大鑑巨砲。 大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは

聖将・東郷平八郎の真実・日本海海戦で完全勝利したが、太平洋戦争での『大鑑巨砲主義』(戦艦大和)の敗北を作った

大鑑巨砲

思想 [ ] 背景 [ ] 19世紀末ごろから主に蒸気機関の発達によって、大型で高速の艦艇が作れるようになった。 同時には大型化するほど射程も伸び、威力も大きくなる。 そこで大型の軍艦に大型の砲をより多く搭載しようという考え方が大艦巨砲主義であり、19世紀末から20世紀前半まで主要海軍国で支持されていた。 のでイギリスとドイツが・を含むで衝突し、砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まった。 [ ] でも、時ので大艦巨砲と「艦隊決戦」を至上とする考え方が確立された()。 その後も後半期まで・上の主流となった。 長駆してくる艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、・・等は脇役に過ぎないという思想があった。 [ ] 大艦巨砲主義の進展はとも関連しているという意見もある。 [ ] 「」が画期的だったのは、多数の主砲の射撃管制を可能とするの完成あってのことである。 頃まで各国の戦艦はと射撃を用いた射撃管制装置を主用していた。 しかし米英では以降の実用化により、着弾観測については光学式測距儀よりもレーダーを使用した電測射撃に移行していった。 これに対し、日独は米英に電子兵装で格段に後れを取り、電測測距と併用したものの、光学式測距儀を最後まで実戦で主用した。 なお、フランスはすぐに敗戦したため、射撃用レーダーを搭載したもののその効果は不明である。 イタリアは終戦時まで対空見張り用レーダーのみだった。 光学式の測距は特に遠距離射撃では誤差が大きく、近距離でも夜間、曇天、悪天候などで視界の悪い時にレーダー管制に劣っていた。 そのため、水上艦艇同士の戦闘において電測射撃が行えることはかなり優位だった。 ただ、初期の射撃用レーダーは測距性能は充実していたものの探知角が不足しており、時には光学観測射撃に後れを取ることもあった。 [ ] 他国より大型の戦艦に巨大な主砲を搭載するという文字どおりの大艦巨砲主義は、明け後には終焉した。 主砲口径の増大には歯止めがかかり、前代と同程度、あるいはやや小型化した主砲の採用例が多くなった。 これはの戦訓を元に、速力・防御力とのバランスの取れた戦艦の設計が重要視されたからである。 これ以前の戦艦は速度を、巡洋戦艦は防御力を妥協してを抑えていたが、そのような設計の問題点が明らかになった。 そこで速力も防御力もともに優れたポスト・ジュットランド艦(高速戦艦)が建造されたが、必然的に排水量も増え、主砲口径の増大を諦めざるを得なかった。 例外的に主砲口径を増大させた日本のは、排水量を抑えるための過度の集中防御と速力不足を問題視する見解もある。 航空機の発達と実績により中に航空機の優位が確立、の台頭が戦艦時代の終わりを告げる事となり、大和型(72,800 t 45口径46 cm 9門)と同等の(71,922 t 50口径16インチ砲 12門)全5隻がに建造中止された事をもって大艦巨砲主義は終焉を迎え、その後竣工したややなどもそれ以前に起工したものであり、以後戦艦の新造は行われていない。 賛否の意見 [ ] 大艦巨砲主義に関し、において日本海軍が米海軍と異なり、大艦巨砲主義に拘束され航空優位思想に転換できなかったという批判があるが、大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しなかったという語りも、事実は、或いは使用され或いは使用されようとし或いは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は日本海軍も聯合機動部隊の発令をした時期であり、この批判はであるとする意見もある。 ただし、航空主兵論者の海軍中佐によれば、当時の日本海軍の航空主兵論者による大艦巨砲主義への批判は、日本海軍において、ほぼ使用されなかった戦艦に予算・機材が使用され、主力となった航空に十分に回らず、大艦巨砲主義の下で戦艦は何もしないことで航空部隊の行動の妨害になっていたことに対してである。 戦後、日本海軍の出身の大艦巨砲主義者は次のように語っている。 中将は「多年戦艦中心の艦隊に没頭してきた私の頭は転換できず、がに偉効を奏したのちもなお、機動部隊は補助作業に任ずべきもので、決戦兵力は依然、大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた」と反省を語っている。 大佐は、大艦巨砲が航空主兵に敗れてなお「戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と生涯主張し続けた。 [ ] 戦後、大艦巨砲主義に反対していた日本海軍の航空主兵論者たちは次のように語っている。 大佐は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのはでの犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。 「大砲がなかったら自分たちはするしかない。 多分そういうことでしょう。 思想を変えるということは、単にの構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。 人情に脆くて波風が立つのを嫌うのでは、なかなか難しいことです」と語っている。 中佐は、戦艦無用論も含むは戦前極端とも見られたが、太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明したとして、特に航空関係者が嘆いていたのは、大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたと語っている。 歴史 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年5月) 大砲技術が発達しでが可能になると、舷側に穴を空けて多数の艦砲を並べると被害を受けやすくなった。 そのため砲数を減らし、一門あたりの威力を高め、敵艦砲に耐える装甲を施す事となり、の時代となった。 技術開発が進み、砲の大きさ(口径・口径長)が威力と比例するようになった。 から装甲艦への移行期には小型化が見られたものの、大砲・動力・技術の進歩に従って軍艦は巨大化していった。そして木製艦体に装甲を施した装甲艦から、艦体自体を鉄鋼製とした艦へと移行、大型の艦体と搭載砲を持つ戦艦と、小型のなどを目的とする巡洋艦へと分岐した。 1905年から1945年までに建造された戦艦の排水量グラフ。 のサイズやパワーは第一次世界大戦をはさんで急速に増大した。 多くの海軍国によるは1922年のでいったん終わりを迎えた 近代戦艦の始祖とされるのはである。 なお、から順次竣工したが、30. 5 cm砲4門の主砲を搭載、そしてその砲の威力に対応する装甲を持つ、の基本形を確立した。 しばらくは各国ともこの様式で戦艦を建造したが、にで完成した「」によって主砲4門の枠が外された。 この艦は従来の戦艦に比べて飛躍的に向上した攻撃力と機動力を有し、建造中の戦艦をも一気に旧式にするほどの衝撃を与えた。 そのためこれ以後世界の海軍は「ドレッドノート」を基準とし、これらをと称する。 そしての登場によって、30. 5 cmという主砲口径の枠も外され、戦艦の攻撃力は主砲の大きさで決まる時代となった。 敵艦より大きな主砲を備え、敵弾に耐えられる厚いを備えた戦艦がでは有利である。 その結果、戦艦とそれに搭載される主砲は急速に巨大化し、また数量で他国に負けないために大量建造が行われた。 その他の理由によって、前代より排水量・主砲が小型化する場合もあった巡洋艦とは対照的に、戦艦はひたすら大型化の一途をたどった。 日英独は戦艦と同じ巨砲を持つも建造し、中には大和型の25年も前に世界初の18インチ砲搭載艦となった「」等がある。 のジェットランド海戦でイギリスとドイツが弩級戦艦・超弩級戦艦を含む艦隊で衝突し、砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まり 、 [ ]日本では、日露戦争後の1906年からまでは戦艦が海軍力の主力として最重要視され、各国は巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を展開。 「主力艦」たる戦艦部隊同士の砲撃戦によってひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ、やなどの戦艦以外の艦艇は主力艦の「補助艦」とされた。 戦艦を保有できない中小国の海軍でも、限定的な航続距離・速力のと呼ばれる艦を建造し、戦艦に近い能力を持とうとした例も多く見られた。 この時期には戦艦は戦略兵器であり、他国より強力な戦艦は国威を示すものだった。 「」の16インチ砲 戦艦の建造競争はのにおける締結により一旦中断()したが、のワシントン条約が失効すると、建艦競争が再開された。 しかし、主砲を巨大にする大艦巨砲主義は衰退し、速力と防御力のバランスが重視され、主砲口径も従来か従来以下のサイズにとどまったが、日本だけ例外であり、戦艦史上最大の46センチ主砲の64,000t級(「」「」)を建造した。 [ ] 大和型は6万トンを超す大艦であり、45口径46cm砲という巨砲を備えた大艦巨砲主義の申し子だった。 戦艦との戦闘では優位に立てたはずの大和型も航空機には勝てず、「大和」「武蔵」ともにアメリカ海軍航空母の集中攻撃を受けて沈没した。 また大和型の他にも・を問わず多数の戦艦が航空機やの攻撃で沈没した。 さらに日本は大和型よりも大型の51cm砲を積むの建造を予定していた(戦中に計画中止)。 ただ、米英仏独ソも35,000トン級を凌駕する巨大戦艦の建造を計画はしている。 しかし、直後に始まった第二次世界大戦では海軍の主役の座は航空母艦に移った。 かつて想定されていたような戦艦同士の砲撃戦はほとんど発生せず、戦艦の役割はもっぱら対地砲撃、や輸送船団の護衛、あるいはなどとなった。 ワシントン条約期間中に建造されたフランス戦艦(竣工)以後、第二次世界大戦後までの9年間に建造された戦艦は27隻だった。 第二次世界大戦前または戦中に建造が開始され、大戦中にが4隻就役し、戦後に完成したイギリスの「」とフランスの「」を最後に新たな戦艦は建造されていない。 1941年12月、太平洋戦争が開始。 など緒戦の航空戦で、主役である戦艦を出す前の「」としての航空機が予想以上の戦果を出し、(長官は中将)はを半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。 それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていたが勢いを増した。 1942年(昭和17年)4月28日及び29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「はを造り、日本海軍は戦艦「」をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた。 第二艦隊砲術参謀は大和の主砲射撃を見て1942年(昭和17年)5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。 的を得つつある」と残した。 海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空戦力の価値が偉大と認め、航空優先の戦備方針を決定する。 しかし、方針、戦備のみで施策、実施などまで徹底していなかった。 ・力共に不十分な日本では航空と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったがそこまで行うことができなかった。 は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊でを獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった。 1943年(昭和18年)第三段計画発令で連合艦隊作戦要綱を制定発令し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた。 に第一艦隊が廃され、翌月にが創設されたことにより、ようやく大艦巨砲主義が終焉を迎え、が最重要視されることとなった。 その機動部隊と(陸上)航空兵力は、、、など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。 レイテ沖海戦に参加した機動部隊にもはや攻撃力はなく、部隊として壊滅した。 同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦「武蔵」がによってされた。 翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され()、日本海軍は大艦巨砲と航空主兵双方がアメリカ海軍の航空主体の物量に敗れる形で終焉を迎えた。 なお、戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の。 「」と「」が出撃し、一定の戦果を挙げている。 出典 [ ]• 日本史広辞典編集委員会編『日本史広辞典』山川出版社、1997年10月22日 第一版第一刷発行 、1281頁。 日本造船学会編『日本造船技術百年史』日本造船学会、1997年5月、51頁。 Gardiner, Robert, ed. , The Eclipse of the Big Gun: The Warship, 1906—45. Conway's History of the Ship, London: Conway Maritime Press, 30 May 1992. , p. 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』まえがき• 森雅雄「城西国際大学紀要 21 3 , 1-13, 2013-03• 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁• 千早正隆ほか『日本海軍の功罪』プレジデント社263頁• 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社300頁、源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫185頁• 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁• 戦史叢書95海軍航空概史268頁• 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁• 戦史叢書95海軍航空概史268頁• 戦史叢書95海軍航空概史269-270頁• 戦史叢書95海軍航空概史348頁 関連項目 [ ]•

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企業の話)大鑑巨砲時代の終焉。これからは、収益性の高い機動力のあるチーム及びチーム連携による強力な組織の時代:吉政忠志のベンチャービジネス千里眼:オルタナティブ・ブログ

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大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、20世紀前半の軍戦略において支配的であった、「でっかい船にでっかい積めばじゃね?」という考え方である。 概要 単純に言えば、「強なを搭載し堅固な装甲によって防護された『の』である『』の質と量が上戦の優位を決定する」という思想である。 ただし、その思想のは20世紀のうち前半だけであった。 20世紀初頭、16年にが建造した級が大艦巨砲主義の先駆けであるとされる。 本級は複数配置された同一口径のを一元的に管制する方式を採用し、従来のとは較にならない戦を得たことに加え、蒸気タービンの採用による優れた性も併せ持っていた。 また防御についても列が(そして自身も)運用・建造中のを一気に陳腐化させ、列はに肩るを「(ド)級」(の字は)、駕するを「(ド)級」と呼ぶようになった。 こうして、列強は大建艦競争の時代に突入していくことになる。 自己のを防ぐだけの装甲を持ったは、より優れたを持つをもってしか撃破し得ない。 つまり、強ながどれだけ保有するかが的となり、実際に火を交えることなくそのの持つ軍が明されると考えるに至った。 以後、の列強各では建造が猛な勢いで始まることとなる。 建造されるたびに艦のは大きくなり(と、同時に口径も増大し)、財政を転覆させかねないほどの建造費を必要とするにいたってようやく列強各は頭をて11年、軍条約による中断期間(軍)を迎えることとなる。 7年の条約明け後もこの建造が続くかと思われたが、その直後に発生したにおいて大艦巨砲主義に基づいて建造されたの優位性は、発展著しい及びに覆されることになった。 またこれら一連の流れをもって、の成功経験に基づくものの時勢にそぐわなくなりつつある手法などを揶揄する言葉として「大艦巨砲主義」が使われる場合がある。 大艦巨砲主義の終焉 一般的には、大艦巨砲主義は軍戦略の兵義への転換に伴って終焉をみたとされる。 しかし実際には、それ以前に大艦巨砲主義の没落は始まっていたとする解釈もある。 第一次大戦においてとの・隊が入り乱れたジュッンド(ユンド)戦において発生した予想だにしない中・遠戦は双方に多大な損をもたらした。 それまで巨費を投じてこつこつと培ってきたがわずか数時間、一日の戦によりの藻と化す。 このに衝撃を受けたのか、軍は艦隊保全義により傾倒し、艦隊は「だけ」であれば良いと考え、などを使った戦に注することなる。 対するはの戦に対して上護衛戦を行っていくことになった(このにはととの戦差があまりにも大きかったということもある)。 これはの戦いの有様が など様々な点 を必要、あるいは阻するための となったため、局所的な上支配権を獲得するための手法として「戦」という方法がに合わなくなってきたととしてみるべきかもしれない。 またジュッンド(ユンド)戦の戦訓は、「遠撃戦における大度で落下する弾を防ぐためには、より一層の装甲化が必要」ということであり、結果としてに対する建造・維持の増大をさらに促した。 が実戦ではあまり意味のない食いであるという認識を各の軍関係者がどれほど共有していたかはともかく、財政が傾くほど巨額な経費がかかるの建造を抑えるべく、戦間期にの建造は条約によってされることとなり「軍」と呼ばれる時期を経て、へと至る最後の建艦競争に突入した。 もっとも、この時点での攻撃手段であるによる攻撃というのはに達しようとしていたのもである。 すなわち、どれだけ巨を搭載したとしても観測できる見通しは は丸いので 線を越すことは出来ないというにぶつかることになった。 観測できないでの撃を可にするため、に弾着観測用の観測機を搭載しようという手法も生み出されたが、当時芽しつつあったの集中運用プム、すなわちに搭載されている艦載機によって阻されることは眼に見えていた。 ここで諸外の軍関係者の中から、観測機を蹴散らすためのにを積めば、より遠での攻撃が可になるのでは? というに達する者が出てくるのは時間の問題だったといえるだろう。 もっとも、この時点では攻撃によって行動中のを撃破することが可だとはまだ確信されていなかったのであるが。 が始まると、ト襲、次いでにおいて、戦がを撃破ることが明された。 さらにはで航行中の・が攻撃によって撃破される事態に至り、兵は大艦巨砲主義に対する優位をした。 「が戦を発揮するための偵察役」あるいは「偵察役である観測機を撃破する」ためであった機動部隊の地位が、従逆転したのである。 がを建造したことを「時代錯誤な大艦巨砲主義」と評することもあるが、建造計画が立案された当時はまだが流ではなかったので、注意が必要である。 結果だけを見るならば、に先見の明がなかったとも言える(そのが前述のでの有性をに明してしまったのがなんとも皮)。 余談だが、級三番艦「」は建造中にからに変更されている。 一方、諸外ではどうだったかというと、ではの政策による一つとして、建造計画がしていた。 雇用対策、すなわち共事業としての(だけではなくまで)量産が行われていたわけで、もはやの差はいかんともしがたいものがあり泣ける始末である(がに対して優越することが出来たのは、開戦の有に関わらず年前後だというのがの判断で、このがあったからこその「一年、二年であれば…」という有名な発言につながっている)。 もっとも最後のは大艦巨砲主義というよりはの級を意識したようなのとして誕生している。 では級が前に建造開始されたものの、生き残った四隻はが終わるとあっという間に訓練艦、予備役艦艇扱いとなってしまった。 中に建造されたのは級だけ。 さらに言えば級の建造的も未使用の身があったので、もったいないから…というもので、建造されたのは一隻にとどまる(ただしの技術のを結集して作られたのはいうまでもない)。 しかし、大艦巨砲主義が覆されたとしてもの存在意義が否定されたわけではない。 その撃を生かして沿撃で活躍したもある。 (・ヘンダーソン飛行場撃)、ガングート級(攻囲)、によるノディ上陸、やなどの上陸戦で有効な撃を行っている。 陸軍が運用するのはせいぜい口径mm~mmであり、これはのといってもいい。 かたや級のはmm~0mmという大きさである。 がいかに巨大なを扱っているかわかるだろう。 による沿撃の成果は一個師団に匹敵する、という報告があがるのもむべなるかな、ということだ。 大も、はをのたびに沿撃用に引っり出し、後にやを搭載するを。 はどこのウォーンダーだ。 もっとも、当時はを集中運用するプムがなく、「引っりだすならついでに乗せちゃえば? 」みたいなだったとは思うが…そのもはすべて退役し、記念艦やとして余生を過ごしている。 余談ではあるが、最大の功績と言えばと沈黙を世に送り出したことである。 大艦巨砲主義とロマン に強く、堅く!を志向する大艦巨砲主義は、々の意識の単純な部分に強く訴する。 そもそも、つるん、ん、な()よりも豊満でメリの利いたの構造そのものにに惹かれてしまう部分があるのは否めない。 いや、両方好きですけど。 「あれ、に飛行甲つけたらじゃね?」 「あれ、にでっかい積んだらじゃね?」 とが膨らんでしまった人のために、「こうくうせんかん」というものがある。 かつてが保有していたが、、が「重」として。 巨というにはものたりなくもあるが、せっかく予算を組んで建造してもらったのだから、を楽しんでみて欲しい。 個人的な領域における大艦巨砲主義 強く、硬く、太く、長く、多く、そして… よりもい! ・・・という大艦巨砲主義の理想を全に達成することは、的には様々な制約からであることはの教訓からみてである。 … 関連動画 関連コミュニティ 関連項目• (大艦巨砲主義万歳)• :[]大艦巨砲主義を掲げるの一つ。

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世界の大艦巨砲―八八艦隊平賀デザインと列強の計画案 (光人社NF文庫)

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もくじ• 経営はなぜ失敗するのか? 歴史を通して考察する 企業経営とは、経営資源(ヒト・モノ・カネ・情報)を最大限に活用して価値を生み出し、利潤を得る活動です。 より効率的な企業活動のためには、目標を明確に定め、外部環境が及ぼす機会や脅威を正確に把握し、目標を達成するための手段や方法を策定し、必要な人員や予算を手当する必要があります。 これら一連の活動のなかで必要とされるものが合理性です。 軍隊に求められれる合理性 さまざまな形態の組織があるなかで、もっとも合理性が求められる組織とは軍隊です。 戦争の相手は自分の予想や期待とは違った行動をとることも多く、ちょっとした環境の変化や運・不運が最終的な勝利を左右することも珍しくありません。 不確実性が高く、錯誤が連続する環境の中でできるだけ勝利の可能性を高めるためには、相手よりも多く合理的な判断を積み重ねることでミス(損失)をできるだけ少なくしていかなければなりません。 しかし、第二次世界大戦において、日本軍はおよそ合理的とはいえない判断を繰り返しました。 プロセスや動機を重視した評価: 結果ではなく責任者の思い、やる気などが評価の対象とされた などを挙げています。 これらすべてと無縁である組織は少数かもしれませんが、多くの組織(とくに、日本的情緒が風土として根付いている企業)が大なり小なり抱えている問題であるはずです。 この記事では、とくに 「学習を軽視した組織」について掘り下げて考察していきたいと思います。 経営を失敗に導く要因|過剰適応 組織は経験に学びます。 ある問題の解決に成功したにせよ失敗したにせよ、その経験を組織の内部に蓄積することで、のちに同種の問題に直面したとき、前回の経験を活かしてより効率的に問題に対処できるようになります。 しかし、この経験が非常に強固なものであった場合、のちの学習を阻害することがあります。 日露戦争完勝での原体験 日本軍にとっては、日露戦争が原体験と呼べるものに当たります。 日本軍は、日露戦争下の日本海海戦において、艦隊決戦でほとんど完勝ともいえる勝利を収めました。 これにより、日本は国力ではるかに勝るロシアとの戦争に勝利します。 極東の小国だった日本が一躍列強の仲間入りを果たすことになるという大勝利は、その輝かしさのために、のちに日本軍から思考の柔軟性を奪うことになります。 艦隊同士の決戦に勝利することで戦争自体を勝利に導けたという日本海海戦の経験から、日本は艦隊決戦思考、大艦巨砲主義への信仰を深めました。 この経験による学習は修正されることなく第二次世界大戦まで引き継がれます。 日本軍は真珠湾攻撃や珊瑚海海戦で航空部隊の有用性を自ら示しながらも、時代遅れのドクトリン(基本原則)はなお継承されました。 海戦のメインプレーヤーになりつつあった空母や航空機の研究開発・製造を滞らせる一方で、実用性の低い戦艦大和などを巨費を投じて建造しました。 原体験から生まれた艦隊決戦思考、大鑑巨砲主義の結末 日本軍が示した航空機の有用性を合理的思考から積極的に取り入れたのは、相手側であるアメリカでした。 これが、のちに日本海軍の敗北を決定づけたミッドウェー海戦に結実します。 日本海軍は、日本海海戦において素晴らしい成功を収めてしまったがために、その成功体験に縛られました。 艦隊決戦志向、大艦巨砲主義は、国力において勝る相手との戦争に勝たなければならないという状況に過剰に適応した結果です。 特定の状況に特化して進化しすぎた日本軍は、かつて栄えながら環境の変化に適応できずに滅んでしまった恐竜と同様の結末を迎えることになります。 時代の変化、環境の変化に適応するためには、過去の成功を導いた理論を捨て去り、新しい理論を構築しなければならなかったのです。 特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却ができず自己革新能力を失ってしまった。 別の視点からの日本軍の失敗の考察 有名なビジネス書として『ビジョナリーカンパニー』というものがあります。 シリーズの三冊目は『衰退の五段階』という副題が付けられたものです。 同書によると、衰退は5つの段階に分かれると語られています。 第一段階は「成功から生まれる傲慢」です。 世界の列強の仲間入りを果たすことになった日露戦争の勝利がここでいう成功に当たるでしょう。 日本海海戦の艦隊決戦に勝利することで国力においてはるかに勝っていたロシアとの戦争に勝ってしまったという成功体験こそが、戦略と戦術の革新を妨げる結果をもたらしてしまいました。 必勝の信念が堅ければ物質的威力を凌駕するという精神主義、あるいは戦術的勝利によって戦略的勝利を導くための大艦巨砲主義の有効性を経験から帰納的に育んでしまったのです。 続いて日中戦争から太平洋戦争へと発展する大東亜共栄圏の構想は第二段階の「規律なき拡大路線」と見ることができ、そして第三段階の「リスクと問題の否認」は軍指導部ですら勝ち目が薄いと自覚していた大国アメリカを相手とした開戦に認められます。 第四段階「一発逆転の追及」は、海軍においては物量的劣位、戦略的劣勢を戦術的勝利で引っ繰り返すという基本戦略がそもそも一発逆転を期したものであるとみなすことができます。 ミッドウェー海戦はその基本戦略を実現するはずのものでしたが、結果は無残な敗北に終わりました。 その後、日本軍は敗退を重ね、第五段階「屈服と凡庸な企業への転落か消滅」へと至ります。 ビジョナリーカンパニー3において示された衰退の五段階は、驚くほどに日本軍の辿った道筋と一致します。 研究対象が企業であるか軍隊であるかという違いはありますが、併せて読むことで日本軍の失敗の本質をより深く理解できるようになるでしょう。 この記事で参考にした書籍を下に掲載しておきます。

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