ポルポト。 カンボジア ポル・ポト政権の闇

カンボジアの歴史から学ぶポル・ポト政権による大量虐殺!

ポルポト

ポルポト派(クメール・ルージュ)により支配されたカンボジア。 カンボジアであった悲惨な出来事 チュンエク大量虐殺センターの犠牲者慰霊塔 歴史上ではまだつい最近と言える1996年、カンボジアで悪夢のような大量虐殺を行ったポル・ポト政権が崩壊しました。 ポル・ポトはなぜそのような非人道的な独裁政治を行ったのか。 今回の世界一周でカンボジアを訪れるにあたり、キリングフィールドと呼ばれる大量虐殺の跡地、そして強制収容所での拷問の歴史を語るトゥール・スレン虐殺博物館を訪れました。 そこで見たものは想像を超える悲劇でした。 トゥクトゥクのツアーが利用できた 安心ドライバーのヒーさん Killing fielad、死の大地と呼ばれる場所はカンボジア内に300余り存在します。 今回訪れたのはプノンペンの南東約15kmにあるカーン・ダンコー地区のチュンエク村です。 遠いのでトゥクトゥクかタクシーで移動することになります。 "KILLING FIELD"が残るチュンエク 寂しい道へ プノンペンからトゥクトゥクに乗ること40分ほど。 キリングフィールドのひとつ、チュンエク大量虐殺センターに着きました。 朝8時にホテル前を出発したのですが、渋滞もあり時間がかかりました。 ちなみにトゥクトゥクに長時間乗るときはマスクとサングラス・眼鏡があると良いです。 排気ガスや砂埃がダイレクトに来ます(用意して行きました)。 チュンエク大量虐殺センター入口 ポル・ポト政権がカンボジアを支配してからわずか4年、カンボジアの人口は3分の2に減少しました。 つまり国民の3人に1人が殺されたことに。 ポル・ポトは計300万人以上もの人々を惨殺したと言われています。 その政治とは一体どのようなものであったのでしょうか。 入場料は大人1名6USD(音声付き) フランス留学中、ソビエト連邦の最高指導者スターリンの思想の影響を受けたポル・ポト。 スターリンも「粛清」の名のもとに2千万人以上を虐殺したと言われている独裁者です。 そんなスターリンに猛烈に傾倒していたポル・ポトは、カンボジアでクメール・ルージュ(カンボジア共産党)を率いて政権を握りました。 (カンボジアの人々はクメール人です。 ) そして政権を握ったポル・ポトは、非常に過激な共産主義を執り行うのです。 日本語ガイドの音声も借りられます 「平等で格差や階級のない社会、財は皆で分け合うもの」というのが共産主義の考えですが、その極端に走ってしまったのがポル・ポトでした。 ポル・ポトは 「ポル・ポト政権には知識人が不要。 知識があるもの、技術があるものは共産主義の邪魔になる」 と考え、 「政治を行う者以外は知識を持つ必要がない、原始時代のような平等な生活が理想」 という思想のもとに政治を執り行ったのです。 極端な独裁思想。 一見穏やかな公園のよう まだほんの42年前の1975年、大虐殺は始まりました。 ポル・ポトははず都市部に住んでいる人々全員を農村に強制的に移動させました。 自国の食料生産を上げるためです。 短期で3倍にしろとか無茶な指示をしていたようです。 何の準備なく着の身着のまま農村に連れて行かれ、持ち物と言えば托鉢のような器だけ。 まさに原始時代のような生活です。 常軌を逸したポルポトの虐殺 たくさんの方が訪れていました ポルポトはそんな政権に対して不要となる知識人をおびき出すため、こんなことを呼びかけました。 「国の発展のために知識人、医者、職人、教師、などがいたら名乗り出て欲しい。 君たちの知識、技術が必要なのだ」 この呼びかけを信じた人々は、何も疑わず国の発展のためにポルポトの元に集まりました。 辛く厳しい農作業からも解放され、お国のためにできることをと喜んだのも束の間、名乗り出た者は一斉に殺されました。 中にはカンボジアに海外留学中だった方も居たそうです。 鳥の親子に心がなごむ 原始時代を理想としているので、貨幣はなくなり、その代わりがお米。 本当に時代に逆行しています。 次第にポル・ポトの虐殺はエスカレートしていきました。 歌手や俳優などのいわゆる芸能人、僧侶、有名人なども虐殺の対象となりました。 今の日本人だったら対象にならないのって新生児くらいではないでしょうか。 子供医者の悲劇 虐殺の手は時に幼い子供まで そんな具合なので、多くの大人たちは殺されていきました。 残ったのは子供だけ。 なぜ子供を残したのか? まだ何も知らない子供は「悪い考えに染まっていない」とされました。 その子供たちを洗脳し、ポル・ポト思想の少年兵士を多数生み出していったのです。 さらに恐ろしいのは、 医者の代わりも子供にさせたことです。 ほんの1週間程度の医療教育を受けた子供が注射や手術までするので、結果は当然無残なものだったそうです。 発見された遺骨たち 歩きながら当時の様子を静かに語る音声が痛々しかったです。 このチュンエクにはまだ発掘しきっていない遺骨もあるそうです。 村民がじゃがいもを掘り出そうとしたら、すごい臭いがして遺体の山が見つかったこともあるとのことでした。 菩提樹 このKilling fieldを発見したとき、遺体の山が腐敗して土が盛り上がっていたそうです。 音声ガイドでは、女性が裸にされてレイプされたあげく殺されたり、母親の目の前で子供を虐殺したりといった当時の無残な状況や、生存者の証言が流れました。 ここが虐殺の場であることを隠すために楽しい音楽を流していたこともあるそうです。 その音楽はガイドからも流れました。 悲しい音に聞こえました。 キリング・フィールド「チュンエク」の悲しき慰霊塔 頭蓋骨が収められている慰霊塔 そんな人々の魂を鎮めるために建てられたのがこの慰霊塔です。 ここには犠牲者の方々の頭蓋骨が収められています。 並ぶ頭蓋骨 17段の塔にみっしりと積み重ねられた頭蓋骨。 きっと頭蓋骨がきれいに残らなかった方もいらっしゃるのでしょう。 献花とお線香を買ってお供えできる もう二度と、こんな悲劇が世界のどこででも起きませんように。 我々は知識・良識で戦わなければならない。 どうか安らかに。 トゥール・スレン虐殺博物館 プノンペン市内で行きやすい場所 チュンエクの大量虐殺センターの後、ツアーのもう一つであるトゥール・スレン虐殺博物館を訪れました。 このトゥール・スレン博物館はプノンペン中心部にあるので再びトゥクトゥクでプノンペンに戻ってきました。 帰りは30分くらいでした。 ちなみに冒頭で紹介したクロマー・ヤマトさんはここから徒歩5分かからないくらいの場所にあります。 こちらも入館料はツアーと別で1人5USD トゥール・スレンでは音声ガイドがプラス3USDで借りられますが、内容は違うけどチュンエクで虐殺の歴史を聞いたからこっちはいいかな?と借りませんでした。 東南アジアはこういうタイプの券が多い気がする 入ってすぐ石板があります こちらでは強制収容所の独房や拷問に使われたベッドや器具が展示されていました。 中には頭をマイナスドライバーで後ろから刺すために座らせるイスもありました。 収容所内は撮影禁止だったので写真はありませんが、当時のおぞましい状況が、写真や絵画、実際に拷問に使われた物体によって記録されていました。 見ていて鳥肌が立ちました。 追悼碑 まだほんの42年前。 一時は廃墟と化したプノンペン。 この収容所には1万2000人~2万人の方が収容され、確認された生存は12名とのことです。 まだ当時を知りながら生活している方もいらっしゃるはず。 言葉の壁もあり深くは聞けませんでしたが、トゥクトゥク運転手のヒーさんも、もしかしたら当時を知っている方の1人かもしれません。 ポル・ポトの最後は心臓発作? そんなポル・ポトの死因は心臓発作と言われていますが、その死因は明らかではありません。 1990年の冷戦終息によりアメリカがベトナムと仲直りすることでポル・ポト率いるクメール・ルージュは用済みとなり、かつての同志による暗殺されたのではとも言われています。 カンボジアの歴史を知って感じたこと カンボジアの平和と発展を プノンペンの街ではクラクションも控えめで、ハノイやホーチミンほどではありませんでした。 カンボジアの方の国民性なのかもしれません。 人々も穏やかな印象です。 入国当初は怖いイメージだったカンボジア、プノンペンですが、カンボジアの歴史を知ってその思いが薄まりました。 やはりまだ途上国で生活のために盗みをする人も居るとのことですが、これから良い方向に発展していくのではないかと思います。 今は何ができるか具体的には見えてこないけれど、何かしたい、そんな気持ちになったキリングフィールドとトゥール・スレン博物館の訪問でした。 日本から日本語でも予約できるので、 などで予約していくといいかもしれません。

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カンボジアの歴史から学ぶポル・ポト政権による大量虐殺!

ポルポト

1975年に独裁者ポル・ポトによる独裁政治で国民の大虐殺が始まったとされています。 この虐殺によって多くの命が奪われました。 全く罪もない人、ポル・ポトの政治に賛同した人も虐殺されていきました。 国全体の人工が大きく減るほどの虐殺でした。 この虐殺にはカンボジアの独裁者ポル・ポトの異質な思想が大きく関係していたとされています。 独裁者ポル・ポトのその歪んだ思想によりこのような、罪もない多くの国民が残酷な方法で拷問、虐殺されていったようです。 なぜそのような思想に至ったのか、なぜこのような大量虐殺を実行したのか、その大量虐殺の詳細な内容はどのようなものだったのか、カンボジアの独裁者ポル・ポトとはどのような人物だったのかなど、詳しく調べて紹介していきます。 1960年、ポル・ポトは密かにカンボジアの首都プノンペンでカンボジア共産党を結成しました。 これは、共産主義運動でもベトナムの指導から離れてカンボジア人を主体とした運動とすることを表明したものになります。 ポル・ポトは結成時には党内序列第三位でしたが、1963年に党書記となり実権を握ることになります。 と同時にジャングルに潜り姿を消したとされています。 このポル・ポトを主導とするカンボジア共産党を、ポル・ポト派、クメール・ルージュと呼ばれています。 1965年からはベトナム戦争が激化しました。 この頃、ポル・ポトはシハヌーク政権打倒を目指してゲリラ活動続けながら、中国に行き毛沢東とその文化大革命に強い影響を受けていたようです。 ポル・ポト派は1968年から反政府の武装蜂起を開始しました。 特にロン=ノル政権やシハヌーク派の官僚、教員やマスコミ関係者などの知識人がまず標的とされました。 この時に掲げられたスローガンは「国の発展のために知識人、医者、職人、教師、などがいたら名乗り出て欲しい君たちの知識、技術が必要だ」というものでした。 ポル・ポトの掲げたこのスローガンを信じたものは続々とポル・ポトの元に集まったとされています。 このスローガンは海外にいたカンボジア人のところにも発信されていたようです。 苦しい農作業から解放されると喜び集まった者も多くいました。 しかし、その集められた人たちは全て機関銃により射殺されていまいました。 ポル・ポトの政治にはこういった知識人は邪魔であったとされています。 この他にも抵抗する人や、芸能人、歌手、俳優、僧侶、ちょっとした有名人も殺害されました。 この無差別虐殺ともいえる大量虐殺により多くの大人が殺害されました。 そして、多くの子供が残されました。 これこそがポル・ポトの狙いだったとされています。 無垢で純粋な子供に洗脳教育をし、ポル・ポトを神に近い存在と認識させることが目的のようでした。 教育を施された子供たちは兵士として、強制収監、強制労働している大人たちを監視、拷問、殺害していたという常識では考えられない状態だったようです。 子供たちはポル・ポトを神、それ以外をスパイとして見る様に洗脳されていたようです。 そして驚いたことに、子供たちに医師の代わりもさせていたようです。 しかし、子供であることに変わりはないので当然医学の知識などありません。 よって子供たちは診察や手術と称し、傷口を引っ張ったり、メスで適当に体を切るといった行為をしていたようです。 子供たちは民家の軒下などに潜み、大人たちの会話等を盗聴していたりしていたそうです。 そして、ポル・ポト政権の政治等の不平不満などを聞いたら、強制的に収容所に連行していったそうです。 その収容所では子供たちによる拷問が行なわれたそうです。 老人、病人、女関係なくペンチで乳首を引きちぎったり、棒で死ぬまで叩き続けたりしたそうです。 また、子供たちはこういった大人を殺害することでポル・ポトから褒められるため、殺害や拷問に積極的だったようです。 純粋な子供の心を利用した、人間とは思えないほどのポル・ポトの政治、虐殺は徐々に範囲を拡大していきました。 そして、ベトナムに侵略して住民を虐殺したことでベトナム軍がカンボジアに侵攻を開始いました。

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ポルポト(単位)とは (ポルポトとは) [単語記事]

ポルポト

「たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。 」 「腐ったリンゴは、箱ごと捨てろ。 」 「知識人は邪魔。 無知で貧乏で純粋な農民が最も改造しやすい。 独裁者 ポル・ポト ポル・ポトについて詳しく知りたい方は ポル・ポトについてざっくり知りたい方は ポル・ポトのマジキチ政治について知りたい方は下へ読み進めて下さい。 何しに行くかというと通った道に 地雷を埋めること。 これによって他国からの侵略を防ぐ効果が多少なりにはあったが、自国民の大量虐殺にもつながり、また未だに地雷の回収は終わらずポルトガルが先進できない要因にもなっている。 理由は、「めんどくさい」から。 知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。 最も改造しやすいのは、捨てるものが何もなく、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ。 この理論でまず 医師・学者・芸術家・教師、そして外国語ができる者を全員処刑した。 またモグリがいる可能性も考慮に入れ メガネをかけてる者もとりあえず処刑した。 知識人を虐殺する理由はいくつかあるが、 第一は 伝統的な文化の崩壊が狙いだった。 つまり、伝統的な文化を知る者、外国語ができる者を殺してしまえば、その文化や習慣が諸外国に伝わることが無い。 学校・病院・宗教、そして結婚制度も廃止、家族も引き裂き、心の拠り所を全て壊した。 こうして洗脳のための環境を作り上げたのだ。 そして農業を国の産業にとするので都市は不要とされプノンペンなどの都市は農村に強制移住させられた。 まさに原始共産主義への逆戻りであった。 一見平等と思える政策も(見えないか)、全ては自分よりも優位に立つ人間が生まれてこないようにするための政策。 理由は、色に染まっていないから。 つまり、無駄な知識が入っていないためポル・ポト自身を神格化させる洗脳には大変効率的なのだ。 牢屋の看守も子供 スパイも子供 大人を殺すのも子供 そして、 医者も子供… 傷ついた兵士ら、悪環境の中体調を壊す農民ら、当然向かう先は病院だ。 しかしそこで診察してくれる医者は子供だ。 これほど恐ろしいことがあるだろうか…。 マジキチ政策まとめ 政策が始まる1975年の人口ピラミッドは次のとおり。 政策が実行されポル・ポトが政権を握っていたのは わずか4年と短いが、この短期間で人口は実に 100万人以上減った。 その後のカンボジアの経済成長の遅れの原因になっていることは言うまでもない。 もともと毎年100万人以上の規模で人口が増加していた国で、逆の現象が起きるというの人為的な人口調整がなければ起き得ないこと。 人1人で国をも変えてしまう、ポル・ポトの恐ろしさがお分かり頂けただろうか。 ここがポイント!! 池上彰解説塾2時間SP 「世界を驚かせた独裁者と独裁国家」 11月3日 20:00~.

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