘安の役に際して、高麗国王・忠烈王がクビライに元軍3万の軍勢を要請したとある。 また、『高麗史』の同時期の記載でも高麗国王が高麗・漢軍を減らして、蒙古軍を増強するよう要請し、クビライはこれを了承したという記載があり、4万は戦闘員のみだった可能性が高い。 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年八月戊戌の条「戊戌、高麗王王賰来朝、且言將益兵三万征日本。 」および『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年 (八月)乙未(二十六日)の条「王以七事請、一以我軍鎮戌耽羅者、補東征之師、二減麗漢軍、使闍里帖木兒、益發蒙軍以進、三勿加洪茶丘職任、待其成功賞之、且令闍里帖木兒與臣、管征東省事、四少國軍官、皆賜陴面、五漢地濱海之人、幷充梢工水手、六遣按察使、廉問百姓疾苦、七臣躬至合浦、閲送軍馬、帝曰、已領所奏。 」(, p. 25)• 江南軍の実体に関しては史料が少なく不明な点が多い。 江南軍が10万であったことは『高麗史』や『元史』から確認できるが、『元史』洪茶丘伝では「時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海」とあり、江南軍10万とは戦闘員であったとしている。 元の時代では、戦闘員と水夫はそれぞれを専門職とするのが通例であり、戦闘員が水夫を兼任することはそれほど事例が多くはなかった。 なお東路軍4万が戦闘員であり、水夫が含まれていなかったことを考えれば、江南軍10万とは戦闘員の動員数であり、10万の軍勢の他に江南軍には多くの水夫が乗船していた可能性もある。 , p. 37また、日本側の史料『鎌倉年代記裏書』においても、元軍の構成として「大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、」とあり、兵士15万人とは別に水夫がいたとしている。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年閏(八)月の条「是月、忻都茶丘范文虎等還元、官軍不返者、無慮十萬有幾。 以下は高麗兵約一万の地域的内訳である。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、」• 戸川芳郎監修、佐藤進、濱口富士雄編集『全訳 漢辞海 第三版』三省堂 2011年2月 396頁• 佐伯弘次 2003 他。 『元史』巻五 本紀第五 世祖二 至元元年十一月辛巳の条「辛巳、征骨嵬、先是、吉里迷内附、言其國東有骨嵬、亦里于兩部、歳來侵疆、故往征之。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年十月辛酉の条「辛酉、征東招討司以兵征骨嵬。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月乙巳の条「詔征東招討使塔塔兒带、楊兀鲁帶以萬人征骨嵬。 『元史』巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年十月己酉の条「己酉、遣塔塔兒帶、楊兀鲁帶以兵萬人、船千艘征骨嵬。 178. 三年八月、命兵部侍郎黑的給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本。 黒田俊雄 1973 , 56頁。 月村辰雄・久保田勝一本文翻訳、フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ、小林典子・駒田亜紀子・黒岩三恵解説翻訳『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録『驚異の書』fr. 2810写本』岩波書店 2002年 147頁• 本書の底本は14世紀末頃に成立したと思われる中世フランス語による『驚異の書』 Livre des Merveilles と呼び習わされている系統の写本群(グレゴワール版 FG系統)に属す、蔵の15世紀初頭の写本 Ms. 2810 である。 らによるとアバタン Abatan やジョンサインチン Jousainchin とは、Abachan(F系統)、Vonsamchin(F系統)やVonsainchin(FG系統)などとして現れ、前者は弘安の役時の日本行省左丞相・阿剌罕 Alaqan, A-la-han 、後者は右丞・范文虎のことと思われる。 後者の表記はマルコ・ポーロ存命中の14世紀初頭に成立したパリ国立図書館蔵の写本(Ms. 1116 地理学協会版 F系統)等では Vonsamchin などとして現れ、おそらく范丞相 Fan-Tsai-siang の訛音と考えられる。 しかし、後述するように弘安の役では江南軍は主に慶元路()はじめ東シナ海沿岸部から発しておりキンサイ(杭州)から出帆したという記述は誤りである。 続く記事で暴風雨で難破した侵攻軍は漂着した後でジパングの首都を陥落させたなど、ジャワ侵攻やチャンパー侵攻などと混同していると思われる部分が少なくない。 「礼儀正しい」とある部分は唐宋以来の「礼節の国」という日本観を反映したものと考えられ、『元史』日本伝にあるがもたらした国書にある「日本は素より礼を知る国と号す」という文言とも一致する。 また、慶元路は当時、杭州(キンサイ)を首府とする江浙行省の管轄であったために錯誤したものと思われ、「上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」という部分もあるいは文永の役のことを指すとも考えられる。 (マルコ・ポーロ『完訳 東方見聞録〈2〉』(平凡社ライブラリー 327)訳注、2000年2月、120頁、170頁、183-190頁。 高田英樹「ジパング 日本国 : マルコ・ポーロの東方(4)」『国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要』 24 3 、2011年3月、107-130頁。 鄭思肖『心史』中興集二巻 元賊謀取日本二絶 元韃攻日本敗北歌「元賊聞其豊庶、怒倭主不来臣、竭此土民力、弁舟艦、往攻焉、欲空其國所有而歸。 」(陳福康校点『鄭思肖集』上海古籍出版社 1991年5月 95頁)• 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「至元初年、髙麗趙開建言通日本以窺宋、數輩奉使。 竟無成約、」• 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)丙辰(二十八日)の条「丙辰、命樞密院副使宋君斐侍御史金贊等、與黑的等往日本。 新井2007「蒙古襲来」, pp. 21-22• 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年 正月の条「元宗八年 春正月、宋君斐金贊與蒙使、至巨濟松邊浦、畏風濤之險遂還、王又令君斐随黑的如蒙古、奏曰、詔旨所湯喩、道達使臣、通好日本事、謹遣陪臣宋君斐等、伴使臣以往、至巨濟縣、遥望對馬島、見大洋萬里風濤蹴天、意謂危險若此、安可奉上國使臣、冒險輕進、雖至對馬島、彼俗頑獷無禮義、設有不軌、將如之何、是以與倶而還、且日本素與小邦未嘗通好、但對馬人、時因貿易、往來金州耳、小邦、自陛下即祚以來、深蒙仁恤、三十年兵革之餘、稍得蘇息、緜緜存喘、聖恩天大、誓欲報効、如有可為之勢、而不盡心力、有如天日。 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)の条「卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿其任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丁丑(二十三日)の条「遣起居舍人、齎蒙古書及國書如日本、」• 一院御幸なる。 麗しき御賀の儀いかばかりの事にてかあらんずらむとおぼえしに。 蒙古國とかやより牒状を奉る。 高麗の牒を相副たり。 宰府よりまづ關東へつげて。 關東より二月六日牒状をまいらせたり。 是によりて御賀止めらる。 公私本意なき御事也。 蒙古國もとは契丹の所屬韃靼國也。 年比契丹國以下の近邊の諸國を打とる。 太宋國も、三百餘州のうち大略みなうちとられて。 わづかに六十餘州殘れり。 高麗も同せめおとされて。 臣として蒙古の朝につかふるよし牒状にも載たり。 牒使には趙良弼と云者渡れり。 高麗の使を副たり。 牒状二通あり。 一通は高麗の牒也。 蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。 至元三年と載たり。 高麗國。 同彼年號をうけて至元となせり。 去年八月の牒也。 數多の方物を相副て。 正月一日大宰府に着たり。 是によりて官外記以下の勘文をめされて仗儀を行る。 又仙洞の評定あり。 」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 448頁)• 東大寺宗性筆の『調伏異朝怨敵抄』に「蒙古国牒状」に続いて記載されている。 「高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。 今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。 漢唐而下、亦或通使中国。 故遣書以往。 勿以風涛険阻為辞。 』其旨厳切。 茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。 且貴国之通好中国、無代無之。 況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。 但以無外之名高於天下耳。 若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。 惟貴国商酌焉。 」『鎌倉遺文』9770号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第13巻 古文書編13巻 自文永2年 1265 - 至文永5年 1268 、東京堂出版、1985年、285頁。 平岡定海『東大寺宗性上人之研究並史料』(中)・(下)、臨川書店、1959-1260年、(中)図2-4、(下)1-2頁。 東大寺によって『調伏異朝怨敵抄』に蒙古国牒状、高麗牒状、潘阜書状の3通が書写され現存。 『将軍執権次第』文永五年条「時宗。 相模守。 三月五日始爲執權云々。 正月廿九日辭左馬權頭。 」(塙保己一編『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十八 続群書類従完成会 1960年 258頁)• 新井2007, p25• 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年秋七月丁卯(十八日)の条「秋七月丁卯、起居舍人潘阜、還自日本、遣閣門使孫世貞郎將呉惟碩等、如蒙古賀節日、又遣潘阜偕行、上書曰、向詔臣、以宣諭日本、臣即差陪臣潘阜、奉皇帝璽書、幷齎臣書及國贐、以前年九月二十三日、發船而往、至今年七月十八日、回來云、自到彼境、便不納王都、留置西偏大宰府者凡五月、館待甚薄、授以詔旨、而無報章、又贈國贐、多方告諭、竟不聽、逼而送之、以故不得要領而還、未副聖慮、惶懼實深、輒玆差充陪臣潘阜等、以奏。 奥書に国書が京都に送達された直後の1268年(文永5年)2月に宗性が亀山殿大多勝院道場における後鳥羽院御八講に参じた際に蒙古国書を書き写した旨が書かれている。 なお同一の蒙古国書の内容が『元史』日本伝にも記載がある。 両者の比較と解説についてはを参照。 (竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十三巻 東京堂出版 九五六四号)• 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 66頁• 「文永・弘安の役」『図説 日本の歴史6 鎌倉の幕府』集英社、1974年、195頁• 、中村栄孝=岩波講座日本歴史中世二、1963。 田中健夫、岩波講座世界歴史9、1970年。 もモンゴル帝国の命令文書の研究からこの説を採用。 他、、など。 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年(十二月)庚辰(四日)の条「庚辰、知門下省事申思佺侍郎陳子厚起居舍人潘阜、偕黑的殷弘如日本。 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「五年九月、命黑的、弘復持書往、至對馬島、日本人拒而不納、執其塔二郎、彌二郎二人而還。 『五代帝王物語』亀山院「(文永)同六年蒙古使高麗の舟にのりて又對馬國に着く。 去年の返牒なきによりて。 左右きかんため也。 不慮の喧嘩いできて。 歸國の間。 對馬の二人とられて高麗へ渡る。 高麗より蒙古へつかはしたれば。 王宮へ召入て見て。 種々の祿をとらせて。 本朝へ返送。 是に付て又牒状有。 」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁)• 『関東評定衆伝』文永六年条「九月、蒙古高麗重牒状到來。 牒使金有成。 高柔二人也。 還對馬嶋人答二郎。 彌二郎。 高柔依靈夢獻所持毛冠於安樂寺。 即敍其由呈詩。 」(『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十九 続群書類従完成会 1960年 318頁)• 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「六年六月、命高麗金有成送還執者、俾中書省牒其國、亦不報。 有成留其太宰府守護所者久之。 『高麗史節要』巻十八 元宗十一年五月丙寅の条「初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。 及盗起諸道分遣別抄以捕之。 其軍甚衆、遂分左右。 又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。 是為三別抄。 権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。 或施私恵。 又籍罪人之財而給之。 故権臣頤指気使、争先効力。 金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。 三別抄からの書状の本文ではないが、「条々」で上げられている内容の検討から、この書状は高麗国王・元宗からのものについてではなく、珍島に拠点を移していた三別抄が出した書状についてであった。 石井正敏「文永八年来日の高麗使について--三別抄の日本通交史料の紹介」『東京大学史料編纂所報』12号, pp. 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元八年三月己卯条「乙卯、中書省臣言、高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯、然后内附。 而忻都未從其請、今願得全羅道以居、直隸朝廷。 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月己巳の条「己巳、勅發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千、仍益武衞軍二千、征耽羅。 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 耽羅「十年正月、命經略使忻都、史枢及洪茶丘等率捕船大小百有八艘、討耽羅賊党、」• 『五代帝王物語』亀山院「同(文永)八年九月十九日筑前國今津に異國人趙良弼を始として百餘人來朝の間。 軍船と心得て宰府さはぎけれども。 其儀はなくて是も蝶状也。 但辛櫃に納て金鎖を指て王宮へ持參して帝王に獻れ。 それ叶はずば時の將軍に傳えて參らすべし。 其儀もなくば持て歸べき由王敕を承たれば。 手をはなつべからずとて。 案を書て出したり。 是も返蝶に及ず。 此國後は大元國と號す。 威徳のまさるに從て名を改とかや。 されば始終いかなるべきにかと恐しく覺侍。 」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁)• 從之、」• 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十二年正月己卯の条「復遣趙良弼、充國信使、期于必達、仍以忽林赤王國昌洪茶丘、將兵送抵海上、此國信使還、姑令金州等處屯住、」• 『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑「既至、宋人与高麗・耼羅共沮撓其事。 留公太宰府、専人守護。 第遣人応返議事、数以兵威相恐。 或中夜排垣破戸、兵刃交拳。 或火其隣舎、喧呶叫号。 夜至十余発。 公投牀大鼾、恬若不聞。 如是者三日、彼詐窮変索公、呼守護所、大加詬責。 彼来請受国書。 公言、国書当俟見国主日致達。 数欲脅取、公以辞拒之。 嘖有煩言、随方詰難、彼不能屈。 吉田経長『吉続記』文永八年十一月廿二条「廿二日、參院、異國事有評定、仍不能奏事、次參内、熾盛光法爲異國御祈、座主證覺僧正於惣持院、自今日可被始行云々、」(笹川臨風、矢野太郎校訂『史料大成 第23巻 吉記二・吉続記』内外書籍 1935年)• 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月乙亥の条「可建國號曰大元、盖取易經乾元之義。 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条「諭旨中書省、日本使人速議遣還。 安童言、良弼請移金州戍兵、勿使日本妄生疑懼、臣等以爲金州戍兵、彼國所知、若復移戍、恐非所宜、但開諭來使、此戍乃爲耽羅暫設、爾等不須疑畏也、帝稱善。 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(四月)甲午(七日)の条「甲午、遣御史康之邵、護日本使還其國。 鯨海浩瀚、莫測其際。 叛賊耽羅蔽其衝。 公仗忠信、直抵其國、論以天子威徳。 方制數十萬里、靡不從命。 東夷悦服、既遣使詣闕。 時僞宋以海道去兩浙不遠大畏之、遣僧滕原瓊林等、爲諜止行。 日本人與公語、公面折之、縷數宋人浮僞無信。 「今西淮襄漢四川、悉爲我有、但東南彈丸地、尋亦不保。 」前後數百言、僧語塞不能對。 日本亦栗然畏懾。 履至危之地、馮仗威靈、無所辱命、全節而歸。 」(太田彌一郎「石刻史料「賛皇復県記」にみえる南宋密使瓊林について--元使趙良弼との邂逅--」『東北大学東洋史論集』6 東洋史研究室 1995年)• 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(十二月)庚戌(二十六日)の条「元復遣趙良弼、如日本招諭。 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(四月)甲午(七日)の条「甲午、遣御史康之卲、護日本使還其國。 『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑「日本遂遣使介十二人入覲。 上慰論遣還。 其国主疑奉表講和。 会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。 以故和事不成。 公還、以疾請帰老樊川。 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年(三月)癸酉(二十日)の条「趙良弼如日本、至大宰府、不得入國都而還。 后帝將討日本、三問、良弼言、臣居日本歲餘、睹其民俗、狠勇嗜殺、不知有父子之親、上下之禮。 其地多山水、無耕桑之利、得其人不可役、得其地不加富。 況舟師渡海、海風無期、禍害莫測。 是謂以有用之民力、填無窮之巨壑也、臣謂勿擊便。 帝從之。 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年五月己丑(十四日)の条「己丑、元征東兵萬五千人來。 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一年)五月、皇女忽都魯掲里迷失下嫁于世子愖。 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一年)七月、其樞密院副使奇蘊奉表告王禃薨、命世子愖襲爵、詔諭高麗國王宗族及大小官員百姓人等、其略曰國王禃存日、屡言世子愖可爲繼嗣。 今令愖襲爵爲王。 凡在所屬、并听節制。 八月、世子愖還至其國襲位。 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年(六月)辛酉(十六日)の条「辛酉、遣大將軍羅裕如元、上中書省書曰、今年正月三日、伏蒙朝旨、打造大船三百艘、既行措置、遣樞密院副使許珙於全州道邊山、左僕射洪祿遒於羅州道天冠山備材、又以侍中金方慶爲都督使、管下員將、亦皆精揀、所須(功に「夫」)匠物件、並於中外差委、催督應副、越正月十五日聚齊、十六日起役、至五月晦告畢、船大小幷九百隻造訖、合用物件、亦皆圓備、令三品官能幹者、分管廻泊、已向金州、伏望諸相國、善爲敷奏。 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍)四百五十八人。 『肥後小代文書』関東御教書「(上包)「北条相模守時宗 北条左京大夫政村」蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所差遣御家人等於鎮西也、早速自身下向肥後国所領、相伴守護人(名越時章)、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、文永八年九月十三日 相模守(北条時宗)(花押)左京権大夫(北条政村)(花押) 小代右衛門尉(重俊)子息等」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七三号)• 『薩摩二階堂文書』関東御教書「(上包)「北条相模守時宗 北条左京大夫政村」蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所下遣御家人等於鎮西也、早速差下器用代官於薩摩国阿多北方、相伴守護人、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、文永八年九月十三日 相模守(北条時宗)(花押)左京権大夫(北条政村)(花押) 阿多北方地頭(二階堂行景妻忍照)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七四号)• 『尊敬閣所蔵野上文書』大友頼泰書下「「(付箋)大友出羽守頼泰」「(端書)守護所廻文」筑前・肥前両国要害守護事、東国人々下向程、至来三月晦日、相催奉行国々御家人、可警固之由、関東御教書到来、仍且請取役所、且為差御家人御代官等、已打越候畢、不日相尋亍彼所、無懈怠、可令勤仕候也、恐々謹言、文永九年二月朔日 (大友)頼泰(花押) 野上太郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇九六四号)• 『諸家文書纂野上文書』小田原景泰書遵守状「肥前、筑前両国要害警固事、并、豊後国中悪党沙汰事、今年二月廿五日、守護所御書下如此子細被載状候、早且守状、且無左右不可棄件要害役所給候、仍、為其沙汰、景泰、令下向候也、恐々謹言、文永九年卯月廿三日 藤原(小田原)景泰(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇一五号)• 『薩藩旧記五延時文書』少弐資能博多津番役請取状「被下 関東御教書候異国警固事、自去四月十七日被上府候、迄今月十六日、博多津番役、被勤仕了、恐々謹言、文永九年五月十七日 覚恵(少弐資能)(花押) 盛岡二郎殿「平忠俊」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇三四号)• 『比志島文書』「(折紙)被下 関東御教書候異国警固事、自去六月廿四日迄今月廿四日、博多津番役、被勤仕候了、恐々謹言、(文永九年カ)七月廿五日 覚恵(少弐資能)(花押) 薩摩国千島太郎(佐範)殿代河田右衛門尉(盛資)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一〇六八号)• 『将軍執権次第』文永九年条「時輔。 式部大夫。 二月十五日於六波羅南方被誅畢。 」(塙保己一編『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十八 続群書類従完成会 1960年 259頁)• 『肥前松浦家文書』少弐資能施行状「今年八月三日 関東御教書、今日十六日到来、為案之、如状者、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬國國御家人等事、或本御家人并地頭補任所々、或給御下知知行之輩、及就質券売買之由緒、被成安堵之族、云其所名字分限、云領主之交名、且糺明所帯御下文・御下知、且不漏一所、平均可令注進之由、所被仰下候也、然者随身所書帯證文、可被上府候、任 御教書之状、糺明子細、可令注進言上候、更不可有遅怠之儀候也、恐々謹言、(文永十年)十一月十六日 沙彌(少弐資能)(花押)山代孫三郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一四六八号)• 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十一月十四日条「晴、依筥崎宮火事、自今日三个日廢朝云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月 88頁)• 蒙漢軍は元朝から派遣された軍であるが、10月に、崔坦ら親元派の高麗軍人たちが反元派である林衍の排除を口実に反乱を起こし、高麗北西部の府、州、県、鎮60城を以って元朝に降伏して、慈悲嶺(現在の北朝鮮黄海北道鳳山郡東部)を境界とする高麗領の北半分がとして元朝の直轄領となって接収された。 これに伴い東寧府内の鳳州など各地に軍が設置されている。 文永の役ではこれらの地域に駐屯していた諸軍が日本侵攻に派遣された。 「蒙漢軍二万五千」とは、大都などの華北地域から増派された部隊や東寧府、高麗領内の駐屯軍からなり、その内訳はモンゴル人、契丹人、人、水達達や漢人などから編成された部隊だと考えられるものの、その具体的な編成についてはなお不明な点が多い。 江戸時代に対馬藩で編纂された『十九公実録』『宗氏家譜』などの資料では「宗 助国」としているが、日蓮書簡や『八幡愚童訓』などの鎌倉時代、室町時代中期までの資料では通常、「宗 資国」と書かれる。 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆」• 『金方慶墓誌銘』「又奉東征之命。 甲戌、入討日本、俘馘甚多越。 」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 407頁)• 「去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一八九六号)• 海老沢哲雄「元代奴婢問題小論」『社会文化史学』 第8号、1972年7月• 『高麗史』 巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年「(十二月)庚午(二十八日)、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、」• 」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁) なお、『八幡愚童訓』諸本のうち、橘守部が『八幡愚童訓』の文永・弘安の役部分の原本と看做している『八幡ノ蒙古記』には平戸、能古、鷹島の襲来についての記述があるが、『八幡愚童訓』の現存諸本のうち平戸、能古、鷹島の襲来について、菊大路本(鎌倉時代末期)、東大寺上生院本(文明12年)、文明本(愛媛県八幡浜市八幡神社蔵本、文明15年)など主要な諸本では記述がない。 『石志文書』源兼譲状案「譲与、字猟子所四至境見本證文合二箇所 石志(肥前松浦郡)土毛間事右、件於所領者、兼祖先相伝私領也、而蒙國人之合戦仁、嫡子二郎をハ相具天むけ候あいた、息災にてもとらん事もありかたく候へハ、れうしにあてゝ、所領のてつきせしむるところ也、若又、二郎いのちいきたらんにおきてハ、一後(ママ)のほとすこしのさまたけあるへからす、然者、相具代々手継證文等、無相違可令領知也、仍手継證文之状如件、文永十一年甲戌十月十六日 源兼在判又袈裟童御せん、妃童御前のために、せうせうの事をハあいはからいて、ふひんにあたり給候へく候、在判、(裏書)又かやうにゆつりたてまつりてのちに、たといいつれの子ありといふとも、四郎よりほかにたふへからす候、弘安四年辛巳壬七月十六日 源兼在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七二八号)• 『有浦文書』関東裁許状「(前略)蒙古合戦之時、房幷嫡子直・二男留・三男勇等殞命畢、(後略)」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百三十号)• 円明院日澄撰『日蓮註画讃』巻第五 蒙古來「二島百姓等男或殺或捕、女集一所、徹手結附船、不被虜者、一人不害。 肥前國松浦黨數百人、或伐或虜、此國百姓男女等、如壹岐對馬。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二11頁) 『日蓮註画讃』は日蓮の書簡や『八幡愚童訓』に依拠しつつ室町時代に執筆されている。 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁)• なお『大友文書』関東御教書案によれば、この時の武士らは自らの所領を守るとして大宰府に赴かなったり、戦場に臨んでも進んで戦おうとしない者が多数いたことが記されているが、近年の研究により、この文書は偽文書であったことが判明している。 この文書は文永の役の際における武士らの怠慢を幕府が批判し、今後もし同様のことがあるならば罪科に問うことを大友家に対して全国の御家人等に普く伝えるよう命ずる文書である。 歴史学者・村井章介によれば、通常の関東御教書は名宛人が守護職を持つ国名が書かれているのが通例であり、その記載が無く「普」文言を使う場合は、名宛人の権限が全国に及ぶ場合のみであり、この文書では大友頼泰の指揮権が全国の御家人に及んでいることや弘安年間に出家した大友頼泰が兵庫入道と称され出家しているなど当時の実情とは合わない記述があることから、偽造された文書であることを明らかにしている。 村井章介は偽書が作成された背景として、1350年(観応元年)に肥前守護職を失い豊後国一国のみの領域に限定されるなど衰退していた後世の大友家が、鎌倉時代の自家の指揮権が全国の御家人らに亘っていたことを主張する意図があったとしている。 村井章介『遥かなる中世18号--具書案と文書偽作 「立花家蔵大友文書」所収「鎌倉代々御教書」についての一考察--』中世史研究会 2000年3月 『大友文書』関東御教書案「異賊去年襲來之時、或臨戦場不進闘、或稱守當境不馳向之輩、多有其聞、甚招不忠之科歟、向後若不致忠節者、随令注申、可被行罪科也、以此旨、普可令相觸御家人等之状、依仰執達如件、建治元年七月十七日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)同 大友兵庫入道(頼泰)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九六二号)• 1931年に著された歴史学者の池内宏による『元寇の新研究』以降、通説では元軍の上陸地点は今津、百道原、博多の三か所であり、百道原から上陸したのが高麗軍、今津と博多から上陸したのが蒙古・漢軍であったとされているが(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 149〜150頁)、元軍が今津、博多、百道原の三か所から分かれて上陸したとする史料は存在しない。 史料としては、蒙古・漢軍が博多から上陸したとする史料はなく、今津から上陸したことがうかがえるのが宗教書である『八幡愚童訓』の1点史料のみである。 対して百道原があった早良郡から上陸したとする史料は、参戦していた肥前国御家人・福田兼重の書状である『福田文書』福田兼重申状に「去年十月廿日異賊等龍衣(襲カ)渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間」とあり、他に捕虜の元兵の証言が収録されている日朝『朝師御書所見聞 安国論私抄』にも「モモミチハラニオルルナリ」と記載され、鎌倉時代末に編纂された『一代要記』においても「攻來筑前國早良郡」とある。 また、元側の史料『高麗史』にも「三郎浦」なる地点から上陸したことが記されており、「三郎」という単語と「早良」が音が通じるため、「三郎浦」とは「早良郡」であった可能性もある。 以上のように百道原があった早良郡から上陸したとする史料が他を圧倒しており、元軍は百道原を中心に上陸したとみられる。 また、通説である百道原から上陸したのが高麗軍のみとする説は、蒙古・漢軍に属していた捕虜の元兵が百道原から上陸したことを証言したことが『朝師御書所見聞 安国論私抄』に載っており、上陸したのが高麗軍のみとする説は誤りである。 こせい(小勢)はへふ(別府)のつかハら(塚原)へひ(退)く、」• , p. これにひか(控)へ候ハゝ、さためてよ(寄)せきたり候ハんすらん。 一とう(一同)にかけて、をものい(追物射)にい(射)るへきよし申さるゝにつきて、けんしち(言質)のやくそく(約束)をたか(違)へしとて、をのゝゝ(各々)ひか(控)へしあいた、」• 『蒙古襲来絵詞』詞三「はかた(博多)のちん(陣)をう(討)ちいて、ひこ(肥後)のくに(国)[ ]一はん(番)とそん(存)し、すみよし(住吉)のとりゐ(鳥居)の[ ]す(過)き、こまつはら(小松原)をうちとを(通)りて、あかさか(赤坂)には[ ]かふところに、あしけ(芦毛)なるむま(馬)に、むらさきさかおもたか(紫逆沢潟)のよろひ(鎧)に、くれなゐ(紅)のほろ(母衣)をか(懸)けたるむしや(武者)、そのせい(勢)百よき(余騎)はか(計)りとみへて、けうと(凶徒)のちん(陣)を[ ]り、そくと(賊徒)を(追)ひお(落)として、くひ(首)二たち(太刀)となきなた(長刀)のさき(先)につら(貫)ぬきて、さう(左右)にも(持)たせてま[ ]とゆゝしくみ(見)へしに、たれ(誰)にてわたらせ給候そ、すゝ(涼)しくこそみ(見)え候へと申に、ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)の二郎たけふさ(武房)と申すもの(者)に候、かくおほせられ候ハたれ(誰)そとと(問)ふ、をな(同)しきうち(内)たけさき(竹崎)の五郎ひやうへすゑなか(兵衛季長)、か(駆)け候、御らん(覧)候へと申ては(馳)せむ(向)かふ。 殊精甲往往代黄金為之、絡珠琲者甚衆、刀製長極犀、銃洞物而過、但弓以木為之、矢雖長、不能遠。 人則勇敢視死不畏。 」, p. 28掲載• 佐藤鉄太郎 『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』錦正社史学叢書 錦正社 2005年4月 286~288頁• 角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 第40巻 福岡県』1988年 949、1343、1356頁• けうと(凶徒)ハすそはら(麁原)にちん(陣)をとりて、いろゝゝ(色々)のはた(旗)をた(立)てなら(列)へて、らんしやう(乱鐘)ひま(暇)なくして、ひしめきあ(合)ふ。 すゑなか(季長)は(馳)せむ(向)かふを、とうけんたすけみつ(藤源太資光)申す。 御かた(味方)ハつゝき候らん、御ま(待)ち候てせう人をた(立)てゝ御かせん(合戦)候へ、と申を、きうせん(弓箭)のみち(道)さき(先)をも(以)てしやう(賞)とす、たゝか(駆)けよとて、をめいてか(駆)く。 一はん(番)にはたさしむま(旗指馬)をい(射)られては(跳)ねを(落)とさる。 すゑなか(季長)いけ(以下)三き(騎)いたて(痛手)を(負)ひ、むま(馬)い(射)られては(跳)ねしところに、ひせん(肥前)のくに(国)の御け人(御家人)しろいし(白石)の六郎みちやす(通泰)、こちん(後陣)より大せい(大勢)にてか(駆)けしに、もうこ(蒙古)のいくさ(戦)ひ(引)きしり(退)そきて、すそはら(麁原)にあ(上)かる。 むま(馬)もい(射)られすして、ゐてき(異敵)のなか(中)にか(駆)けい(入)り、みちやす(通泰)つゝ(続)かさりせハ、し(死)ぬへかりしみなり、」• 『蒙古襲来絵詞』詞七「はかた(博多)のちん(陣)をう(打)つい(出)て、とりかひ(鳥飼)のしおひかた(汐干潟)には(馳)せむ(向)かひ候て、さき(先)をし候てかせん(合戦)をいたし、はたさ(旗指)しのむま(馬)、おな(同)しきの(乗)りむま(馬)をいころ(射殺)され、すゑなか(季長)、三井の三郎、わかたう(若党)一人、三き(騎)いたて(痛手)をかうふ(被)り、ひせん(肥前)のくに(国)の御け(家)人しろいし(白石)の六郎せう(証)人にた(立)て候て、かけすけ(景資)のひきつ(引付)けに一はん(番)につき候し事、」• 『財津氏系譜』日田永基伝「文永十一年十月二十日、拒異賊於筑前國姪濱百路原両所一日二度大破之。 」(芥川 竜男・福川 一徳編校訂『西国武士団関係史料集 〈1〉財津氏系譜』文献出版 1991年 29頁)• 『日田記』「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡ニ軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処ニ於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」(財津 永倫、芥川 竜男、財津 永延『日田記』文献出版 1977年 61〜62頁)• 『武藤系圖』少弐景資伝「弘安(文永カ)蒙古出來時、蒙古大将於百道原射留ラル」(『続群書類従』巻百四十九 系図部)• 『新元史』巻一百四十三 列傳第四十 劉復亨「戰于百道原、復亨披赤甲、縱横指揮、鋒鋭甚。 日本將三郎景資射復亨墜馬、乃引軍還、」ただし、の『元史訳文証補』や同時期の民国時代に編纂されたの『蒙兀児史記』に比べ典拠を明らかにしない事で有名な『新元史』の通例に漏れず、『新元史』の編者・柯劭忞はここでも記述のもととなった典拠資料を記載していない。 少弐景資と大友頼泰は鳥飼潟の戦いに引付(参陣・戦功を記録すること)を行い竹崎季長や都甲惟親に書下を与えている。 合戦に加わらず引付を行うことはあり得ないことから両名がこの戦いに加わっていたと推測される。 , p. 『福田兼重申状』及び『大友頼泰勘状写 都甲文書』(『鎌倉遺文』一一七七一号) , p. 『高麗史』金方慶伝に「(劉復)亨、中流矢、先登舟」とある。 『八幡愚童訓』甲種本に「少弐入道ガ子三郎右衛門景資、(中略)究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗リタリ、一鞭打テ馳延ビ見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ落シケリ。 (中略)葦毛ノ馬ニ金覆輪ノ鞍置タルガ走廻リシヲ捕テ後ニ尋ヌレバ、蒙古ノ一方ノ大将軍流将公之馬也ト、生捕共申ケリ」(「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p. 185)とあり、この『八幡愚童訓』のいう「流将公」は「劉復亨(流将公? )」の訛伝であろうと考えられている• 明治時代以前に指摘されている「流将公=劉復亨」説の一例としては、『元寇紀略』では『』の「劉復亨中流矢」という記述を引用して、『八幡愚童訓』で少弐景資が射倒したという「賊将」は劉復亨のことであり、『八幡愚童訓』が「流将公」としているのは「国音」が近いための誤りである、としている。 200. 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島、」。 なお、洪茶丘伝にある「宜蠻」については、江戸時代の『蒙古寇紀』の著者・長村靖斎は平戸島と音が通じているために「宜蠻」とは平戸島であるとしている(長村靖斎『蒙古寇紀』2巻)。 一方で歴史学者の池内宏は「イマツの對音であらう」としており、「宜蠻」とは島ではなく、博多湾の今津であるという説を挙げている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 150頁)。 即孟明焚舟、淮陰背水者也。 請復決戰』。 忽敦曰、『小敵之堅大敵之擒、策疲乏兵大敵、非完計也』而劉復亨中流矢、先登舟、故遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁墮水死、」• 該当部分の出典不明。 『』などに近似した文言が見られる。 『旧唐書』本紀太宗上「太宗曰、金剛懸軍千里、深入吾地、精兵驍將、皆在於此」• 『』謀攻編「故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。 ;拔人之城、而非攻也。 ;毀人之國、必以全爭于天下、故兵不頓、利可全、此謀攻之法也。 故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。 故小敵之堅、大敵之擒也」• 叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」• 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之、軍不還者無慮萬三千五百餘人。 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「率兵征伐、亦不収功、駆有用兵、民取無用地土、猶珠弹雀、已為失䇿、」• 『元史』失里伯伝では、シリバイ(失里伯)は文永の役に参加した記述は無く、バヤン(伯顔)に従い、南宋侵攻に従軍している。 『元史』巻一百三十三 列傳第二十 失里伯「十年、遷昭勇大將軍、爲耽羅國招討使。 奉旨入見上都、改管軍萬戸、領襄陽諸路新軍。 從丞相伯顔等渡江、破獨松關、下長興、取湖州、行安撫司事。 鄭思肖『心史』大義略叙「先忽必烈遣失里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海。 辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人與船倶陥、又大敗而回。 」(陳福康校点『鄭思肖集』上海古籍出版社 1991年5月 174頁)• 『皇年代略記』後宇多院「文永十一年十(月)五(日)蒙古賊船着岸。 卅大宰府言上賊船百餘艘漂倒。 」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十二 続群書類従完成会 1960年 266頁)• 可令參洛云々、逆風事、神明之御加被歟、無止事可責、其憑不少者也、近日内外法御祈、諸社奉幣連綿、無他事云々」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月 85頁)• 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 64頁• 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十月二十九日条「廿九日、辛未、土成 大歳前、厭對、陰、異國賊徒責來之間、興盛之由風聞、武家邊(関東)騒動云々、或説云、北条六郎(時定)幷式部大夫時輔等打上云々、是非未決、怖畏無極者也、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月)• 『東寺百合文書ヨ』関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)所注申也、早来廿日以前、下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人并本所領家一円地之住人等、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月一日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四一号)• 『長府毛利家文書』関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守(北条長時)在判 相模守(北条時宗)在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四三号)• 『諸家文書纂十一』関東御教書案「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注進申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守長時判 相模守時宗判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四四号)• 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 111頁• 於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二50頁)• 去月十九日廿日両日合戦。 廿日蒙古軍兵船退散了。 」(塙保己一編『続群書類従』26上 釈家部 巻第七百三十六 続群書類従完成会 1957年)• 『蒙古襲来絵詞』詞八「御ふんの御くた(下)しふみ(文)は、ちき(直)にしん(進)すへきおほ(仰)せに候、いま百二十のくゑんしやう(勧賞)ハ、さいふ(宰府)におほ(仰)せくたされ候、」• 2010年度時点における、、、、などの出版社の歴史教科書。 , p. 『関東評定衆伝』文永十一年条「十月五日蒙古異賊寄來着對馬嶋。 討少貳入道覺惠代官藤馬允。 同廿四日寄來太宰府與官軍合戰異賊敗北。 」(『群書類従』第四輯 補任部巻 第四十九 続群書類従完成会 1960年 324頁)• 京都大学附属図書館所蔵 平松文庫(流布本)『一代要記』後宇多天皇 文永十一年十月条「十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、同十四日、彼島守護代荘官以下被悉打取云々、對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡、同二十日始合戰、宰府軍等背北了、爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々、」• 101. 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月五日 (島津)久時在判 大隅五郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九三号)• 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月五日 (島津)久時在判 吉富次郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九四号)• 『肥前武雄神社文書』少弐経資書状案「爲異國征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月廿一日 (少弐)經資在判 武雄大宮司殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六九号)• 『肥前深江文書』少弐経資石築地役催促状「異國警固之間、要害石築地事、高麗發向輩之外、課于奉行國中、平均所致沙汰候也、今月廿日以前、相具人夫、相向博多津、請取役所、可被致沙汰候、恐ゝ謹言、建治二年三月十日 少貳(少弐経資)(花押) 深江村地頭殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六〇号)• 『野上文書』大友頼泰書下「異國發向用意條ゝ 一 所領分限、領内大小船呂數幷水手梶取交名年齢、可被注申、兼又以來月中旬、送付博多津之様、可相構事、一 渡異國之時、可相具上下人數年齢、兵具、固可被注申事、以前條ゝ、且致其用意、且今月廿日以前、可令注申給、若及遁避者、可被行重科之由、其沙汰候也、仍執達如件、建治二年三月五日 前出羽守(大友頼泰)(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二五二号)• 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉注進状「肥後國窪田庄(飽田郡)預所僧定愉勢幷兵具乘馬等事 一 自身歳三十五 郎從一人 所從三人 乘馬一疋 一 兵具 鎧一兩 腹卷一兩 弓二張 征矢二腰 大刀 右、任被仰下候旨、注進之状如件、建治二年三月卅日 窪田庄預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七五号)• 『石清水文書』尼眞阿請文「建治二年三月廿五日御書下、昨日閏三月二日到來、畏拝見仕候了、仰被仰下候爲異國征伐、人數交名幷乘馬物具數等事、子息三郎光重・聟久保二郎公保、以夜繼日企參上候へハ、可申上候、以此旨、且可有御披露候、恐惶謹言、(建治二年)閏三月三日 北山室地頭尼眞阿(裏)「花押」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九二号)• 『石清水文書』持蓮請文「異國征伐事、今年二月廿日大宰少貳(経資)殿御奉書案、同廿八日城次郎殿御奉書案、已上三通、謹以拝見仕候了、仰佛道房城次郎(肥後守護代城盛宗)殿御使鎌倉(へ脱カ)まいられて候、持蓮分注進状進之候、恐ゝ謹言、(建治二年)三月十一日 持蓮(花押) 進上 惣公文殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六二号)• 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 61頁• 蘇秦が外交交渉に失敗して家に帰ってきた際、蘇秦の妻は機織りの手を休めず、出迎えもしなかったという逸話を基にしている• 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(九月)戊子(二十一日)の条「元遣使、與劍工内來、古内在元言、高麗有路可徑至日本、故遣之。 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(十月)壬戌(二十五日)の条「以元將復征日本、遣金光遠爲慶尚道都指揮使、修造戰艦。 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(十一月)癸巳(二十七日)の条「癸巳、分遣部夫使于諸道。 『元史』巻一百六十 列傳第四十七 王磐「帝將用兵日本、問以便宜、磐言、當用吾全力、庶可一擧取之。 若復分力東夷、恐曠日持久、功卒難成。 俟宋滅、徐圖之未晩也。 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王二年(正月)丙子(十日)の条「丙子、帝命除造戰船及箭鏃。 『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年八月戊子の条「戊子、范文虎言、臣奉招征討日本、比遣周福、欒忠與日本僧齎詔往諭其國、期以來年四月還報、待其從否、始宜進兵、又請簡閲舊戰船以充用、皆從之、」• 中原師守『師守記』弘安二年六月二十六日・七月二十五日条「弘安二年六月廿六日異國牒船到着對馬嶋之由風聞、筑紫使者通關東云々、七月廿五日於院有評定、大宋國牒状(入大 函有銘)有沙汰、件返牒可通好之趣也、無其儀者、令責日本歟云々、彼牒状昨日自關東進上云々、」(藤井貞文、小林花子校訂『史料纂集 古記録編 第44回配本 師守記9』続群書類従完成会 1975年 178頁)• 広橋兼仲『勘仲記』弘安二年七月二十五日条「廿五日 晴、參殿下、次謁信輔、宋朝牒状自關東去夕到來、今日於仙洞有評定、殿下已下皆參、左辨宰相束帶、讀申牒状云々、如傳聞者、宋朝爲蒙古已被打取、日本是危、自宋朝被告知之趣歟、今日人々議不一揆云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 114頁)• 『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年二月甲申の条「以征日本、敕揚州、湖南、贛州、泉州四省造戰船六百艘、」• 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年五月甲寅の条「造船三千艘、敕耽羅發材木給之。 『元史』巻一百五十三 列傳第四十 賈居貞「十七年、朝廷再征日本、造戰艦於江南、居貞極言民困、如此必致亂、將入朝奏罷其事、未行。 『元史』巻一百六十 列傳第四十七 徐世隆「會征日本、世隆上疏諫止、語頗剴切、當路者不即以聞、已而帝意悟、其事亦寢。 昂吉兒上疏、其略曰、臣聞兵以氣爲主、而上下同欲者勝。 此者連事外夷、三軍屢衄、不(可)以言氣、海内騷然、一遇調發、上下愁怨、非所謂同欲也、請罷兵息民。 既而師果無功。 帝震怒、謂非所宣言、且曰、此在吾國法、言者不赦、汝豈有他心而然耶。 磐對曰、臣赤心爲國、故敢以言、苛有他心、何爲從反亂之地、冒萬死而來歸乎。 今臣年已八十、況無子嗣、他心欲何爲耶。 明日、帝遣待臣以温言慰撫、使無憂懼。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年八月の条「梢工上左引海一沖等四人、自日本逃還言、至元十二年、帝遣使日本、我令舌人郎將徐賛及梢水三十人、送至其國、使者及賛等見殺、王遣郎將池瑄、押上左等如元以奏。 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月己丑の条「日本國殺國使杜世忠等、征東元帥忻都、洪茶丘請自率兵往討、廷議姑少緩之、」• 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月辛丑の条「賜諸王阿八合、那木干所部、及征日本行省阿剌罕、范文虎等西錦衣、銀鈔、幣帛各有差。 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十八年正月、命日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本。 二月、諸將陛辭。 帝敕曰、始因彼國使來、故朝廷亦遣使往。 彼遂留我使不還。 故使卿輩爲此行。 朕聞漢人言、取人家國、欲得百姓土地。 若盡殺百姓、徒得地何用。 又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。 假若彼國人至、與卿輩有所議、當同心協謀、如出一口答之。 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「省(征日本行省)大帥欣都、都副察灰(洪茶丘)、次李都帥牢山(李庭)、次降将范殿帥文虎惣二十三、南(江南軍)一十三。 隋唐以来出師之盛未之見也。 」(, p. 28)• 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「南方新附舊軍、十餘年間老病逃亡出征損、折向來精鋭於海東、新招軍數皆非習武藝慣爭戰陣、之人用此制敵必然敗事、」• 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年八月乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、两軍畢集、直抵日本、破之必矣、」• 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「忠烈王七年 五月戊戌(三日)、忻都茶丘及金方慶朴球金周鼎等、以舟師征日本。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年四月癸未(十八日)の条「大閲干合浦。 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「方慶與忻都茶丘朴球金周鼎等發、至日本世界村大明浦」 武田 幸男(翻訳)『高麗史日本伝(下)』(岩波文庫、2005年)によると世界村大明浦とは対馬上県郡佐賀村の大明神浦説が有力であるとしている。 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「至日本世界村大明浦、使通事金貯激喩之、周鼎先與倭交鋒、諸軍皆下與戦、郎将康彦康師子等死之」• 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年五月癸亥(二十八日)の条「是月二十六日、諸軍向一岐島忽魯勿塔、船軍一百十三人梢水三十六人遭風、失其所之、」• 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年六月十四日条「自武家邊内々申云、今日宰府飛脚到來、異賊舟三百艘着長門浦了、云々、閣鎭西直令着岸之条、怖畏之外無他、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 229頁)• 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年六月壬午の条「日本行省臣遣使來言、大軍駐巨濟島、至對馬島、獲島人言、太宰府西六十里、舊有戌軍、已調出戰、宜乘虚擣之、詔曰、軍事、卿等當自權衡之、」• 弘安四年。 蒙古襲來ス。 志賀、鷹、能古等島々海上ニ充満セリ。 夷國退治之事ハ家ノ先例ナル間。 大將トテ筑前國ニ進發ス。 日本ノ諸勢、博多、筥崎、上下三十里ノ海涯ニ築地ヲ高ク築キ。 此方面々馬ニテ馳上ル様ニ土ヲ築キ上テ。 面ニ亂杭逆茂木ヲ付タリ。 海上ヨリ見ハ危峰ノ江ニ臨ムカ如シ。 然レ共河野ノ陣ニハ海ノ面、幕一重ニテ後ニ築地ヲツカセタリ。 是敵ヲ轍ク引入一戦ノ勝負ヲ可決ト也。 背ニ逃道アラハ。 味方ヤ逃。 トカクシテ一人モ引セシト也。 從是河野ノ後築地ト云付タリ。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四30頁)• , p. 」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 229頁)• 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「六月、方慶周鼎球之亮荊萬戸等、與日本兵合戰、斬三百餘級、日本兵突進、官軍潰、茶丘棄馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、」• 同日むま(午)の時、季長なら(並)ひにて(手)の物、きす(疵)をかふ(被)るものとも、き(生)のまつはら(松原)にて、守護のけさむ(見参)にい(入)りて、當國一番にひきつ(引付)けにつ(付)く。 鹿嶋にさ(差)しつか(遣)はすて(手)の物、同日巳剋に合戦をいた(致)し、親類野中太郎なかすゑ(長季)郎従藤源太すけミつ(資光)いたて(痛手)をかふ(被)り、の(乗)りむま(馬)二疋ゐころ(射殺)されし證人に、豊後國御家人はしつめ(橋詰)の兵衛次郎をた(立)つ。 土佐房道戒うちし(討死)にの證人にハ、盛宗の御て(手)の人たまむら(玉村)の三郎盛清をた(立)てけさむ(見参)に入て、同御ひきつ(引付)けにつ(付)く。 『筑前右田家文書』大友頼泰書下案「豊後國御家人右田四朗入道道円代子息彌四郎能明申今年六月八日蒙古合戦刻、自身并下人被疵由事、申状如此、彼輩防戦之振舞、發向之戦場、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五一四号)• 『蒙古襲来絵詞』絵十一は志賀島の戦いで負傷した竹崎季長が同じく負傷した河野通有を見舞う場面である。 このことから通有が負傷したのは志賀島の戦いであったことがわかる。 佐藤 鉄太郎『蒙古襲来絵詞と竹崎季長』櫂歌書房 1994年 171-177頁• 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「軍中又大疫、死者三千餘」• 萬里蒼蒼接天色。 有夷生寄海中央。 水道纔通變難測。 聖明本自置度外。 邊將貪功謀欲得。 受命東征自往年。 東南師期在六月。 千艘駕浪會一岐。 十丈風帆檣欲折。 相望渉夏不交鋒。 辛苦何須爲君說。 炎氣瘴霧熏著人。 滿海浮屍寃氣結。 淫舒虧盈潮落生。 九月(七月)已當三十日。 是時八極顚風來。 擊碎夢衝何太疾。 蒼皇誰借千金壺。 枉敎壯士探蚊室。 哀哉十萬江南人。 攀依絶嶼赤身立。 如今恨骨與山高。 永夜羈魂向天泣。 當時將帥若生還。 念此能無增鬱悒。 壯哉萬古烏江上。 恥復東歸棄功業。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四63頁)• 」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 402頁)• 辛巳夏、又入日本。 南宋軍後期三月、因以淹留、腐船而疫興、上國群師毎誘以還軍、公力爭不可累戰、而還。 」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 407頁)• 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中、」• 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)六月、阿剌罕以病不能行、命阿塔海代總軍事、」• 許有壬撰『至正集』巻第四十五 碑志二 勅賜推誠宣力定遠佐運功臣太師開府儀同三司上桂國曹南忠宣王神道碑銘并序「十八年、入覲賜王帯弓矢、進光禄大夫中書省左丞相、行中書省事、統帥四十餘万征日本、次明州而薨、」• 陸文圭撰『墻東類稿』故武徳将軍呉候墓志銘「十八年、汎海征日本、授宣武將軍、壽春副萬戸、先鋒。 抵島上、颶風驟起、眾散而歸。 呉澄撰『呉文正集』巻六十六 有元懐遠大将軍処州万戸府副万戸刑候墓碑「軍随日本行中書省官至耽羅山、抵倭國界、領軍船守平戸島、」• 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年六月廿四日条「自宰府飛脚到來、宋朝船三百餘隻、着對馬嶋云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 235頁)• 『歴代鎮西要略』, p. 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「件條、去年六月廿九日蒙古人之賊船數千余艘襲來壹岐嶋時、時範相具親類河田右衛門尉盛資、渡向彼嶋令防禦事、大炊亮殿御證状分明也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)• 『山代文書』肥前国守護北条時定書下「肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、弘安五年九月廿五日 平(北条時定)(花押) 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百四十三号)• 『龍造寺系図』龍造寺季時伝「弘安中蒙古襲来時、季時合戰壱岐島瀬戸浦、顕高名討死」(『大宰府・太宰府天満宮史料』第8巻 太宰府町(福岡県)1972年)• 『肥前龍造寺文書』肥前守護北条時定書状「去年異賊襲來時、七月二日、於壹岐嶋瀬戸浦令合戦之由事、申状幷證人起請文令被見畢、可令注進此由於関東候、謹言、弘安五年九月九日 時定(花押) 龍造寺小三郎左衛門尉(家清)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六九六号)• 『武藤少弐系図』「資時。 弘安四年。 與蒙古戦於壹岐島前討死。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四19頁)• 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月十二日条「異國賊船等退散之由、風聞、實説可尋記之、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)• 晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。 船僅廻四百余隻、二十万人、在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。 山上素無人居、唯多巨蛇。 相伝、唐東征軍士、咸隕命此山。 故曰白骨山。 又曰枯髏山。 『宇都宮系図』「貞綱。 弘安四年正(五)月。 蒙古以十萬兵爲攻日本。 兵船六萬艘著肥前平戸島。 于時自六波羅爲大將。 引率中國之勢赴筑紫。 蒙古既雖聞敗亡。 猶至九州。 異賊襲來爲防戰之備。 而歸洛。 」(塙保己一編『続群書類従』6下 系図部 巻第百五十二 続群書類従完成会 1957年)• 広橋兼仲の日記『勘仲記』(弘安四年閏七月一日条)によると、翌閏7月1日にかけて京都でも暴風雨があったため、時期を考慮して台風であったと比定されている。 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年閏七月一日条「一日、甲子、雨降、參祖母禪尼、入夜暴風大雨如沃如叩、終夜不休、匪直也事也、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 235頁)• 気象庁. 2013年6月27日閲覧。 『癸辛雑識-続集下』「至大(元)十八年、大軍征日本。 船軍已至竹島、與其大宰府甚邇。 方號令翌日分路以入。 夜半忽大風暴作、諸船皆撃撞而碎、四千餘舟所存二百而巳。 全軍十五萬人、歸者不能五之一、凡棄糧五十萬石、衣甲器械稱是。 是夕之風、木大數圍者皆拔、或中折。 葢天意也。 『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 楚鼎「十八年、東征日本、鼎率千餘人、從左丞范文虎、渡海、大風忽至、舟壞、鼎挾破舟板、漂流三晝夜、至一山、會文虎船、因得達高麗之金州合浦海、屯駐散兵、亦漂泛來集、遂領之以歸、」• 歴史学者・池内功によると、モンゴル軍は遠征に際して、家族等を同伴するのが通例であったが、弘安の役の頃になると、妻を同伴することができるのは、将校に限られるなど変化していた。 , p. 蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘「及征日本、大風之夕、公方以王事爲重、奚恤其家、而縣君獨在舟中、身綰印章、未嘗舍去。 及舟壞、乃抱折墻得達于岸。 之豈尋常者所能及哉。 『元史』巻一百三十一 列傳第十八 嚢加歹「召爲都元帥、管領通事軍馬、東征日本、未至而還、」• 『元史』巻一百三十三 列傳第二十 也速䚟兒「江南平、録功進懷遠大將軍、管軍萬戶、領江淮戰艦數百艘、東征日本、全軍而還、有旨、特賜養老一百戶、衣服、弓矢、鞍轡、有加、」• 『高麗史』によるとイェスダル(也速䚟児)は朝鮮半島の東寧府に赴いてから、日本征討に加わったとあることから東路軍の将であることが分かる。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年九月丁卯(二十九日)の条「丁卯、元遣也速達崔仁著、以水韃靼之處開元北京遼陽路者、移置東寧府、使之将赴征東。 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「大小戦艦多為波浪揃触而砕、唯勾麗(高麗)船堅得全、遂班師西運、」(, p. 28)• 文化庁『発掘された日本列島2012 新発見考古速報』朝日新聞出版 2012年 55頁• 虞集撰『道園類稿』巻四十九 趙夫人墓誌銘「夫人姓趙氏浚儀人、故宋宗室秦邸諸孫弋陽縣主簿、其之女也、諱時妙字妙眞、」• 『蒙古襲来絵詞』詞十一「閏七月五日、御くりや(御厨)のかいしやうかつせん(海上合戦)は、とりのとき(酉の刻)にをしむかて、かつせん(合戦)をいたす」• , p. 『豊後都甲文書』大神惟親軍忠状「豊後国御家人都甲左衛門五郎大神惟親法師法名寂妙謹言上、欲早任傍例、預御注進、蒙抽賞、去弘安四年後七月七日、肥前国鷹嶋蒙古合戦事、右、蒙古凶徒、着岸肥前国鷹嶋之間、馳向当国星鹿、彼七日、寂妙渡当嶋、於東浜、依致合戦忠、寂妙子息四郎惟遠、令分取畢、其上、郎従三郎二郎重遠被疵旗差下人一人弥六末守被疵畢、此次第、同国志手筑後房円範、上総三郎入道所令見知也、早預御注進、為蒙抽賞、恐々言 上如件、弘安九年三月 日 「(自著)沙弥寂妙(花押)」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十一巻 東京堂出版 一五八六七号)• 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「次月七月七日鷹嶋合戦之時、自陸地馳向事、爰時範依合戦之忠勤、爲預御裁許、粗言上如件、弘安五年二月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)• 『薩摩比志島文書』島津長久證状「同閏七月七日鷹嶋合戦之時、五郎次郎自陸地馳向候之条、令見知候了、若此條僞申候者、日本國中大少神罸可罷蒙長久之身候、恐惶謹言、弘安五年四月十五日 大炊助長久」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)• 『江上系図』「西牟田彌次郎永家。 弘安四年。 大元大將督六万艘十万人。 寇鎭西。 此時永家戰于松浦之鷹島抽功。 於是爲之賞。 肥前國神崎郡中數箇。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四30頁)• 『福田文書』丹治重茂起請文写「以去年後七月七日押寄于鷹嶋之賊船、抽合戦之忠候之時、兼重同押寄于彼所致合戦、令焼払賊船候之条、令見知候畢、」(『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 336頁)• 角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 第42巻 長崎県』1987年 588頁• 山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四40頁• 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年閏七月十四日条「丁丑、自夜雨降、參殿下申条々事、參近衛殿、自宰府飛脚到來、去朔日大風(動波)、賊船多漂没云々、誅戮并生虜数千人、壹岐、對馬雖一艘無之、所下居異賊多以殞命、或又被生虜、今度事神鑑炳焉之至也、天下之大慶何事可過之乎、匪直也事也、雖末代猶無止事也、弥可尊崇神明佛陀者歟、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 257頁)• 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』閏七月廿一日条「自関東差遣鎮西使者両人、今日上洛、異國賊、無残誅了之由、申上云々、実説猶可尋之、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)• 月村辰雄・久保田勝一本文翻訳、フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ、小林典子・駒田亜紀子・黒岩三恵解説翻訳『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録『驚異の書』fr. 2810写本』岩波書店 2002年 147〜148頁• 『兼仲卿記弘安五年七月・九月巻裏文書』某事書「爲異國征伐、大和國寺僧國民被召之間、可蒙免許事、副衆徒申状(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四六〇号)• 『東大寺文書』聖守書状「可被征伐高麗之由、自關東其沙汰候歟、少貳乎大友乎爲大将軍、三ヶ國御家人、悉被催立、幷大和・山城惡徒五十六人、今月中可向鎭西之由、其沙汰候、(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四二二号)• 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 63頁• 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年十月己亥(七日)の条「元勑、於本國金州等處、置鎭邊萬戸府、以印侯爲佋勇大將軍鎭邊萬戸、賜虎符及印、張舜龍爲宣武將軍鎭邊管軍總管。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年正月丙寅の条「丙寅、罷征東行中書省。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月壬申の条「敕平灤、高麗、耽羅及揚州、隆興、泉州、共造大小船、三千艘。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年五月庚辰の条「庚辰、議於平灤造船、發軍民合九千人、令探馬赤伯要帶領之、伐木於山、及取於寺觀墳墓、官酬其直、仍命桒哥遣人、督之。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年三月己未の条「御史臺臣言、平灤造船、五臺山造寺伐木、及南城建新寺、凡役四萬人、乞罷之、詔伐木建寺、即罷之、造船一事、其與省臣議。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年七月丙辰の条「諭阿塔海、所造征日本船、宜少緩之、所拘商船、其悉給還。 淮西宣慰使昂吉兒上言民勞、乞寢兵。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年五月甲戌の条「甲戌、發征日本重囚、往占城、緬國等處、從征。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年四月壬辰の条「壬辰、阿塔海求軍官習舟楫者、同征日本、命元帥張林、招討張瑄、總管朱清等行。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年正月壬申の条「命右丞闍里帖木兒及萬戸三十五人、蒙古軍習舟師者二千人、探馬赤萬人、習水戰者五百人征日本。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王九年三月卯朔(一日)の条「中郎將柳庇還自元、言、帝徴江南軍、將以八月東征日本。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月庚申の条「建宣慰司獲倭國諜者、有旨、留之。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月戊寅の条「戊寅、給新附軍賈祐衣糧。 祐言、爲日本國焦元帥婿、知江南造船、遣其來候動靜、軍馬壓境、愿先降附。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年六月戊子の条「戊子、以征日本、民間騷動、盜賊竊發、忽都帖木兒、忙古帶、乞益兵禦寇、詔以興國江州軍、付之。 『元史』巻一百七十 列傳第五十七 申屠致遠「時寇盜竊發、加之造征日本戰船、遠近騷然、致遠設施有方、衆賴以安。 『元史』巻一百七十三 列傳第六十 崔彧「又言、江南盜賊、相挻而起、凡二百餘所、皆由拘刷水手、與造海船、民不聊生、激而成變。 日本之役、宜姑止之。 又江西四省軍需、宜量民力、勿強以土産所無、凡給物價及民者、必以實、召募水手、當從其所欲、伺民氣稍蘇、我力粗備、三二年后、東征未晩。 世祖以爲不切、曰、爾之所言如射然、挽弓雖可觀、發矢則非是矣。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王九年五月己卯(二十六日)の条「鄭仁卿等還自元言、帝寢東征之議、王命罷修艦調兵等事。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年八月丁未の条「浙西道宣慰使史弼言、頃以征日本船五百艘、科諸民間、民病之、宜取阿八赤所有船、修理、以付阿塔海、庶寛民力、并給鈔於沿海募水手。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年九月辛未の条「辛未、以歳登、開諸路酒禁、廣東盜起、遣兵萬人討之。 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年十月庚子の条「建寧路管軍總管黄華叛、衆幾十萬、號頭陀軍、僞稱宋祥興五年、犯崇安、浦城等縣、圍建寧府。 招卜憐吉帶、史弼等將兵二萬二千人討平之。 『元史』巻一百六十二 列傳第四十九 劉国傑「會黄華反建寧、乃命國傑以征東兵會江淮参政伯顔等討之。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年二月辛巳の条「罷高麗造征日本船。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年二月丁未の条「命阿塔海、發兵万五千人、船二百艘、助征占城、」• 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年五月壬子の条「拘征東省印。 『薩摩八田家文書』関東御教書「鎭西誓固事、蒙古異賊明年春可襲來云々、早向役所、嚴密可致用心、且守護御家人以下軍兵等、忩從守護所命、可致防戰忠、守護人亦不論親疎、注進忠否、可申行賞罰也、於背此仰輩者、永可被重科、次本所一圓地聞事、可催促之間(旨)、先日被成御教書畢、早存此旨、可令相觸薩摩國中之状、依仰執達如件、正(弘)安六年十二月廿一日 駿河守(北条重時)在判 相模守(北条時宗)在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十八巻 東京堂出版 二一三〇五号)• 西園寺公衡『公衡公記』弘安六年七月二日条「(前略)但異國事、近日其聞候、今年秋可襲來之由、令申云々、就中、文永牒状ニ、以至元廿一年、發大軍可襲來之由、載之候歟、明年當其年限候條、防御候計外、不可有他事候、(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十巻 東京堂出版 一四八九五号)• 云々、危哉此時也、非大士孰生之、云々、至元二十八年、歳次辛卯六月日、宣差日本國奉使前住寶(補)陀五樂翁愚溪如智記」• 『善隣国宝記』巻上「又記宣諭日本國詔文曰、上天眷命皇帝、聖旨諭日本國王、向者彼先遣使入覲、朕亦命使相報、已有定言、想置於汝心而不忘也、頃因信使執而不返、我是以有舟師進問之役、古者兵交、使在其間、彼轍不交一語、而固拒王師、據彼已嘗抗敵、於理不宣遣使、茲有補陀禪寺長老如智等陳奏、若復興師致討多害生靈、彼中亦有佛教文學之化、豈不知大小強弱之理、如今臣等賚(齎)聖旨宣諭、則必多救生靈也、彼當自省懇心、歸附准奉、今遣長老如智、堤擧王君治、奉詔往彼、夫和好之外、無餘善焉、戰爭之外、無餘惡焉、果能審此歸順、即同去使來朝、所以諭乎彼者、朕其禍福之變、天命識之故、詔示、想宣知悉」• 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年十月月甲戌の条「甲戌、詔諭行中書省、凡征日本船及長年篙手、并官給鈔增價募之。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年四月丙午の条「丙午、以征日本船運粮江淮及教軍水戰。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年六月庚戌の条「六月庚戌、命女直、水達達、造船二百艘及造征日本迎風船。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月癸丑の条「癸丑、立征東行省、以阿塔海為左丞相、劉國傑、陳巌并左丞、洪茶丘右丞、征日本。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月丁卯の条「仍敕習泛海者、募水工至千人者爲千戸、百人爲百戸。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月丙申の条「丙申、赦囚徒、黥其面、及招宋時販私鹽軍習海道者爲水工、以征日本。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月癸巳の条「癸巳、敕漕江淮米百萬石、泛海貯於高麗之合浦、仍令東京及高麗各貯米十萬石、備征日本。 諸軍期於明年三月以次而發、八月會於合浦。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月戊寅の条「戊寅、遣使告高麗發兵萬人、船六百五十艘、助征日本、仍令於近地多造船。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十二月己亥の条「增阿塔海征日本戰士萬人、回回砲手五十人。 己亥、從樞密院請、嚴立軍籍條例、選壯士及有力家充軍。 敕樞密院、向以征日本故、遣五衞軍還家治裝、今悉選壯士、以正月一日到京師。 江淮行省以戰船千艘習水戰江中。 『元史』巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年正月甲戌の条「甲戌、帝以日本孤遠島夷、重困民力、罷征日本、」• 『元史』巻一百六十八 列傳第五十五 劉宣「連年日本之役、百姓愁戚、官府擾攘、今春停罷、江浙軍民、歡聲如雷。 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「二十三年、帝曰、日本未嘗相侵、今交趾犯邊。 宜置日本、專事交趾。 鄭思肖『心史・雑文・大義略叙』 「辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人与船倶陥、又大敗而回。 倭遣使責占城不戦而附韃。 占城有悟意、始背元韃。 舟中有不願行者、共謀殺積翁、不果至。 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月丁卯の条「塔海弟六十言、今百姓及諸投下民、倶令造船於女直、而女直又復發爲軍、工役繁甚。 乃顔、勝納合兒兩投下鷹坊、採金等戸獨不調。 有旨遣使發其民。 , p. 43-44. 『元史』巻二百九 列傳第九十六 外夷二 安南國「二十四年正月、發新附軍千人從阿八赤討安南。 又詔發江淮、江西、湖廣三省蒙古、漢、券軍七萬人、船五百艘、雲南兵六千人、海外四州黎兵萬五千、海道運粮萬戸張文虎、費拱辰、陶大明運粮十七萬石、分道以進。 『北条九代記』「正應五年七月、附商舶歸朝。 大元燕公南獻牒状。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之五54頁)• 『元史』巻十七 本紀第十七 世祖十四 至元二十九年六月己巳の条「己巳、日本來互市。 風壞三舟。 惟一舟達慶元路。 『元史』巻一百七十三 列傳第六十 燕公楠「二十七年、拜江淮行中書省參知政事。 『高麗史』巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年十月庚寅(三日)の条「冬十月庚寅、以太僕尹金有成、爲護送日本人、供驛署令郭鱗、爲書状官、」• 『北条九代記』「正應五年十月、高麗使金有成等到着。 翌年被召下關東訖。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之五57頁)• 『高麗史』巻一百六 列伝十九 金有成「後日本僧鉗公來言、有成丁未七月五日病卒。 『高麗史』巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年(九月)壬午(二十四日)の条「壬午、元遣洪君祥來、命我護送日本人還其國、君祥以帝旨、問征日本事、王對曰、臣既隣不庭之俗、庶當躬自致討、以効微勞、君祥獻馬、遂宴干香閣。 『高麗史』巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十九年八月の条「八月、元遣萬戸洪波豆兒來、管造船、寶錢庫副使瞻思丁管軍糧、將復征日本也、」• 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「成宗大徳二年、江浙省平章政事也速答兒乞用兵日本。 帝曰、今非其時、朕徐思之。 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(成宗大徳)三年、遣僧寧一山者、加妙慈弘濟大師附商舶往使日本。 而日本人竟不至。 『妙慈弘済大師行記』「飃簸而著于博多。 本朝正安元也。 舶主以書曰元帥府。 府議曰、敵國命使不活矣。 或曰、使命不活。 然奈僧儀何。 先編置豆州修禪寺。 」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之六3頁)• 『元史』巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 瑠求「世祖至元二十八年九月、海船副萬戶楊祥請以六千軍往降之、不聽命則遂伐之、朝廷從其請。 『元史』巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 瑠求「二十九年三月二十九日、自汀路尾澳舟行、至是日巳時、海洋中正東望見有山長而低者、約去五十里。 祥稱是瑠求國、鑒稱不知的否。 祥乘小舟至低山下、以其人衆、不親上、令軍官劉閏等二百餘人以小舟十一艘、載軍器、領三嶼人陳煇者登岸。 岸上人衆不曉三嶼人語、爲其殺死者三人、遂還。 『元史』巻二十一 本紀第二十一 成宗四 大徳八年夏四月丙戌の条「夏四月丙戌、置千戶所、戍定海、以防歲至倭船。 『元史』巻九十四 志第四十三 食貨二「(大徳)七年、以禁商下海罷之。 , p. 不戦死帰、亦為倭王主所殺。 倭婦甚烈不可犯。 幼歳取犀角、刔小珠種額上。 善水不溺、倭刀極利。 地高嶮難入、可為戦守計。 王勇『中国史の中の日本像』人間選書 2000年 第六章第三節• 呉莱『隣交徴書』二篇巻一 論倭「今之倭奴、非昔之倭奴也。 昔雖到弱、猶敢拒中国之兵。 況今之恃険、且十此者乎。 郷自慶元、航海而来、艨艟数千、戈矛剣戟、莫不畢具。 銛鋒淬鍔、天下無利鉄。 出其重貨、公然貿易、即不満所欲、燔炳城郭、抄掠居民、海道之兵、猝無以応、(中略)喪士気弱国体、莫大於此。 鄭舜功『日本一鑑』窮河話海巻六「備按、中国征伐四夷、自古有之、然而征伐夷、海外之夷倭、不嘗有也、抑伐倭者考、自呉大帝・晋慕容廆・元忽必烈而巳、(中略)抑呉・晋・元勒兵漲海之外、得其民安焉、用之喪兵足以為恥、」(, p. 20)• 『明史』巻三百二十二 外國三 日本國「十四年、復來貢。 帝再却之、命禮官移書責其王、并責其征夷將軍、示以欲征之意。 良懷上言、臣聞三皇立極、五帝禪宗。 惟中華之有主、豈夷狄而無君。 乾坤浩蕩、非一主之獨權。 宇宙寛洪、作諸邦以分守。 盖天下者、乃天下之天下、非一人之天下也。 臣居遠弱之倭、褊小之國、城池不滿六十、封疆不足三千、尚存知足之心。 陛下作中華之主、爲萬乘之君。 城池數千餘、封疆百萬里、猶有不足之心、常起滅絶之意。 夫天發殺機、移星換宿。 地發殺機、龍蛇走陸。 人發殺機、天地反覆。 昔堯、舜有德、四海來賓、湯、武施仁、八方奉貢。 臣聞天朝有與戰之策、小邦亦有禦敵之圖。 論文有孔、孟、道德之文章。 論武有孫、呉韜略之兵法。 又聞陛下選股肱之將、起精鋭之師、來侵臣境。 水澤之地、山海之洲、自有其備。 豈肯跪途而奉之乎。 順之未必其生。 逆之未必其死。 相逢賀蘭山前、聊以博戲。 臣何懼哉。 倘君勝臣負、且滿上國之意。 設臣勝君負、反作小邦之羞。 自古講和爲上、罷戰爲強。 免生靈之塗炭、拯黎庶之艱辛。 特遣使臣、敬叩丹陛、惟上國圖之。 帝得表慍甚、終鑑蒙古之轍、不加兵也。 『概説日本思想史』吉原健雄• 『概説日本思想史』吉原健雄• , p. 森 俊男『歴史群像シリーズ64 北条時宗 蒙古襲来と若き執権の果断ー比較検証 日本の弓VS蒙古の弓』 学研出版 2000年、48〜51頁• は「蒙古詞事」の文永の役に関する説明において、同時期の日蓮の書簡や『』等から引用しているが、「或記」とのみ書いており、具体的な典拠名を述べていない。 また、現在確認出来る「日朝上人典籍目録」等の記録に見られる日朝の所持本には『八幡愚童訓』は含まれていない。 しかし、日朝が引用する『八幡愚童訓』は、現在『安国論私抄』も蔵されている身延文庫所蔵のが3年()に書写した『八幡愚童訓』と文体等が多く一致しており、現在は逸書となっている日意写本の原本から参照した可能性が考えられる。 また、日蓮自身は文永・弘安の役についての情報を日蓮に帰依していた信者やその類縁となっていた幕府関係者等から入手していたと推測されている。 この「蒙古詞事」にある「或記」も、日朝が『安国論私抄』を著した文明11年()頃には身延山で参照し得た、現存の諸資料中の情報では確認出来ない資料のひとつと考えられる。 伊藤英人「身延文庫蔵『朝師御書見聞 安国論私抄』の「蒙古詞事」中の朝鮮語について」『東京外国語大学論集』63号、 2002年、1-21頁• 『高麗史』巻百四 列伝巻十七 金方慶伝 元宗十五年条「造船若依蛮様、則工費多将不及期。 (中略)用本國船様督造」:• 「」『読売新聞』、 2012年10月10日閲覧。 「」『読売新聞』、 2012年10月15日閲覧。 「モンゴル帝国、アジア征服の猛威(総力特集 北条時宗と蒙古襲来)」『歴史と旅』Vol. 28、2001年2月号、秋田書店、30-35頁。 『北条時宗 史上最強の帝国に挑んだ男』 角川選書320、2000年、178-189頁などを参照。 例えば、1214年尾金朝の旧都・中都陥落と接収以前のモンゴル帝国軍の軍事行動の場合、「もともとモンゴルは、軍事行動を行ってきた金朝領の漢地において、一度戦勝しあるいは降伏させて占領しても、一時的に人と者を収奪すれば、あとは放置して立ち去り、長期的に領有・統治するという意思を示していなかった」。 (海老沢哲雄「モンゴルの対金朝外交」『駒澤史学』52号、1998年6月、p. 203-204. 『元史』巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年十月己酉の条「己酉、遣塔塔兒帶、楊兀鲁帶以兵萬人、船千艘征骨嵬。 『元史』 巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 爪哇「至元二十九年二月、詔福建行省除史弼、亦黑迷失、高興平章政事、征爪哇。 會福建、江西、湖廣三行省兵凡二萬、設左右軍都元帥府二、征行上萬戸四、發舟千艘、給粮一年、鈔四萬錠、降虎符十、金符四十、銀符百、金衣段百端、用備功賞。 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書 1307、1996年6月20日、pp. 129-135。 文化庁『発掘された日本列島2012 新発見考古速報』朝日新聞出版2012年 57頁• 「」『読売新聞』、 2015年7月2日閲覧。 今谷明はマムルーク朝軍と「蒙古軍」との戦闘として、イルハン朝の始祖の時代のにあった現パレスチナの、およびとマムルーク朝のの時代の(今谷は指摘していないが弘安の役と同年)にとの中間にあるでの戦闘の例を触れ、いずれにおいてもマムルーク朝軍が「蒙古軍」を破ったことを述べ、「エジプトのマムルーク軍団の精強さは組織(システム)としての完成されたものであり、さすがのモンゴルも歯が立たなかった」と評している(今谷同書 68-69頁)。 今谷同書• 今谷は、神聖ローマ帝国は4月ので蒙古軍に敗北するが、6月の城での攻防戦で蒙古軍を撤退させたと述べ、の『ローマ帝国興亡史』やの『蒙古史』(岩波文庫版 田中粋一郎訳)の記述を引用している(今谷同書 58-62頁)。 Vernadsky, The Mongols and Russia の注による」(同書172頁)と紹介しているように、現在、ヨーロッパの中世史研究では史実性が疑われている。 3, 1928 ですでに指摘し史実性について疑義を呈しているのに、近年でさえ高名な東洋学者であるドイツのシュプーラー Bertold Spuler や同じロシア中世史研究者のグレコフ Boris Grekov を名指しして「未だにこの神話がこの両人によって繰り返されている」と批判している The Mongols and Russia, p. ただし、佐藤次高は著書や論文でイクター制と封建制との問題が触れられる時は、ヨーロッパにおいてイクター制がヨーロッパの封建制と比較され「イスラム封建制」として捉えられる伝統があり、その影響を受けたアラブの研究者も含めてイスラム社会を考察する上での「認識の歪み」を生じさせて来たことを述べ、安易な同一視は避けるよう繰り返し述べているが、今谷はこれら佐藤の見解については触れていない。 また、佐藤もたびたび紹介しているがイスラームの政治思想において国家システムを成り立たせている2つの重要な要素、軍事等を担当する「剣の人」と文書行政等を担当する「筆の人」という2種の職能の「公職」についての伝統的分類等についても、今谷は触れていない。 (佐藤次高「はしがき」『中世イスラム国家とアラブ社会』山川出版社、1986年 p. 清水和裕「マムルークとグラーム」『新版岩波講座 世界歴史10』1999年• 今谷同書 71-73頁• 『高麗史』元宗十三年 (二月)己癸(十日)の条「惟彼日本 未蒙聖化。 故發詔使 繼糴軍容 戰艦兵糧 方在所須。 儻以此事委臣 庶幾勉盡心力 小助王師」『高麗史』世家巻第二十七 元宗十三年の三月己亥(1272年3月11日)に大元朝のが発送したにある世子・諶(後の忠烈王)云の箇所 :。 『』朴鐘鳴訳、、1979年、40-43頁。 森平雅彦「駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察-」『東洋学報』79-4、1998年3月。 関戸堯海「日蓮聖人の書簡執筆についての統計」『印度學佛教學研究』 54- 1 、2005年12月、219頁• 新倉善之「日蓮伝小考 --『日蓮聖人註画讃』の成立とその系譜--」『立正大学文学部論叢』 10号、110-144頁、1959年1月• 新倉善之「日蓮伝小考」110-111頁、119頁• , p. 70, 82, 89. , p. , pp. 134-135. 小倉秀貫『史学雑誌』第2篇第10号、1891年• , pp. 111-122. , pp. 121-122. 高祖遺文録王舎城ノ條ニハ(女ヲハ或いハ取集テ。 手ヲトヲシテ船ニ結付。 )太平記ニハ(掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ。 )トアリ、索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。 女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。 索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。 二年紀ニ。 (百濟王嫌福信有謀叛心。 以革穿掌而縛。 )トアリ。 以テ證スヘシ。 北俗、人ヲ戮スルハ鷄豚ヲ屠ルヨリ易シ。 殘酷脧削ノ事。 往々又彼史乘ニ見ユ。 又西洋書中ニモ。 蠻方ノ風俗ヲ記シ。 貫掌擒殺ノ事ヲ傳ルモノアリ。 獷虜ノ習俗固リ恠ムニ足ラサルナリ。 」山田安栄編『伏敵編』巻二、6月、11-12頁。 例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し。 」(建治二年閏三月五日筆「妙密上人御消息」:『鎌倉遺文』12295号、『鎌倉遺文』 古文書編 第16巻、239頁)• 『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p. 181。 『続文献通考』巻二百三十四・四裔考・日本条「願蒙古戎狄莅華、以小国視我。 乃趙良弼「言朮」我好語。 初不知覘我国也。 既而発舟数千襲我。 」(山本光朗 2001, p. 八代國治「蒙古襲来に就ての研究」『史学雑誌』29編1号、史学会、1918年1月• 、朝日日本歴史人物事典、記事。 『明治演劇史』.

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