この世 を ば わが 世 と ぞ 思ふ 望月 の 欠け たる こと も なし と 思 へ ば 意味。 【この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

この世おばわがよとぞ思う望月の 歌の解釈

この世 を ば わが 世 と ぞ 思ふ 望月 の 欠け たる こと も なし と 思 へ ば 意味

古くより親しまれてきた日本の伝統文学である「短歌」。 花鳥風月の美しさを「五・七・五・七・七」の形式で表現し、歌人の心情を詠みこみました。 今回は「月」にまつわる有名な歌として 「 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば 」をご紹介します。 この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば 藤原道長 日本人は古来「全てを自分の手に」と云う事を忌み嫌いました。 この後彼は病になり出家、子供に先立たれ、失意の晩年でした。 おやすみ為さいませ💤 — みやのすみれ sumiremiya 自らの権威を誇ったものとして有名な歌ですが、歌人の心情や詠まれた時代背景はどのようなものだったのでしょうか? 本記事では、 「 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば 」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。 「この世は私のためにあるように思う。 今宵の満月のように、私に欠ける部分は何一つないと思うので」 という意味になります。 藤原氏一族の栄華を極めた心情を詠んだ一首ということで、教科書でもおなじみの歌です。 古典文学としてよりも、歴史的資料として取り上げられることが多いでしょう。 この歌は勅撰集などの和歌集には記録されていません。 道長自身の日記『御堂関白記』にも載っておらず、藤原実資(さねすけ)の『小右記』に書き残したものが今の世にまで伝わっています。 文法と語の解説• 「この世」という語を強調し、五句体の調子を整えるために用いられています。 「わが世とぞ」 係助詞「ぞ」の形で、「わが世」の意味を強める働きがあります。 「望月(もちづき)」 望月は満月を意味しています。 月の形がまん丸を描いていることなどから、「望みどおりの月」という意味で「望月」となりました。 このことから「完全な」「完成」を例える語としても使われています。 「欠けたる」 「たる」は助動詞「たり」の連用形で、完了・存続・並列を表します。 ここでは、「欠けている」「不足している」と訳すことができます。 「ことも」 名詞などの体言につく係助詞「も」が使われており、並列「~と」・類推「~さえ」などを表しています。 動詞の「思ふ」の已然形「思へ」に「ば」がついているので、「思えば」「思うので」となります。 「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の句切れと表現技法 句切れ 句切れとは、 意味や内容、調子の切れ目を指します。 歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。 」が入るところに注目すると句切れが見つかります。 この歌では二句目の「わが世とぞ思ふ」で流れが一旦切れていますので、 「二句切れ」となります。 二句切れでは、倒置や二つの内容を表現する時に用いられることが多いです。 倒置法 倒置法とは、 語や文の順序を逆にする表現技法です。 あえて文の調子を崩すことで、意味を強める効果があります。 短歌や俳句でもよく使われる修辞技法のひとつです。 この歌でも本来の意味どおりに文を構築すると、「望月の 欠けたることの なしと思へば この世をば 我が世とぞ思ふ」という語順になります。 「この世は私のためにあるように思う」という衝撃的なはじまりに、読み手は「なぜそんな風に考えたのだろうか」と今後の展開を期待させます。 このように倒置法を使うことで、 読み手に強い印象が残り、インパクトを与えることができます。 隠喩法 隠喩とは、 「~のような」などの比喩を表す言葉を使わずに、物事をたとえる表現技法のことです。 印象を強めたり、感動を高めたりする効果があります。 この歌でも今の自分の心情を望月にたとえ、「満ち足りている」「完璧だ」と表現しています。 この当時、朝廷内では熾烈な権力争いが繰り広げられていたため、言外に真意を置く歌が多く、気持ちを直接的に表現することは少なかったようです。 しかし、圧倒的な強者として不動の地位を確立した道長には、周囲へ気兼ねする必要がなかったのでしょう。 隠喩を使いながらも、 誇れる気持ちがストレートに伝わってきます。 第66代天皇:一条天皇・藤原 彰子(長女)• 第67代天皇:三条天皇・藤原 妍子(次女)• 第68代天皇:後一条天皇・藤原 威子(四女) となります。 これは当時としても驚くべきことで、『小右記』にも 「一家三后を立つるは、未曾なり。 」と述べられています。 こうして道長は三皇后を全て自分の娘にすることで、他の藤原氏の中でも特に抜きん出た存在となりました。 この歌が詠まれたのも、まさに一家三后が実現したその時です。 寛仁二年( 1018年) 10月 16日、四女・威子が女御として入内した日、道長の自宅で祝宴が開かれました。 道長は返歌を求めた上でこの歌を詠んだのですが、藤原実資は「御歌優美なり。 酬くひ答えるに方なし(優れた歌で、とても返歌は作れません)」として丁重に断ります。 代わりにその場に居た一同で唱和することを提案したのでした。 道長もこれを大いに喜び、歌が返されなかったことについて責めなかったといいます。 この一首の背景には、 無邪気な道長の姿がありました。 「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の鑑賞 満月にことよせて自身の権威を高らかに歌い上げた道長。 この歌によって、「道長といえば、尊大な権力者」というイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。 確かに道長は悲願であった藤原家のゆるぎない地盤の完成を確信し、この歌を詠んだことでしょう。 しかし、この頃すでに道長の目には、 月が欠けていくように権勢の翳りが見えていました。 道長は 30代の頃から様々な病気を繰り返し、晩年は糖尿病やその合併症に苦しんでいます。 この歌が詠まれる前年の寛仁元年( 1017年) 2月、従一位・太政大臣を辞任し、寛仁三年( 1019年) 3月には剃髪して 出家しています。 これらの行動は、まだ隠居するほどの年齢ではなかったことから、おそらく健康状態を考慮してのことだと考えられます。 だとすると、この歌は酒の酔いに任せ「今まさに絶頂期にあるのだ」と強がってみせたもので、 「このまま月が欠けなければよいのに」という本音が吐露されているのかもしれません。 また、道長が著した『御堂関白記』にはこの夜の宴についての記載はありますが、和歌については触れられていません。 道長にとってはあまり深い意味がなかったのかもしれません。 作者「藤原道長」を簡単にご紹介! (藤原道長 出典:) 藤原道長( 966年~ 1027年)は、平安時代中期の公卿です。 法成寺を建立したことから「御堂関白」とも呼ばれますが、実際は関白の地位についたことはありません。 藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男で、当初は有能な兄に隠れあまり目立つ存在ではありませんでした。 しかし 30歳の頃( 995年)、長兄関白・道隆と三兄・道兼が相次いで病没し、出世の道が開きはじめます。 さらに翌年には長徳の変で兄の子との政争にも勝ち、左大臣に昇進しました。 35歳( 1000年)のとき、すでに定子(道隆の娘)という皇后がいる一条天皇に、娘の彰子を入内させます。 そうして生まれた皇子が後一条天皇として即位し、初めて孫となる天皇の摂政をとりました。 さらに続々と自分の娘を中宮にさせ、一家三立后を成し遂げた道長は実質上最高の権力者となります。 誰もがうらやむ栄華を極めた道長でしたが、この摂政の地位をたった一年で辞し、息子の頼道に譲っています。 糖尿病とその合併症を患っていた道長は、政界から引退した後に、 54歳( 1019年)で出家しました。 死期が近づく中で壮大な法成寺を建立し、そこで病気療養しながら静かに暮らします。 浄土教にすがり極楽浄土を願うも、 62歳( 1028年)にこの世を去りました。

次の

子供の幸せ喜ぶパパの歌? 藤原道長の和歌「この世をば-」の別解(1/4ページ)

この世 を ば わが 世 と ぞ 思ふ 望月 の 欠け たる こと も なし と 思 へ ば 意味

確かに、「満潮(みちしお)」のように「満月」を「みちづき」と読めば、「望月(もちづき)」へ意味的にも音的にもスムーズにつながりそうな雰囲気は感じられる。 お餅(もち)との関係は? 素朴な疑問だが、望月(もちづき)、すなわち満月の丸い形と「もち」という発音から想像すると、望月とお餅(もち)は何らかの関係にあるのではないだろうか? この点については、埼玉県加須市の株式会社もちやWebサイトで次のような解説がなされていた。 昔からおもちの名前の由来には、様々な説があります。 谷川士清が「倭訓の栞」で、契沖 江戸時代の国学者 の影響を受けたかどうかわかりませんが、「もちは望月の望である」と述べています。 <株式会社もちやWebサイトより> この解説によれば、お餅(もち)の「もち」は、望月(もちづき)の「もち」に由来しているとの説があるようだ。 望月・満月の丸い形と「もち」を重ねることで、家庭円満や満願成就などにつながる縁起物としての意味合いもあったのではないだろうか。 ちなみに、月でウサギが餅つきをしているという伝説も、この「望月(もちづき)」から「餅つき」が連想されたのではないかと想像される。 中国の月餅との関係は? 望月(もちづき)とお餅(もち)といえば、中国の月餅(げっぺい)も思い出される。 月餅(げっぺい)とは、満月に見立てた丸く平たい中国のお菓子で、中にアンコが入っている。 中国では唐の時代から、中秋の名月を楽しむ「中秋節」に餅を食べる風習があったという。 現在の形の月餅は明の時代に入ってから流行したようだ。 望月(もちづき)と月餅の関係については、起源や由来としての関係性はないと思われるが、餅(もち)と月の関係性や相性の良さが伺われる興味深い伝統文化の一つであることは間違いないだろう。 望月と和歌 最後に、「望月(もちづき)」を用いた有名な和歌をご紹介。 作者は、平安時代中期に摂関家として栄華を極めた藤原 道長(ふじわらのみちなが)。 この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば <『小右記』より/原文漢文> 「この世は、自分(道長)のためにあるようなものだ。 望月(満月)のように、何も足りないものはない」といった意味になる。 「望月(もちづき)」は万葉集でもよく用いられており、奈良時代には既に定着していた言葉であることが伺われる。 関連ページ 夜空の月の満ち欠けとその名前の呼び方・読み方、別名・異名の一覧、意味や由来・語源まとめ.

次の

藤原道長が読んだ「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたること...

この世 を ば わが 世 と ぞ 思ふ 望月 の 欠け たる こと も なし と 思 へ ば 意味

概要 [ ] 後世に残されたもののうち、所蔵本には『小右記』、所蔵本には『野府記』という書名が付けられており、以後の写本・刊本はそのいずれかの系統に依拠するところが大きかったために、両方の書名が並存した。 更に祖父実頼の『』(『清慎公記』)を継ぐという意味で『 続水心記』という呼称も用いられるなど、異名が多い。 もっとも、これらは全て実資の没後の命名であり、実資自身は『 暦記』と呼称していた。 これは原本がの余白に書かれたことに由来すると考えられ、当時の貴族の日記に広く見られる呼び名である。 なお、その原本は今日伝わっていない。 元年()頃から書かれたとされるが、現存するのは天元5年()~5年()の部分のみである。 内容 [ ] ・の全盛時代の社会や政治、宮廷の儀式、故実などを詳細に記録してあり、それらを知るうえで大変重要な史料である。 記述は全体的に辛口であり、実資達小野宮流と対立する、特に実資と同時代の当主道長の政治および人物を痛烈に批判している、55年間の長期の記述であるため摂関時代の社会の状態や有職故実がよく理解できる。 また『』に記載されていない出家後の道長の法成寺での生活ぶりが窺え趣き深いものとなっている。 藤原道長が詠んだという歌、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」 が世に知れたのは『小右記』に記されたためである(道長の日記『』には登場しない)。 下記のような食文化に関する記述もあり、当時の貴族の暮らしぶりもうかがえる。 殿上において、暑さに堪えきれずに氷水 を飲んだ話• 自邸に蜂が巣を作ったので を採集した話• 藤原忠国という大食いで評判の男を召して、飯六升を食べさせた話 脚注 [ ]• 上記以外の知られている異名として、『小野宮右大臣記』・『小野右府記』・『小右相記』・『小野宮殿御記』・『小野宮記』・『小記』・『後小野宮右大臣記』・『後小野宮右府記』・『後小野宮記』・『後小野記』・『後小記』・『実資大臣記』・『実資記』・『続水真記』・『野略抄』・『野記』などがある。 ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 、1991年、185頁。。 に蓄えてあったもの。 当時氷は非常に貴重なものであった。 2年()。 こんにちの暦におけるである。 この年は降水量が少なく、が祈雨法を修して雨を降らせたことで知られる。 なめてみたら極めて甘かったと記されている。 当時はまだがなく、甘味といえば(こんにちで言う)かの煮汁ぐらいしかなかった。 版本 [ ]• 『現代語訳 小右記』(全16巻)、編、、2015年10月から刊行• 『小右記 影印集成』(全9巻)、古書出版部、2016年6月-2018年11月 参考文献 [ ]• 「小右記諸本の研究」(初出:『報』第5号、東京大学史料編纂所、1971年)(再録:『桃裕行著作集 4』 思文閣出版、1988年)• 監修・編『小右記註釈 長元四年』上・下、小右記講読会発行、八木書店(販売)、2008年• のデータベースから原文を読むことができる。 関連項目 [ ]• この項目は、 に関連した です。 などしてくださる(/)。 この項目は、に関連した です。

次の