ディエン ビエン フー の 戦い。 ディエン・ビエン・フーの戦い フランスの圧政と収奪

ディエンビエンフーの戦い(ディエンビエンフーのたたかい)とは

ディエン ビエン フー の 戦い

いきなりひっくり返しますが、ディエン・ビエン・フーに建設された物は本来の意味での要塞ではありません。 一般に言う要塞とは「永久築城」とも呼ばれる、恒久的施設の集合体のことです。 作るのに大量の資材が必要になるので、軍隊の機動力が向上した第二次世界大戦後はあまり作られなくなりました。 一方、ディエン・ビエン・フーにフランス軍が設けた物は陣地 本来の意味での要塞に対して「野戦築城」と呼ばれる の集合体に過ぎません。 両者の違いですが、大雑把に言えば永久築城は砲撃されても平気なように作ります。 野戦築城は多少の砲撃には耐えられても、それ以上は味方の対砲兵射撃や一時退避などで凌ぐようになっています。 攻撃側が大量の火砲を集中した場合には耐えられません。 そうするには大量の資材が必要になって、現実的ではないからです。 もちろん、手間暇かけていいとか、攻撃側の火力が強力なのが想定される場合、強度を上げることはあり、実際にたとえば硫黄島での戦いの日本軍の築城は相当に堅固な物でした。 ディエン・ビエン・フーの場合、フランス軍はそもそも空輸でしか物資が送り込めないので、そんな堅固な築城は不可能でした。 また、想定していた攻撃側の火力はせいぜいで迫撃砲レベルでした。 実際にはベトナム側は対空砲を含む大量の火砲を持ち込むことに成功しています。 で、極論すれば敗因はそれだけであって、他の理由はすべて枝葉末節です。 一応、戦いの背景も説明します。 なんであんな場所に「要塞」を作ったかというと、 1. フランス軍がゲリラを追いかけて攻撃しても山岳地帯に逃げられてしまう 2. ベトナム側はラオスなどを通るルートで支援されている 3. ナサンの戦い()で、航空補給を受けた陣地で攻撃の撃退に成功した という3つの要素によります。 最後の物が特に重要です。 の追撃戦の失敗に対して、ナサンではフランス軍は陣地に孤立していましたが、空輸でこれをささえ、それどころかこれを正面攻撃してきたベトナム側の兵力に大損害を与えることに成功しています。 そこで、ゲリラ側が出てこざるを得ない補給路の要衝に進出して攻撃を強要して撃破しよう、と考えたのです。 そういうわけで、戦時中に日本軍が設営した滑走路が残っているディエン・ビエン・フーが選ばれました。 ですが、フランス空軍は必要な空輸能力がないと言って作戦に反対しており によればJean Dechaux将軍とJean Louis Nicot大佐 、陸軍が「滑走路を完璧な状態に保ち、敵火砲から脅かされない場合」のみ、必要な1日100トンの補給を供給できる、としていました そのせいでフランス軍陣地の配置がいろいろおかしくなります。 また、ナサンの先例から、作戦はせいぜい2,3週間で終わり、しかも本格的な戦闘は数日で終わると踏んでいました。 ですので、最初に言ったとおり、フランス軍は恒久的な要塞ではなく、あくまでも作戦上の必要で数日で作って、戦闘が終わったらすぐに放棄するような陣地を作るだけのはずでした。 で、実際には1953年11月20日にフランス軍が進出しますが、本格的な戦闘が始まったのが翌年の3月13日、戦闘終了が5月7日なので、見積は大間違いでした。 しかも、ベトナム側の攻撃開始早々に滑走路は使用不能となっています。 これは当然で、ナサンから教訓を得ていたのはベトナム側も同様であり、「飛行場を何とかしないと無理だ」とちゃんと認識していました。 そこで、同じ失敗を繰り返す代わりに、中国から援助を受け、必要な火砲と弾薬を人力で持ち込んで、強力な砲兵戦力を展開することに成功していました。 そんな展開をフランス軍はまったく予期してなかったので、ある意味で端から勝負は付いていました。 2ヶ月弱の以降の戦闘は、ある意味ではフランス軍の誤断の単なる確認作業でした。 陸上に大きな要塞を作っても難攻不落を誇ることは 難しいことを 第二次大戦、フランスじしんが経験しました。 ドイツとの国境地帯に作ったマジノ要塞が、まったく効果が なくドイツ軍はフランスに侵攻して征服されました。 脱線しましたが、フランスはインドシナ植民地を続けようと 幾つもある独立派武装勢力を みな、やっつけようとして いました、フランスは戦う敵が多過ぎたのでした。 そのフランスの敵たちは、ある派はソ連や中国の支援を受け ある派は米国の支援を受けていました、また、これら ゲリラのような武装勢力の中でも最も精強だったのは ホーチミン率いる、抗日武闘時代から戦い続けていた 共産主義武装勢力で、優れた指揮官グエン・ザップが 率いた戦力は、フランスの 脆弱な補給戦隊を徹底的に 叩き、フランスの精鋭戦力は出来るだけ回避して 遭遇しないように戦術で進めて仏軍のスタミナを奪っていき 反撃に転じる戦術でした。 ヘリコプターというのは黎明期はフランスが進んでおり フランスは戦闘にヘリコプターを多用していれば 補給輸送の面で、ゲリラ襲撃の回避は少し出来ていた だろうということです。 どんな要塞だったか?という点ですが… ・40門以上の大砲、2ヶ所の飛行場、兵力1万6200名から成る大要塞 だったそうです。 ・同地はハノイから300km離れた山間部の盆地であり、要塞までは悪路しかなく戦闘が激化すれば空中補給にしか頼れないような場所でした。 ・ディエンビエンフーは周囲を山に囲まれた盆地だったので、フランスは大砲・ロケット砲・対空火器による砲撃を不可能と考えていたのですが、ベトミン軍はそれら野砲を人海戦術で盆地周囲の山上に引き上げ、要塞を砲撃することに成功しました。 そして砲撃により滑走路を占領されたため、要塞守備軍は空中補給を受けられなくなりました。 ・ベトミン軍の装備は貧弱と思われていましたが実はべトミン軍は大口径の野砲を持っていました(中国共産軍が雲南経由で国民党軍から奪ったアメリカ製の105mm野砲をべトミン軍に供給、またべトミン軍自体も戦後に日本陸軍から接収した分解可能な75mm山砲を持っていたと言われています)。 ・そのままですが、どんな強力な要塞でも敵が次から次に現れれば対処し切れません。 また外人部隊が多かったためそもそも兵隊の指揮も低かった。 以下に参考サイトなど。 個別の陣地の陥落の経過などが詳しく書かれております。

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メコンプラザ情報DB:ディエン・ビエン・フーの戦い

ディエン ビエン フー の 戦い

1955 アメリカ 監督:デヴィット・バトラー 出演者:ジャック・セルナス、ペーター・ヴァン・アイク、クルト・カッツナー、パット・ブレイクほか 93分 モノクロ JUMP INTO HELL 1954年、インドシナのディエン・ビエン・フーを巡るベトミンとフランス軍の戦いを描いた戦争アクション映画。 当事国ではないアメリカが制作したもので、ややヒーローアクション的要素があるものの、比較的シリアスな佳作である。 ディエン・ビエン・フーの戦いは植民地支配国であるフランスが大敗を喫した歴史的な戦闘だが、「 1992仏 」「 2004越)」など数は決して多くない。 前者は著名な作品だが、後者はちょっとピントはずれな作品である。 そういう意味でも貴重な作品だが、何と言っても制作年が1955年と実にリアルタイムなのが興味深い。 戦闘の考証がまだなされているとは思えない時期で、ストーリーや設定的にはいささか?な箇所もあるが、それを超越する新鮮さがそこにはある。 ディエン・ビエン・フーの戦いは1954年3月に行われた激戦で、フランス植民地インドシナ(現ベトナム領内)のフランス軍防衛拠点であるディエン・ビエン・フーを巡ってベトミンと 57日間の戦いを行っている。 ベトミンはフランス軍の防衛拠点を包囲して補給線を絶ち、フランス軍は危険な空輸に頼らざるを得なくなっていく。 基地内には多くの外人傭兵を含む約16,000名が駐屯し奮戦するが、圧倒的な人海戦術に勝るベトミンの大攻勢により多くが戦死し捕虜となった。 その問題点にはフランス軍上層部の無能さと政治的・外交的ミスなど色々あるのだろうが、ディエン・ビエン・フーの戦いでは孤立無援で玉砕覚悟の奮戦が光っている。 この戦闘は自由陣営対共産陣営の戦いでもあり、ベトミンの支援に中国人民軍将校やソヴィエト軍兵器が描かれている。 この辺りは朝鮮戦争で苦渋をなめたアメリカの反共産的な意味合いが強く表れている様な気がする。 ストーリー的にはやや設定が甘い箇所が多いのが気になる。 防衛拠点の状況や、追加派遣のシステムや理由がややわかりづらいので、緊迫感にやや欠ける。 また、登場する主役級の兵士は4人のフランス人士官で、個々の兵士らの性格付けはなかなか面白い設定ながら、いざ戦場となると心情描写が中途半端になってしまい、ラストに向けての心情移入がしずらかった。 さらに、最前線での緊迫した雰囲気という点では、主たる兵士である外人傭兵が余り登場せず、フランス人士官との互いの考え方の違いや確執はほとんど描かれていないのが残念。 それに加え、アメリカ映画らしく意味のないラブロマンスを絡めてしまっているために、ストーリーの盛り上がりや起承転結のバランスが悪い。 内容的には玉砕覚悟の鬼気迫る奮戦なだけに、かなりもったいない感じがした。 映像はモノクロでちょっと見にくい箇所もあるが、戦闘シーンは米軍所有と思われる実機が登場するなど迫力はある。 記録映像も入っているかも知れないが、グラマンF8Fベアキャット、C-47スカイトレイン輸送機、C-124グローブマスターII輸送機、シコルスキーH-19ホワールウインドヘリなどの航空機のほか、M4シャーマン戦車も登場している。 このあたりの兵器類は実際にインドシナ戦争で使用されていたようだから、映像的にはかなりリアルなのだと言えよう。 作品のトータル的な出来具合から言うと、まあまあなのだが、その評価以上に本作はレア性を持ち合わせている。 ディエン・ビエン・フーでのフランス軍の大敗を違った角度から見ることが出来る作品なのであった。 前線でフランス軍のダーブレイ大尉は捕虜を捕らえてハノイの司令部に送る。 尋問の結果、うち一名がベトミン第17対空連隊付の中国人民軍の中尉であることが判明する。 彼はベトミンのザップ将軍ら4万人が囲んでいることを語り、フランス軍の内部についての情報も持っており、内通者がいることがわかる。 内通者はアジア系の傭兵タック中尉で、タック中尉は「腐ったリンゴ作戦」として空中から敵陣に落下傘効果させられる。 いよいよ大攻勢が迫っていることがわかり、兵員増派のためディエン・ビエン・フー最前線の指揮官クリスチャン・デ・カストル大佐はボネ少佐に命じて、4名の士官を写真持参で呼ぶように命じる。 フランス軍の前線防衛拠点はそれぞれ女性の名前が付けられていたのだ。 フランス本国で事務についていたガイ・ベルトラン大尉は、第二次世界大戦の復員兵だったが、ドイツでの捕虜生活を2年送っただけだった。 インドシナ派遣の情報を聞き、自ら志願する。 ハノイには恋人のジゼルがいたのだった。 ベルトラン大尉は米軍機に乗りハノイに向かうが、途中で小太りで美しい妻のために志願したジャン・カロ大尉、モロッコで軍隊経験があり恋人のジャクリーヌを置いてきたハインリッヒ・ヘルマン中尉、全くの未経験だが共産主義に怒りを覚えるアンドレ・モーパン中尉が合流する。 ハノイでは敵の攻撃により着陸時に炎上。 危険なために荷物だけが先に前線のディエン・ビエン・フーに降りる。 そこで開けられた荷物の中から妻のジゼルの写真が出てきてボネ少佐は驚く。 ハノイ司令部では増派部隊の落下傘降下を決定。 4人も迷わず志願する。 その晩ベルトラン大尉はジゼルと会うのだった。 落下傘降下では敵の攻撃を受け、カロ大尉が肩に軽い負傷を負う。 ベルトラン大尉はモネ少佐と面会し、口論となる。 モネ少佐は妻を愛していないのに離婚せずにいるのだ。 カロ大尉は救護所で瀕死の負傷兵リゴールを見て、自分の怪我が恥ずかしくなる。 モーパン中尉は早速孤立した拠点マドレーヌへ救援に行くことに。 モーパン中尉は拠点に着くもマドレーヌのダーブレイ大尉は重傷を負っていた。 モーパン中尉は機転をきかせてなんとか脱出に成功する。 敵の大攻勢を前に運よくモンスーンが来る。 しばらくの間時間を稼ぐことが出来るのだ。 この奮戦により大佐以下の12,000名に戦功十字章が与えられ、大佐にチャーチルやアイゼンハワーから電話が入り、准将に昇進する。 お祝いに空輸でシャンパンを届けさせるが、敵陣に落ち、なんとか取り戻す。 准将のいる基地内にフランス兵に化けた偽物のベトナム人が潜入。 爆弾を仕掛け銃撃してくるが、ヘルマン中尉が身を張って爆弾を処理し、准将は助かる。 ヘルマン中尉はレジオン・ド・ヌール勲章を得る。 また、献身的な軍医リロイ大尉にも名誉勲章が与えられる。 基地内の水不足が顕著になり、基地の外に水を確保する任務にカロ大尉が志願する。 カロ大尉の妻シモーヌは浮気をしており、それを知ったカロ大尉は死亡保険の受取人を妻から、死んだ兵士リゴールの6歳の娘の名義に変えようとする。 それが昇任されるためには書類が無事に基地からハノイに届くことが必要であった。 カロ大尉は水を汲みに行くが撃たれて死亡する。 死に際に書類を乗せたヘリが飛び立っていくのを確認する。 ボネ少佐の隊は孤立し、ボネ少佐は降伏しようとする。 しかし、敵に撃たれて負傷。 ベルトラン大尉がそれを救出するが、基地に着いたときには事切れていた。 いよいよベトミンの大攻勢がはじまり、掘られたトンネルから次々に出てくる。 拠点は次々に陥落し、最後の抵抗を続けるのだった。

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ディエンビエンフーの戦い

ディエン ビエン フー の 戦い

1954年のジュネーヴ会議は、同年、ディエン・ビエン・フーの戦いに敗れた宗主国フランスの植民地ヴェトナムからの撤退と、北緯17度線でのヴェトナム南北分断を決議し、2年後に再統一のための選挙を実施することを確認する。 まもなくして、南のサイゴンは、ゴ・ディン・ディエムの非共産主義政府が、北は、ホーチミン率いる共産主義勢力が押さえた。 サイゴン政府は、アメリカの助言と援助に頼り、ディエム政権の維持は、東南アジア地域における合衆国の反共政策の一環となる。 結局、選挙は実施されず、南北の分断は深まり、次第に対立へと向かっていった。 1950年代末以来、オーストラリアは、東南アジア条約機構SEATOに基づき、南ヴェトナムに援助を送っていたが、1962年に、アメリカがヴェトナムへの兵力結集を開始すると、30人の軍事顧問を派遣し、さらに64年には、軍事顧問50人および輸送機6機を派遣する。 そして、1965年に合衆国が北爆を開始すると、ロバート・メンジーズ首相は、1,500人の地上軍の派兵を決定した。 翌66年には、ハロルド・ホウルト首相が、訪米中に行った演説のなかで、「どこまでもLBJ L・B・ジョンソン大統領 とともに」と述べて、アメリカ支持を表明した。 オーストラリア軍は、同年には4,500人に増強され、翌67年には最高の8,000人を数えた アメリカ軍525,000人、韓国軍50,000人、タイ軍2,500人、ニュージーランド軍500人、また、フィリピンも軍を派遣する。 最も激しい戦闘は、1966年のロン・タンLong Tanにおける戦いで、オーストラリア兵18人が死亡した。 ヴェトナム戦争を東南アジア地域への共産主義中国の拡大を阻止する戦いとみるメンジーズ首相の冷戦的解釈は、オーストラリア国内で広く共有され、1968年までは、世論の大勢は戦争を支持した。 しかし一方では、反戦運動の動きもみられ、その焦点となったのが徴兵問題である。 1964年に導入された徴兵制度は、20歳以上の男性の兵役リストへの登録を義務づけ、労働党党首アーサー・コールウェルが「死のくじ引き」と呼んだように、毎年、タッタソル格子縞模様の樽の中からビー球を取り出すかたちで抽選が行われた。 1965年から、セイヴ・アワ・サンズSave Our Sonsという女性グループが、反徴兵運動の先鋒となる。 戦争が長期化するにつれて、1968年頃から急進的学生運動が活発となり、残虐シーンが頻繁にテレビで放映されるようになると、反戦運動は高まりをみせた。 1970年には、モラトリアム・キャンペーンの下、最初の全国デモが行われ、150,000人が参加した。 こうした動きのなか、1969年からアメリカ軍が撤退を始めたこともあって、オーストラリア軍も、翌70年に撤退を開始する。 1972年末には、現地に残っていたオーストラリア兵は、わずか179人となる。 そして、ゴフ・ホイットラム首相は、全軍の撤退と徴兵制の廃止を決定した。 およそ5万のオーストラリア人が投入され 陸軍42,000人、空軍4,500人、海軍3,000人 、約450人が戦死し、約2,400人が負傷した。 1973年に、アメリカ軍もすべて撤退し、75年に、北ヴェトナム軍の侵攻でサイゴンは陥落し、戦争は終結した。 宮崎章00.

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