行人偏に正しい。 2016

知性と直感について: 世界平和の祈り

行人偏に正しい

A ベストアンサー 以前、漢字検定を受験した事のある者です。 部首については、辞書によって名称や属する部首が異なる事があります。 それは辞書の編集者の意図によるものです。 漢字検定を実施している日本漢字能力検定協会では、部首については「康煕字典」をよりどころとして決めています。 康煕字典による「全」の部首は入(いる)です。 また、「男」の部首は田(た)となります。 私も部首の学習では頭を悩ませました。 私の場合は協会が発行している「漢字必携」という本で部首を学習しました。 (10年位前の書籍なので現在同じ名称かどうかはわかりません)部首については例外的な分類があったり、漢字そのものが部首だったりと、法則性に乏しいので一つ一つ確実に覚えていくのが賢明ではないかと思います。 あとは、問題集でより多くの部首の問題を解いていくのも効果的です。 ご参考までに。 A ベストアンサー エクセルのバージョンがわかりませんがエクセル2007の場合、エクセルを起動して「挿入」>「図」>入れたい画像を選ぶ で入れられました。 ocn. htm ここに色々ソフトがあります。 ただ、新らしいソフトを使うということで、そのソフトの使い方になれる必要はあると思います。 A ベストアンサー そもそも「おおざと」と「こざと」では、それぞれの文字の起源が違い、まず「おおざと」があって、これに対して「こざと」という言い方になったようです。 中にふさぎこめるの意を含む。 のち阝(おおざと)の形となり、町や村、または地名に関する漢字の部首となった。 「こざと(阜)」は、 もと、ずんぐりとした形に土を積み重ねたさまを描いた象形文字。 従って、ずんぐりとした形にふくれたおかのこと。 現在は、双方とも似た文字(阝)になっていますが 「おおざと(邑)」の名称は、大きな村里の意を文字通りに示すのに対して、 「こざと(阜)」の名称は、「おおざと(邑)」に対して付けられました。 阝の部首(旁ツクリ・扁ヘン)の位置関係ではないのです。 A ベストアンサー 抜粋です.「普通自動車免許」ですね. 「第一種運転免許」はありますが,「普通自動車第一種免許」や「第一種普通運転免許」とは言わないようです.第二種の場合は名称に入り,「普通自動車第二種免許」のように言うようです. -------------------- 道路交通法 第六章 自動車及び原動機付自転車の運転免許 第八十四条 自動車及び原動機付自転車(以下「自動車等」という。 )を運転しようとする者は、公安委員会の運転免許(以下「免許」という。 )を受けなければならない。 2 免許は、第一種運転免許(以下「第一種免許」という。 )、第二種運転免許(以下「第二種免許」という。 )及び仮運転免許(以下「仮免許」という。 )に区分する。 3 第一種免許を分けて、大型自動車免許(以下「大型免許」という。 )、普通自動車免許(以下「普通免許」という。 )、大型特殊自動車免許(以下「大型特殊免許」という。 )、大型自動二輪車免許(以下「大型二輪免許」という。 )、普通自動二輪車免許(以下「普通二輪免許」という。 )、小型特殊自動車免許(以下「小型特殊免許」という。 )、原動機付自転車免許(以下「原付免許」という。 )及び牽引免許の八種類とする。 4 第二種免許を分けて、大型自動車第二種免許(以下「大型第二種免許」という。 )、普通自動車第二種免許(以下「普通第二種免許」という。 )、大型特殊自動車第二種免許(以下「大型特殊第二種免許」という。 e-gov. cgi? )を運転しようとする者は、公安委員会の運転免許(以下「免許」という。 )を受けなければならない。 2 免許は、第一種運...

次の

知性と直感について: 世界平和の祈り

行人偏に正しい

とある宗教紙から寄稿依頼を受けて書いたのですが、内容が過激ということで掲載されなかった原稿です。 ここで何度も扱った「観勢寺問題」を中心に書いています。 「観勢寺問題」について知りたい方は、、、、そして、先日のでご参照ください。 ここに載せる文章は観勢寺問題が明らかになってからかなり早い時期に書いたものですから、今は状況が変わっていることもありますし、何より多少頭に血が上っていたので、今思うとここまで書かなくても良かったのでは無いかと思う部分もあります。 しかし当時の正直な思いですから、そのまま載せることにしました。 実際には周囲の住職さんの中には、この問題を深刻に受け止めて誠意を持って動いた方もありますし、本願寺派という教団も無策ではありませんでした。 しかし最終的には寺の譲渡を決めた観勢寺の住職さん自身が持つ本願寺派への不信感が、親鸞会の支援を選んだのだと私は思わずにはおれませんでした。 その背景に何があったのか。 観勢寺の住職さんに直接に話を聞く事が出来ない以上本当のことは分かりません。 私も真宗大谷派という教団に不信を抱くことはありますが、やはり最後の最後は信頼できるサンガだと思っています。 他の多くの住職さんもそうでしょう。 私はこの問題をずっと見つめてきました。 しかし所詮は第三者でした。 何が出来たのか。 どうすれば良かったのか。 まだ答えは出ません。 一つだけ深く懸念しているのは、お寺という存在が、沢山の人が集うとか、地域の役に立つとか、そういう方向性でばかり評価されているように感ずるということです。 今も私のいる宗派では様々な寺院活性化のための施策がなされていますが、朽ち果ててゆく寺の面倒を最後まで見て支えるような内容は見当たりませんし、そもそもお寺にある程度の「余裕」が無ければ参加も出来ないような物ばかりになっています。 それが続く以上、「見捨てられた」と失望して宗派を去る困窮寺院はこれからも出てくるでしょう。 地域住民は反対の姿勢を取り、今も関係者によって協議が続いている。 浄土真宗親鸞会(以下親鸞会)は若年層への正体を隠した勧誘や、傘下のビデオ販売会社によるアニメビデオの訪問販売などで知られている教団で、二〇一〇年には一部の信者に対して「脱会するなら一千万円払え」といった内容の契約書を書かせていたと報道されている。 (週刊ダイヤモンド十一月十三日号)どうしてそんなところに支援を求めたのか。 私はその背景を尋ねるべく現地に赴いたが、そこには深刻な寺院の貧困問題があった。 もともと寺院収入では生計が成り立たないその寺では、先代の住職は会社員としての収入で寺院を支え、退職金を本堂の修復に費やしたりもした。 しかし現住職に継職後は体調の悪化などにより維持することが困難となり、所属教団や地域住民に相談したが引き受け手もおらず、廃寺にするしかない。 ならば活用してくれるであろう親鸞会に譲渡を持ちかけたということだ。 親鸞会への譲渡という話が明らかになった後、周辺寺院の住職はその末寺住職に連絡をとったが、困ったときに助けてくれなかったのにいまさら何を、という反応だったという。 最終的にどうなるかはまだ予断を許さないが、親鸞会への譲渡が実現すれば、彼らは伝統教団の寺院が傘下に入ったことを自らの正統性の根拠とし、布教と宣伝にフル活用するだろう。 そして今後もこの流れは加速する可能性すらある。 事実、親鸞会が食い込んでいる伝統教団の寺院は他にもあるのだ。 今から二年前にはこんな事件もあった、ある真宗大谷派の寺院の集まりの研修会で、親鸞会の布教使が講師として選ばれていたのだ。 当地は昔から仏法の盛んなところであったが、近年過疎の波が押し寄せ、多くの寺院は兼業か年金受給者である高齢の住職が支えている。 そんな中に親鸞会の布教使が進出し各地で法話会を開き住民の気持ちを惹きつけていった。 彼らは傘下のビデオ販売会社をフロントにして活動しており、親鸞会の勧誘活動だとは充分に伝えていなかった。 住民は信徒として所属する寺院住職に、その布教使を研修会の講師に呼んで欲しいと要望し、住職はそれを受け入れた。 親鸞会の布教使とは知らず。 しかし開催前にその情報が入り、私は要請を受け急ぎ現地に向かい住民に事実を説明した。 住民は納得し講師の変更を受け入れたが、一方で私に言うのだ「なら私たちはどこから仏法を聞けばいいんだ」と。 「お寺との付き合いが不要」という売り文句や、定額のお布施の中からキックバックを支払うといった仕組みには疑問を持ったし、普段お寺との付き合いのない人が仕方なしに僧侶を呼ぶサービスとの印象もあったのだが、それはいい意味で裏切られた。 付き合い不要どころか多くの方が継続して法要を申し込まれ、法話をすれば耳を傾けられ、中には近くの別院の法座や、私の滋賀の自坊まで来られる方も現れた。 そんな折、同じ僧侶仲間からその僧侶派遣サービスの紹介を請われた。 彼は住職として地方の末寺を預かる一方、平日はサラリーマンとして一般企業で働いて生計を立てていた。 仏法を弘めたいと思いつつもその活動は休日の短い時間に限られていた中、派遣僧侶として働ければ寺院活動をもっと頑張れるのではないかという思いを語っていた。 結局彼は様々な事情から断念したのだが、代々のお寺を維持したいと思っても叶わない人もいるように、僧侶の中には熱心に仏法を求め弘めたいという思いを持っていても、経済的な事情からそれが叶わない人がいる。 そしてそういう人に伝道の機会を与える仕組みを用意することを伝統教団は充分にしてこなかった。 今や事実上その役割を担う民間企業に、僧侶が多額のキックバックを払っているのはなんという皮肉だろう。 そこに伝わる場所としての寺院がある。 僧侶がテレビに出たり写真集を出したりして注目され、寺院が主催するイベントや社会活動が耳目を集め、一方では地方の衰退とともに寺院疲弊と消滅が語られる中、このごく根本的な寺院の役割を論じることが抜け落ちているように私は思う。 「お寺を元気に」というセミナーも盛んだが、急激にすすむ過疎化と高齢化の波の中で元気になれないお寺もある。 以前とある研修会で「お寺は元気でなくてもいい、仏法が伝わって救われる人が一人いたらそれで寺院の役割は充分です」と話したところ、終了後参加していた一人の僧侶からこう言われた。 「元気なお寺にならなければとずっとプレッシャーを感じて苦しんでいた」「私一人が救われる場所がこのお寺だった」と。 寺院の持つ根底の役割が語られない中、経営や社会的な役割といった尺度ばかりが寺院活性化の根拠として論じられているように感じられる。 経済的に成り立たない寺院は価値が無く、そこではもはや法は伝わらないと思われているのだろうか。 そしてこの格差はなぜか不思議なほど問題視されない。 経済的に恵まれた寺院が、困窮する寺院を支援するという試みすら聞かないのは不思議としか言いようがない。 いまは本山建物の修復や教団施設の建設ラッシュで、最近も阿弥陀堂の修復が完了し絢爛たる威容が姿を表した。 他にも百数十億の予算を組んで振興計画を推進する伝統教団もある。 この現実を見て思い出すのが、手塚治虫の「火の鳥・鳳凰編」という漫画の中の一シーンだ。 大仏建立の資金集めのために諸国を回る僧、良弁の前に、年貢米を運ぶ村人が飢えて倒れるシーンがある。 随行する主人公の我王は「お経をあげなくていいのですか」と問うが、良弁はお経を読んだって一文にもならんと拒否する。 「そんな…ばかな。 じゃあ、坊さまや寺はなんのためにあるのです?」 「残念ながらちがうな。 国分寺が全国に立ち、立派な大仏が作られる…みんな政治のためだ。 お上が庶民に重い税を払わせだまって従わせるために、仏教を広めてごまかしとるんじゃよ。 どうだがっかりしたか?」(手塚治虫『火の鳥・鳳凰編』) 仏法を伝えなければ寺院は消滅すると言う人はそれなりにいるが、たとえ寺院が消滅しても仏法を伝えたいという声はあまり聞かない。 教団が中央に巨額の資金を集める一方で、困窮する寺院をいとも簡単に見放すのならば、私たちは未来に一体何を残せるのだろうか。 最初に書いた末寺の、親鸞会への譲渡における住民説明会が開かれた際、説明に訪れた親鸞会の幹部は、本願寺派から「見捨てられた」その末寺を自分たちの「正しい教え」の布教の拠点として使うと断言し、「東西本願寺が正しい教えを説いていれば、私達のところにこんなにたくさんの人が仏法を聞きに来るはずがない」と鼻息荒く豪語した。 親鸞会が「正しい教え」とやらを説いているならなぜ正体を隠して勧誘するのか。 そのあまりの夜郎自大ぶりに参加していた住民は苦笑したが、私たちはそれを笑えるような立場にはない。 むしろ、この出来事で提起された課題に真剣に向き合わなければ未来はない。 本山が末寺を見捨てるというのは理解できません。 本山が本山としての機能を有していないというのか、ちゃんと本山の役割を果たしていないというのか。 キリスト教の場合は、本山のあるカトリックを例にとると、教会は独立採算ではなく、教区ごとに集めて、それを個々の教会や聖職者に分配するシステムです。 たとえば日本最大のキリスト教会である聖イグナチオは、信者数が一万五千人近いと聞いています。 もちろんここは東京教区にとってはドル箱です。 一方で、同じ東京教区でも千葉県の田舎のほうの教会はかなり小さく、ミサに十人くらいしか来ないなんてところもあります。 つまり大きいところから小さいところへと、結果的に支援がなされるシステムが自然と構築されているわけです。 仏教はなぜカトリックのようにやれないのか?---まずここから考えてみるべきなのかもしれませんね。 投稿: 2016年5月27日 金 20時50分 浄土真宗の開祖、親鸞聖人の教えを広めた蓮如上人と、その弟子たちとの物語を描くアニメーション映画『なぜ生きる』が公開される。 原作はベストセラー書籍「なぜ生きる」で、蓮如上人の声をあてたのは『長七郎江戸日記』『水戸黄門』など多くの代表作を持つベテラン、里見浩太朗だ。 キャリア60年を迎えた里見だが、意外なことにアニメ声優はこれが初。 「常にデビューですよ」とほほ笑む姿からは、あくなき探究心が伝わってきた。 意外です。 これまでにもオファーはあったと思うのですが。 里見:オファーはこれまでありませんでしたね。 初めてだからこそ、やってみたいと思いました。 アフレコという作業はこれまでに、自分自身の映像に合わせて、雑音などでセリフが聞き取れない箇所などに声を入れなおす作業はしてきています。 ただそれは1度自分がやった芝居に合わせているわけです。 アニメの場合は、自分ではない。 自分がアニメの感情に合わせる。 その辺の難しさはありましたね。 でも楽しかったですよ、ええ。 蓮如上人はどのような人物だと感じましたか? 里見:ええ、初めてでした。 蓮如上人についてはね、何も考えることはないです。 ちゃんと台本に蓮如上人という人の優しさ、大きさが書かれていますから。 私がやるのは、それを声でいかに最大限に表現できるか。 難しいですけれどね。 人間が生きていくうえで何が大事なのか、何を感じて行動すればいいのか、その辺の魅力が蓮如上人の言葉に出ています。 『なぜ生きる』の魅力はそこにあると思いますね。 moviecollection. html? 信心一つが肝要という事も同じです。 どうすれば信心を受け賜る事が出来るのか? 自力を捨てて他力の信心を賜るという事も同じです。 善の勧めで対立していると言いますが、本願寺も善を全然する必要はないなどとは言ってません。 往生には必要ないという事を強調しただけです。 信心を獲る為には宿善が必要という事も同じ見解です。 宿善開発して後生に驚きが立つまで聴聞せよ。 後生に驚きが立てば後は阿弥陀様にまかすのみです。 本願寺も親鸞会も対立などせずに同じ教えです。 親鸞聖人の教えだからです。 法論によりお互いに真実が顕かになっていくのです。 法論は必要です。 でも、勝った負けたと喧嘩の様に勘違いして持論を押し通す輩とは法論にはならないので、飛雲氏は申し込んでも除外されてしまいました。 当然の事です。 投稿: 2016年5月29日 日 20時16分 >後生に驚きがたつのですか? 後生に驚きがたつ必要があると仰った根拠は? それが善についての答えです。 蓮如上人はこう仰っています。 それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、 また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほ かには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜ ず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当を つぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内 心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころ をばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土 に往生すべし。 信心の有無に関らず、法律を本とし他宗を謗らず、仁義という倫理道徳の善に心がけなさい。 後生のため、往生のためには、阿弥陀仏1仏になって、善に心をとどめず、そのことを疑いなく信じたならば、必ず往生できますよ。 投稿: 2016年5月29日 日 20時41分 あなたの主張には根拠がないことがハッキリしました。 ではあなたにもわかる根拠を出しましょう。 法然上人のお言葉 「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。 其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。 しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。 しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。 かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。 」(勅修御伝) 善知識方から伝えられたことを無視して浄土の教えは理解できないし往生もできない。 その理由は、浄土往生は上は龍樹・天親菩薩から、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まで勧められているからだ。 ところが自分は最下の凡夫なのに、善人に勧められた御文をみて、卑下の心をおこして往生は難しいと思って、往生できない。 だから、善人に勧められた所を善人のためのもの、悪人に勧められた所を自分のためのものとしていきなさい。 そのように理解していけば、信心決定し、往生できる。 もう一度 「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。 かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて」 投稿: 2016年5月29日 日 21時21分 私の質問に対する答えが >聖道門---自力で悟りを拓こうと修行している人 >19願の人----阿弥陀仏の本願に救われようとして善をやっている人 >20願の人----自力一杯に他力で救われようと思っている人 >18願の人----宿善開発して他力の信心を頂いた人 ですか。 私が言った通り、根拠は出せませんでした。 単なる妄想だとハッキリしましたね。 こんな妄想が真宗で通用しますか? 添削するとこうなります。 聖道門---自力で悟りを拓こうと修行している人 19願の人----浄土に往生しようとして善をやっている人 20願の人----浄土に往生しようとして自力の念仏を称えている人 18願の人----浄土に往生しようとして他力の念仏を称えている人 投稿: 2016年5月29日 日 21時26分 >ここでいう善人も悪人も全部我が身自身の事を言っているのです。 という根拠もないですね。 妄想です。 「其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。 」 と 「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。 」 は対応しています。 善人とは龍樹・天親菩薩のような方 悪人とは末世の凡夫十悪五逆の罪人 我が身が善人だと思うから 「善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。 」 と救われない訳ですよ。 親鸞会の会員が救われない理由がわかりましたよね。 これは違います。 親鸞聖人は、源信和尚の「往生要集」のうち「救いの立場」からの説示のみに注目されています。 「極重悪人唯称仏」とは、悪人が弥陀に救われる様をいった部分であり、衆生が阿弥陀如来の本願に救われた姿を述べています。 すなわち、親鸞聖人は他力廻向の視点でのみ「往生要集」を見られたのであり、自力の要素は、聖人の著作の上からはまったく認められません。 信心一つが肝要という事も同じです。 どうすれば信心を受け賜る事が出来るのか? 自力を捨てて他力の信心を賜るという事も同じです。 善の勧めで対立していると言いますが、本願寺も善を全然する必要はないなどとは言ってません。 往生には必要ないという事を強調しただけです。 信心を獲る為には宿善が必要という事も同じ見解です。 宿善開発して後生に驚きが立つまで聴聞せよ。 後生に驚きが立てば後は阿弥陀様にまかすのみです。 本願寺も親鸞会も対立などせずに同じ教えです。 親鸞聖人の教えだからです。 法論によりお互いに真実が顕かになっていくのです。 法論は必要です。 でも、勝った負けたと喧嘩の様に勘違いして持論を押し通す輩とは法論にはならないので、飛雲氏は申し込んでも除外されてしまいました。 当然の事です。 善については、こちらの方と同じ見解です。 こちらで高圧的な方が飛雲氏でしょうか。 投稿: 2016年5月29日 日 22時39分 Q.真実の信心とはなんですか? A.善では助からない、念仏1つで助かると信じた心 根拠 二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。 自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。 いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。 ゆゑに深心と名づく と。 (行巻・信巻) 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。 信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。 また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。 されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。 (御消息) 投稿: 2016年5月29日 日 22時52分 >ここで、称名といわれるのは本願に救われた、信後の称名念仏であり、信後の報謝の称名念仏のことを言われているのです。 >具体的な往生決定の身になるための方便を示しているご文ではありません と根拠なし。 念仏往生の願ですよ。 念仏を称えて往生する願ね。 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。 (御消息) 信じた後に念仏称えるとは書いてないです。 「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふる」なので、信心と念仏と一体。 もう一度、信心とは 「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」 投稿: 2016年5月29日 日 23時22分 へ~、親鸞会は飛雲を読んで大量に退会している現状を放置しているということね。 飛雲を読むような奴は、無間地獄に堕ちてしまえばいいと。 親鸞会にとって、会員数を減らす最大要因だから、高森会長や多くの講師部員が法論をして全敗したことも記録として残っていますが、オレは負けていない相手にしていないって、相当痛いね。 たとえばミクシィでの法論は、高森会長の大惨敗だったでしょ。 だから、逃亡だけではなく、トピック自体を消去させたんですよね。 証拠隠滅をはかったものの、大きな話題になっただけに、いろいろなところに法論の内容が残って、消すことができないのですがね。 それで悔し紛れに『なぜ生きる2』なんて出したけど、アマゾンのレビューでぼろくそに書かれ、反論もできず、『なぜ生きる2』の宣伝もまともにできない状態じゃない。 都知事の良い訳よりもみっともない。 昨日の件は、聞いております。 法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。 内容は以下の通りです。 昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。 しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。 かつて親鸞会は公約していた筈です。 「親鸞会は公約しています。 親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。 相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。 」 これが口先だけであったとは、言わせません。 私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。 一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。 親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。 1.獲信していない人の死後はどうなるか 親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生) - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - 高森会長 必堕無間 2.五逆罪・謗法罪について 親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている 3.善人と悪人について 親鸞聖人 善人と悪人とがいる - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である 4.獲信のために善は必要か 親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない 5.白道とは 親鸞聖人 自力の心にあらず - - - - - - - - - - - - - - 高森会長 自力 6.定散二善について 親鸞聖人 定散二善を捨てよ - - - - - - - - - - - - - - 高森会長 定散二善をせよ 7.19願について 親鸞聖人 19願を捨てよ - - - - - - - - - - - - - - 高森会長 19願を実践せよ 8.宿善について 親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - 高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない 9.機の深信について 親鸞聖人 自力では出離できない - - - - - - - - - - - - - - - - - - 高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる 10.善知識に無条件服従しなければならないか 親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 高森会長 善知識に無条件服従せよ なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。 なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。 目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。 人の話聞かないのは親鸞会のことだよね?分かりやすいブーメランだな 笑 飛雲氏が事前にルール伝えても絶対に守らず、論点ずらしばかりで法論の土台にも立っていないのが親鸞会でしょ。 見ていて痛々しいよ 〉論破した話ではないので何回も同じ問題が出てくるのです。 mixiでの三願転入法論も、WさんやKさん、京大出身のMさんや他のMさん、福井のOさんとか、全部敗逃。 今まで親鸞会は飛雲対策にどれだけの労力を使ったかわからないくらいですが、全く効果なしで、法論をすればするだけ親鸞会の前の回数が増えて、退会者も増えるの繰り返しですね。 さすがに学習した高森会長は、飛雲の相手をするなと厳命したそうで。 飛雲さんの相手をしないのではなく、飛雲さんに勝てる見込みが0%なので飛雲さんとは法論できない。 こういうことですね、Wさん。 悔しいのは分かりますが、これが現実なので受け入れないといけませんよ。 投稿: 2016年5月30日 月 15時03分 〉親鸞会はどんな詭弁を使っても、どんな奇想天外な理屈を考えても、それを容易く覆すだけの根拠がお聖教上にあるのだから、法論なんか挑んでも無駄だってことよね。 その通りですね。 親鸞会のメンバーはみんな、そんな簡単にわかるもんかい、何年聞いても分からんもんを、しかも親鸞会を辞めたばっかりのもんが、何を言うか!と、怒ってるんでしょう。 だけどね、簡単に間違いは分かるんですよ。 映画まで作って、字幕に名前まで載せて、国政選挙に出て、別にやりたいならば止めませんよ。 だけど、後で間違いが分かったらどうします? 本当に立ち直れるんですか? そこまで時間とお金と命をかけて立ち直れるんですか? 自分の事だけならば、泣く泣く諦める事もありですが、幹部や上層部は心が保てますか? 間違っていた、と知って立ち直れますか? 心を戻すには、個人差入れても簡単では無いのですよ? あんなに威張り散らした後で、、と自分で思い出して耐えられますか? ゼロに戻して真正面から御聖教に向かう事が出来ますか? 清水の舞台から飛ぶより怖かった、このように言われた方がありました。 投稿: 2016年5月30日 月 19時15分 阿弥陀様の前で同じことを言えますか。 「必堕無間」の味わいが伝えるのがあなたの使命ですか。 南無阿弥陀仏を伝えることを忘れましたか。 一体何をやっているのですか。 -------------------------------------------------------------- 言えます。 断言できます。 南無阿弥陀仏とは、どういう謂れか伝えることを忘れてはいませんか。 どういうものの為に、本願が建立されたかお忘れになってはいませんか。 「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのです。 投稿: 2016年5月30日 月 22時51分 本願寺の人間ならば、自分の教団のテキストを根拠に出すこと自体あきれる。 まるでこの場を借りて試験勉強をしているかのよう。 親鸞会が、内容に問題があり、廃版せざるを得なかった、会報を出してきて、親鸞聖人の言葉よりも会長の言葉を根拠にするのと同じ。 それは通用しない。 --------------------------------------------------------------- 「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのです。 解説はなし。 源信僧都 臨終来迎を誓われたのが19願とだけ仰った。 解説はなし。 法然上人 19願を無視 興福寺 「法然上人は大願である19願を隠すとは何事か」と非難 明恵 「法然上人は諸善を誓われた19願は本願ではないと言うのか」と非難 親鸞聖人 19願は方便の願で、非難している聖道門のために建てられた願と仰った。 覚如上人 諸行往生・臨終来迎を誓われたのが19願とだけ仰った。 解説はなし。 蓮如上人 19願を無視 投稿: 2016年5月31日 火 17時22分 >獲信のための善の勧めは、親鸞聖人にも蓮如上人にも全くありません。 関係ないからです。 釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。 われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。 おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。 恒沙の善根を修せしによりて、いま大願業力にあふことを得たり。 唯信鈔文意 恒沙の善根を修せしによりて、いま大願業力にあふことを得たり。 善は獲信に関係ある。 聖道門の機だけ、とは書いてない。 聖道門の人も含めた群生海、普く諸有海と 要門釈に書いてある。 群生海 すべての人)と普く諸有海(すべての人)が定散諸機なら、 釈迦むに仏、福徳蔵 19願 を顕説して定散諸機を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して定散諸機を化したまう。 既にして悲願有す、「修諸功徳の願」 19願 と名づく(教行信証化身土巻) 投稿: 2016年5月31日 火 17時36分 「極重の悪人は、他の方便なし。 それ以外に極楽往生の方法はない。 獲信の為には定散諸善は要らぬ。 《獲信前の他力の念仏》は、論理的に存在しないので、 《獲信前の他力の念仏》の勧め、なる教えは存在しない。 どちらが正しいかといえば、 「ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」 のお言葉通り、 「極楽へ生ずる為」の方便が《他力の念仏》。 明らかに、《極楽へ往生する為の他力の念仏》が勧められている。 善知識は、 「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」 と勧められているのではない。 【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】 と勧められているのである。 【虎の説法】は決して、 「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」 と勧めることではない。 【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】 と勧めることである。 然るに、わが浄土真宗は、 このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って 十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、 信前の人にも信後の人にも、始終一貫して 信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、 信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、 早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、 直にその通りになれない人もあろうけれども、 それは機の過失であって法門は常に 信因称報の仏意を説き示さなければならない。 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、 どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、 たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに 本当の虎の絵がかけるようになるように、 手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、 或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、 たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、 やがてその真意を諦得出来るようになるのである。 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。 ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。 画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。 そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。 その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて 信心を得る方法には称名せよなどと教えれば あたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。 故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。 (高森顕徹先生著 『顕正』より) 拝読すれば一目瞭然。 【虎の説法】とは、 「始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧め」ること。 「早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧め」ること。 「信因称報の仏意を説き示」すこと。 「たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧め」ること。 いずれも、いずれも、 【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ) と勧めることばかり。 どんな相手にも必ず 【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ) と説き示す。 この【虎の説法】を抜かしてはならないとの仰せである。 「信心獲得せよ」「信心決定せよ」「お礼の念仏称える身になれ」 と、どれだけ説いたところで、 相手が直ちにその通りにはならず、その真意を諦得できないとしても、 だからといって、相手に合わせて、 【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ) と説き示さなくなるようなことは、絶対にあってはならない。 どんな時も失ってはならない説法、あきらめてはならない説法、 常に決勝点「手本」を説く、それが【虎の説法】なのである。 たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、 やがてその真意を諦得出来るようになるのである。 とあるのも、 信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、 早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧め ていけば、やがて他力の信心を獲得するところまで導かれるということであり、 少しも「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」などという意味にならない。 他力の念仏は、獲信の方便ではなく、極楽往生の方便であり、 その他力の念仏一つを勧めるということが、 18願の教えを勧めるということなのである。 投稿: 2016年5月31日 火 17時51分 極重の悪人とは観経に説かれた下品下生の者のこと。 観経疏では 下品共通で この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。 とされ、下品下生を これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命 終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむ るに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず と解説なされている。 過去に善をしてきたことがなく、十悪・五逆罪を造ってきた悪人が、臨終に初めて善知識に遇って、善知識から善を勧められることなく念仏を勧められて往生した これを 「極重の悪人は、他の方便なし。 ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」 (源信僧都・往生要集【念仏証拠】) と仰った。 投稿: 2016年5月31日 火 18時04分 下品下生は、これ五逆の罪人なり。 臨終の十念に罪滅して生ずることを得。 この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。 (選択集) 平生に仏法を聞かず往生しようと思っていない五逆の罪人が、臨終の時に初めて善知識に遇って往生すると教えられた。 『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。 しかるに、臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。 (浄土真要鈔) 存覚上人も、下品の者は、生れてからこのかた仏法を聞いたことがなく、悪しか造っていないのに、臨終になって初めて善知識に遇って善知識から念仏を勧められて往生すると教えられている。 投稿: 2016年5月31日 火 18時19分 「 極悪の人間観 まずはじめに、親鸞聖人は人間をどのように見られたか、聖人によってとらえられた人間とはいかなるものであったか、という問題について考えてみたいとおもいます。 親鸞聖人はご自身を「愚禿親鸞」とよばれただけでなく、「愚悪の衆生」「邪見喬慢の悪衆生」「穢悪の含識」「極重の悪人」というような、悪の字のついた人間の呼び方がたくさんあらわれます。 さらに「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の凡夫」というような、煩悩に泥まみれになった人間の表現も数多く見られ、歎異抄には「地獄は一定すみかぞかし」(「註釈版聖典」八三三貢)とあります。 ですから、親鸞聖人の人間観といえば、「愚かで、罪ぶかくて、煩悩に泥まみれになったもの」といってよいでしょう。 その意味では、親鸞聖人ほど徹底して人間を悪人と見られた人はいないと思われます。 悪に極まりがない、極悪人と見てとられるのです。 しかし、こんないい方が今日現代人にうけ入れられるでしょうか。 親鸞聖人のような人間観がうけ入れられるかどうか、さっそく拒絶反応をおこす人があるのも、あながち不自然なことではありません。 「なぜ、それほどまでに、人間を極悪人あつかいしなければならないのか」「親鸞はよほど自虐性の強い人なかったのか」というような言葉がささやかれるのも、無理なことではないようにおもわれます。 聖人の立場 しかし、いうまでもなく、そういう意見は聖人のおしえを正しく理解している人の言葉ではありません。 誤解というものは、往々にして立場のちがいから起こるものです。 親の言葉が子供に誤解されやすいのも、親の立場が子供に理解されないからです。 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】 1年次「真 宗」p.43 ~ 45 (平成28年度版 5月31日現在) 投稿: 2016年5月31日 火 19時11分 極重の悪人は、他の方便なし。 ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得 本願寺出版社の現代語訳 きわめて重い罪をかかえた悪人に、 この他の手だてはない。 ただ弥陀の名号を称えて、 極楽世界に往生させていただくばかりである つまりは 下品下生の者(五逆の者)について お釈迦様 無善で念仏を称えて往生する 善導大師 無善で念仏を称えて往生する 源信僧都 無善で念仏を称えて往生する 法然上人 無善で念仏を称えて往生する 親鸞聖人 無善で念仏を称えて往生する 存覚上人 無善で念仏を称えて往生する 西本願寺 無善で念仏を称えて往生する これには異論がないようですので、終了です。 投稿: 2016年5月31日 火 20時23分 本願寺は往生浄土のために宿善を求めよ、と一切言っていない。 親鸞会は本願寺の教学に頼り、屈服し、根拠としている。 だから 親鸞会は、宿善を求めなければならないという本願寺の教義から外れた教義を捨てたと言える。 善のススメは消えた。 それとも断章主義を認めるか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 本願寺派の「寺と教団」のテキストに関しては、現在の本願寺教団の根深い問題点を告白する教材として発行されています。 『三、日常生活を中心としたこの世の事をおろそかにする姿勢が強くこの世を積極的に生きようという教学姿勢がない』 「世俗のなかにしか生きることができないのに、世俗の事をいうのは低俗という考え方が強く、世俗の事から目を背けているというのが、私たちではないでしょうか。 この世を生きる事と、「浄土を願う」ことが、ややもすると相反することという教学理解が、私たちの中に、いつの間にか、根深く植えつけられているのです。 この世を力いっぱい生きる、そこに「浄土を願う」ということがあり、「浄土を願う」ゆえに、この世をおろそかにできないのです。 親鸞聖人は、『大信心は則ちこれ、欣浄厭穢之妙術』 「教行信証」「行巻」 「註釈版聖典」211項 と、明らかにしてくださいました。 厭穢とは「この世をいとう、この身をいとう」ことですが、この世をこのまま是としておけない、この身をこのまま是としておけないということです。 ドロドロした人間のいとなみの中で、「浄土を願う」ということは、そこから逃げるということでなく、そのままにしておけなくて、少しでも改めていこうと、ドロドロした現実にかかわっていくことなのです。 皆人はつまらないことで右往左往していると、教義の中に閉じこもって傍観者になっているのでは、み教えを学ぶ姿勢がまったく違っているといわざるをえません。 今一度、現実のこの命をみつめて、この社会に身を置いて、その中で教学しなければなりません。 教学は、私が経文の中に、観念の中に逃げ込む営みではなかったのです。 」 浄土真宗本願寺派 中央仏教学院(西本願寺) 【学習課程 3年次】「寺と教団」 <一、本願寺教団の運動> ~現状と問題点~ (平成28年度版 5月31日現在) ---------------------------------------------------------- 本願寺派教団は、これまで「浄土を願う」ことと関係のある「善のすすめ」をおろそかにしてきたと告白しています。 平成28年度現在のテキストで、おろそかにしてきた、と告白しています。 変わってゆくのはこれからです。 投稿: 2016年5月31日 火 20時41分 極重の悪人は、他の方便なし。 ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得 本願寺出版社の現代語訳 きわめて重い罪をかかえた悪人に、 この他の手だてはない。 ただ弥陀の名号を称えて、 極楽世界に往生させていただくばかりである ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「ただ弥陀の名号を称えて」=「ただ弥陀の名号を称える身となって」 「親鸞聖人は、源信和尚の「往生要集」のうち「救いの立場」からの説示のみに注目されています。 「極重悪人唯称仏」とは、悪人が弥陀に救われる様をいった部分であり、衆生が阿弥陀如来の本願に救われた姿を述べています。 」 浄土真宗本願寺派 中央仏教学院【学習課程】 3年次「仏教」p.140 投稿: 2016年5月31日 火 21時03分 おのれが「信心決定」することなくして、伝道は成立しません。 ------------------------------------------------------------ こんなところだけを抜いてきては、理解不足を露呈するだけであり、誤解されますよ。 法が法を伝えていくのです。 法は人によって伝わるものであっても、その人が法によって育てられていないかぎり、人をみちびき、育てようとする気持ちは起こりません。 「自信」あれば、「教人信」と動くものであり、同時にまた、「教人信」活動の上に、自らの信が深められていくことも否めない事実でありましょう。 」 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】 1年次「伝道」p.58 投稿: 2016年5月31日 火 21時32分 上も私です。 名前を付け忘れました。 ---------------------- >ハンドルネームも嘘つけるからな。 本当のお坊さんじゃないかも。 もし、本当のお坊さんならどうして親鸞会に荷担するのかな。 ------------------------------------- あたりまえでしょう、仮の法名ですよ。 本名ではありません。 あなた方も本名は書いておられないでしょう。 本願寺関係者でも、いくらでも親鸞会から聴いている人はいるのです。 私は高森先生が一番すばらしくご説法される先生だと思います。 ですから、荷担と受け取られるなら、それで結構です。 こちらのブログのタイトルは拝見されていますか。 投稿: 釈隆信 2016年5月31日 火 21時42分 仮の仏土とは、下にありて知るべし。 すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。 ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。 まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。 これを方便化身・化土と名づく。 真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。 これによりて、いま真仏・真土を顕す。 これすなはち真宗の正意なり。 経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。 ことに奉持すべきなり。 知るべしとなり。 (教行信証真仏土巻【真仮対弁】) 方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」で知ってもらいたい。 すでに述べた通り、真実の願・方便の願ともに、 十方衆生を救済するという弥陀の大慈悲の願いの実現の為に、 その果報として成就されたもの。 ゆえに、報仏、報土であると知らされる。 方便の浄土に往生する因は人それぞれ異なるから、 往生する浄土もまた人それぞれ異なる。 これを方便の化身・方便の化土という。 弥陀の願に「真実」と「方便」とがあることを知らないから、 如来の広大な御恩徳が分からないのである。 このようなわけで、真実の仏・真実の浄土を明らかにした。 これが弥陀の正しい御心である。 釈尊の経説、龍樹・天親の教え、浄土の祖師方の解釈を、 仰いで敬い信じなさい。 心から謹んで受け取りなさい。 知ってもらいたい。 宗祖は、『教行信証』において、 「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」に 「真実の教」を述べてこられたその最後に、 次に示される「化巻」すなわち「方便の教」と、 「真実の教」とを対弁せられたのがこの【真仮対弁】である。 宗祖は、「真」と「仮」の区別を徹底して鮮明にせられたお方。 そして、 「仮」にとどまり、惑うてはならないぞ、 「真」こそが弥陀の真意である、 と懇ろに教えてくだされている。 ところが、 現代の真宗門徒に、これを誤解している者が多い。 すなわち、ここで 「仮を誡められている」 「これから説く化巻の方便の行信は無関係だから 意識して捨てなさいということ」 という具体である。 「仮(弥陀の方便)」を戒めるとはどういう意味かが問題。 宗祖は「仮」そのものを、あたかも危険物かの如く 「はじめから近寄るな」と戒められたお言葉はどこにも無い。 「仮」は必要不可欠のものであり、 宗祖御自身も「仮」から「真」に入られたお方。 宗祖は、「仮」に関わるなと言われているのではない。 「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、 難思往生を願ふべし。 」 と、仮を勧めておられる御言葉からも明らかである。 「仮が無関係」「意識して捨てることができる」 などは無知の骨頂。 弥陀のお計らいを、どうして愚かな人間の智恵で捨てられようか。 それでは到底、如来広大の恩徳を知ることはない。 宗祖は、「仮」から「真」に入られて「真仮」を知られ、 そして広大な恩徳に感泣されたのである。 仮から真に入られ、はじめて「真仮」を知られた宗祖は、 偉大な恩徳讃を体得せられている。 「仮」はみな私を「真」へ誘うものであった。 これ「すべて弥陀の御恩」 と味わわれている宗祖と、 「方便は通る必要がない」などと見下している者とは似ても似つかぬ。 隔絶していることは猿でも判る。 宗祖だけでなく、すべての人を真実に導く仮の願なればこそ、 宗祖は化土巻に仮の願を見下ろされずに「悲願」と頂かれ、 明記されているのである。 「真実の山からは「仮」の山の頂上は見えるが、 仮の山からは真実の山は見えないのである。 不思議の仏智、信楽を知らず。 「机上の空論」「人智観念のお遊戯」に尽きる。 「真仮」の「弥陀の広大な恩徳」を知ってもらいたい これより外はないのである。 親鸞会のお話しで、 「方便を知らなければ真実へ至れない」などと聞いたことがない。 ありもしない非難は天に唾を吐く愚かな所業。 親鸞会では常に、 「真実を知らされてはじめて、真実も方便も同時に知らされる」 としか説かれていない。 「真実を知らせる為のものが方便」と言われているのである。 これは真宗伝統の教えであることはすでに述べてきた通り。 これを珍説と言う者が珍説の主である。 それにしても親鸞会を非難しているものに、高尚なものが一つもない。 いまどき、親鸞会を相手に非難する元気があるならば、 もっと正確に、親鸞会の説示を把握してからにしなければ、 非難していないに等しいのであるから、無駄な苦労である。 いつの時代でも、善知識には非難がつきもの。 高森顕徹先生に、数多くの非難があるのは当然であろう。 それらを受けられても逞しく、そして淡々と、 着実に浄土真宗の再興を遂げていかれる輝かしい恩徳讃のお姿から、 宗祖や蓮師を偲ばれるお気持ちがひしひしと伝わってくる。 高森顕徹先生にお遇いできてよかった。 親鸞会に遇うことができて本当によかった。 今は高森顕徹先生から直接聞かせて頂けないのが本当に悲しいが、 御本を読ませて頂き、御恩を偲ばせて頂こう。 親鸞会でつとめられる宗祖親鸞聖人750回忌法要にはなんとかお参りしたい。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 投稿: 2016年5月31日 火 23時55分 親鸞聖人の教えに善の勧めはあります。 しっかり読んでください。 過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、 自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、 いま大願業力にまうあふことを得たり。 他力の三信心を得たらん人は、 ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。 (唯信鈔文意) 久遠の過去から、 三恒河沙という数えきれないほど多くの仏方の教えを聞き、 そこでそのお勧めによって仏道を求める心を発し、 莫大なる善根を修めてきた、その因縁あったなればこそ、 いま弥陀の大願業力に救われることができた。 他力の信心を獲たならば、決して決して、 諸善を謗ったり、諸仏・菩薩方を疎かにしてはなりませんよ。 宗祖の湧き出ずる感謝が満ち満ちている。 そうは言っても、他力の信心がない人には、 結果無くしてその因縁を振り返る由もなく、 宗祖のように宿善を喜べる道理はないので、 「~によりて」(因縁)の感謝は絶対に読めない。 飛雲氏はどうだろう。 やはり、因縁の感謝が欠落している。 布教使仲間の言葉を借りれば「真宗の空気ではない」。 とんでもなく異質である。 宗祖とは大きく異なる。 自明である。 だから、こんな解釈になる。 「~によりて」が読めず欠落して1行目と2行目との関連性が希薄。 宗祖は濃厚に「救われた因縁」として「~によりて」と言われている。 真宗学における「宿善」までは難しくとも、 「三恒河沙の諸仏」と「恒沙の善根」との関係ぐらいは、 分かってもよさそうなもの。 「三恒河沙の諸仏」の「善根の勧め」によって、 「多くの善根」を修めてきたことが、 今、弥陀に救われた因縁となったのだと、宗祖は仰せなのである。 「だから」こそ、 ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。 と言われている。 決して、 「しかし」 ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。 ではない。 「だから」と「しかし」はニュアンスが正反対である。 どうにも感じられない道理で 解釈が大きく異なり、「だから」ではなく「しかし」で文章が繋がれている。 「だから」と「だからといって」(しかし)とは正反対。 ・ただそれ「だけ」、だから、 過去世の膨大な諸佛方の「善の勧め」への感謝は含まれない。 ・そもそも「善の勧め」という意味の言葉もない。 遠い過去世からずっと、仏様からも善知識からも 善を一切勧められないままでも獲信できるという。 自惚れのド天井だ。 そんな獲信者ならば、無いものには感謝しようもなく、 宗祖のような謝念は有ること無しとなる。 宿善の当体は自力の善なり、 中に於て諸行あり、念仏あり、皆機を成熟す。 真宗における「宿善」に、諸善も念仏も含まれるし、 皆、信仰が進むものである。 親鸞会でも「善をしなければ信仰は進まない」と教えておられる。 利井和上も述べておられるように、これが我らが真宗界の常識。 「諸行も念仏も皆、機を成熟す」 「善をしなければ信仰が進まない」 この正統な真宗学を 「自己の励む善根の功徳によって宿善が開発する」という邪説 などと勝手に誤解し、その邪説を否定しようとして 「宿善の開発は自力によらず、他力による」と主張する人は、 真宗学も相手の主張も、宗祖が獲信の因縁を喜ばれるお心も、何も分かっていない。 「諸行も念仏も皆、機を成熟す」 「善をしなければ信仰が進まない」 とは、まさに 「宿善の開発は自力によらず、他力による」 ということであり、 「宿善は過去世の善根」 ということである。 それを利井和上は、同じく『宗要論題決択編』にこう仰る。 然れば宿善の体は自力なり、 自力善を以て自力かなはぬことを知らしむ、 例えば酒を止めさするに酒を呑ませて懲らしめて 却って酒を止めさすが如く、 密意より云へば他力大悲なれども当意は自力なり、 酒を勧むるは酒を止めさするため、 今自力の善を捨てしめん為に自力の善を与ふるは 自力を励ますに非ずして劫って他力を勧むるにあり、 之を宿善という。 宿善の体は、過去世の善根であるから自力である。 しかし、自分で励む善を勧めるのは、 それによって自力の善では助からぬ実相を知らせる為。 例えば、酒をやめさせるのに、酒を飲ませて懲らしめて、 それによって酒を止めさせるようなものが宿善である。 宿善とは、密かに働いて下されているのが 弥陀の悲願(方便願)の他力であるが、 表面的には人間が励む善行であるから自力である。 酒を勧めるのは酒をやめさせるため、 今、弥陀が自力の善(雑行・雑修)を捨てさせる為に、 「善を励めよ」と善根を勧めるのは、 自力を策励してされているのではなく、 それによって他力を勧めておられるのである。 これを宿善という。 利井和上も、親鸞会も教えておられる通り、これが宿善である。 自力は間に合わないという実機を知らせるために、 自力を捨てさせる(他力に帰せしめる)ために、、 「自分で善を励めよ」と弥陀が善を勧めておられ、 その弥陀のお弟子方(仏聖)はみな従われて善を勧めておられる。 これまでも、今も、これからも、それは変わらない。 常に、善を勧めるままが、他力のお勧めなのである。 事実、まことその通り、善の勧めという弥陀釈迦の慈悲の御方便がなかったら、 名号を獲得して大願業力に救われることはなかった、 と、宗祖が宿善を御喜びになっておられるのが、 さてこの智慧の名号を、濁悪の衆生に与えたまへるなり。 十方諸仏の証誠・恒沙如来の護念、 ひとへに真実信心の人のためなり。 釈迦は慈父、弥陀は悲母、われらが父母として 信心を教へたまへりと知るべきなり。 過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、 自力の大菩提心をおこしき、 恒沙の善根を修せしめしによりて、いま大願業力にまうあふことを得たり。 (唯信鈔文意) この御言葉なのである。 これが、真宗における正統な「宿善」の解釈。 これを真宗では「獲信の因縁を慶ぶ」とも言われてきた。 無論、獲信の因は名号であり、縁は光明と教えられる善導大師の教えである。 光明の縁に催されて、 菩提心を発さしめられ、善を励むようになり、 自力かなわぬ我が身を知らされると同時に 名号を獲得して獲信する。 一切が他力によると知らされる。 因も縁も他力という信知である。 別の言い方をすれば、 光明・他力(善の勧め)があったなればこそ、救われた。 光明・他力(善の勧め)がなかったら、救われなかった。 ということであり、それは、 光明・他力による発心修善があったなれば、こそ救われた。 光明・他力による発心修善がなかったら、救われなかった。 ということでもあり、それが 光明・他力による宿善があったなればこそ、救われた。 光明・他力による宿善がなかったら、救われなかった。 ということ。 これらは飽くまでも同じ意味で言われているのである。 このように宿善を「獲信の因縁」と言われて来たのを詳しく区別して、 「過去世の善根」と「善知識」を、遇法の因縁といい、 「名号」と「光明」を、獲信の因縁とも言われる。 真宗学では、いずれの表現もなされてきた。 表面的な言葉だけで意味を判じようとすれば誤解は免れず、 揚げ足をとろうとすれば尚更に、曲解は避けられないであろう。 いずれの表現の場合でも、他力による救いということは変わらない。 重ねて述べておくが、 決して自力の善の功徳によって宿善が開発するということではない。 他力によって、宿善は開発するのである。 弥陀が、方便の悲願において、 未だ自力が廃っていない善機を自力かなわずと知らしめて 智慧の名号を与えんが為にこそ、善を勧めていられる。 それを信知なされた宗祖が、 自力でありながらも「善を励めよ」と勧めてくだされた 「他力の催し」「光明の働き」 これ無しに今、大願業力に救われることはなかったのだと、 「恒沙の善根を修せしめしによりて」と 宗祖は他力の御方便を御喜びなのである。 それにしても、 「善の勧め」=「自己の善根によって宿善を開発させること」 と勘違いしている者は愚かである。 もしこのような方程式が正しければ、 過去世の諸佛菩薩の勧めはみな、 自己の善根によって宿善を開発させよと教えられていた ということになるのだから、明らかに愚論である。 これこそがお目出度い主張。 病的思い込みで、ありもしない「中学生レベルの矛盾した理屈」を 一人で親鸞会の理屈に仕立てておいて、一人でそれを非難する。 大人から相手にされない言動である。 「そしり、いやしうすることなかれ」とあるから「善を勧める」は正反対。 「善の勧め」あったなればこそ救われたのだから 「そしり、いやしうすることなかれ」なのである。 どこどこまでも、見事に真っ逆さま。 利井和上もおっしゃる通り、 弥陀のお力に動かされて、お弟子方の策励に導かれて、自力の善を励まされ、 ついに自力廃るのである。 いつの時代においても仏様やその御代官たる善知識が、 常に善を勧めたもうことは、 十方衆生をひとえに他力に帰せしめんが為の、 三世にわたる慈父悲母の御方便、絶対他力であることに、いつか気づくであろう。 投稿: 2016年6月 1日 水 00時02分 「定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし 如來利他の信心に 通入せんとねがふべし」 上來八首は『觀經』序分の意によりて淨土教の起る相を明し、 此の一首は正宗分と流通分との意に依りて、 定散をすてゝ他力に歸することを結勸す。 「定散諸機各別」等とは、 『觀經』上々品に説く處の三心には隱顯ありて、 顯説をば定善の行を修する機も散善の行を修するものも、 皆此の三心を具すべし。 文は上々品にあれども、義は下々品に通じ又定善にも通ず。 故に定散の行人各々自力の三心を起して往生する。 それを今定散諸機各別の三心と云ふ。 各別とは、定散の諸機各々力を次第に別々に起すが故に淺深の別あり。 故に今各別の言を置きたまふ。 其の定散諸機の各別に起す自力の三心をひるがへしとは、 廻心の意にして、即ち顯説自力の三心を捨てゝ 隱彰の他力の三信に歸すると云ふ。 「如來利他の信心」とは、隱彰他力の三信のことなり。 利他とは他力の異名にて佛の願力を以て他の衆生を利益したまふ。 他力を顯はす信心とは、三信を合したる他力信心のことなり。 「通入」とは、要門自力より弘願他力に通入することなり。 「ねがふべし」とは、發心を勸むる言にして、 べしとは、下知の言にて、 自力三心を捨て他力信心に通入せんと願へと 高祖が下知命令したまふ言なり。 即ち是れ『觀經』隱彰の弘願を顯はしたまふものなり。 ~淨土和讃摘解 勧学・利井鮮妙師 述 より~ 利井和上によれば、 「自力の三心」を具するは「下々品」にも通じる。 「下々品」も「自力の三心」を起こす。 これを「定散諸機各別の三心」という。 自力の三心を捨てて他力信心へ「通入」するとは、 「要門」から「弘願」に入ること。 「ねがうべし」とは、 「要門から弘願へ入ろう」と「願いなさい」 「自力の三心を捨てて他力の信心に入ろう」と「願いなさい」 ということ。 「下々品」も「自力の三心」を起こし、 「自力の三心を捨てて他力の信心を獲得しよう」と願いなさい 「要門から弘願へ入ろう」と願いなさい と宗祖は仰せである。 と利井和上は言われる。 それに対して飛雲氏は、 すでに宗祖の教えを聞き求めている人、下々品の極悪人には、 「要門」は「不要」だから信前に意識的に捨てよ。 ただ18願だけ聞いておればよい。 「18願の念仏(他力の念仏)」だけが「獲信の為の善巧方便」、 獲信の方便は他にない。 利井和上は、「下々品」も、「要門」から「弘願」に通入すると言われる。 自身は、どこから「弘願」に入ったというのか。 それともまだ入っていないという御自覚か。 判らないが、いずれにせよ、お聖教にない、いい加減なことを述べ続けていれば、 やがて、お聖教にないことを言わねば辻褄が合わなくなってくるのである。 利井和上とは、大違いであることは、誰にでもわかる。 投稿: 2016年6月 1日 水 00時09分 三には、四十八願のなかに、念仏門において 別に一の願を発してのたまはく、 「乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。 四には、『観経』(意)に、 「極重の悪人は、他の方便なし。 ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。 (源信僧都・往生要集【念仏証拠】) この念仏証拠の御言葉は、源信僧都が、 【他力の念仏】を【往生の業】とされる証拠を述べておられるもの。 三では、弥陀の第18願文を出され、 「乃至十念」の念仏(弥陀の大行、他力の念仏)で、 我々を往生させるとの弥陀の仰せを示されている。 四は、観無量寿経の下下品の段の釈迦の仰せから、 「極重の悪人」は、ただ仏を称念する【念仏】の他に 極楽へ往生する為の方法(方便)はない、との仏意を示されている。 源信僧都が【念仏をもつて往生の業となせり。 】と書いておられる通り、 極楽へ往生させる働きのある念仏、 すなわち18願他力の念仏を示されている。 源信僧都は、 末法の今日、人間が励む諸善によってさとりを得ようとする いわゆる聖道門自力仏教を信じて、 どんなに諸善を励んでも悟りは得られず、往生は不可であり、 極重の悪人が「極楽へ往生する為」には、 弥陀の大行たる他力の念仏以外に方法(方便)はないことを明示なされている。 これを宗祖は、以下のように御解説なされる。 しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、 念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、 第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。 『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」 と勧励したまへるなり。 濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。 (教行信証化土巻) 源信僧都の教えをうかがえば、 往生要集の念仏証拠門の中に、 悪人正機たる弥陀の第18願こそが真意であることを顕らかに示されている。 「観経」に「定散諸善」が説かれてあり、 遇縁によって定散諸善を励む人(善機)があっても、 決して「下々品」だけが「極重の悪人」なのではなく、 18願の仏意からすれば、 「定散諸機」も「真なる相は極重悪人」である。 しかれば下々品「極重の悪人」に説かれる「念仏」は、 下々品に対してだけではなく、 18願の仏意によれば 「定散諸機にわたって勧められているもの」 と、宗祖は「仏意」を明らかになさっておいでである。 しかし、飛雲氏にはこれがどうにもこうにも理解できないようである。 『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」 と勧励したまへるなり。 と解釈している。 宗祖が、定散諸機は「極重悪人」と仰せられていることに反して、 「極重悪人」以外の「定善・散善三福のできる善人」をねじり込み、 堂々と改ざんしていることは明白である。 宗祖に拮抗する大罪は恐ろしい。 「極重悪人無他方便」の文は念仏証拠門十文の中、第四文である。 この文は、『要集』では『観経』下々品の意を述べたるものとなつてゐて 定散の諸機に冠らすべきものではないのであるが、 我が聖人がこの文を引用して 『観経』定散の諸機は極重の悪人、他の方便なければ 唯弥陀を称名せねばならぬと見給ふたので、 茲にも聖人の醇乎たる宗教的態度を見ることが出来る。 即ち聖人から見れば、 下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、 定散の機類は一応善機と云はれるけれども、 徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。 我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、真を徹見し給ふのである。 定散の機といふは表相である、仮相である。 真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。 ここでも、 「定散の機類は、徹底的にいへばすべて極重の悪人」 「定散諸機の真なる相は極重悪人」 ハッキリと書かれている。 仏意を知らず、とても判り易い的外れな誤魔化しと詭弁の 上塗りをするしかないようである。 この山邊習学『教行信証講義』にも、 親鸞会で教えておられる通りのことが書かれていることが判る。 「まず諸善を修せよ」ではありません。 誰が読んでも「獲信のために」定散二善をするな、ただ弥陀を称せよ、 と書かれている文章である。 滅茶苦茶な理解である。 この源信僧都や宗祖の御言葉に示されている 「乃至十念」 「ただ仏を称念して」 「ただ弥陀を称せよ」 これらを「獲信のため」と理解している文章だ。 それがそもそも、大間違いである。 「信後の念仏」のみを他力の念仏というのだから、 信前に他力の念仏を称えよ、など論理的にあり得ないことだから当然である。 信前の濁世の道俗に、獲信の為の権仮方便として、 20願の念仏のお勧めはあっても、 獲信の為に他力の念仏を称えよとは、誰も言われていない。 信前は、どんなに称えたところで、極悪人を往生させる働きは具していない。 未信の念仏はみな暫用還廃の権仮方便の念仏。 信の一念で廃る念仏である。 ただのド素人ではなく、自信満々の自惚れのヒドイ素人であろう。 これら源信僧都や宗祖の御言葉は、正しくは、 極重の悪人は、 往生の業たる「他力の念仏」の他に、「極楽へ往生するため」の方便はない、 という意味なのである。 「獲信のため」の方便ではない。 この御言葉の「方便」とは、「獲信の為」の暫用還廃の権仮方便ではなく、 極悪人を「極楽へ往生させる為」の方便のこと。 「信方便」「易行」たる他力の念仏以外に術はないということだ。 と自分でも述べている通り、他力の念仏は、信方便である。 すなわち、「他の方便さらになし」とは、 他力の信心だけが、浄土往生の正因であり、 他力の念仏こそ、必ず「極楽へゆける」大行ということ。 他に方便がない、この方便を、信方便・易行と言う。 真宗の基礎も分かっていないのである。 極重の悪人は、極楽へ往く為の方便は、他力の念仏の他はない。 というお聖教の御言葉を、 極重の悪人は、獲信の為の方便は、念仏のほかにない、 獲信の為の方便として、定散二善は不要、19願は不要 と善知識方が口を揃えて仰っています。 「極楽に往生するための方便」と「獲信のための方便」との 区別さえ立っていない表明である。 そんな程度で、 お聖教を、自説にあわせて誤解し、思い込み、正法を誹謗しているのは 恐ろしい大罪。 速やかに懺悔すべきである。 帽子にあわせて頭を削り過ぎて、正常とは思われない。 どこまでもずれてゆく。 投稿: 2016年6月 1日 水 00時16分 下品下生の往生についてのまとめ 救われる前に善をしてきたのか、善を勧められているのかの確認。 【釈尊】(観経) 下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。 かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。 かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。 善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。 かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。 仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。 命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。 一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。 【善導大師】(観経疏) この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。 (中略) これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず 【源信僧都】(往生要集) 『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。 ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。 【法然上人】(選択集) 下品下生は、これ五逆の罪人なり。 臨終の十念に罪滅して生ずることを得。 この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。 【親鸞聖人】(高僧和讃) 極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ 【存覚上人】(浄土真要鈔) 『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。 しかるに、臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。 【蓮如上人】(正信偈大意) 「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。 お釈迦様 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する 善導大師 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する 源信僧都 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する 法然上人 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する 親鸞聖人 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する 存覚上人 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する 蓮如上人 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する 投稿: 2016年6月 1日 水 05時29分 下品下生の往生とは、過去世に善をしてきたこともない、仏法を聞いたこともない五逆の罪人が、臨終になって初めて善知識に遇って、その善知識から念仏を称えることだけを勧められて、その通りに念仏を称えて往生するというもの。 善が勧められてもいないので、無善で獲信し往生する 19願を通ったこともないし、通る必要もない。 それゆえ次第相乗の善知識は 龍樹菩薩 19願を無視 天親菩薩 19願を無視 曇鸞大師 19願を無視 道綽禅師 19願を無視 善導大師 往生を誓われた願の1つが19願とだけ仰った。 解説はなし。 源信僧都 臨終来迎を誓われたのが19願とだけ仰った。 解説はなし。 法然上人 19願を無視 興福寺 「法然上人は大願である19願を隠すとは何事か」と非難 明恵 「法然上人は諸善を誓われた19願は本願ではないと言うのか」と非難 親鸞聖人 19願は方便の願で、非難している聖道門のために建てられた願と仰った。 覚如上人 諸行往生・臨終来迎を誓われたのが19願とだけ仰った。 解説はなし。 蓮如上人 19願を無視 投稿: 2016年6月 1日 水 05時35分 遠方の映画館まで見に行けとか映画の財施をしろとかなんだかんだの財施をせよとか、いいかげんにしろ。 やっていることのデタラメでも我慢ならんのに、教えまで間違っているのか? 三願転入せよとは善知識はどなたも仰っていないってこと? ショックというか親鸞会に見切りを付ける理由としては十分だ。 ヒウンがなんとかかんとか、そんなことしか親鸞会は言えないのかよ。 下品下生の往生、初めて知ったわ。 なるほどね、三願転入不要、十九願不要ってことなんだ。 確かにね、耳四郎が獲信したのも庄松が獲信したのも、こういうことだったのね。 金金金金金の親鸞会はおかしいのじゃないかと疑問は持っていたけど、確信に変わったわ。 投稿: 2016年6月 1日 水 07時59分 19願はすべての人を真実へ導くものだという根拠。 以下をしっかり読んでから反論してください。 如来この十六観の法を説きたまふは、 ただ常没の衆生のためにして、 大小の聖のためにせずといふことを証明す。 (善導大師) 釈迦が、定散二善を説かれた相手は、 ただ「常没の凡夫」である。 しかるに常没の凡愚、 定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。 散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。 (宗祖) 「常没の凡夫」には、定善や散善をすることはできない。 釈迦は、定散二善を、 定善も散善もできない「常没の衆生」のために説かれたということ。 これが、真仮を知る善知識方の御教示。 「定散両門は定善・散善ができる人が相手、聖道門の人のみ相手」 と繰り返す飛雲氏の邪説を、善導大師や宗祖が破っておられる。 定散二善は浄土門の人に無関係だと言う飛雲氏が、 根拠のつもりで提示する以下のお言葉を見てみよう。 しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、 いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、 真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、 阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。 すでにして悲願います。 修諸功徳の願(第十九願)と名づく、 また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、 また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。 (教行信証・化土巻) これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では 以下のように解説されている。 然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、 今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、 仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し 修道するようになっても、 真に其の教へに入る者は甚だ得難く、 如実の修道者は甚だ稀である。 之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、 内心空虚の者が甚だ多い。 釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、 真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして 修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、 そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。 然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。 如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。 「普く迷いに沈める一切衆生」を 「此の本願(第19願)を発して」化導して下さるということ。 迷いに沈める一切衆生(浄土門に入っている人も当然含む)を 第19願によって化導されるということ。 これも、 広く一切衆生を、 「釈迦が福徳蔵を説きあらわして」真実門へと誘引うて下さるということ。 「阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。 」(宗祖) 弥陀は、第19願によって、一切の常没の凡夫を導かれるということ。 19願のお導きによらずして18願に救われる人などいない。 「浄土門に入っている人」をお導き下さるのは「何によって」かを理解していない。 「弥陀の19願」「釈迦の福徳蔵」の説によってであり、 それを善導大師は、 定散両門は、定善も散善もできない常没の凡夫が相手 と明らかにされた。 これが分からない人は、読解力の問題であろう。 このように、 赤沼智善著の『教行信証講義』によって解釈しても、 定散両門の相手は、決して聖道門だけではない。 迷いに沈める一切衆生(浄土門に入っている人も当然含む)が相手 なのである。 間が抜けているというか、またしても自己否定。 それにしても、自己否定が多い。 」 と述べていられるように、 すべての人は、意識しようとすまいとに関わらず、 弥陀が遠い過去世から十方衆生を、 18願、19願、20願の三願で助けようとせられている。 19願のお導きにあわないで救われる人などいないということだ。 「三願転入の教え」と言われる所以である。 利井和上の言葉のように、必ず三願転入させるという願心を知らされた人には、 19願・20願の「十方衆生」を「すべての人」と領解されるのである。 宗祖御自身、それを信知せられたのが、三願転入の御文である。 顕説であれば当然のことで、 これをもって、19願や20願の「十方衆生」を「すべての人」と教えられる親鸞会を 間違いだとする根拠などにはならない。 ここでも山辺赤沼の教行信証講義の解説をあげておこう。 「諸仏如来有異方便。 顕文からいうと、定善の観門が極楽浄土を見る方便たることを示し 隠からいうと、広く定散の諸善が弘願に通入する方便なること」 定散の諸善は、 顕文には、聖道門の人も含めた、 いまだ18願の救いを求めていない人を誘引する方便。 隠には、18願の救いを求める人を信楽獲得まで導く方便。 すなわち、教行信証に宗祖が明らかにせられている通り、 「金剛心を獲得することを教えてください」と要請した 「18願の正客たる悪人」に対して 「定散両門は信心獲得まで導いてくださる方便の教」 と教えられたのが隠説なのである。 「できなかったら救わない」ではないから要注意。 韋提希は、 顕義では、定善を行じる定善の機。 その韋提希に「汝是凡夫心想羸劣」と言われているのは、 山辺赤沼の教行信証講義にも 「聖人から見れば、 下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、 定散の機類は一応善機と云はれるけれども、 徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。 我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、 真を徹見し給ふのである。 定散の機といふは表相である、仮相である。 真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。 」 とあるように、 韋提希は、仮の相は定善の機であっても、 真実の姿は、極重悪人であることを、 隠義(真実義)で明らかにされているものである。 定善の機が極重悪人なら、散善の機はなおさらだから 「定散諸機は極重悪人」。 善導大師も仰せの通り、九品は遇縁の差異あるのみで、 通じて真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。 葦の髄から天井を覗くようなもの。 宗祖の真意は隠義なのである。 自損損他の咎、のがれ難し。 飛雲氏の間違いは、まだまだある。 投稿: 2016年6月 1日 水 15時58分 しっかり読んでから反論してもらいたい。 「常没の凡愚」とは善導大師は「善悪の凡夫」と言い換えておられる。 つまり 常没の凡愚=善凡夫+悪凡夫 である。 悪凡夫については、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」であるが、 善凡夫とは、定善・行福・戒福・世福のできる凡夫である。 要するに 常没の凡愚は、善のできる凡夫と善のできない凡夫のことをいったものである。 聖道門は散善は大小の聖者のためではなく、善のできる凡夫のためにとかれたということである。 善のできない凡夫には念仏ということになる。 では善のできる善凡夫が存在するのかと言う話であるが、親鸞聖人は 高玉・智覚禅師は、上品上生の往生を遂げられたと仰っている。 高玉・智覚禅師は行福のできた善凡夫だということである。 次に、 しかるに常没の凡愚、 定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。 散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。 (宗祖) これは「かたし」であって、「不可」ではない。 常没の凡愚には難しいのであって、誰一人できないとは仰っていない。 再度、 高玉・智覚禅師は、上品上生の往生を遂げられたと仰っている。 よって、19願は善のできる善凡夫のために建てられた願だと言うことである。 これを親鸞聖人は 臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり (浄土和讃) これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。 願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。 行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。 信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。 この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。 この要門より正・助・雑の三行を出せり。 この正助のなかについて、専修あり雑修あり。 機について二種あり。 一つには定機、二つには散機なり。 (化土巻) と仰ったのである。 19願は定散諸機(善凡夫)のためであると。 投稿: 2016年6月 1日 水 16時40分 オワコンのブログからの引用であるが、オワコンになったのは、論破されたからである。 結論は以下である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 全く反論できない、みじめな高森派の記録。 1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。 2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。 3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。 よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。 つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。 4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。 つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。 5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。 つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。 6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。 7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。 つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。 8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。 9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。 つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。 10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。 つまり、管理人さんの断章取義が確定。 投稿: 蜘蛛 2015年7月31日 金 10時04分 11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。 12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。 しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。 13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。 結局、祖師の御文は無かったんですね。 真宗じゃないってことですよ。 で決着。 14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。 謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。 15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。 16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。 17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。 「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。 18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。 「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。 」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。 19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。 20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。 しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。 薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。 」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。 21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。 その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。 つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。 その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。 よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。 22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。 しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。 もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。 これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。 23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。 散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。 ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。 いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。 ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。 いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。 」(化土巻) この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、 常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。 悪凡夫には定善をすることは不可能である。 ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。 24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。 」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。 25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。 つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。 26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。 つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。 27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。 29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。 30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。 31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。 信巻は隠彰、化土巻は顕説。 つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。 32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。 33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。 投稿: 2016年6月 1日 水 16時43分 飛雲より引用 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは? 偽装本願寺布教師も、高森会長同様、法論から逃げ回っていますが、親鸞聖人の正しい教えを明らかにするためであれば、公けの場で法論をすればいいのです。 ブログでこそこそ書いているよりも、その方が話が早いです。 いつも書いている通り、私はいつでも法論に応じます。 ただし、日本語の理解できる人に限ります。 私以外にも、親鸞会もしくは親鸞会擁護者を論破したい退会者は一杯います。 具体的な場所としては、 mixiの「信仰と対話」コミュニティ内「*「三願転入」議論継続トピック*」 がよいでしょう。 ここであれば、発言やトッピックの削除の心配はありませんので、思う存分議論ができます。 逃亡し続ける高森会長に代わって法論をする勇気のある人は、いつでも法論に応じましょう。 法論に応じられないなら、黙っておきない。 さて、親鸞会には、他では通用しない親鸞会用語がありますので、その用語の間違いから正していかなければなりません。 これは、退会後でも親鸞会用語が抜け切らず、聖教が正しく読めない状態が続きますので、深刻な問題です。 当ブログの読者からそのことで要望があり、親鸞会用語の間違いから、今後は説明していきたいと思います。 善導大師は『玄義分』で さだめて凡夫のためにして聖人のためにせずといふことを証す。 と仰っていますが、親鸞会では、この「凡夫」を「悪凡夫」、もっといえば「下品下生」の逆謗の屍としか理解できないのですが、この「凡夫」は「善凡夫」と「悪凡夫」です。 善導大師がこのように仰ったのは、当時の中国では、『観無量寿経』の九品の中で上品の三生と中品の三生は、聖人等のために説かれた、という解釈であったために、その誤りを正されてこのように仰ったのです。 当時の解釈は以下です。 初めに諸師の解といふは、先づ上輩の三人を挙ぐ。 上が上といふは、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり。 なんがゆゑぞ知ることを得る。 かしこに到りてすなはち無生忍を得るによるがゆゑなり。 上が中とは、これ初地より四地に至るこのかたの菩薩なり。 なんがゆゑぞ知ることを得る。 かしこに到りて一小劫を経て無生忍を得るによるがゆゑなり。 上が下とは、これ種性以上より初地に至るこのかたの菩薩なり。 なんがゆゑぞ知ることを得る。 かしこに到りて三小劫を経てはじめて初地に入るによるがゆゑなり。 この三品の人はみなこれ大乗の聖人の生ずる位なり。 次に中輩の三人を挙げば、諸師のいはく、中が上とはこれ三果の人なり。 なにをもつてか知ることを得る。 かしこに到りてすなはち羅漢を得るによるがゆゑなり。 中が中とはこれ内凡なり。 なにをもつてか知ることを得る。 かしこに到りて須陀洹を得るによるがゆゑなり。 中が下とはこれ世善の凡夫にして、苦を厭ひて生ずることを求む。 なにをもつてか知ることを得る。 かしこに到りて一小劫を経て羅漢果を得るによるがゆゑなり。 この三品はただこれ小乗の聖人等なり。 下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。 ここで「善凡夫」に関係する上品上生から中品下生までをまとめると 上品上生……これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり。 上品中生……これ初地より四地に至るこのかたの菩薩なり。 上品下生……これ種性以上より初地に至るこのかたの菩薩なり。 中品上生……これ三果の人なり。 中品中生……これ内凡なり。 中品下生……世善の凡夫にして、苦を厭ひて生ずることを求む。 ということです。 上輩(上品の三生)については この三品の人はみなこれ大乗の聖人の生ずる位なり。 とあり、中輩(中品の三生)については この三品はただこれ小乗の聖人等なり。 と当時は解釈されていたのです。 それに対して善導大師が、「さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」と仰ったのです。 聖人等のために三福は説かれたのではなく、凡夫のために説かれたということです。 そしてこの凡夫は「悪凡夫」ではなく「善凡夫」であることは、その後の善導大師の解釈を読まれれば明らかなことです。 上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し 上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして 上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして 中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。 中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。 中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。 ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。 またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。 何度もいいますように、仏教では大きく 聖者 善凡夫 悪凡夫 と分けられます。 三福を「聖者」(聖人)に対して説かれたのではなく、その1つ下の「善凡夫」に対して説かれたと仰ったのであって、「善凡夫」を飛び超えて「悪凡夫」のために説かれたと飛躍させるのが親鸞会のトリックです。 「聖者」は出離していますので、当然ながら「常没の衆生」ではありません。 「善凡夫」は出離していませんので、「常没の衆生」です。 常識です。 この基本的なことを無視して、「常没の衆生」は「悪凡夫」と同義のことであり、下品下生のことであると、勝手に思い込んでいるだけのことです。 親鸞会で根拠もなく言い続けている 十方衆生=逆謗の屍 と大沼師が書いたのをそのまま鵜呑みにして、高森会長が話をしているだけですが、それが染みついていると、親鸞会のトリックに騙されます。 しかし、仏教の常識、真宗の常識を学べば、親鸞会のトリックが容易に見破れます。 『観無量寿経』で教えられていることを一言でいえば、存覚上人の『持名鈔』の 上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。 投稿: 2016年6月 1日 水 17時13分 聖者 善凡夫 悪凡夫 と分けられます。 三福を「聖者」(聖人)に対して説かれたのではなく、その1つ下の「善凡夫」に対して説かれたと仰ったのであって、「善凡夫」を飛び超えて「悪凡夫」のために説かれたと飛躍させるのが親鸞会のトリックです。 「聖者」は出離していますので、当然ながら「常没の衆生」ではありません。 「善凡夫」は出離していませんので、「常没の衆生」です。 --------------------------------------------------------------- 親鸞聖人の教えでは、そのように説かれません。 親鸞聖人は、親鸞聖人の達見があるのです。 名号を本尊にされたのが初めてなのも親鸞聖人、阿弥陀仏の浄土に生まれたらば即、仏となると教えられたのが初めてなのも親鸞聖人。 その他多くに、親鸞聖人の独特の読まれかたがあるのです。 親鸞聖人のご教導に文句ありますか。 善導大師の言われなかったことを、説かれる親鸞聖人を、どのように批難されるのでしょうね。 すべての人が極重の悪人であると説かれることについても同様です。 親鸞聖人が言われたことを無条件におきかせいただくのが、浄土真宗の道です。 ~ 「 極悪の人間観 まずはじめに、親鸞聖人は人間をどのように見られたか、聖人によってとらえられた人間とはいかなるものであったか、という問題について考えてみたいとおもいます。 親鸞聖人はご自身を「愚禿親鸞」とよばれただけでなく、「愚悪の衆生」「邪見喬慢の悪衆生」「穢悪の含識」「極重の悪人」というような、悪の字のついた人間の呼び方がたくさんあらわれます。 さらに「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の凡夫」というような、煩悩に泥まみれになった人間の表現も数多く見られ、歎異抄には「地獄は一定すみかぞかし」(「註釈版聖典」八三三貢)とあります。 ですから、親鸞聖人の人間観といえば、「愚かで、罪ぶかくて、煩悩に泥まみれになったもの」といってよいでしょう。 その意味では、親鸞聖人ほど徹底して人間を悪人と見られた人はいないと思われます。 悪に極まりがない、極悪人と見てとられるのです。 しかし、こんないい方が今日現代人にうけ入れられるでしょうか。 親鸞聖人のような人間観がうけ入れられるかどうか、さっそく拒絶反応をおこす人があるのも、あながち不自然なことではありません。 「なぜ、それほどまでに、人間を極悪人あつかいしなければならないのか」「親鸞はよほど自虐性の強い人なかったのか」というような言葉がささやかれるのも、無理なことではないようにおもわれます。 聖人の立場 しかし、いうまでもなく、そういう意見は聖人のおしえを正しく理解している人の言葉ではありません。 誤解というものは、往々にして立場のちがいから起こるものです。 親の言葉が子供に誤解されやすいのも、親の立場が子供に理解されないからです。 」 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】 1年次「真 宗」p.43 ~ 45 (平成28年度版 5月31日現在) 投稿: 2016年6月 1日 水 19時37分 以下をしっかり読んでください。 『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」 と勧励したまへるなり。 《間違いのポイント》 ・宗祖が、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」と言われた相手が 観経の「定散諸機」であるが、 飛雲氏は、「定散諸機」と「極重悪人」とを別人と見ている。 文法から言ってもおかしい自己流の解釈である。 ・定散諸機を「定善・散善三福のできる善人」と解釈している。 これは、宗祖が「極重の悪人」と言われたことと正反対。 山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』の解説を見ても、 「定散の機類は、徹底的にいへばすべて極重の悪人」 「定散諸機の真なる相は極重悪人」 とあり、明らか。 ・善導大師は、観経疏において、 定散諸善を釈迦が説かれた相手は「常没の凡夫」とされ、 宗祖は善導大師のお心を明らかにせられる為に、 「常没の凡夫」には定善散善ができないことを、 しかるに常没の凡愚、 定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。 散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。 と『教行信証化土巻』に示された。 「できる」と「できない」とは正反対。 『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 編)参照 はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、 定善の行を修めることができない。 心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。 散善の行も修めることができない。 悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。 「定善の行を修めることができない。 」 「散善の行も修めることができない。 」 ハッキリしている。 「できない」「不可能」とまで述べている。 あくまでも「不可能ではない」と、頑張る。 支離滅裂である。 善導大師は、「定散諸機(常没の凡夫)」相手の教説が定散諸善とされているのだから、 「定善散善が出来る人が殆どいない定散諸機に、定散諸善を勧めている」 と主張していることになる。 これは、 「定散諸善が出来る人にだけ定散諸善を勧められた」という自説と 整合性がない。 これもまた、 「定散諸善が出来る人にだけ定散諸善を勧められた」という自説を否定する。 「定散諸善は上中の二品のみで、下品には念仏のみ」と述べるのは顕説に留まる人。 宗祖は、「念仏」の相手が定散諸機にわたるとされ、 定散諸機は、定散修し難いものと明らかにされた。 かくして、 定散の修し難い常没の凡夫に金剛心正受の為の方便として定散諸善が施され、 念仏へと導かれていることを善導大師や宗祖は明らかにせられた。 常没の凡夫とは、まぎれもなく、我々のこと。 投稿: 2016年6月 1日 水 20時16分 オワコンのブログからの引用って、ワンパターン。 もう一度 善導大師の九品の解釈 上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し 上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして 上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして 中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。 中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。 中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。 ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。 またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。 散善のできる人が散機 当たり前のはなし。 禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。 みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。 (御本典) 高玉禅師・智覚禅師は上品上生の方と親鸞聖人は仰ってますよ。 投稿: 2016年6月 1日 水 20時23分 上品上生なのか、下品下生なのか、 それは、その時その時の縁に依るのであり、 定まった相は無いのである。 上品上生と評される智覚禅師であっても、 それが定まった相でも実機でもない。 実機は一等の悪人。 しっかり読んで勉強してください。 九品の実機は一等の悪人なり。 この『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、 総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。 ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、 九品をして差別せしむることを致す。 なんとなれば、 上品の三人はこれ大に遇へる凡夫、 中品の三人はこれ小に遇へる凡夫、 下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。 悪業をもつてのゆゑなり。 終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。 かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。 (観経疏) これについて、 「悪業をもつてのゆゑなり」以下は、 いま下下品を結する文相なれども広く九品に通ずるなり。 一往、遇縁に上中の二輩の差別は大乗小乗の差別あれども 常没の凡夫なれば、機は一等の悪人なり。 今、本願所被の正機を示して偏に願力所入の利益を顕したもうなり。 (相伝義書) 九品の実機は、「一等の悪人」すなわち「本願所被の正機」。 これが、真宗伝統の解釈である。 慧遠は、上品・中品を大乗・小乗の聖人と見做し、 下品でさえ凡夫とは言うものの大乗初学であると判じた。 それに対して善導大師は、 「ただこの『観経』は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず」 と批判された。 「またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、 総じてこれ仏の世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。 」 「我らは五濁の凡夫である」の自覚を以って 慧遠の解釈に反対なされているのである。 善導大師の凡夫の自覚、すなわち機の深信に照らせば、 殊勝な善人に見える上品上生の機でさえ一等の悪人たる凡夫。 九品は総じて皆、五濁・末法の世の凡夫。 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」の凡夫。 善悪の区別があるように思えても、 それは全て宿業のままであることから一歩たりとも外へ出ることは出来ない。 それ故に「観経」に九品の機の差別があるように説かれていても、 実際は、 「ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、 九品をして差別せしむることを致す。 」 と善導大師が仰る通りである。 上品上生なのか、下品下生なのか、 それは、その時その時の縁に依るのであり、 定まった相は無いのである。 上品上生と評される智覚禅師であっても、 それが定まった相でも実機でもない。 実機は一等の悪人。 善導大師は、 一切の生まれつきの機類を「九品の凡夫」と見做され、 その全てを阿弥陀仏の救いへと導くために「観経」が説かれた と断言なさるのである。 これが本願寺の伝承である。 一乗海の機となるまでの間を引入せんために 要門方便を開きたまう故に 正助二行、正雑二行と対判して勧誘したまうなり。 しかれば、これ正・助・雑の三行ともに 要門より出たる名目なり。 『讃』に 「釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて 正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ」 専修といい正行というは、他力仏辺に属したる名言なれども、 機にうけて助・雑に対する待対法のあるあいだは要門の中の摂なり。 この正助、専雑はみな方便の行に摂すること 「愚禿鈔」の御指南思い合わすべし。 「機について二種あり」等已下は、方便仮門の機を釈したまうなり。 すなわち願文の「十方衆生」なり。 定散の二機は「観経」十九の願当分の機なり。 大師は「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」 と釈したまえり。 一代教より「観経」までの機、 おしなべて一切衆生のうまれつきの機を定散の二に摂するなり。 これみな十九願海の機類なり。 如来この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、 大小の聖のためにせずといふことを証明す。 (観経疏) かくして19願の機類は、生まれ来るすべての人であり、 定散二善はすべての「常没の衆生」のために説かれたものだから、 弥陀の救いを求める未信のひとも対象である。 常没の衆生とは、つねに迷いの世界に沈んでいる凡夫ということで、 宗祖はこう仰せである。 しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。 散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。 」 と解釈している。 これはその通り。 日本語が分かれば、誰でもそう理解するであろう。 「我々のような常没の凡愚には、定善も散善三福もできない、 ということですが、かといって 誰も定善・散善三福ができないということではありません。

次の

伝統仏教教団はなんのために存在するのか: さよなら親鸞会

行人偏に正しい

世界人類が平和でありますように <大神様がおあたえになった知性と直感の機能> 一般的に知性と言いますと、知識であったり、物事を深く正確に思 考できる能力であったり、思考の速度が正確で速い人ほど頭が良 いとか知性的な人だと言われます。 すなわち、この世の様々な問題を深く考察することが出来て、速く 正確に答えを出して、その答えの根拠を論理的に理路整然と誰に でも分かるように説明できる人が、優れた知性を持っている人だと 言えるのです。 一方、これまでの知識や経験則が思考の論理によって適用できな い場面では、直観力が必要とされます。 人類の歴史を紐解けば、英雄伝説の中にも正しい直観力で人々 を救ったり、味方を勝利に導いたりと、直観力に優れた人はたくさ んおられるようです。 こうした優れた直感を持っていた聖者や賢者は生まれながらにし て天の理が素直にその人の心に溶け込んで来て、その天の理の 心の通りに動く身体になっていたので、直感的な判断を誤らなか ったのです。 すなわち、人間の理想は優れた知性と優れた理性(直観力を伴っ た宇宙の理に沿った論理的思考能力)が最大限に調和していれ ば良い事になります。 そして、感情と本能をあわせた四魂の調和を完成した人が聖者で ある訳です。 ですから徳と言う字は、行人 偏に十四の心と書きます。 これは、十字と四つの心であり、四魂の調和(十字)した心を行う人 を、徳のある人と言うことを表しています。 <人間の心の現実> しかし、現実には学問知識の豊富な人々は自らの知識が邪魔をし て、天界の精妙なる理の心の波動を受けとれずに、自己の経験則 に基づいた判断しか出来ません。 それでは、完全円満なる大神様のみ心を地に現して人類の霊的 進化を促すことが出来ないのです。 しかしながら、これ以上理性と知性と直観力を厳密に定義して説明 する事は、説明が非常に複雑になります。 そこでここでは、理想の理性を神仏への祈りによってもたらされる 直観力を伴う理性と定義します。 その天から与えられた優れた直観力を優れた知性の力を働かせ て物事の本質的な理を体系化できる思考能力を理性と定義する 訳です。 人類の霊的な進化をもたらす、真の直観力は世界平和の祈りによ る、守護の神霊への感謝の祈りによって与えられるのです。 すなわち、真の理性、真の直感と言うものは守護の神霊への感謝 の祈りでもある世界平和の祈りによる自己と守護の神霊との合体 によって与えられるのです。 ですから、守護の神霊から与えられる直感で物事を一瞬で把握し たり、判断するのは自己の思考能力を使いませんから、一般に言 う理性、知性を超えた能力となるのです。 潜在意識の過去世から現在までの経験の記録を利用して思考し 判断するのが一般的な知性であり、理性であるとも言えます。 その潜在意識の分厚い記録層を突き抜けて感謝の祈りによって 神智を導き出すのが真の直感であり、真の知性と理性となるので あります。 しかし、不完全な人類の潜在意識の過去世の経験則に頼った従 来の知性や理性のレベルでは、人類の霊的な進化はありえない し、戦争や争いの無い完全平和の世界を地球界に樹立すること は不可能なのです。 従って正しい真の直感と言うのは、正しい信仰によって大神様か ら与えられるのですから、無闇に直観力に頼って生きてゆく道は、 知性や理性に頼って生きて行く生き方よりも非常に危険でありま すから注意が必要です。 故に、人類愛の祈りであり、人類救済の祈りであり、創造主の偉 大なる祈りである、消えてゆく姿で祈る世界平和の祈りによって、 真の直観力を導き出し、真実の理性と知性を持つ完全円満なる 神の子へと、人類は計り知れない霊的な進化を遂げなくてはなら ないのです。 世界平和の祈りによって、人類は真の直観力を得て四魂は調和し 完全円満なる神の子rの姿が人類すべてに現れて、地球界は金星 の世界の如くに完全調和の世界となるのであります。

次の